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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

綱領改定案の天皇(制)を再び論ずる──不破提案批判──

2003/7/24 川上 慎一、50代

 「天皇制問題について再論」(2003/7/21)という投稿がありました。とりあえず、democratさんが提起された以下の2点から検討してみます。

1 綱領改定案は「天皇制容認」とはいえないか

1.綱領改定案が従前の党の方針を変更し、「天皇制を容認」したものなのか。
2.現在の象徴天皇制は「君主制」なのか。
(「天皇制問題について再論」(2003/7/21))より

 democratさんの投稿では、上記の引用のあとに「まず、1.は綱領改定案が、象徴天皇制は「民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」、「民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」と明確に述べて、その廃止の立場を明確にしているのだから、「容認」でないことは明らかでしょう」が続きます。democratさんが引用された綱領改定案のこれらの部分だけから、「綱領改定案は従前の党の方針を変更したとはいえない」などと結論づけてよいのでしょうか。

 現行綱領と綱領改定案における、憲法や天皇(制)に関連する部分をみてます。
 いずれも現在の天皇制に対しては批判的な見地を保持しています。たとえば、現行綱領は「現行憲法は、このような状況のもとでつくられたものであり、主権在民の立場にたった民主的平和的な条項をもつと同時に、天皇条項などの反動的なものを残している。天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた」としており、綱領改定案では「形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」として、いずれも、天皇制に対する批判的な視点を堅持し、かつ、天皇条項が現行憲法の「弱点」であること、「政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた」ことなどを指摘し、綱領改定案においても現行綱領においても、その天皇条項が肯定しがたいものであるとする日本共産党の立場を読みとることができます。
 また、現行綱領では「民族民主統一戦線政府は革命の政府となり、……略……この権力は、君主制を廃止し、…」として、天皇制の廃止を展望しています。綱領改定案でも「これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」として、両者の間にはいくつかの違いもありますが、いずれも「天皇制の廃止を展望したもの」といってよいでしょう。
 したがって、これらの部分だけを読めば、現行綱領が「天皇制を容認したもの」と判断することはたいへん困難です。
 つぎに、「憲法上の制度としての天皇制」について、両者が直截に述べている部分はありませんので、憲法についてどのように述べているかを見てみることにします。

■ 現行綱領
 党は、憲法改悪に反対し、憲法の平和的民主的諸条項の完全実施を要求してたたかう。(「当面実現めざす目標」)
■ 綱領改定案
 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。(四 民主主義革命と民主連合政府(一二)〔憲法と民主主義の分野で〕1)

 両者を比較して際だっているのは綱領改定案の「現行憲法の前文をふくむ全条項をまも(る)」という部分です。「全条項をまもる」ということですから、日本共産党が「憲法第一章『天皇条項』をもまもる」という方針であることに疑問の余地はありません。
 日本共産党は天皇条項を「反動的とか民主主義に逆行する」などとして批判したことはあったけれども、かつてこれを「まもる」と表明したことがあったでしょうか。ここに、綱領改定案が、日本共産党61年綱領および数回の部分的改訂を経た現行綱領すなわち綱領確定後の日本共産党の立場=従前の立場からの明らかな変更を読みとることができます。
 現行憲法の天皇条項を「まもる」という語句を、不破氏や志位氏が「擁護」するという積極的な意味で使っているとは、さすがに私も思いませんが、おそらく「遵守」あるいは「容認」というところなのでしょう。これを「天皇制容認」というのは間違いでしょうか。
 念のためにdemocratさんの投稿を次に引用します。

 マスコミ報道で大々的に「天皇制容認」と報道されたことから、注意して綱領改定案を読みましたが、これまでの綱領路線から変わったという印象はなく、あえていえばマスコミ報道の方が「ためにする悪意の宣伝」ではないかと思います。
 報道によってつくられた印象に基づく不正確な議論は避けたいものです(「天皇制問題は騒ぎすぎ-正確な議論を」2003/7/10)
 まず、1.は綱領改定案が、象徴天皇制は「民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」、「民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」と明確に述べて、その廃止の立場を明確にしているのだから、「容認」でないことは明らかでしょう。当面する民主的変革の課題に象徴天皇制廃止を掲げるべきだと主張する意見なら批判は理解できますが、それは従前の党の立場と異なります。 (「天皇制問題について再論」2003/7/21) ※太字は引用者による。

