げじさんといいメモさんといい、次から次とこの種の人材も尽きないものだなぁと感心させられています。編集部の皆様もまじめな方ですねぇ。まともに応対するからいけない。『さざ波通信』は、「開設にあたって」で趣旨とか投稿要領を明確にしているのですから、趣旨賛同の方のみご利用下さいの一言で済む訳ですよ。「『さざ波通信』を止めよ」という趣旨の投稿に対してはいちいち取り合わなくても良い。お気に入りのショップへどうぞと言えばよいだけのこと。そういう投稿文はボツにしてもよい。掲載すること自体充分な誠意ですよ。結論的に言って、『さざ波通信』ショップを利用しようがしまいが皆さん自由なのだから、気に入った人が出入りすれば良いのであって、気に入らない人は望みのショップ、例えば党じきじきのショップを見つけるか自身でHP開設すれば良いのです。参加しながらこんなHP無い方がよいとか規約違反だから止めなさいという意見を述べ続けるのはやんちゃな精神という他ない。
『さざ波通信』が規約違反だというのであれば、少なくとも主張者が党員でなければ資格がない筈です。党員でない者があれこれ言う精神構造が理解不能です。成り行きを見守るのが普通の感性的な筋であり、論調がおかしければ反対意見を述べればよいのであって、もっと筋論に立てば、党中央に対して見解を仰ぐというのが支持者レベルの対応としての限度であって、『さざ波通信』編集部に閉鎖を指示するような意見を述べて恥じないぶしつけさにはシカとするしかない。編集部の方はまじめ過ぎる方だから美川風に「オダマリッ」とよう言わないんですよね。案外とそういう主張で楽しんでるようだからおおように受け止めてるけど、本気で言っているんだったら東チモールの「民兵」さんの意識に近い人かも知れないなぁ。
支持者が党中央に伺いを立てるのは自由でしょう。そして、党中央は、この種の事つまり党員の自由をどのように制限すべきかについて理論的解明を行う必要がある。
私に言わせれば、政治結社はそれを公然結社にした瞬間から市民法の制限を受けざるを得ない、と思う。市民法が市民的自由を認めていないのであれば違法性覚悟で市民的自由を求めて戦う必要があり、市民法が認めておればその逐条を遵守したり鼓吹する義務がある。本件の場合には新種のインターネット的な表現の自由又は結社・集会の自由あたりが該当することになる。たまたまかどうか日本国憲法は世界に例を見ない程先進的にこれを保障しているのだから、それを良しとする政治結社としては、この傾向を擁護し実質化の方向に働きかけることがむしろ必要である。少々ややこしいのは、市民的自由等の拡大を求めて活動する結社内の組織員に市民的自由が制限されるのはどのあたりまで適正かという笑い話のような課題が問題にされねばならないということにある。いかなる理屈をこねまわせばそうした自由を制限できるようになるのかとくと耳を傾けてみたいと思う。
日本共産党は既に陰謀団体でもなく、非公然結社でもない。革命理論も、社会主義に向かうのははるか彼方のことであり、しかもその時の人民が決めれば良いというほぼ前衛的な働きかけを放棄した観のある運動理論を掲げている。実務的には議会という舞台での話し合いにより、諸施策を検討していくというチェックマンの立場を目指している。それならそれで合法活動のあらゆる場面・方法においてお手本的に党内にも議会的な討論の自由を認めあい、党員同志を自主的能動性のリンクで組織し合えるような方向へとリードしなければ言行不一致ということになるのではないのか。なぜか知らないけれど、歴史的傾向性として党員まとめて一蓮托生で自由を狭めようとする方向に努力している気配がある。崩壊した共産圏国家はそうした結果のように思えるが経済は遅滞し、政治的自由は帝国主義国家のそれより狭かったという現実が問題にされていたというのに(中共では、未だに即日に近い銃殺刑が最近も報道されている)。ソ連邦の崩壊を目のあたりにして党の見解を仰げば、あれは早すぎた革命だからだとか崩壊して良かったのだとか云っているらしい。釈然としない言い訳だがそれに納得しなければ具合が悪いらしい。私は非党員だから納得しないゾ。こうしたテーマについて早急に議論の余地が大いにあると考えている。でないと本当のところ運動にリキが入らないでしょうが。個々の党員が自発的に解明しようとする前に、党が党の責任において率先して取り組む課題であると思う。ところが現に党が為そうとしていないのだから手前でやる以外にないではないか。為そうとしない党幹部をつついて為したところでたかが知れているでしょうが。
