かつて学園、職場で生活時間の大部分をそのために割いた者の一人です。現在は、毎日の生活の中で喘いでいますが、絶えず頭の片隅から離れない存在について、とりとめもないことを書き連ねてみます。
宮本顕治氏が第一線を引いた後の共産党については、柔軟路線への転進としてそれを好意的に受け取る向きが多いように見受けられます。
私は、今度の国会で、自自公体制の下、日米防衛協力ガイドライン、国旗国歌法、通信傍受法など、戦後の枠組みの根幹にかかわる重大な変更が強行されるのを見るにつけ、共産党の果たすべき役割について思いをいたしており、また柔軟路線自体好ましくないとは思っていません。
しかし、同時に柔軟路線に転進するのであれば、その前にソ連崩壊をきちんと総括して、教訓を汲み上げてもらいたいというのが日頃からの注文です。共産党は、ソ連崩壊について、「科学的社会主義」の正しい路線からはずれた者が、はずれたが故に失敗したものであって、「科学的社会主義」自体は、それによって何ら傷ついてはいないと主張しているようで、結局そこから何も汲み取っていないように思います。その一方で、日本における社会主義の将来像については、幹部の書いたものを見ると、ソ連が市場経済に代わる計画経済の困難という実例を示しているにもかかわらず、そうしたことには目をつぶって、曖昧なことを言ってお茶を濁しているだけのようです。
共産党の自覚的な推進層も、社会主義や共産主義の困難についての論議は、あまり関心を持っていないように思われます。私の周辺の支持者を見ていますと、毎日生起する生活上社会上の諸問題に関して、社会的弱者の側に立った利害調整を主張する点に主たる関心があって、共産主義の看板については、実はそんなものはどうでもいいと思っているように見えるのです。
この党は、共産党を名乗っているものの、当面の利害や争点に関して、アイデンティティにはずれないように振る舞えばいいのであって、看板はまるでもうどうでもいいと思っているように思えます。もし共産主義の看板などどうでもいいのであれば、政党としてはまず看板をはずすべきです。どうでもいい看板であるのならば、一刻も早くはずさないと、共産党のことを共産主義を目標とする党と誤解する人が出てしまうでしょう。しかし、もし看板を大事と思うのであれば、もう一度看板を磨いて、ソ連崩壊後の社会主義の可能性について、広く議論をすべきでしょう。
もう一つ、このサイトで見かける共産党の改良主義への転落を危険視する見方についても一言。私には、柔軟路線への転身についてこのような受け取り方があることはやや意外でした。もし改良主義の危険を言うのであれば、ソ連崩壊という事態を受けて、革命主義(改良主義に対する)の将来プログラムを示していただきたい、と思います。私は、ソ連亡き後どのような革命主義があり得るのかについて、思いを巡らしています。