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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

不破哲三「新・日本共産党綱領を読む」批判(3)

2013/10/23 石崎徹 60代 定年退職者

9、世界史のその他の項目

 テキストにそって進むと、ここで「資本主義の全般的危機」の問題がでてく る。これを日本共産党は否定した。そのことはよろしい。では昨今かまびすしい 「資本主義の限界」とは何なのか。党綱領は少なくともいま資本主義の廃棄を テーマに掲げていない。掲げているのは資本主義の改良である。そして最近の論 調はこの改良こそが資本主義の発展に役立つのだと述べている。その限りではぼ くも賛成である。しかしそれなら何故「資本主義の限界」という言葉が出てくる のか。いま「限界」を迎えているので、この「限界」を取り除き、ますます資本 主義を発展させる処方箋を日本共産党が提示しようというのか。そうなら、大い に結構である。だが、そういう文脈には読めないのである。資本主義が行き詰ま り、何か別の経済体制が始まるかのような響きがこの主張にはある。掲げるス ローガンは微妙な言いまわしをしている。いわく「ルールなき資本主義から、 ルールある経済社会へ」。これは非常に微妙な言い回しである。「ルールなき資 本主義」から「ルールある資本主義」に変えようと言っているのか。それとも資 本主義というものにはルールがないので、もっと違う経済体制に変えようと言っ ているのか。それをごまかしているところにこの主張の面目躍如たるところがあ るのかもしれない。

 植民地の崩壊、それはよろしい。だが、「国民主権」が世界の圧倒的多数に なったとはどういう意味か。君主制が崩壊し、ブルジョワジーの時代が来たとい う意味なのか。少なくとも、世界の圧倒的地域において、国民の大部分はいまも ほとんど無権利状態にある。ただ植民地時代に比べれば、もちろんはるかに向上 した。そういう意味に理解すればうなずけないことはないが、その場合、この言 いまわしは、ここでも不破氏はおかしなレッテル貼りで、世界を奇妙に分類して いるというべきだろう。
君主制から、君主制でない体制(君主制でないなら共和制なのかと言うと、そう とも言い切れない、これは微妙な問題であると不破氏は言っている。その見解に は一理ある)が大部分になったという大雑把な分類をしてみせただけなのか。だ が、君主制でないなら、共和制とも言いきれないと同様、国民主権であるとも言 い切れないのである。君主制のイギリスよりずっと非民主的な君主制でない国が いくらでもある。君主制のタイは、確かにそれが民主主義に進む上での癌にも なっているが、君主制でないビルマよりは、ずっと民主的な国である。

 冷戦の崩壊で、世界が多極化、無極化し、資本主義国の団結が崩れて、アメリ カがリーダーの地位を失い、これが世界の平和にも貢献し、経済秩序の面でも新 しい可能性がでてきた、という記述がある。そういう面もあるし、他方、ソ連の 重石がとれて、アメリカが勝手放題やり始めたという面もある。イラク・アフガ ンでの戦争、イランに対する理不尽な圧力、パレスチナ問題への無関心、そして グローバル金融のやりたい放題。
 冷戦は崩壊すべきであったし、そうでなければ歴史は前に進めなかったとは思 うが、その影響は決して一様ではないはずである。

