6、世界史
話の勢いで若干順序があちこちしたようだが、次に進む。世界史である。
不破氏はフルシチョフの平和共存から説き始める。その10数年の後、毛沢東が
アメリカと和解したことも含め、こうして大国同士が手を結んだことで、民族解
放運動、たとえばベトナムが、アメリカの各個撃破政策のもとで辛酸をなめさせ
られたとして批判する。
では平和共存も、中国の国際社会復帰も、ありうべきではなかったのか。部分
核停条約も駄目なのか。だとしたら、現在のNPTとは何なのか。
ぼくは不勉強なので、当時の党が実際にどう考えていたのか知らない。ただ同
志社の学生党員たちが語っていたことを思い出すだけである。
部分核停とは、すでに地下で実験できる段階にきた米ソにのみ核を独占させる
もので、中国の核実験を阻止するのが目的である、とぼくは聞いた。
実際そうだったのだろう。すでに中ソ対立の時代に入っており、北と南から米
ソの核兵器で包囲された形の中国にとって、核攻撃は現実の脅威であり、これを
させないためには自前の核がどうしても必要だった。まだ地下で実験する技術の
ない中国は、部分核停に賛成するわけにはいかなかった。
だが公式の場でこういう見解が党員の口から語られることはなかった。
部分核停は、一方の側からは、一歩前進と受取られ、他の側からは、全面核兵
器禁止からの一歩後退と受取られた。したがって、意見の一致するところで運動
するという原則から、部分核停に対する賛否は持ち込むべきではない、というの
が、党の公式見解だった。具体的にどういうやりとりがあったか知らないが、結
果として、原水禁運動は分裂した。これが将来にわたって日本の平和反戦の運動
を分裂させるもととなった。
後に、ゴルバチョフとレーガンのもとで核兵器削減交渉が始まるが、これには
もちろん核軍拡競争にソ連の経済がもたなくなったという要因はあったが、当時
ヨーロッパ全土で、一般市民を巻き込んでまきおこった、空前の反核平和運動の
後押しがなかったら、この交渉も始まらなかった。このとき肝心の日本の運動は
どうだったか。ほとんど死に絶えていた。
1+1は2ではないのだ。社会党と共産党が分裂するということは、10も100
もの一般市民をこの運動から遠ざけることになる。党は原水禁運動に外国代表が
広範に参加するといって喜んでいるが、その実それは市民運動としてヨーロッパ
に見られるような規模に発展することは一度もなく、単なる政党内部とその周辺
のセレモニーと化してしまったのではないか。
党はこの分裂を正当化する。相手の側が、賛否の分かれる問題を運動に持ち込
んできた、という。だが部分核停に賛成していたのは、決して一部の勢力だけで
はなかったと思う。一般世論の強い支持があった。世論は中国の核実験にも明確
に不快感を示していた。
もちろんぼくは中国の当時の立場を理解する。アメリカは現実に日本に対して
二度もこの爆弾を使ったのであり、朝鮮戦争のときも、ベトナム戦争のときも使
用を検討した。中国に対してももちろん検討していた。だから、中国が自衛のた
めに核実験に踏み切らざるを得なかったことを、ぼくは理解する。
おそらく当時の党もぼくと同じ理解をしたに違いない。だが、世論は違った。
世論は、中国の核実験を非難し、部分核停を支持していた。そういうもとで、公
然と世論に挑戦することはできなかった。
そこで、部分核停に反対するのは、それが全面禁止からの一歩後退だからであ
り、意見が分かれる以上運動では賛否を言わないことにしようじゃないか、とい
う論法で部分核停への評価から逃げようとする。
ある意味やむをえないことである。そこでその交渉の現場で現実にどういうや
りとりがあったか、ぼくは知らない。向こう側が、出て行けといったのか、こち
ら側が出て行くといったのか、ともかく部分核停を持ち込まれるくらいなら、運
動が分裂してもかまわないという判断が、党にあったのだろう。
だが、この判断は間違っている。党と運動とは別のものである。党が賛成でき
ないからといって、運動を分裂させてしまうのはまちがっている。
たとえ気にいらないものを持ち込まれたにせよ、それが運動の統一に必要であ
るなら、党の見解とは別に、運動そのものはそれを留保的に飲み込んで継続すべ
きであったのだ。
党は言う。正しい立場に立った側の運動はますます国際理解を得ている、それ
に対して社会党の側の運動はつぶれてしまった、と。そんなみみっちいところで
ネガティブな競争をしても始まらないのである。本質は、ヨーロッパの反戦平和