 私がここで問題としているのは、「天皇制の是非」でもなければ、「天皇制容認の是非」でもありません。マスコミのみならず、私も含めて「綱領改定案に天皇制容認」を見いだす見解には「文献的にも根拠がある」ということです。綱領改定案を「天皇制容認」の廉で批判する見解はかならずしも、日本共産党が「未来永劫にわたって」天皇制を容認した、ということを非難しているわけではありません。しかし、ここまでみてきたような綱領改定案における重大な変更を「天皇制容認」と理解することは、これらの文献をまっとうに読めば、当然の帰結であります。綱領改定案における「天皇制容認」は、「根拠がないマスコミによる誤解」でもなければ、マスコミの尻馬に乗っかった「ためにする空騒ぎ」でもありません。
 拙稿をここまでお読みいただけば、少なくとも来る23回党大会で綱領改定案が決議されれば、遠い将来の問題としてではなく、この瞬間から日本共産党は「現行憲法の全条項をまもる」立場において「天皇制を容認」することになることはおわかりいただけると思います。

 いっぱんに、施行されている憲法に対して「どのように批判的な立場を堅持するか」ということは、国会に一定の議席を持ついわゆる「公党」にとってたいへん難しく、微妙な問題であります。
 現行綱領においても、天皇条項に関する批判的見地を堅持しながらも、「現行憲法を否定する」とか「天皇条項を否定する」などの表現はありません。
 私見ではありますが、これは、「否定する」ということが、「党の現実の政治生活上でどのような形態を取るべきか」ということと密接な関係があり、実践的に「否定する」ということが大変難しい問題を内包しているからではないかと思います。天皇の国事行為はかなり広い範囲に及びますから、「左翼小児病的」に天皇(制)とあらゆる関係を断ち切ったところでは、議会における党の政治生活が成り立たないことも私は認めます。
 また逆に、「天皇条項をまもる」という立場は、「天皇制に対する日本共産党の原理的批判的見地(=これが党の基本的立場であるべきはず)と本来は両立することがない」のですから、党の現実の政治生活上で党の基本的立場を守ることをいっそう困難にすることは明らかです。むしろ、「天皇制に対する日本共産党の原理的批判的見地」を不断に確認する作業こそが、ほっておけば底なしの無原則的議会主義への衝動が働く「党中央ないしは国会議員団」に対する歯止めの役割をわずかに果たしうるものです。
※ たとえば、(グスコーブドリさんの投稿「7中総 不破議長の発言「賀詞決議をめぐる経過と問題点」に関して、ひと言」2003/7/1)を参照してください。

 この点について私の見解は、「天皇条項」については、まずなによりも、批判的見地をつらぬくことが大切であり、あえてこれを「否定する」などと明記する必要はないけれども、「全条項をまもる」などとする立場は、「実践的には天皇(制)に対する原理的批判的見地の否定につながるであろう」というものであり、その意味で、はるかに現行綱領の方が妥当であろう、というものです。

2 天皇制と君主制の定義論などについて

※ 党員でない方はたぶんお持ちではないでしょうが、「第23回党大会議案(第7回中央委員会総会決定)」という小冊子が討議資料として配付されています。内容は<綱領改定案、不破議長の提案報告、質問・意見に答える、不破議長の結語>を一冊にまとめたものです。すべて公表されたものですが、定価が書いてありませんので販売を目的としたものではないようです。以下の投稿文中のページ数はこの小冊子(以下「23回大会議案」とします)のものです。お持ちでない方のためにできるだけ「章・節」も併記します。

 まず不破氏の論議からみてみましょう。
 「23回大会議案」16ページ(第2章「憲法の天皇条項を分析すると」)です。(箇条書きにすることは)不破氏には申し訳ないが、この投稿を読んで下さる方のために、ちょっと長くなりますが便宜的に箇条書きにします。もちろん恣意的なまとめ方をするつもりは毛頭ありません。ぜひ不破氏の提案報告を直接お読み下さい。