 ここで中国問題が出てくるが、もっとも重要なテーマであるので、あとにまわ し、コミンテルンその他の問題を駆け足で済ませてしまおう。

10、コミンテルンその他

 コミンテルンのごちゃごちゃした問題については、あまりぼくら一般人とは関 係ないので、よしとしよう。ただ、わかることは、ソ連が共産主義・社会主義と 無縁な国内政治をおこないながら、国際共産主義の舞台では、共産主義の親玉で あるかのようにふるまい続け、ヨーロッパの共産党がこれにたいして無批判だっ たという事実である。ヨーロッパ共産党についてはあとでちょっと述べるが、こ こでは、ソ連の歴史についての、ぼくなりの感想を述べよう。
 スターリン体制は非常に非人道的な体制だった。それは誰しも認めるしかな い。だが、ある意味これをフランス革命におけるロベスピエール体制と対比せざ るを得ないのではあるまいか。暴力によってひとつの強固な体制(ロマノフ帝 政)をひっくり返す、しかも国際帝国主義の干渉戦争のただなかで、孤立無援の 状態でこれをおこなう、それが理想主義者たちを蒼白にせざるを得ない凄惨な出 来事だったとしても、これも人間の現実なのであろう。
フルシチョフのスターリン批判を、ぼくは高く評価する。工業化を成し遂げ、ド イツとの戦争にも打ち勝って、国民生活に余裕が出てきたので、こういうことも 可能だったのだろう。もちろんそれで国民生活が完全な自由と民主主義とを勝ち とったわけでもなかったし、対外覇権主義はその後も続いた。だが、この時点で ソ連社会はスターリン時代の暗黒から多少とも抜け出たし、このある程度自由と 民主主義の雰囲気の中で、ゴルバチョフたちが学生生活を送ったということが、 後の改革に決定的な役割を果たすのである。
 ブレジネフ体制の初期は、まだブレジネフの権力が明らかになっていなかった ので、トロイカ体制と呼ばれ、当時日本共産党は一時これを評価したのではない か。つまり、平和共存とスターリン批判のフルシチョフが失脚したので、スター リン時代に戻るのではないかと評価したわけだ。
 だが、もちろん暗黒時代には戻らなかった。しかし、この政権はいくぶん反動 的な性格を持っていたように思われる。
 つまり、社会は共産党体制によって、がんじがらめになっていった。他方、経 済的には、この時期以後、剰余価値を利用しての設備の更新や新たな投資という 思想が失われていったのではないかというような情況を呈する。スターリンの独 裁下で成し遂げられた工業化を、それで良しとして、あとは消費することしか考 えなかったのではないか。
 この政権は確かにわれわれが考える社会主義とはかけ離れていたが、当事者た ちは社会主義のつもりでいたのであり、社会主義の理想を求めて組織された共産 党を決定的に裏切ることはできなかった。というのは彼らの権力基盤はあくまで も共産党にあったからだ。
「社会主義のよいところは働かなくてもよいことだ」と当時のソ連の労働者が 語ったという記事を読んだ記憶がある。年金や労働条件という社会的制度は、ブ レジネフ政権のうちに整備されていったように思われる。商店員も労働者である から、彼らは資本主義の商店員のように「お客様は王様だ」などとは考えない。 労働者こそ王様なのだ。「資本主義社会では人々は奴隷のように働き王様のよう に消費する」と彼らは資本主義社会を揶揄していた。商店は一般の事業所と同じ ように夕方5時に店じまいする。共働きが普通であるから、これでは買い物でき ない。そこでみな労働時間を勝手に抜けて買い物する。それがまかり通る社会 だったのである。
 労働者が働かなくていい社会。競争のない、非効率な社会。剰余価値はほとん ど軍事費にのみまわされ、技術・システム・設備が更新されていかない社会、あ る意味で、かつて社会主義の理想とされたようなことが実現し、そしてそれが次 第にこの国の消費生活を窮屈に貧しくしていき、そして、自壊したのである。
 この国には政治的な自由と民主主義はなかった。だが国民は決して奴隷であっ たわけではない。もはやスターリン時代ではないのである。そしてこの点ではか つての社会主義経済理論にかなりおかしな点があったことを認めざるをえないと 思われる。
 政治面で見た場合、これは確かに封建的官僚政治だが、スターリン批判と、そ の後の安定期にはいりながら、何故それを克服できなかったのか、と考えた場 合、やはり共産党の支配力の強力さが、社会の癌であったと考えざるをえない。 この政党が労働者の権利と社会の理想を振り回すだけに、余計に厄介なのであ る。まじめな人間ほど、共産党を信じてしまう。この網の目のように張り巡らさ れた組織は、社会の抵抗力を奪ってしまう。そしてその組織はつまり「民主集中 制」の組織である。この制度はその原理上絶対に民主主義を保障できない制度で あり、そして歴史的にも常に独裁の最良の道具となってきたのである。

 次にヨーロッパ共産党について少し感想を述べる。ヨーロッパ諸党は、いずれ もソ連の影響力を克服できなかったがゆえに、かつて2割3割の支持を持ち、与党 の一角を構成したりもしながら、ソ連崩壊後、ことごとく壊滅し、2、3パーセ ントにまで落ち込んでしまった。これは事実である。しかし、① 日本の共産党 の支持率もこれとたいして違わないではないか。② 不破氏はヨーロッパ資本主 義をたいへん評価し、これぞ日本が手本とすべき「ルールある経済社会」であ る、かのごとく語る。実際はヨーロッパの高い社会保障も、資本主義競争の必然 から、どんどん低下していっているし、失業の高どまりから、世論が右傾化し、 移民排斥などを通じて右翼政党が台頭してきているのだが、依然として、日本が とりあえずの目標とすべき社会ではある。(それが帝国主義時代に築き上げたも のを基礎としており、いまなおそれを払拭しきってはいないことも考慮すべきだ が)。ただ、このルールある社会を築き上げるのに果たしただろうヨーロッパ共 産諸党の力を、不破氏はどう評価するのか。
共産主義の理論については、日本共産党の方が進んでいただろう。だが、社会で 実際に有効に活動を展開できたのは、むしろ彼らだったのではないか。