運動が、たとえばイラクのときを見ても、いつも大きな盛り上がりをみせるの
に、何故日本はそうでないのか、という点にある。何故党の運動は一般市民を巻
き込めないのか、という点にあるのだ。
部分核停がおかしな条約だった、ということはぼくも認める。そして現在の核
実験禁止条約もおかしな条約だし、NPTも、おかしな条約だ。常に核兵器持っ
たもの勝ちの条約で、すでに持っている国は持ち続け、場合によれば使いなさ
い、でもいま持ってない国は持ってはいけませんという条約だ。人を殺さずに核
を爆発させる(核実験)は禁止するが、人を殺すためならどうぞ自由に爆発させ
なさいという条約だ。人類史上前代未聞の滑稽きわまる条約と言っていい。
でもそれが現に存在する以上、それをいかに有効なものにしていくかを考える
しかないだろう。
部分核停と原水禁運動のほうに話がそれたが、フルシチョフの平和共存であ
る。中国の対米交渉と、それを通じての国連代表権復帰、国際世界への登場を含
めて考えるが、ぼくはこれは必要なことだったと思う。
アメリカの空爆下にあるベトナムにしてみれば腹立たしいことだったに違いな
いが、かといって、ソ連や中国がいつまでも世界から隔離されて封じ込められて
いればいいわけではない。これは確かに各個撃破政策への転換だったわけだが、
この転換そのものが、アメリカにとっては大きな譲歩である。もはやソ連を敵と
しては戦えないと認め、その10数年後に、中国も敵としては大きくなりすぎたと
認めたのである。
ジェームズ・ボンドの敵は初めソ連だったが、フルシチョフ以後は中国人にな
り、中国とも和解が進むと、まったくの架空の陰謀団になった。この変わり身の
速さは笑えてしまうが、これが現実だったのである。
それにソ連は平和共存でベトナム援助をやめたわけではなかった。むしろ口で
勇ましいことを言うのはいつも中国で、実際に膨大な援助をつぎ込むのはソ連
だった。キューバに対してもそうである。
カストロは共産主義者ではなかったし、革命後まず援助を求めたのはアメリカ
に対してだった。だが、アメリカ資本の擁護者だったバチスタ独裁政権を打倒さ
れ、そのサトウキビ畑と製糖工場とを取り上げられたアメリカがカストロを援助
するはずがない。当時ソ連は平和共存で、中南米の共産党に対しても、平和革命
を押し付け、キューバ共産党もカストロのゲリラ活動を批判していた。カストロ
は政権獲得後、共産党を弾圧し、解散させてしまう。ところが勇ましいことを言
う毛沢東は少しの援助もよこさない。そんな経済力は中国にはないのだ。代わっ
て、平和共存のソ連から大量の援助が入り始める。ここにいたって、カストロも
マルクス主義を勉強し、自分たちの共産党を新たに作った。カストロにとっては
現実によってやむなくされた共産主義だったといえる。
ソ連が善意でカストロを援助したなどとは思わない。アメリカの喉もとに核ミ
サイルを突きつけておきたかったのだ。これはケネディとの間で核戦争の一歩手
前までいったが、結局はミサイルを撤去せざるを得なかった。だがソ連の意図が
何であろうと、キューバが自国を維持できたのはソ連のおかげである。この歴史
の事実は残る。
この時期、民族解放戦争に悪影響を及ぼしたのは、むしろ中国である。ポルト
ガルがアンゴラから撤退すると、アパルトヘイト下の南アフリカとアメリカと
が、ソ連の影響下にある解放戦線に対して干渉戦争を開始した。このとき、
キューバは解放戦線に対する援助に入り、中国はアメリカと手を組んでこれをつ
ぶしにかかった。この時期の中国外交は反ソ連で徹底していた。
そもそもはフルシチョフのスターリン批判、そしてアメリカとの平和共存に始
まる。もともとソ連流を押し付けるソ連のやり方を面白く思っていなかった中国
との間に理論闘争が始まり、ソ連は技術者を引き上げる。これは革命初期の中国
経済にとって大打撃であった。国境地帯では小競り合いが始まる。
常に共産主義の親玉であるかのような振る舞いに終始したソ連のやり方は確か
に問題だったし、日本共産党が彼らの干渉を受け、党内をかき回された教訓は痛
いものだっただろう。
だが、ここでも、文化大革命直前、日中決裂直前の同志社党の様子をぼくは思
い出すのだが、ぼくらは、まず何よりも、スターリンの「弁証法的唯物論」と、
毛沢東の「矛盾論実践論」とを読まされたのである。
この直後に日本共産党は中国共産党と決裂するのだが、そして党中央にはその
兆しがあったのかもしれないが、党の末端では、まだ毛沢東とスターリンが先生