 

不破氏によれば、国家制度を判断する基準は「主権がどこにあるか」ということだそうです。なかなか大変な作業ですが、思い切って単純化してみます。
 「日本は憲法で主権在民を明記しており、天皇は形式的・儀礼的行為のみを行い、国政に関する権能をもたない。国政に関する権能をもたない君主というものは、世界に存在しない。だから天皇は君主ではない。」ということのようです。
 不破氏は(だから)「天皇(制)は立憲君主制でもない」と続けます。さらに、「(立憲君主制は)、形の上では国王が統治権を多かれ少なかれもっていて、それを、憲法や法で制限して、事実上国民主権の枠にはめこんでいる」と述べています。
 ここで不破氏が言っていることに注意しましょう。彼は、立憲君主制の国ぐにで国王が持つ統治権が「形式的なもの」であることを認め、「憲法や法で制限して、事実上国民主権の枠にはめこんでいる」としています。あれ? あれ? 立憲君主制の国ぐにでも「国王の統治権は形式的なもの」であり、「事実上国民主権」だというのです。日本の天皇制とどこが違うのかわからなくなる人がいたとしたら、話し手が悪いのか、聞き手が悪いのか、どちらでしょうか。なんとか不破氏の言わんとするところを理解しようと努力しましたが、どうやら、立憲君主制の国ぐにと日本の違いは「憲法に主権在民が明記してあるかどうか」というところだけではないかと思います。しかし、この場合もまたまたおかしな話になります。なぜかといえば、不破氏は「国家制度を判断する基準は主権がどこにあるか」ということを教えてくれていますから、「実質的に主権がどこにあるか」ということが基準になるはずであり、答えは、「立憲君主制の国ぐにも事実上は国民主権」とならざるを得ないでしょう。
 そうすると立憲君主制の国ぐにと日本の天皇制との間に実質的な違いをみいだすことがほとんど困難になります。「日本が立憲君主制とも違う」というくだりの不破氏の説明はまったく歯切れが悪く、氏の提案報告中でも、最もチンプンカンプンの部分の1つです。
 具体的な例として、不破氏は「イギリス女王と議会の関係」をあげます。その内容は「議会で施政方針演説をするのは女王、施政方針演説をつくるのは政府」だそうです。これが不破氏があげた立憲君主制のたったひとつの例です。たとえば、日本では「法律は国会が制定し天皇が公布」します。天皇の国事行為を見れば、「統治権の一部が国王の権限として残っている場合もあり」、「実質的には政府の行為なのだが、形の上では国王の行為として現れるという場合も残っている」こととどれほどの違いがあるのでしょうか。天皇の国事行為は形式的・儀礼的行為とはいえ、かつて天皇が大日本帝国の君主として存在したことの「名残(なごり)・痕跡」であることを誰が否定できるでしょうか。「権限が形式的に残っている」ことは日本の天皇制においても同じことであります。
 私は法律の専門家でもないし、政治学に造詣が深いわけでもありません。成文憲法を持たないイギリスの政治制度を、素人が研究するのは特別の難しさがあるかもしれません。ただ、立憲君主制において「女王の施政方針演説」より明確な君主による統治行為があれば、不破氏が例としてあげないはずはなかろう、と横着な想像をしています。立憲君主制の国であれ、日本であれ、現代の発達した資本主義国における君主なるものが、いまだに実質的に「主権をもつ」君主である例があるとすれば、それこそを不破氏は例としてあげるべきであり、上記に引用した不破氏の説明「大会議案16ページ(第2章「憲法の天皇条項を分析すると」)」は、日本は実質的に立憲君主制の国ぐにとほとんどかわらない、ことの証明に役立つだけであろうと思います。

 不破提案報告「第四章一二節 天皇制の現在と将来――日本共産党の基本態度」(「23回大会議案」P29~30)についても論及したいのですが、すでに私自身の可処分時間をだいぶこえてしまいました。読者のみなさんの投稿に期待させていただくこととして、私は以下の点について一言だけ述べます。