11、ソ連社会の研究

 少し議論を戻して付け加える。ソ連社会の研究が何故必要かという点である。

「ソ連の誤った経験は、21世紀に社会主義・共産主義の事業を成功させるため にも、詳細な研究を必要とする」

 最初に掲げたように、不破氏自身こう述べている。ソ連が社会主義・共産主 義とまったく無縁な存在であったなら、それは特に重要な研究対象とはならな いはずである。だがそうではないのである。ソ連の政治・社会・経済の研究は、 社会主義者・共産主義者にとって、特に重要なテーマである。何故か。
① スターリン時代は別にして、ブレジネフ時代のソ連には、かつてこれぞ社 会主義と思われていたものと類似の経済・社会の制度がある。
 スターリン時代の凄惨な強制労働の犠牲をとおして、それでも何とか一国に よる近代工業化に成功し、ある程度の生産力を確保して、なんとか社会が安定期 に入る中で、思想や政治の自由は決して認めないが、労働者には、何らかの権利 が保障されたように思える。
 働かなくていい社会、競争のない社会、それはマルクス主義とは無縁であっ たかもしれないが、社会主義者たちがなんとなく思い描く社会を、極端化したも のであったようにも思える。
 もちろん勉強不足であるので、これはたんにぼくの錯覚であるかもしれな い。社会のごく一部の現象であったかもしれない。
 ただはっきりしていると思われるのは、正常な競争は実際おこなわれなかっ たし、剰余価値が、技術・システム・設備の更新、あるいは社会の変化していく 需要を発掘し、あるいはこれを促し、それへと対応していくことなどに使われた 形跡がほとんどないということだ。
  ぼくが言いたいのは、こういったことに内在して社会主義思想の影響といっ たものが見られるのではないか、必ずしも社会主義と完全に無縁であったとは言 えないのじゃないか、ということである。それゆえ、ソ連の経済・社会制度の研 究には、今後の社会主義にとって、かなり豊富な教訓を発見できるのではないか。
 不破氏が、市場経済を繰り返し重視しているのを見ると、この点での認識で は、不破氏とぼくとの間に近似性があるように思われる。
② 政治面は、経済面に劣らず重要である。そして、ここで不破氏とぼくとは おそらく正面きって対決せざるをえない。
 スターリン時代が終わり、スターリン批判もなされた。しかも政権の座にい るソ連共産党は、共産主義者によって組織されている。にもかかわらず、何故独 裁が続き、自由も民主主義も花開くことがなかったのか。個々の党員はそれなり に共産主義の思想を持っていたはずである。その思想がまちがっていたのか。そ う言ってしまえば簡単だ。確かにかなり幼稚でおかしな思想に毒されていたのだ ろう。しかし、問題は、何故それが矯正されることがなかったのか、である。
 ここにぼくは共産党というシステムの問題を見る。一言でいえば民主集中制 というシステムである。
 日本共産党は、この問題をしごくあっさりと片付ける。スターリンも、その 後の指導者も、民主集中制を蹂躙した。それゆえ独裁になったのであり、民主集 中制というシステムの問題ではない、のだと。
 しかし、このシステムそのものは、ソ連共産党も、中国共産党も、日本共産 党も、みな同じである。同じシステムであって、一方が簡単に蹂躙され、60年間 蹂躙され続けたのに、他方は蹂躙されない、あるいはされていないと何故断言で きるのか。
 この組織の欠陥は、一般党員と幹部との間に、何段階もの中間段階があり、 この何段階もの、代議員大会、あるいは党機関を通すことによって、異論がきれ いに濾過されてしまうということである。異論を持った幹部が生まれない。生ま れても、上部機関の内部で処理されてしまい、異論を党内で広め、支持者を作っ て少数者が多数者になるという道が閉ざされている。
 党内選挙はただの通過儀礼である。選挙運動というものがないからだ。選挙 の形式で党員をだましているだけであり、実際は任命制なのである。
 「民主集中制」というシステムは、きわめて封建的なシステムを表面上の形式 で民主的であるかのごとく装っているだけなのだ。
 したがって、この組織は必ず「蹂躙」され、封建システムとなる。
 たとえばこういうふうに言いうるであろうか。「どういうシステムを採用す るかは、その党の自由だ。ソ連や中国では他の党を認めなかったので、問題と なったが、日本共産党は多党制、選挙による政権交代を認めているのだから、い いじゃないか」
 もちろん、それでいいのだ。党には党の自由がある。そのかわりこの党は民 主社会において政権に近づくことは決してないであろうことを断言する。なぜな ら、内部異論によって鍛えられていかない党が、真に有効に国民をひきつけるこ とは決してないだろうからである。そしてまた、そのようなシステムを持ってい る党を国民は必然的に恐れるからである。
 これが、ソ連の政治システムを研究する必要性である。ここにも無尽蔵の教 訓が発見できるはずだ。

