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歴史の教訓に学ぶべき>げじげじさんの投稿に思う

1999/7/26 吉野傍、30代、アルバイター

 げじげじさんの投稿を読みました。おっしゃりたいことはよくわかります。私もかつては同じような感覚、いやもっと極端な感覚を持っていました。何しろ、げじげじさんは党に近いけれども党員ではないのに対し、私は非常に熱心な党員活動家として、15年以上を過ごしてきたのですから。
 今でも思い出しますが、私がまだ大学生の頃、ある党員の教官がゼミの学生の前で、ほんの少し党について批判的なコメントをしたことがあります。私はその場にいたのではなく、そのことを、そこにいた党員から間接的に聞いただけですが、その話を聞いたとき、私は非常に怒りを感じ、党員として許せないと感じました。もちろん、規約違反だとまで言うつもりはなかったし、ましてやそのことを党機関に報告する気にもなりませんでしたが、倫理的に、党員たるものが公然たる場で党を批判するなど許せないし、それは統一と団結を著しく破壊し、敵につけいる隙を与えるものだと感じたのです。
 もしそのときの私が、この『さざ波通信』のようなものを知っていたとしたら、それこそ怒りで我を忘れていたかもしれません。こういう感覚を、ほとんどの党員は共有しているし、だから『さざ波通信』への党員の投稿が極端に少ないのだと思います。また投稿しても、北島まや同志のように、嫌悪に満ちた内容にもなるのでしょう。
 このような感覚がどのようにして培われたのか、つらつら考えてみました。私が民青同盟に入ったとき、しばらくして地区大会が開かれました。私はまだ加盟したばかりでしたが、熱心な活動家だったので、その大会に参加するという栄誉をたまわりました。地区委員長からの報告の後、討論の時間になりました。そのときの私はまだ一般人としての感覚を持っていましたので、「討論」というのは当然、今の報告について賛否両論が闘わされるのだと想像しました。しかし、私が目にした「討論」は、世間一般で言う討論とはまったく性格を異にしたものでした。発言者は次から次へと、自分の班の活動の報告、とりわけ当時は拡大運動全盛の時代ですから、何人拡大したか、何部拡大したか、という報告ばかり発言したのです。しかも、全員が全員、「決議案と報告を全面的に支持する立場から発言します」という文言で発言を始めるのです。決議案や報告を討論の対象にしたものは誰もいませんでしたし、それが必要だと考えている参加者もいませんでした。これのどこが「討論」なのだろう、と私は心底不思議に感じた記憶があります。
 しかし、このような普通の感覚は、2度3度と大会に出席するたびに消失し、やがては自分も、「決議案を全面的に支持する立場から発言します」という決り文句を言って発言台に立つようになりました。そして入党してからは、もっとその傾向は強まりました。慣れというのは恐ろしいものです。
 内部の討論においてさえ、いっさい「討論」らしいことが行なわれないとすれば、外部に対してはそれ以上に、意見の相違などまったくない一枚岩的な外観を保持しようとするでしょう。中央が一般党員にとってまったく思いがけない新方針を出してきたときも、私は、あたかもその新方針が大昔から決まっていたかのように即座に受け入れ、そしてその方針の正しさを他の党員に対して、とうとうと説いていました。あたかも、その方針の決定過程に最初から参加していたかのように、その方針の必然性と正しさを自信まんまんに力説するのです。
 たとえば、私が大学生のときに「非核の政府」という方針が突然出されました。今から思えば、この「非核の政府」はナンセンス至極な方針だったのですが、支部指導部(党内用語でLCと言います)の一員だった私はもちろん、ただちに、この「非核の政府」という方針がなぜ画期的であるのかを解説したレジュメを作成し、まだ納得できていない党員に延々とレクチャーしたものです。入党したばかりでまだ普通の感覚を持っていた党員が、私の話を聞いてすっかり納得し、「非核の政府の方針の正しさがようやくわかりました」と満面の笑みを浮かべたのが、今でも強くy印象に残っています。私自身、本当はそのときでもあまり納得していなかったのですが、他の党員を納得させることで安心し、自分をも納得させていたような気がします。
 思い出話ばかりになり、申し訳ありません。要するに何が言いたいのかと言いますと、言葉の本当の意味での内部討論がまったくない状況のもとで作り出される「統一と団結」の外観が本当に、共産党の強化と発展に役立っているのか、ということです。
 げじげじさんの投稿を読みますと、要するに、党内にいろいろ問題があるのはわかってる、でも敵に囲まれ大変な状況下で活動しているのだから、身内の恥は外に出さず、内部で解決しないと、統一と団結が乱される、ということですよね。私もかつてはまったく同じように思っていましたが、今ではまったく逆のことを思っています。内部での、そして内部と外部の間での、真に生き生きとした討論なしには、どんな生きた「統一と団結」も存在しないし、ましてや、現在のように党指導部がおそろしくふらふらし始めているときには、そのような討論は権利であるだけでなく、すべての党員にとっての最大限の義務であると思います。
 政党があたかもカルト的宗教団体のように、表向きいかなる意見の相違も論争も見えない方がよい、などと考えている人のほうが、一般的には少ないのではないでしょうか。われわれ党員のように、「討論」が単なる活動報告でしかないような特殊な文化で育った人々と違って、むしろ、世間の人々は、党内にいろいろな意見があり、指導部でさえ党員から批判されているのだということを知れば、「共産党は、中がまったく見えなくてこわい」という感覚が薄れ、共産党にとってはプラスになるんではないでしょうか? 
 ロシア革命を成功に導いたのは、常に大ぴらに(すなわち、党員だけでなく一般大衆や秘密警察にさえ見える形で)討論をし論争をしていたレーニン指導下のボリシェヴィキであったことを忘れてはなりません。当時、異論派党員は、平気で独自の新聞や雑誌を出して、指導部を批判していました。そして、あの大粛清に行きついたスターリン体制というものが、何よりも内部討論の抑圧と異論者の行政的排除によって成立したことも忘れてはならないはずです。
 言葉の本当の意味での「統一と団結」を保障するのが、討論の積極的推進なのか、それともその抑圧なのか、歴史の教訓を学ぶべきだと私は思います。