運動方針と組織論は不可分の相互関係にあるのであって、組織論だけ今にもすぐにも革命前夜であるかのような時限理論をもてあそんで唯々諾々しようとする。不自然だなぁ。そういうちぐはぐスタイルを称して世間では「衣の下に鎧が見える」というのであり、そういう世間感覚の方が当たっていると思う。実際には既に「鎧」を
付けていないのだから風通しを良くした方が自然でしょう。それと、戦後の日本社会は相対的に良い社会であって、我々大衆は気分としてそのことを実感している。変な全体主義は御免だという思いには根拠があると云える。
そういう意味で、党の規約は世上の水準以下であってはならず、全体統制主義に陥る可能性が無いように大胆に検討し直されねばならないように思う。かいま見える党規約は、単に日本人特有の「腹芸」のつーかーコミュニケーションに依拠しようとしているように見える。「腹芸」が通用するのは親父がしっかりしてくれている場合だけであって、親父が頼りないことがはっきりすればみんなで英知を寄せ集めるように家族会議しなければいけない。これも世間の常識ですけどこの常識が通用しないことを私はいぶかっている。党の組織理論とよく似たスタイルを捜せば、今時においては銀行か警察のトップダウン制あたりではないか。
党は、党首非公選制も含めてひょっとして一番遅れた組織理論に拘泥しており、在来の村方政治的コミュニケーション手法に依拠し続けようとしているように見える。変革されなければならないのは党自体が真っ先ではないのか。そういえば確か日本の在来の伝統を守るという政策方針が掲げられているようだが、まさか「腹芸」精神を淳風美俗として擁護しようとしているのではないでしょうねぇ。なんかそんか風な気がしてきました。「腹芸」理論はこれ以上強制されなくても日本人の我々は自然に出来るようにDNAに刻印されているから大丈夫なんですけど。むしろディベート能力を豊かにするよう急がれているのではないかなぁ。サロン風であろうが良いではないですか。「隗より始め」て次第にものになっていくというのが弁証法的だと思うけど。
話を戻します。『さざ波通信』の存在は鏡のような役目があって熱心に党活動している方にも有益ではないでしょうか。お追従意見ばかりそんなに聞きたければ、『しんぶん赤旗』をお題目のように復唱した方が手っ取り早いでしょお。私はさっぱり面白くないからここでいろんな人の意見を述べたり聞いていて楽しいのですけど。「ここが変だよ、日本人」というたけし司会のテレビがありますが、あれって面白いですよねぇ。常識でさえ世界では変わるというのが実に参考になる。当分見続けようと思っていますが、『さざ波通信』も右同じような気持ちです。あうんの呼吸で分かりあっているように見えるものも一度まな板に乗せてみれば、お互いバラバラだったりして。今はそういう認識から始めて一から再構築の議論が必要な潮時なのではないですか。
最後に。現行の規約がどうであろうと、党員になったら党のことをパソコン通信で語り合うことが出来ないようなことでは、なり手がいなくなるんではないかなぁ。良い話しなら良いとかいうのも変でしょうが。また、いわずもがなのことを言ってしまうけど、なんかそんな夫婦でも会話ができないような大仕事に向かっているのかなぁ。
追伸
本投稿文で、げじげじさんとメモさんが『さざ波通信』の閉鎖を要求しているかのような記述をしているかと思いますので、どうも私の読み違いということで訂正させてください。お二人の主張はそういう論旨ではなく、よく理解できませんが『さざ波通信』の成り行きに対するご意見番としてウォッチするという立場のようです。ここの部分につき全体的に読み替えていただけましたら幸いです。