12、「巨大に発達した生産力」

 順序があちこちするが、ここでひとつ補充する。資本主義の生産力の問題で ある。不破氏は、「資本主義は、その巨大に発達した生産力をもはや制御できな い」と言う。
 確かに、資本主義のこの200年の進歩は素晴らしいものであった。この生産力 をもし理想的に運営できれば、世界の飢餓も、ホームレスも、過労死も、老後の 不安も、戦争も、あらゆる犯罪も、すべて解決できるのではないかとさえ思われ る。即ちすべての生産力が、もし人々の幸福のためにだけ使用されれば、である。 だが実はそうではないのだ。この生産力は資本主義が生み出したものであり、い まのところ、資本主義のシステムが保障している限りでの生産力なのである。こ れは人間の自然な要求に基づいて、自然に形成されてきた生産力である。もちろ ん今のところ、非常に無駄の多い生産力だ。これを人類にとって、真に有用なも のに変えていきたいというのは、すべての社会主義者の願いである。だが、それ は人類の、おそらくは永遠の願いであるかもしれない。
 マルクスは150年前に、不破氏と同じことを言った。「資本主義は自ら生み出 した生産力を制御できなくなるであろう」と言った。確かに、上手には制御でき ていない。しかし、ともかく150年続いてきたのである。そしてその生産力たる や、マルクスの時代の人間がとうてい想像もできなかったほどに巨大になった が、まだなんとか制御しているのである。
 だから、この言葉をまるで資本主義に引導を渡すような口調で口に出すことは できないのだ。われわれにできるのは、よりよい制御にむかって努力することで あり、「資本主義の限界」などという呪文を唱えることではないであろう。
 資本主義は多くの犠牲を要求してきたが、もちろん人類の歴史はいつもそう だった。それを肯定するわけではないが、結果として、「高度に発達した資本主 義国の最後尾」にいるわれわれは、その恩恵を受けている。それは物質的豊かさ だけではないはずである。われわれは60億の人類の中で、例外的にかなりの自由 と民主主義の保障された社会で生きているのである。もちろん、それはまだ満足 できる水準ではないし、満足しようとは思わない。われわれは危うい崖っぷち で、かろうじて滑り台の上部にとどまっているだけかもしれない。それにして も、人類がここまで進歩してきたことに対する何らかの気持ちはあっていいはずだ。
 つまり、ぼくが言いたいのはこういうことだ。ロシア革命以後の90年について 語るのなら、その間の資本主義の進歩について、経済・社会・政治・文化のあら ゆる面での評価を欠くことができないだろう。綱領は何故マイナス面だけを取り 上げるのか、片手落ちではないか。

 ひとつひとつの言葉をとりあげていけばキリがないことになるので、中国問題 に入る。

13、中国

 中国問題が重要だと思うのは、ソ連について不破氏が、「社会主義でもなけれ ば、それをめざしてもいなかった。かつての生成期論は間違いだった」と述べて いるのに対し、中国については綱領も不破氏も、「社会主義をめざしている13億 人の国である」とかなり得意そうに書いているからである。(そしてあと何年か すると、あれも間違いだったと書かねばならない日が来るであろう、とぼくは思 うが)。
「社会主義をめざしている」からどうだと言うのか。ただ何の意味もなく綱領に 書き、不破氏が言ったのか。もちろんそうではない。何の意味もなければ、書く 必要もないし、言う必要もないのである。書き、言っている以上、綱領も、不破 氏も、それを肯定的に評価し、その評価を世界情勢の分析に使おうとしているの である。そして、日本共産党がやはり「社会主義をめざし」、中国と同じ「社会 主義」という言葉を使おうとしている以上、どういう点で同じで、どういう点が 違うのか、ということをはっきりさせねば、この綱領は理解できないことになる。
 ソ連の分析は「二つの体制」というわけの分からない言葉の意味を問うために 必要だったが、中国の分析は、日本の社会主義と絡み合って来ざるを得ない。な ぜなら、それが「社会主義をめざす」体制であることを、綱領が認めているから である。
 さて、ここで不破氏は力強く説明する。
「社会主義をめざす国」であると認定するのは、「現実に社会主義への方向性を 持っていると明確に判断できるときだけである」「その国の指導部の見解を鵜呑 みにしない」
「社会主義が完成した」とうそぶいていたブレジネフの見解が鵜呑みにできな かったのだから、当然の判断だろう。

