「宗教の社会的根拠」と「性」の問題に出くわしています。なかなか論旨がまとまりませんが、ええいままよという気持ちのまま投稿させていただきます。
最初に。難しいテーマの場合いつも思うことですが、はたして世の中のことについて分かっていることと分からないことの割合について、私は、わかっていることの方がはるかに少なく、わずか数%にすぎないのではないかと考える方が良いのではないかという認識をしています。これは立証できるわけではありませんので、そのように単に考えているということにすぎませんけれども。
「性」についてもそのように考える方が良いのではないかと思っています。セクハラ行為は良くないにしても、性道徳についてあまりに公式風な行儀良さを考えて一生を過ごすことがより人間的であるのかどうかについては疑問があるというべきではないでしょうか。「性」とは、「りっしん」篇が「生きる」という字義から構成されていることからも明らなように「人の生」の重要な要素であって、「生」の哲学的意味が未解明なように「性」の問題もまた安易な解答を許されざる多義多様性があるのではないかと考えるのが普通ではないでしょうか。古代より今に続いてなお歌謡曲や文学や芸術において「性」がデフォルメされていることには相応の根拠があるように思われます。類人猿仲間のうちで人間が突出して性器を肥大させているという特徴があるという事実とか「パンツをはいたエロ猿」的認識も考慮されてしかるべきであるように思います。
むしろ、大宅壮一風に「下半身には人格がない」(確かそのように大宅氏が言っていたと聞いたことがあります)と割り切って考えた方が良いのではないかと思うわけです。つまり「下半身問題」について判ったような物言いすることは戒められるべきではないかということです。その方がかえって人間らしい心得というか、たしなみであるように思います。例えば、性の行状の良い政治家・歌手・相撲取りと悪いそれらがいたとして、時に悪い方が良い仕事の出来ぶりを見せる場合があります。これをどう了解すべきかという問題があります。
マスコミ的世間の物差しは、仕事の出来不出来以前の問題として下半身の人格を問う傾向にあります。マスコミのこの傾向は一見下半身問題を優先しているという観点に拠っているように思えますが、実はそうではなく単にゴシップ系が視聴率稼ぎに具合が良いという経験的事実によってもたらされているものと考えられます。
これを単に低俗として退けるのではなく、それだけ人は皆「性」について関心が深いということをマスコミがよく知っているというそれだけのことではないのかと思い直しています。つまり永遠に未解明かつ好奇な難題として「性」の問題があるのであって、こうした関心の持ち方を遮断して安易な公式を人様に押しつけるのはやや無理筋ではないかということです。
この方面はやや一服させておいて、人はやはり本業においての仕事ぶりが問われたり、評価されるべきなのではないかと思われますがいかがでしょうか。付言しますが、私はセクハラ的行為は認めません。なぜなら、地位利用による弱い者いじめを通じた傲慢さと卑屈さを嗅ぎ取るからです。そういうものについては男女どちらからであれ戦うべしと考えています。他のことは「いろいろやってみなはれ」と思ったりしていますが、この種のことはかなり進退が難しく苦悩を余儀なくされることも知っておくべきかという苦言をおせっかいながら言い添えておこうと思います。
さて、「宗教の社会的根拠」について考察してみたいと思います。実は、宗教には「性」の問題がまといついています。宗教とは、頭脳を中途半端に発達させた神ならぬ身の、「性」も含めた悩み多き諸人の精神安定剤としての役割があります。悩みの大半には「性」ともう一つの生業(なりわい)的な「生」が占めており、この両面を集合的に規範的にコントロールするものとして宗教が生み出され、「性.生」生活の羅針盤的な役割をしてきているのではないかと思われます。つまり、宗教とは、元々それぞれの部族の中から産み生み出された環境適合的な「性・生」の調節規範であったのではないでしょうか。そういう意味では極めて合理性があり、それが歴史が下るに従いこまごまとしたことについてはそれぞれの下位法に道を譲り、しだいに道徳的規範または風習的な要素のみを「純粋形式化」してきたのが宗教の歴史と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、宗教の「純粋形式化」を弱いものと考えてはいけない。元々それぞれの部族から始まった五萬とあった各宗教自体が淘汰され、部族から民族への転換に対応しえた普遍性を持つことに成功したもののみが今日存在しており、この間これらの諸宗教は他の宗教を包摂していったのであり、してみれば今日存在する諸宗教は歴史の風雪に耐えたそれぞれ勝ち残り組のそれであり、今においても生き生きとした役割を果たしていると考えられるべきではないかと思われます。