だった。
フルシチョフは修正主義者と呼ばれ、ソ連派はみな修正主義者と呼ばれた。ス
ターリン批判はまちがっている、スターリン批判をするトロッキストはまちがっ
ていると教えられた。
われわれは一般学生から中国派と呼ばれ、社会党はソ連派なのだと言われた。
日本の平和運動が何故中国派とソ連派によって分裂してしまうのかと責められ
た。それが一般市民の感覚であり、みなこの分裂を悲しみ、統一を願っていたと
思う。中国ともソ連とも関係がなく、社会党とも共産党とも関係のない一般市民
が、平和運動の統一と発展を願っていたのだ。1+1は2じゃないのだ。それは
10にも100にもなるのだ。
こういった傾向ははたして、党の末端だけのものだったのだろうか。この時
期、ソ連の干渉への反発から中国派へと傾き、フルシチョフへの反発から、ス
ターリン賛美へと傾いた、この傾向は党中央には無縁のものだったのだろうか。
ソ連の国内体制の吟味は後のことにしよう。またソ連の大国主義、覇権主義、
親玉面、膨張主義についてもあとで考えよう。
しかし、少なくとも、ここでフルシチョフが行ったスターリン批判の画期的意
味については抜くことができない。ここで、少なくともソ連の国内体制は、それ
までとは一歩違う進歩的段階にはいったのだと思う。もちろん対外的にはハンガ
リーを戦車で踏みにじったのはフルシチョフだったし、世界中の共産党に対して
親玉面して、乱暴に干渉した。しかしフルシチョフのスターリン批判の意味を理
解できなかったのは、むしろ当時の日本共産党だったのではないか。
7、ソ連の位置づけ
(ソ連が、すでに社会主義が完成したとか、共産主義の段階にはいるとか言って
いたときに、日本共産党は、ソ連はまだ社会主義の生成期にあると表現した。こ
れはすでに画期的な見方であったが、それでもまだソ連が社会主義をめざしてい
るものと誤解していた。レーニン死後のソ連が社会主義とは似ても似つかないも
のであることを理解したのは、ソ連崩壊後であった。しかしこれは、世界の共産
党の中では先進的なことであった。)
不破氏のこの論法はすでにおなじみになったものである。「高度に発達した資
本主義国の中では最低レベルである日本」という表現と一緒である。
確かに日本共産党は、ソ連問題に関するかぎり、世界の共産党のトップを走っ
ていただろう。だが、共産党の外を見ればどうか。共産党というのは国際的にも
小さな組織である。その外の人々はみなソ連がどういう国であるかを知ってお
り、これに批判的なまなざしを注いでいた。ひとり共産党のみが、この事実に対
して目を瞑っていたのである。
のみならず、これをもって社会主義、もしくは社会主義をめざす体制と言って
いたのである。必然的に諸国民は思う。「ああ、あの独裁国家が社会主義なのだ
な。共産党がめざしているのはああいう体制なのだな」
いまさらあれは社会主義ではなかったと言っても、もう遅いのである。社会主
義という名前はソ連の体制に定着してしまったのだ。そしてそれがどういう体制
であるかということはみんな知っていたのである。
「世界の共産党の中ではトップだった」しかしそんなことは自慢できることでは
ない。100人でマラソンして、最下位の10名の中ではトップだったと言ってい
ばっているのだ。
正直言って、ぼくもソ連の体制のひどさは知っていたが、この国でもう一度革
命を起こせば、ほんとうの社会主義が生まれるのではないかという望みは持って
いた。ただしそれにはいまのソ連共産党では駄目で、第二の共産党が生まれて、
いまの共産党を打倒せねばならないと思っていた。与党はどうしても保守的にな
る。野党が生まれてこれを打倒せねば社会は変わらないというのがぼくの考え
だった。ソ連における自由と民主主義の欠如、多元性のなさ、一元的な経済・社
会・政治のありようというのはどうしても打倒の対象でしかなかった。しかし一
方、スターリンの強権時代から、フルシチョフのスターリン批判を経て、ブレジ
ネフの安定期にはいってからのソ連は、労働者の権利という点では見るべきもの
があると思えた。
それがぼくの錯覚だったかどうかは、ソ連をこれ以上研究していないので、よ
くわからない。ただぼくが日本共産党の生成期論と近い位置にいたのは事実だ。
ソ連社会に対する認識はそうだったが、ソ連共産党に対してはいかなる幻想も
持っていなかった。これは日本の自民党と同じソ連の保守党なのだというのがぼ
くの認識だった。ただ、日本社会はある程度多元化しているのに対し、ソ連は独
