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一般投稿欄

『さざ波通信』はなぜ必要か

1999/8/2 れんだいじ、40代、会社経営

 党員又はそのシンパの人で『さざ波通信』を批判する立場の人の姿勢がようやく判ってきました。つまり、せっかく上げ潮傾向にある選挙に『さざ波通信』は水をさす役割を持つのではないかという心配から運営者が疑惑されたり、紙上のやりとりが嫌悪されているということになるのでしょうか。それは一理あるかもしれない、しかし・・・・・・というのが以下の投稿文です。
 まず最初に。選挙は今後とも際限なく続きます。従って、選挙に不利になるからという理由でしかるべき論議を控えるとするなら未来永遠に論議がなされないことになります。特に昨今の不破委員長の右傾化の論調は規約無視の面と論調そのものにも疑義があると言えます。この事態にあってもなお党内・党員が唯々諾々しかなしえなかったとすれば大いに汚点となるでしょう。不破さんのリーダーシップがうまく機能している時には皆自然とついていこうとするものです。70年代にはそのようなものがありました。80年代が過ぎ90年代になり社会の左傾化が一向にもたらされずむしろ右傾化を強めている今日、一部の者は気力も萎え一部の者は党及びその周 辺から去り一部の者は幹部任せにせず自力で局面打開しようとし始めている。『さざ波通信』はこの後者の人たちであると言えるかと思われます。もはやがまんならないというところなのではないでしょうか。私は30年前にそのような気分になりましたが、その頃はこういうインターネットがありませんでしたから進むか引くかの選択になりました。今日ではその前にみんなの意見を聞いたり、主張し合うことが出来ます。相手が判らないから良いのであり、自分を名乗らなくて良いからより自由に発言できるわけです。それでも心配というのなら参加しなくても良いのです。したがって、選挙の上げ潮ムードに水を差すとかどうかという観点から『さざ波通信』を評価するのは視野が狭いと考えるべきではないでしょうか。
 ところで、議会闘争にはどれだけの値打ちがあるのでしょう。その昔より革新自治体を生み出すことに精力を使い果たしてまいりました。その結果は世の中を変える力にはならなかっとそろそろ反省してもよい頃なんではないでしょうか。革新知事がいつの間にか保守系知事になった例とか無力のままに保守系の元の木阿弥に戻ってしまった例とかなぜ総括しないんでしょう。私には大衆運動エネルギーの莫大な藻屑であったように思われます。悪いというのではありません。もっと他のことに目を向けても良かったのにという恨み節の類の思いです。
 議会闘争を軽視しようというのではありません。むしろ新左翼の連中が依然として議会闘争を無視しているのを指導の誤りと考えています。ならば共産党の議会主義には問題がないのかというとそうではありません。左翼にとって議会は活用すべき立法機関であるのに自己目的化されてしまっているように思われるからです。一時「先進国革命論」なるものがもてはやされましたが現在では下火です。なぜなら、ここ数十年にもなるのにこの理論で革命に成功した例がないからです。むしろ、議会主義的な平和革命論で政権取りに向かったチリのアジュンデ政権の末路がどうなったのか。いともたやすく暴力的に破産させられてしまいました。にも関わらず、その経験が総括されていませんし、なにがしかの教訓と経験を得ようという流れにも向かわないまま引き続き議会闘争が自己目的化された運動が展望されています。もはや何か良からぬ意図があるとしか考えられないと思っています。こうした延長上に現在の日本共産党の議会主義があるということを知った上で、議会での進出ぶりに一喜一憂するのでなければまじめではないと考えています。
 現在党とその周辺で様々な活動がなされていることは承知しています。ただし、部外者の者にとって何だかカルト化したような印象もあります。その原因は現在の執行部が運動の整風化と党員の規約による締めつけを系統的にやり過ぎてきたことに原因があるように思われます。なぜ「いろいろやってみなはれ」ではいけないのでしょうか。「統一と団結」の功罪を知るべき時点に既に到達していると思っています。同時に議会主義が自己目的化されてしまっているがゆえに大衆闘争そのものが議会主義のくびきに敷かれているとも思っています。全てが選挙に有利をもたらすための運動になっているということです。おかしいと思います。様々な運動がそれぞれに個別的な意味を持っており、中には選挙に結びつきにくいものもあり、結びつくとしても熟柿戦術で良い場合もあると思います。党員の生き生き闊達な姿を通して影響が広がるのであり、骨董的な頑迷さを持った党員の姿を見ることは既に滑稽でさえあります。
 選挙において支持を増やす方法は、選挙戦自体の中から支持が生まれるというよりは、日常のあらゆる戦線における党及び党員の活動ぶりに対する支持と共感から票が生み出されると考えるべきであり、究極これに尽きます。はるか数十年前より戸別パンフの配布を得意としてきておりますが、それは便利な無賃労働者がいるからこそ可能なわけです。それもやりなはれという程度の意義であって、時に見かけられる品のない他党攻撃文章にはかえってひんしゅくものの場合さえあります。テレビ討論も同様です。これだけ自由に発言が許されているのに関わらずバシッと胸のすくような論議やメッセージにお目にかかったことがない。それはともかくとして、日常にこそ支持を増やす源泉があると考えています。医療・生協関係に見るべきものがあります。他の分野でこれといったものにお目にかかることはありません。願うらくは、こうした戦線での大衆的支持が増すようになることであって、官僚的な横柄さの伝播により支持が減るようなことでは一体何をやってることやらということになるのではないでしょうか。
 大衆は今何を党に期待しているのか。それは豊かさの中にある貧困と不安に対して党がどう状況を打開しようとしているのかという期待にあります。議会はその一つの方向でしかなく、過小評価も過度の期待もどちらも間違いと考える必要があります。今緊急になさねばならないことは、党員自身が考えねばならない、考えることの出来る活動基盤の点検ではないでしょうか。なぜなら、このままいっても禄な目に遭わないだろうことが予想されるからです。党員間はカルト感覚にありますから将来を良い方向に夢見ているのかも知れませんが実際は無用の長物化傾向を強めつつあるように思います。なぜこういうことになるかというと、党又は党員は大衆を指導するとかの観点を持っているようですが、それは党又は党員の方が能力的に高い場合にのみ成り立つ論理であって逆の場合には何を言ってるのかということになります。ちょうど学校の先生の評価関係に似たようなものです。昔は、学校の先生は学士様というだけで村人たちから尊敬を集めました。今日では生徒の親も学士様であり逆に先生が査定されたりします。それだけ先生はやりにくくなっていると言えます。党も党員もこれからはやりにくいという覚悟が必要であり、その試練の中から抜け出てくる本物性が問われているのではないでしょうか。
 以上のことに関連して気づいたことを述べます。党は、自らの歴史つまり党史について意識的に隠しているのではないかと思われる程軽視しています。最近たまたま古本屋で「日本共産党の65年」という本を手に入れましたが、現在読破中ですがかなりご都合主義の表現と意識的としか思えない一部事実の歪曲を感じています。一番最新の党史があれば読みたいと思いますが、HPには出ていません。これに関連した宮本氏の著作があるようですので読もうとは思いますが買うほどのものとも期待していないので探し出すのに困っています。だいたい著作に自信があるのなら革命運動に挺身しようという大義があるのなら何でもっと身近に目にかかれるようにしてくれないのかなぁ。党百年の大計という見地から真実に近い党史を作り直す必要があるように思います。何事も歴史を学ばずしては危ういのではないでしょうか。