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一般投稿欄

公明党の与党進出をどう読むべきか

1999/7/25 れんだいじ、40代、会社経営

 最近の政治状況に照らして公明党の与党化の動きをどう認識すべきかが緊急に必要になりつつあるように思います。自民党がかつて「さきがけ新党」や「社会党」を上手に利用したように今回もまた使い捨てにしようとしているのか。その延長上の哀れな公明党よという認識で見守っていておいて良いのであろうか、という疑問を持っています。公明党はなかなか御しがたいというのが私の山カンなのですが。
 むしろ、公明党は、ここをチャンスと見て政権取りに一気呵成に向かおうとなりふり構わず階段を上りつつあるのではないか。長年の執念を今一挙に結実させようとしており、この政権取りはかなり威力を発揮するのではないか。私の見るところ、公明党は政党としての資格と能力を一番保持しているように思う。政党の存在根拠が権力奪取にあるという闘争戦略上の認識の仕方においても、キャスチング・ボートを握り続けてきた運動論においても、そのために組織員をどう理論武装させるべきかという組織論においても、敵対党派に対する攻撃及び防衛のための親衛隊づくりにおいても、根拠基地づくりにおいても、敵権力内に浸透させる組織工作においても、迂闊な認識をしておくと手ひどいしっぺ返しに見舞わされるのではないか、と危惧する。
 公平に見て現下の共産党では太刀打ちできない。その理由は、第一に指導者の能力の差が歴然としているから。池田と不破では比較にならない。格落ちである。池田は大衆運動を組織する能力と行動力と指導力を有しているが、不破はコメンテーターでしかないから。第二に党員の能力においても差があるのではないか。共産党は長年の間平和ぼけさせられており、理論面での軽視は否定しうべくもない。創価学会-公明党は今なお創価理論とも言うべき独特の認識論の形成途上にあり意気軒昂である。お互いのHPを見ても違いが判るが、理論の発生過程と現段階に至るまでの党史について共産党は申し訳ない程度の1ページで済ましているのに対し、創価学会はきちんと宗祖日蓮以来の歩みを学ばそうとしている。第三に運動の根拠地づくりの差が歴然としている。共産党は紙爆弾で責任果たし顔してきたが、創価学会は着々と各地に会館づくりを敷設してきた 。一朝一夕いざとなったらどちらが強いか言うまでもないであろう。機関誌網は対等かな。配布体制の差は歴然としているけれども。
 公明党をあなどってはいけない。恐らく自民党が使い捨てにしようとしてもそうはならないであろう。ナチスばりの手法による台頭により政権奪取を完成していく可能性がある。もっとも、そうした彼らの政治が人民大衆の生活利益に合致しているのであれば私は反対しないけど。この可能性が一足飛びに完遂されることはない。な ぜなら反対勢力も根強いから。何も共産党だけではない。宗教界の反創価学会勢力がその台頭を許さないであろうし、天皇制イデオロギーとの確執も横たわっているから。しかし、公明党の強いところは、そうした反対勢力に立ち向かう熱烈党員とそれを支える理論と防衛組織を有しているところにある。だから侮れないのだ。
 私の心配が杞憂ならよいけど。こうした観点からの対公明党認識をしておかないと、公明党戦略がどこまで有効に完遂されるのかどうかは別にして、現代を生きている者の歴史責任が果たせないと思う。結論から言うと、私は創価学会-公明党に先天的な悪意は持っていない。なぜなら未知数であるから。しかし、数々の兆候からしてファシスト的な組織体に容易に転嫁する危険性があるとお見受けするから心配しているというのが現状認識である。なお、この観点から見えてくるものは、共産党は長い間惰眠を貪っているのではないかということである。党内対策は成功したけど小さなコップの中の満足であり、広い世間に出れば一蹴されるものでしかないであろう。