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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

democratさんへ:天皇制イデオロギーとは、“復古主義的”なものだけか?

2004/2/15 澄空

 あなたがこのような「常識」を持っていたとはいささか驚いた。ではなぜ今回の綱領改定に反対し、あえて天皇を「君主」と呼ぶのかという疑問がただちに起きるが・・・。

 61年綱領を擁護する論者は、そのような「常識」すら持っていない、とあなたは考えているわけだ。共産党は綱領改定するまでそのような「常識」を持っていなかったのだろうか?
 それはさておき、「ではなぜ今回の綱領改定に反対し」たのかは繰り返さない。また、「あえて天皇を『君主』と呼ぶ」べきとは私の言葉ではない。私は逆に「君主」という用語を使わなくてもよい、その代わりに別の言葉で規定すべきであると言ったはずだ。

 要は、日本国憲法が天皇制に関して、〈1〉政治権力を剥奪しつつも、〈2〉「国民統合」の象徴として制度を残したこと、〈3〉それによって日本社会において天皇・皇室の権威が今なお存在していること(逆にそれが存在しているから天皇制が存続したとも言えるが)、これをどのように捉えるかということを問題にしているのである。新綱領は、ただ「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度」と述べているだけであり、これは憲法の規定を簡潔に表現しただけのものであって、日本社会においてこの制度がもつ「権威」あるいは危険性といったものを問題にしていない。つまり、〈2〉や〈3〉の問題を軽視していると私は考えている。これはおそらく、犬丸氏の懸念と同じものであろうと思う。私がここで“おそらく”と言うのは、「別刷学習党活動版」の投稿だけでは判断できないからである。その文字数制限は厳しすぎて、論点を絞りに絞り込まない限り、とても満足な議論はできない(犬丸氏の意見は論点が絞りきれていない)。democratさんは、そこで語られた言葉の断片をとって勝手な想像を働かせて“批判”してみせている。それは論者の真意をくみとっていない“揚げ足取り”と言うべきで、実質的には犬丸氏“批判”を装ったdemocratさんの“自問自答”にすぎない(あなたの投稿にはこういう類のものが多いのだが)。

 ※なお、「別刷学習党活動版」での犬丸氏の意見を読む限り、彼は綱領改定を支持しており、ただ不破報告に苦言を呈しているにすぎない。それゆえ、私はdemocratさんとは別の観点から犬丸氏の意見に対して批判的見解を持っているということを付け加えておく。

 しかし、私が引用した『戦後政治史の中の天皇制』では、渡辺氏は戦後の天皇を「君主」と呼ぶことは慎重に避けており、「ブルジョア君主制」という規定も一切用いていない。また、1991年の歴史学研究会臨時総会「歴史家は天皇制をどう見るか」における渡辺氏の報告「戦後日本の支配構造と天皇制」においても観点は全く同じであって、「天皇制は戦後の政治構造の一角から完全に脱落し、もっぱら支配層の利用対象となったのである。比喩的に言えば、戦後天皇制は政治の独立変数たりえず常にその《従属変数》(原文傍点)となったのである」という視点を強調している。しかも、この報告では1959年の不破論文にも言及して次のように述べている。
 「この点で注目すべきことは、先の不破論文が指摘しており、また多くの憲法学者が指摘していたように、日本国憲法で規定された天皇制は、通常の立憲君主がもっていた外形的権限ならびにそれにもとづく危機における政治への介入・調整権すら持っておらず、その点では象徴天皇制を「立憲君主制」とは規定できない点である。」(歴史学研究1991.7 p20)
 だから、渡辺氏をあなたの議論に援用することはできないはずだと思うのだが、いずれ文献を確認してからコメントすることにしよう。

 渡辺氏の天皇論の力点は、天皇制は「戦後保守政治の従属変数」だとする規定にあり、これが、61年綱領の(2)「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」という規定と事実上同じものであることはすでに述べた。彼は、この規定に立って、支配層の帝国主義化ないし帝国主義復活という視角から天皇制を分析してきた。そのことについて述べた部分をいくら引用しても、あなたの議論の援用にはならないんだが?
 渡辺氏の議論があなたの援用にならないことはほとんど説明の必要がないほど自明のことだ。なぜなら、今回の綱領改定は、渡辺氏の帝国主義(復活)論をそもそも否定してしまったばかりでなく、61年綱領の(2)をも、したがってまた渡辺氏の天皇論をも否定してしまったからである。
 その渡辺氏の規定をあなたが正しいと考えるのは自由だが、それとあなたの支持する新綱領がその規定を放棄してしまったこととは、あなたの頭の中でどのように結びついているのか、“誰にでもわかるように”説明していただきたいものだ。