なお、現在の綱領には、「君主制の廃止」ということが、民主主義革命のなかで実行されるべき課題としてあげられています。これは、綱領を最初に決めた当時、現行憲法の枠内での改革と、憲法の改定を必要とする改革との区別が十分明確にされなかった、という問題点と結びついていたものだったと思います。(「23回大会議案」P30)

 このくだりは、不破氏の独特な革命観が反映しています。「合法主義的に改革を進めていきたい」という不破氏の願望のなせるワザでしょう。この点については私の投稿「綱領改定案の天皇(制)を論ずる 2003/7/13」の後段が、多少とも関連したものになっていますので、関心がある方はお読み下さい。

3 終わりに

 democratさんがいわれる「天皇制が革命によって打倒されるべき対象なのかどうかなのであり、これはすなわち「綱領の天皇制における『政治の問題』とは、『政治的権能を有するかどうか、統治権が誰にあるか』の問題」に限定すれば、これらは発達した資本主義国においてはすでに、少なくとも実質的にはさまざまに解決されてしまった問題です。
 綱領改定案において、あるいは不破氏が、「(天皇条項を含む)全条項をまもる」と誓わなければならなかった理由、動機はむしろ別のところにあると私は思います。ご参考までに、わが信頼する澄空さんの2つの投稿「加藤哲郎氏の論評について2003/7/15」と「天皇制と民主主義革命2003/7/22」をお読みいただくことをおすすめします。
 君主制の定義論についても「然り」であります。定義に基づいて実態が存在するわけではありません。現代の君主制がかつての君主制と同じものであるはずがないのです。君主を歴史的に定義すれば、天皇は君主であったし、いまもなお天皇は現代的な意味の君主であります。「天皇は君主ではない」とする志位発言を無批判に肯定する方々は、「天皇は君主ではない」との見解が、現代の天皇制を、かつての(古典的な意味での)君主制から演繹された定義によって検証していることを理解していない、といわざるをえません。
 不破氏にしても志位氏にしても、少なくとも私がこの投稿でテーマとしたことについて、まともな説明はしていません。私とは政治的見解が大きく異なるのですが、澄空さんが紹介された加藤哲郎氏の論評の方がはるかに真面目で学ぶものが多いと思います。理論的にはむしろ加藤氏は不破氏や志位氏に近いと思われるのですが…。

 今回の綱領改定案においては、「マルクス・レーニン主義・マルクス主義・科学的社会主義」などその呼称にかかわらず、要するにかつて日本共産党の思想、理論が内包していたカテゴリーや基本概念、たとえば「階級概念、革命論、権力問題、国家論、帝国主義の理論、革命と改良」等々が、あるものはひそやかに捨て去られ、あるものは跡形もなくデフォルメされてしまいました。私のようにやや高齢党員や党歴の長い党員たちには、ある種のできあがった「世界観」があるためか、たいへんわかりづらいものがあります。これらの中には、当然、現代おいて、もはやそのままでは通用しないものも間違いなくあるだろうと思います。しかしそれでも、マルクス主義的な理論や方法を使って考えると、わかりやすいものがたいへん多いと私個人は思っています。
 私たち基礎組織の活動家が、学者や法律の専門家などとその分野で論争をして「勝てない」ことはむしろ当たり前のことです。さざ波通信における投稿、討論はもともと「勝ち負け」が問題となるような性質のものではありません。たくさんのことを知っていることや理論的にすぐれているだけが素晴らしいことではないのですから、どうか、基礎組織の党員のみなさんや共産党の支持者のみなさんも、綱領改定案についてのそれぞれの考えを投稿してください。さざ波通信も一種の掲示板ですから、多少の批判投稿があるかもしれませんが、反論したくなければしなくてもよいし、それほど気にされる必要もないでしょう。ただし、加藤哲郎氏を「御用学者」と決めつけるのはちょっとあたらないし、まともに氏のHPをみれば学ぶところがたくさんあります。学者や専門家に学びつつ、読み手がそれぞれなりに消化していくことが大切ではないでしょうか。