裁である。にもかかわらず、労働者はある権利を持っている、というのがぼくの
認識だったのである。
だから、ゴルバチョフが上からの改革に着手したとき、ぼくは驚いた。ソ連共
産党は捨てたものじゃなかったのか、と思ったわけだ。だが、結局その緩やかな
改革でさえ、既得権益層の激しい抵抗にあって、事態を前に進めるにはインテリ
のゴルバチョフのやり方では駄目で、ガキ大将のエリツィンが大砲をぶっ放すこ
とによって、一挙にすべてをぶっ潰してしまうしかなかったのである。
結局この革命から、社会主義は生まれなかった。資本主義が生まれた。無駄な
70年、空白の70年を費やして、歴史が元に戻ったのだといわれた。だが、そうで
はあるまい。ロシアは帝政ロマノフ王朝に戻ったわけではない。ロマノフ王朝か
らスターリン王朝を経て、よく分からない封建的官僚体制から、いま始めて、資
本主義革命に成功したのである。これは人類史の偉大な一歩である。
もちろんエリツィン資本主義は問題だらけの体制だったし、プーチンを経てメ
ドベージェフになってもいわゆる西側資本主義と比べて、非常に後進的な体制で
あることに変わりはない。しかし、行き詰っていた国家が、一歩を踏み出したの
は事実である。
日本共産党はソ連の崩壊に大喜びをしているが、では、このロシア・東欧の革
命自体をどう評価するのか。当時フィリピンでは黄色い革命によってマルコスが
倒れコラソン・アキノが登場した。ブルジョワジーと、アメリカの新しい利益と
を代表した、この革命とアキノとを日本共産党は高く評価したが、当時の「赤
旗」の論調を見ても、ゴルバチョフとエリツィンとを評価しているようには見え
なかった。かえってチェルネンコを評価したりしていた。アキノを評価できて、
ゴルバチョフを評価できない理由は何なのか。
ソ連の覇権主義と、ロシア・東欧の「似非社会主義」との崩壊が、「世界の社
会主義運動に肯定的意味を持った」というだけでなく、この革命がロシア・東欧
の社会にとってどういう意味を持ったのか、きちんとした見解を党に聞きたい。
それはそれらの国の内政だと言って逃げるのだろうか。世界各国の内政とその歴
史を分析することなしに日本の内政を語ることができるのか。
8、二つの体制
日本共産党の「二つの体制論」ほど分かりにくいものはない。
「1917年のロシア革命によって、世界が資本主義というただひとつの体制によっ て支配される時代は終わり、資本主義体制と、社会主義をめざす体制との二つの 体制が並び立つ時代に突入した。だが、1924年、レーニンの死によって、この二 つ目の体制は社会主義をめざす体制ではなくなり、封建的官僚専制国家となっ た。では二つの体制の時代は終わったのか、というとそうではない。なぜなら、 中国・ベトナム・キューバが、ロシア・東欧に代わって二つ目の体制を代表して いるからである。」
疑問① 中国の成立は1949年である。では24年から49年までは相変わらず、ひ
とつの体制だったのか。確かにこの間はたった25年間しかない。だが、ロシア革
命で二つの体制になってからレーニンの死まではたった7年である。この7年間
が光り輝いているので、25年間は無視していいということなのか。
さらに、東欧「社会主義」の成立はレーニンの死の20余年後である。これは二
つの体制に含まれるのか、含まれないのか。つまり、これは「社会主義をめざす
体制」なのか、そうでないのか。
疑問② この「体制」とはどういう意味なのか。世界を支配しているという意
味での「体制」なのか。それとも、国内の「体制」のことを言っているのか。
不破氏が、「社会主義をめざす」体制という点を強調しているところを読む
と、「社会主義をめざしている」という国内体制を重視していると思わざるをえ
ない。だがその体制はたった7年間で終わりを告げ、もし東欧が「社会主義をめ
ざしていなかった」とすれば、その復活は49年の中国成立まで待たねばならな
かったことになる。
しかし、綱領の記述も、不破氏の説明も、この25年間をまったく無視してい
る。資本主義を唯一の体制とする時代は1917年で終わりをつげた。そしてその終
わりをつげた状態が(中断することなく)現在まで続いている、と主張するの
が、綱領であり、不破氏なのである。
とするならば、二つの体制とは「社会主義をめざしている」かどうかとは無関
係なのだ、ということになる。それは資本主義とは異質な何らかの体制がそこに
存在しているかどうかを問題にしているのであって、その国内体制は問わないと