 私はあなたとは違って、渡辺氏は〈1〉天皇制が政治権力を剥奪され戦後保守政治の「従属変数」となっているという側面に力点をおきつつも、〈2〉それが制度として残された側面を軽視してはならないとする立場だと私は理解している。彼は、先にあげた著書で、戦後保守政治の“復古主義的”な天皇イデオロギーに対抗してきた憲法の解釈論に立った対応は、80年代後半の「天皇現象」の前にその限界が露呈されたという認識を示している。私があなたに去年7月に紹介したこの著書をいまだにお持ちではないとのことなので、長くなるが引用しておこう。著書の末尾の部分である。

 第一になすべきは、今回の「天皇現象」でも顕在化したような、天皇制が与えた戦後日本の民主主義と自由への刻印を歴史的に解明する作業が必要である。そして現代日本社会の構造の中での天皇制の位置、現代日本社会においてなお存続している――奥平康弘の表現に従えば「内なる天皇制」――権威的心情の根拠が、憲法制度とのかかわりで解明されなければならない。…(以下、略)…
 第二に、今日の時点に立って、あらためて君主制がもたらす民主主義や自由への負の刻印、また、共和制の持つ意義が検討される必要がある。とくに、日本の天皇制との対比でよく“すばらしいもの”として引き合いに出されるイギリスの君主制がイギリス民主主義に与えたまた与えている影響を歴史的に検討することなどは、誰かがやる必要がある。…(以下、略)…
 第三に、戦後憲法学の方法論があらためて問われねばならない。とくに憲法学における認識と実践の関係が、天皇制という具体的文脈の中で、検討される必要があろう。
 今回の「天皇現象」は、憲法学の解釈論偏重の持つ限界を露呈した。それは認識論においては、日本国憲法の持つ矛盾的構造を掴みそこね、実践面においては、憲法学の実践的諸任務を解釈に一面化し矮小化した。憲法学のみならず法学会全体、とくに現状に対する批判的志向をもつ法学会においては、しばしば「法的実践」という言葉が使われるが、これはおおむね法学は認識論だけやっていてはだめで解釈をやることが必要だということを合理化する言葉となっている。この害悪は憲法学では平和主義の領域などでも生じているが、天皇論の矮小化はその典型の一つであろう。憲法学は実践的意味においても、憲法第一章の「象徴」という形ですら持っている君主制の害悪を明らかにし、憲法の歴史的限界を明らかにすべきであった。憲法学の実践の中には解釈と並んで憲法のイデオロギー的批判があり、とくに憲法第一章の領域では、このイデオロギー批判の役割が小さくない。
 今回の「天皇現象」は、全体として、戦後憲法学の解釈学偏重、憲法典依存と絶対化という体質の持つ問題を明らかにした。これを機に、戦後憲法学全体の見直しがあらためて行われることを希望して報告を終える。(P.340-341、強調はすべて渡辺氏によるもの)

 どう読んでも、あなたの議論の援用にはならんだろう。

 あなたの言う「独自の権威・権能」なるものが、はたして「君主制」と呼ぶにふさわしい《政治的な》権威・権能であるといえるのか、また、戦後直後の時期の昭和天皇を除き、天皇が支配層の思惑を超えて「君主」としての《政治的》機能を果たしたことがあるのかどうか、私には全く疑わしい。少なくとも上記の渡辺氏の「従属変数」という表現は、そのような見方は否定するものであろう。

 こんなことを堂々と書いて、恥ずかしくないのだろうか? 「『君主制』と呼ぶにふさわしい《政治的な》権威・権能」が実在するなら、支配層がわざわざ「政治利用」する必要はない。政治的でない権威や機能を政治的に誘導しようとするから「政治利用」と言う。それに、渡辺氏の規定と何の関係があるというのか。

 また、政治的かどうかを問わず天皇が「独自の権威・権能」を持っているとしても、なにゆえそれをあえて「ブルジョア君主制の一種」と考えない限り説明ができないのかさっぱりわからない。結局は、統治権を基礎とする伝統的君主概念に立たないのであれば、「ブルジョア君主制の一種」を新たにどう概念規定するかに依拠した議論にすぎないのだから、「私は君主制をこのように概念規定するから、こう説明する」というトートロジーにすぎまい。