【補足①】
 「現行憲法の前文をふくむ全条項をまも(る)」の意味するところを、私の「読み違い」などと言われないために少し検討しておきます。
 不破氏の提案報告でもこの部分の説明としては、「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもるという基本的態度が、明記されています」とさらりとふれられているだけです。
 現行綱領の「憲法改悪に反対し…」という部分が「現行憲法の前文をふくむ全条項をまも(る)」と変更されました。また、第四章一二節は現行綱領の行動綱領に相当するところを「民主的改革の主要な内容」として書きあらためられたということです。しかし、この部分には内容的には「民主的改革の主要な内容」というよりも、従来、他党との間で争点となったことがら、たとえば「共産党は一党独裁」だとか「共産党は天皇制を認めない」などについての「共産党の態度を明確にした」というべきものが含まれています。テレビ討論などで他党からこれをつつかれ、党幹部が答えに窮した場面がありますが、これらについて、党のあらゆる文書の中でもっとも重みのある文書とされる綱領においてあらためて日本共産党の態度を明確に表明したものといえるでしょう。
 具体的には次のようなものがあります。第4章12節[憲法と民主主義の分野で]のことです。

2「国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。」(「23回大会議案」P8・太字は引用者)
 太字部分は、今日の日本の政治で特段の問題もなく行われていることであり、改革の対象としてわざわざ明記する必要のないことであります。
 このような観点から考えると、「1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」(同)が、「共産党は天皇制を認めない」という他党からの批判に対する共産党の立場をあらためて表明したものであり、「(将来の問題は別として)、現行憲法上の制度としての天皇制をまもることを党の公式の立場として明言したものである」と読みとることが、ごく自然な無理のない理解でしょう。
 この部分には「前文をふくむ」という修飾語がついていますが、最近の政治情勢で「前文に法的拘束力があるかどうか」などが政治的争点となった形跡もありませんから、内実はむしろ「天皇条項をふくむ(全条項をまもる)」ということであります。これをわざわざ「前文をふくむ…」という表現をするところが、かつては「戦闘的なマルクス・レーニン主義の論客」としてはたらきながら、今日ではカウツキー氏と比肩すべき「現実的政治家」に変身することができるほどの、希にみる器用さが身上である不破氏の不破氏たる所以でしょう。鳥の群にいけば「私は鳥です」といい、ケモノの群にいけば「私はケモノです」というコウモリのように。
 あえて不破氏に知恵をお貸しするとすれば、「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもらせ、……」とすれば、「現行憲法の天皇条項の厳格な実施を求めるもの」であるという言い訳ができたであろうに、と思います。ただし、これについては「10」に明記してありますので、いずれにしても苦しい言い訳をしなければならないことに変わりはないでしょう。

【補足②】
 天皇制・君主制の定義論に関して不破氏の言わんとするところを私なりに、次にまとめてみました。
■ 「国の統治権をもっていない君主というものは存在しない」→「現行憲法は主権在民を明記し、天皇は国政に関する権能を有しない」→「そもそもの存在として天皇は君主の定義にあてはまらない」。
■ 「立憲君主制における君主は、もともと統治権を有していた」→「憲法や法律でこれに制限を加えた」→「事実上国民主権の枠にはめ込んだ」。「統治権の一部が国王の権限として残っている場合もあり、実質的には政府の行為なのだが、形の上では国王の行為として現れる、という場合も残っている」。
 結局のところ、実在する「主としてヨーロッパの君主制」においても、君主主権のもとにあるといえるような君主制は存在しないし、実質的な統治権の所在についていえば、天皇制と大差ないというべきでしょう。
 天皇制にしても、大日本帝国の君主であったのであり、第二次世界大戦における敗北によってその権能に劇的な変化が起き、日本国憲法により統治権を根本的に喪失したのであり、現在天皇が行う形式的・儀礼的行為は「天皇がかつて全能の君主として君臨したこと」の結果であることに疑問の余地はありません。
 したがって、不破氏が展開した天皇(制)や君主制の定義論は、不破氏が「ここをしっかりつかむことが、非常に大事であります」と強調しても、ほとんど意味のないことでしょう。不破氏の議論こそが、綱領改定案における「天皇制容認論」をいかに合理化するか、というネライをもった「ためにする議論」に過ぎません。

 これらの部分は、投稿文の本文中に挿入すると、わずらわしくなるので末尾に【補足】としてつけ加えました。