この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
いつまでも同じ論点で討論を繰り返すことは本意ではありませんが、一区切りつける意味でも、綱領改定案における天皇(制)の討論について私なりにまとめてみます。
1 はじめに
この討論欄で、綱領改定案の天皇(制)をめぐり、数人の方から投稿がありました。
この中には、私など綱領改定案にほぼ全面的に批判的な立場に立つものもあったし、逆にこの立場に批判的な投稿もありましたが、私は立場の違いにかかわらず、いずれの投稿も勉強させていただきました。
democratさんとはかなり厳しい見解の相違があるようにみえますが、私はいくつかの点でdemocratさんと共通する認識もあると思いました。
たとえばdemocratさんの投稿には「賀詞決議等に対する批判的な視点」があり、「国会召集や内閣の認証に関する天皇のサボタージュについては『政府は無視すればよい』」と断言し、「志位発言が国旗国歌法制化のきっかけとなった愚」を指摘するなど、democratさんが、綱領改定案を全体として評価しながらも、昨今の党の活動に無批判ではないことがわかります。
また、同時に私たち綱領改定案に批判的な見解(この欄で討論された天皇(制)問題に限定してもよい)においても、「ソフトなイデオロギー支配の装置としての天皇制の政治的危険性に対して、憲法と国民多数の意識に依拠して徹底的に天皇制を政治的に無化、中性化していく(戦略をとるべきなのである)」(教条的でなく実践的で柔軟な議論を 2003/8/4)ことを否定しているわけではありません。したがって、天皇(制)問題に関する当面の実践的態度についてはそれほど大きな差はないのかもしれません。
※ ただし、私は、これを「戦略」にまで高めることには疑問があります。
しかし、いま私たちは日本共産党の綱領を論じているのですから、当面の実践上での一致だけで「事足れり」とするわけにはいかないのであって、理論上の問題を討論せざるをえません。
私はこの投稿でこのような観点から私見を述べたいと思います。
2 天皇(制)のクーデター的利用
私の「天皇(制)のクーデター的利用」の指摘に対して、democratさんは、「荒唐無稽」、な議論、ソ連脅威論を持ち出した政府答弁になぞらえて「万々が一」に匹敵する仮定の議論と言われます。
この問題は、天皇(制)の問題というよりもむしろ「国家権力・革命論」の問題といった方がよいと思いますが、たまたま問題の切り口が天皇(制)問題であったことから、ここまでいきついたということでしょう。
もし、革命というものが、旧来の政治、社会体制に内在していた憲法規範や法律の範囲内から踏み出すことなく行われるものであるとすれば、立法、行政の分野で決着がつかなければ司法の機能によって決着がつきますから、日本国憲法の想定外の事態が発生することはありえないといえます。
綱領改定案では、階級概念もほとんど消失しかかっており、したがって、革命と改良の垣根もきわめてあいまいになっています。それでも綱領改定案の「民主連合政府」には単なる政権交代以上の意味が付与されています。もし、この「民主連合政府」が革命というべき内容をふくむのであれば、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配とのまことに厳しい闘いになることは避けがたいでしょう。
このような政権は、おそらくチリのアジエンデ政権と性質的には非常に近いものがあると思います。ちょっとチリのアジエンデ政権について、以前投稿したものから少し引用します。
チリのアジエンデ政権でも成立直後からITTを中心としたコングロマリットがCIA(総体としていえばアメリカ帝国主義)などを通じて、直接にあるいは間接に悪質な反政府活動を展開し、チリ国内の資本家たち、たとえば、運輸関係の企業が大規模に(資本家の)ストライキをしたりして、国内経済を大混乱に陥れました。国内外の乱暴極まりない反政府活動によって、チリ経済は麻痺してしまいました。