 なるほど。モノは言いよう。同じように、天皇は伝統的「君主」ではないから、「君主」扱いしない、これまたトートロジーのお手本と言えよう。
 「政治的かどうかを問わず天皇が『独自の権威・権能』を持っている」ことは社会的事実であって、あなたが持っていると思うか思わないかの問題ではない。それを「君主制」による機能だと言うのがイヤなら、別の言葉で表現すれば良いと言ってるのだが?
 私は、天皇が「独自の権威・権能」を持っていることを捉え、それが戦前の君主制の残りものとして天皇制が憲法に残されたゆえであり、またそれが他の民主政体の国における「ブルジョア君主」の機能と基本的に共通するものだと考えたのである。
 あなたは日本社会において天皇制はそもそも何の権威も機能もなく、支配層のただの操り人形になっていると考えているのか、あるいは、政治的でない権威や機能は、あったとしても有害でないとでも考えているようだ。まさに、私が冒頭で述べた、〈2〉“象徴”としてあれこれの制度を残したこと、〈3〉それによって日本社会において天皇制の権威が今なお存在していること、の2点を軽視しておられる。そのあなたの考えが、天皇制廃止の課題などどうでもよいとみなすことにつながっているのである。

 ならば、なぜ「象徴天皇の政治的利用」、「象徴天皇の君主扱い」という端的な説明ではなく、「ブルジョア君主制」などという説明をしなければならないのか? 相変わらずその積極的意義は不明だといわざるをえないのである。
 「象徴天皇の政治利用」という端的な表現は、逆に、現在の天皇が憲法上「象徴」にすぎず政治的権能を全く持ってはならない存在であるのに、それを支配層が政治利用しているという事態を、誰の目にもわかりやすく示すであろう。「君主制」という定義はそのわかりやすさをかえって覆い隠し、天皇の政治利用や君主扱いを放任する役割を果たすだけではないのか?

 まったくもって論旨不明な文章である。
 これまでのあなたの議論の趣旨をくみとるなら、あなたの言いたいことは、支配層による“復古主義的な”天皇イデオロギーに立脚した政治利用だけを問題だとみなし、それさえ批判し続ければよい、批判し続けなければならない、ということだろう。
 そのような実践方針は、確かに、あなたが関わっている「天皇制に関する訴訟」(おそらく一連の靖国参拝訴訟のことであろうと推測するが)においては有効であろうが、その基準をもって天皇制とは何であるかの規定とするには不十分であると私は指摘しているのである。

 もっとわかりやすく説明しよう。私のある親類の家のリビングには、“皇室カレンダー”が飾ってあり、その住人は、天皇が伝統的な意味での「君主」だとは思っていないし、伝統的な意味での「君主」扱いしてよいとは考えていないし、その「政治利用」についてもうさんくさく思っているにも関わらず、天皇や皇室の人を特別な存在だとみなし、彼らの名前にはかならず“様”をつける。また、手に入れた高級和菓子が“皇室御用達”だといってありがたがっている。だが、選挙のときには共産党に一票を入れていくれている――このような家庭は現代日本において、けっして特異な家庭ではないだろう。
 こうした日本社会に内在する天皇制の「権威」は、「憲法第一章の『象徴』という形ですら持っている君主制」という制度に根ざしていることは明らかであろう。支配層は、この天皇の「権威」をいかにして、その支配の維持と強化に利用しようかと日々策略を練っているのである。
 われわれは、その「権威」自体は“有害でない”からと言って放置していてもよいのだろうか? 支配層がそれを「政治利用」しようとしたときにだけ、批判すればそれで済むのだろうか? 支配層がその支配に誘導しようとするなら、われわれは誘導されないように、「権威」そのものをなくしていかなければならないのではないか? 私は、その「政治利用」の根源たる制度に根拠をもつ「権威」自体をなくし“天皇制はいらない”という声を大きくするための実践的努力(つまりそれが天皇制廃止の実践である)が必要だと考えている。渡辺氏は、それに関し、憲法学の実践として、憲法を一枚岩的にとらえるのではなく、「憲法のイデオロギー的批判」が必要だと述べている。私は渡辺氏のこの主張に共感するものである。