「中国がどういう方向に向かっている国か。この国の指導部はどういう性格の指 導部か。この国の体制はどんな性格、特徴を持っているか」

 素晴らしい。ついに不破氏の見解を聞けるのである。
 しかし。
党が外国の政治について語るのは、「国際的な性格を持った問題、あるいは世界 への有害な影響が放置できない問題に限る」
語れないと言うのである。語れば内政干渉になるから語れない、語れないが、 「中国がどういう方向に向かっている国か、この国の指導部はどういう性格の指 導部か、この国の体制はどんな性格、特徴を持っているか」について党幹部は ちゃんと検討し、「現実に社会主義への方向性を持っていると明確な判断」を下 したので、党員諸君、ならびに日本国民諸君(綱領である以上、日本国民全体に 向かって言っているのだ)、党幹部の判断を信用してくれ、というわけである。 ぼくは不破氏の本をひっくり返して読んでみたが、「中国がどういう方向に向 かっている国か、この国の指導部はどういう性格の指導部か、この国の体制はど んな性格、特徴を持っているか」については、ついに一言も書いてなかった。中 国の(のみならず世界中のどの国の)内政についても語らないと言っているので あるから、語らないのだ。語らないが、党幹部が検討して判断したから信用して くれと言うのだ。
党は党員と国民に対して、判断を放棄せよと言っているのである。判断するのは 党幹部である、党員と国民とは黙ってついてこいと言っているのだ。まるで大本 営発表ではないか。
世界中がソ連は社会主義であると信じたのは、ソ連がそう言ったからだけではな く、世界中の共産党が(日本の共産党も)、「ソ連は社会主義である」と言った からである。世界中がそれを信じ、あの独裁政治のことを社会主義というのかと 理解していたのに、70年も経ってから、「あれは社会主義ではありませんでし た。嘘を言ってごめんなさい」と謝ったのは、(謝ったかどうか知らないが)、 いったいどこの国の共産党だったと言うのか。
何故、同じ過ちを繰り返すのか。何故、幹部だけでものごとを判断しようとする のか、何故党員に問うてみないのか、何故、国民に問うてみないのか。
中国の内政を批判せよと要求しているわけではない。ただ中国が「社会主義をめ ざしている」と判断する根拠を教えてくれと言っているだけである。そしてこの 件に関しては、多くの中国研究者も、多くの国民も疑問に思っており、大本営発 表を鵜呑みにするわけにはいかないのである。この国の「指導部の見解を鵜呑み にする」わけにはいかないのだ。
不破氏があげるのは、日中両党の和解会談において、中国側が実に誠実に対応し たという件についての長々とした話である。であるから、この指導部は誠実なの だと信じてくれと言うのだ。われわれは中国指導部が誠実かどうかときいている わけではない。中国が「社会主義をめざして」いるかどうかときいているのだ。 この件に関しての党の説明はいつも一緒である。つまり「日本は日本の社会主義 をやる、中国は中国の社会主義をやる、これは別のものだから、中国の社会主義 を気にする必要はない」
気にする必要がないなら、何故それを綱領に書くのか。しかも綱領のこの記述 は、日本共産党の世界認識の基礎としての「二つの世界論」を裏付けるためのも のである。それは日本共産党にとって、最も重要な認識である。日本共産党は中 国の社会主義を肯定的に評価し、それに基づいて世界戦略を構想しているのであ る。ところが何故肯定的に評価するのかについて答えることはできないと言う。 ただ信用してくれと言う。党員も国民も過去に一回大きくだまされたわけである から、信用するわけにはいかないのだ。「ソ連の誤った経験」が「詳細な研究を 必要とする」ならば、「中国の誤ったかどうか分からない経験は」もっと「詳細 な研究を必要とする」のだ。なぜなら、それがすでに終わったことではなく、い ま現在のことだからだ。

つづき