チリには長い議会政治の歴史がありました。だから、得票率36%ほどの得票ではあったけれどもチリ議会は慣例にしたがって、アジエンデを大統領に選出したのでした。そして、アメリカ帝国主義による度重なるクーデターの要求にもチリ軍部の最高幹部は簡単には応じませんでした。(たぶん)2年ほどこのような事態が続いて、国内的にもまったく何ともならないところまできて、例のピノチェット(当時の陸軍最高幹部)が凄惨なクーデターを起こしたというのが大体のあらすじです。
また、人さまの投稿からの孫引きでまことに恐縮ですが、もう1つ引用させていただきます。
1973年チリで、ピノチェト将軍がCIAの支援する軍事クーデターにより、民主的に選ばれたアジェンデ政権を転覆したときの、ニクソン大統領の補佐官キッシンジャーの言葉。「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」 (今思うこと 2003/5/25 東)
発達した議会制度が存在している国では、軍隊が簡単にクーデターに打って出ることはありません。実際、当時のチリでもそうでした。しかし、当時のチリの情勢をみればわかるように、アメリカ帝国主義やチリの支配層は徹底してアジエンデ政権打倒のために経済的圧力をかけ、経済的社会的に極度の混乱状態を引き起こしたのです。私がいう「激動の変革の時代」とはこのような時代のことです。このようなときでも、反動勢力が憲法規範を越えた行動に出ることはない、などとどうしていえるのでしょうか。
democratさんは「荒唐無稽。万々が一」として「ソ連脅威論」になぞらえますが、私が指摘したことは、革命を視野に入れて問題を論じるならば、論理的にはたいへん蓋然性が高いことであるし、歴史の経験や社会科学的にみてごくあたりまえのことです。もちろん、「国会の召集拒否・内閣の認証拒否」といったことは想定される具体例の1つとしてあげたに過ぎません。
法律家としてのdemocratさんが、現在の政治状況から「そのようなことは絶対にない」と断言し、日本国憲法をよりどころとして「憲法ではそのようなことを認めていない」といわれましたが、democratさんのこの認識は、私の「天皇(制)のクーデター的利用」の指摘とかみあわないことはあっても、矛盾するものではありません。
私の指摘は、綱領改定案が多少とも「革命」を展望しながら、反動勢力によるこのような野蛮な企てに関する何の警戒もなく、「君主制廃止の旗を降ろし、(憲法の)全条項をまもる」とする綱領改定案にたいする批判であります。
もう1つ引用します。
■ 内閣の助言と承認に対する天皇の拒否権
国会における議論(第61国会1969年3月14日 衆議院・内閣委員会・敬称略)
受田新吉(民社党)
憲法の規定からは、天皇に対しては、内閣の助言と承認がありたる事項に関する拒否権は一切ない、こういうことですね。
宇佐見毅内閣法制局長官
一言にしていえばそういう関係であろうと思います。
受田新吉
たとえば、内閣の助言と承認の中に、著しく国民のためにならぬことを党派的根性からやる総理があらわれた場合に、これに対して陛下が御注意することができるのかどうかです。とんでもない総理が存在する場合に対する、その助言と承認を求めて陛下に御裁断を仰ぐ、憲法第7条の規定の中でそれに対して御注意はできるかどうか。ひとつお答え願いたい。
宇佐見毅内閣法制局長官
御注意という意味はちょっとむずかしくなりますが、御質問はできるだろうと私は思います。
受田新吉
仮定でなくして実際の問題で、つまり質問をしてこれでよろしいかと念を押される。そこを私は、ある程度陛下のそういう良心に違うような助言と承認事項を携えて憲法第7条の国事行為を行なってほしいという要請のありたる場合に、陛下の御質問またはこれでよいかと念を押される、このくらいはやはりやられてしかるべきではないか。…
質問者は民社党の衆議院議員(当時)ですが、支配層の中には、「政治の相対的な安的期」においてさえ、天皇(制)の政治的利用に関して「ソフトなイデオロギー支配」だけではなく、このような衝動が働くのですから、「激動の変革の時代」において反動勢力の側からこのような憲法規範の逸脱がありうると考えることは、それほど荒唐無稽だとは私は思わないのですが。
しかし、いずれにしても、このテーマは「天皇(制)」の問題というよりは、革命論の問題といった方がふさわしいので、機会があればそのような投稿もしたいと思います。