特に黄金律理念の場合、否定しうべくもない論証不要の生産的とも言えるテーゼのように思えたりします。例えば、「汝の欲するところのものを他に施せ」とか「天は自らたすくる者をたすく」などの命題はそのようなものの最たるものではないでしょうか。以上長口舌になりましたが、宗教を馬鹿にしたり軽視してはいけないということが言いたいわけです。
日本においてはなぜかこの認識が通じない。思うに、日本教とも言うべき神道の融通無碍性にあるのではないかと思われる。例えば、日本の多くのインテリは、「科学」精神とは反宗教的精神的なものであると考えているように思うけれども、しかし、これは世界に通用する見方かというと必ずしもそうではない。「科学」的精神と宗教精神とは両立しえるものという認識の方が大勢であって、「科学」の万能精神は日本教的風土とマルクス主義的世界観にのみと言ってよいぐらいの少数派が護持していることが知られねばならない。この検証は長くなるので、そういう見方があるということが確認されればそれで良い。
では、どちらが正しいのかというと、私は「科学」と宗教の併存に軍配を上げたいと思う。おぼつかないながらその理由を挙げると次のように言える。「科学」とは常に解明されつつある発達上のプロセスのものであり、どの時点においても突き詰められた「真理」というものではない。それとどうやら「科学」自体は規範を生まないし、それが科学の科学たる所以のものであると思われる。他方、われわれの個々の人生は稼働人生50年の不安定な有限の中にある。「科学」からは大いに学ぶべきだが、すでに述べたように「科学」は到達された「真理」ではないし、規範を持たない。その空隙間をどう埋め合わすべきかということが問題となる。ここに宗教的規範が入り込んでくる合理性がある。人生には人それぞれ祈ってどうなるものではないけれど、祈らざるをえないという局面がある。こういう分野にもいずれ科学のメスが入るかも知れないけれども、その間生きとし生ける者の行状としては神への祈り的なるものとしての対話が有益なのでは無かろうか、と思う。宗教には人類史上検証済みの民族の智恵の宝庫が詰められており、「科学」的精神と時に相和しつつ時に衝突しつつも頼りになる精神安定剤であり羅針盤となりえるものではなかろうか。
そうした宗教が持つ生命力に対して、マルクス主義がはたしてその地位を取って代わることが出来るほど内容豊かであろうか。私は、やや疑問としている。マルクス主義的な「ものの見方・行い方」は、特に「社会という質」についての過去にないユニークな認識を基にして貢献大なるものがあるが、それで人類が抱えている諸問題のすべてを解けるというものではないのではないか。特に「性」についてなぞ何らかの公式をつくろうとすればするほど自縄自縛になるのではないのか。
私が問題にしたいことは、マルクス主義的な世界観でさえかなり「属人的」なのではないかということである。「属人的」とは人それぞれによって異なるということであるが、マルクス主義的な世界観といっても実際には各自の「気づきの総体」のようなものとしてあるのであり、「一枚岩的世界観」の構築なぞ無謀というものであり、「一枚岩的組織論」なぞも同様なのではないのか。
革命というものが真に必要とされる対象は、体制的な枠組みをめぐってのものであり、個々の感性とか道徳まで規制しようとするのは恐れ多いことではないのか、と思う。
最後に。書ききれる力がありませんでしたが、宗教が体制支配のイデオロギーとして利用されてきている側面も見逃すことはできないことは事実です。とすれば、マルクス主義者の課題とは、「性・生」的なエートスの分野にまでその論理を非公式的に生み出していく能力が必要とされており、その時にこそ初めて宗教が揚棄されるのではないでしょうか。今はまだまったく駄目と考えています。