いう意味になる。
だが、ほんとうに問うていないのかといえば、そうではない。問うているので
ある。「社会主義をめざしているかどうか」ということを問題にしているのである。
綱領も不破氏も、この自己矛盾を解決しようがない。これは事実との矛盾を問
う前に、記述、論理展開、自体の矛盾なのである。
何故このような矛盾が生じるか。それは綱領も、不破氏も、世界史を正しく認
識できていないからなのだ。
1917年、ロシアに「社会主義をめざす」と主張し、世界中にもそう思わせた政
権が成立した。これはじきにそれとは似ても似つかぬ体制になったが、その要因
は、今後の研究を必要とするであろうが、現段階では、ロシア社会にまだその条
件がなかった、ということと、世界中の帝国主義国がこの革命をつぶしにかか
り、封鎖してしまった、という二点に帰結するだろうと思っている。もちろんそ
の中で、社会主義の権力理論というものが、きわめて貧弱で非現実的なもので
あった、ということが、この社会の後進性の現われとしてあった。
「歴史にもしもは許されない」というが、レーニンが死ななければどうだったの
かと問うことにあまり意味があるとは思えない。もしも、社会主義革命をやらず
に、資本主義革命をやっていれば、成功したのか。レーニンのネップを見れば、
そうであったのかもしれないと思わせる。だが、あの後進社会には、おそらくそ
の可能性もなかった。現実として、スターリン体制が成立した。これはある意味
歴史の必然だったろうと思う。
現実に、「社会主義をめざさない」体制が成立した。だがその体制は外に対し
て、「社会主義をめざしている」と思わせたことで、世界中を震撼させた。そし
て、ある意味、確かに異質な体制が出現したのである。この体制が「社会主義を
めざしているかどうか」に関係なく、世界は対応を迫られた。
スターリンは国民を奴隷労働に駆り立てることで、その剰余価値を利用して、
ロシアの工業化を成し遂げた。一国で世界全体を敵にまわさざるを得なかった以
上、これもまた現実であった。
第二次大戦後、その存在は巨大なものとなり、資本主義は対応を迫られる。ま
ず資本主義国は団結し、それ以前のようにお互いに戦いあうということが、少な
くとも表面上はなくなった。これは日本と、ヨーロッパ全体が受けた甚大な被害
に比し、アメリカ一国の力がぬきんでた結果でもあった。この時期アメリカは一
国で全世界のGDPの半分を占めていた。
植民地の解放闘争は激化し、結局は手放さざるを得なくなった。資本主義国に
おける労働運動も高揚し、こうして得られた労働者の待遇改善は、消費を促し、
戦後の資本主義の大発展にとって、欠くべからざる基礎を与えたのである。
ここで付け加えておくと、資本主義の発展には競争も大事だが、規制も大事な
のだ、という最近日本共産党が主張している内容は真理なのであって、戦後資本
主義の大景気時代を、技術革新や、あれこれの資本の側の論理だけで説明するこ
とはできない。まさに東西冷戦が、資本の側に加えた無言の圧力こそが、資本に
とって欠くべからざる需要を、無限に生み出す力となったのである。
つまり、「社会主義をめざしているかどうか」に関係なく、「二つの体制」と
いうものはあったのだ。
これは西側世界に外から無言の圧力を加えることによって、西側世界を自己規
制させ、かくて、西側資本主義の発展、労働者の生活向上、民主主義の深化に、
欠くべからざる力となったのである。
ここでの結論は、「二つの体制」の存在と、その体制の一方の側が「社会主義
をめざしているかどうか」ということは関係なかった、ということなのである。
ところが、日本共産党綱領と不破氏は、これを何が何でも強引に結び付けようと
し、結果、論理の破綻を招いているのである。
つまり「二つの体制」が存在したことが、17年以後、戦後の一定の時期まで世
界に与えた意義を認めながら、これを「社会主義をめざす」体制の功績とした
い、という主観的願望が生み出したフィクションなのである。
冷戦は、軍拡競争を生み、生産力を軍事費に無駄に消費した。もちろんそうい
う面はあった。しかし、あのおかしな体制が北方に存在していなかったとした
ら、(これも歴史のもしもにならざるをえないが)西側資本主義の世界は、いま
の栄華を獲得できていなかったのではなかろうか。
「二つの体制」は西側の自由競争に規制を加え、この規制こそが資本主義の発展
にとって欠くべからざるものだったのである。これも、言うならば、歴史の皮肉
というものであろう。