『さざ波通信』は今始まったばかりであり、党員の投稿が少ないことはその通りですが、何事も「石の上に三年」という教えがありますので同じ「非党員同志」(党員を同志と呼び合っているようなので、私は寂しく私も非党員同士の同志という連帯意識を持ちたい)として今しばらく見守っていけば良いのではないですかねぇ。
ちょっと気になる文句として「統一と団結」という観点が強調されているように思いますが、臭いものに蓋をしたままの「統一と団結」は後で後悔する方が大きく、後悔したときには時すでに遅しになる恐れがあると私は考えています。党内からの自浄能力を期待することは「百年河清を待つ」に等しく、それがあり得るのであれば、すでに臭いものが浄化されている筈ではないでしょうか。つまり、げじげじさんの「統一と団結」要請は一般論に過ぎず、一般論は掛け声のみ有効で実際には何ら生産的なものを生み出さず、空疎な願望に過ぎないと思いますけど。
『さざ波通信』編集部が分派的に動くべしとか離党すれば良いとかは、この後の党の反応にもよるでしょうし、もっと見守れば良いのではないでしょうか。私は、余程の理由がない限り離党する必要はないと思います。組織論的に見ても共産党全体と執行部とはイコールではありませんし、執行部には交代がつきものなのですから自分たちの意志に相応しい執行部を作り出すことを願って党内に存在することは運動論的に見て正しいと思いますけど。党員みんながそうやって活力を生み出していくことの方が大事なのではないかなぁ。
「民主集中制」なる美辞でごまかされる必要はありません。だいたい現執行部の系流は、戦後直後の党を指導した徳田執行部に対する分派的な戦いから生み出されているのではないですか。その出生の秘密を不問にして自分たちが執行部に居座ったら今度はがちがちの「統一と団結」的な組織論を張り巡らすから無気力が蔓延することになるのではないですか。この間規約論議がなされましたが、私には統制的な色の濃い文面が鼻につきました。「民主集中制」にしても、「民主」の要件と「集中」の要件とミックスしたときの「制度」としての要件についての厳密な定義について研究されているのでしょうか。本来党を支持する政治学者がこのあたりのことを論究しておくべきことのように思われますけど。御用化理論ばかり振り回して事足れりとする風潮はうんざりという気分です。今の規約とか「民主集中制」理論がどこまで後世の歴史の検証に耐えれるものなのか関心を持って調べておく必要があると思いますけど。
例えば、自民党のありさまもあれはあれで「民主集中制」なんではないですかねぇ。個別的な政策研究会から始まり派閥までが存在し、党首の公選を制度化し、その地位を血で血を争うかの如き抗争してみたり話し合い決着したりするけども、新執行部の元に団結し責任政党としての運営を全員が担うというこのやり方も十分「民主集中制」的であるようにお見受けしますけど。自民党の活力の原因がこのあたりにあるような気がしています。公明党のありさまもあれはあれで「民主集中制」なんではないですかねぇ。委員長が他党との折衝において何らかの合意を得た場合党内に持ち帰って論議するという作風があるようです。党首公選になっているのかどうかはよく分からないですけど。確か60才定年制にしているように思いますが素晴らしいですねぇ。党内活力を生み出すための工夫が伺えます。
例えば、共産党も党首を無記名の公選により選出した場合「民主集中制」の定義から逸脱するのでしょうか。知りたいところです。「民主集中制」の中身は多様と思いますが、何でその言葉一つで今の仕組みが絶対化されるのでしょうか。僕には理解不能です。
この間の不破さんの動きの評価されるべきところは、こうした今の党の仕組みについて考えさせてくれたことにあるのではないでしょうか。窮屈な内部規制に沈殿するよりも言いたいことを言いあえる方が良いのではないかということをまず我が身で実践して党内的論議を沸き起こすよう呼びかけてくれたのではないでしょうか。何
事もこのようにプラス思考で受け止めて、上が上ならわれわれもと今後の活動に生かしていけば腹が立たないと思いますけど。