「よく勉強されておられる風来坊さんや澄空さんや川上さんのご意見もお伺いしたいと思っております」(「スカンジナビアンさん 残暑お見舞い申し上げます」2006/08/20 やすし)と、投稿のお誘いをいただきました。私に関していえば、「よく勉強」しているわけではありません。生活上の制約でなかなか投稿を書く時間がなく、まとまったものを書けませんので思いつくままに少しだけ投稿させていただきます。
参照したのは以下の2つのやすしさんの投稿です。
① 「スカンジナビアンさん 残暑お見舞い申し上げます」2006/08/20
② 「銀河さんへ お待ちしておりました。2006/09/09 」
「なおロシア革命は全体として立派な革命、民主主義革命だと思っております。中国の革命と同様に封建地主階級の支配を断ち切った点で評価できる民主主義革命だと思っております」(①より)
ロシア革命や中国革命を、民主主義革命、社会主義革命という2つのカテゴリーから性格づけしようとする試みは昔から行われてきたのですが、実際に歴史上革命といわれるできごとを少し立ち入ってみると、近現代史に限っても2つのカテゴリーで整理できるような簡単なものではありません。革命の性格や特徴を考えるとき、その革命が何を目ざしたか、革命の担い手はどのような階級であったか、権力がどの階級からどの階級の手に移ったか、革命の結果として社会がどのように変わったかなど複雑な要素がからみあっており、分類することはそれほど簡単なことではありません。
たとえば、ロシア革命はよくいわれるように「パンと平和」を求めて民衆が立ち上がったのですが、帝政が倒れたあとも「戦争の中止」という民衆の基本的な要求さえ実現することができず、結局ボリシェビキが権力を掌握するのを待たなければなりませんでした。ボリシェビキの権力掌握を可能にしたのは、ボリシェビキが社会の底辺の人々――都市部のプロレタリアートと貧農、インテリゲンツィアなど――が革命の表舞台に登場したからです。その時点では、それ以外の階級やこれらを基盤とする政治勢力にはもはや事態を解決する能力を持っていなかったということだろうと思います。ボリシェビキなど革命の主力部隊はイデオロギーとしてマルクス主義に依拠した(あるいは「使った」)のです。ロシアの民衆の基本的要求を解決する道としてマルクスが提唱した社会主義社会を目ざしたといえるでしょう。
中国革命につていえば、中国民衆が直面した課題は何よりも帝国主義列強の侵略に抗して民族独立を達成することでした。孫文の三民主義――民族主義(民族の独立)、民主主義(民権主義)、民生主義(経済的不平等の是正)――に象徴されるようなものでした。ここでも革命の主力部隊となったのは、貧農、プロレタリアートであり、闘いを支えたイデオロギーは、かなりローカライズされたマルクス主義でした。
「パンと平和」、「三民主義」などのスローガンにしても、帝国主義戦争の中止、帝国主義侵略からの独立、大土地所有制(地主制)の廃止などであって、特に社会主義的な課題というわけではないという意味で民主主義的な課題であり、ふつうはブルジョア民主主義革命で達成されるべきものであり、特に社会主義的な課題とはいえないのですが、それさえもロシアや中国ではプロレタリアートや農民の参加なしには達成されなかったのです。革命が民主主義的課題であったとしても、その担い手がブルジョアジーであったわけではありません。
いずれにしてもロシアや中国では、レーニンや毛沢東を指導者とする革命が、近代社会への扉を開いた革命であったと思います。私たちは今まで多くの場合、革命戦略の観点から民主主義革命とか社会主義革命とかという言葉を使っていたような気がします。実際の革命をみると、近現代の革命に限っても、民主主義革命と社会主義革命という2つで十分というわけにはいきません。もともと定義というものは、定義が先にあって歴史がつくられるものではないのですから、歴史から演繹して定義がつくられることを理解しないと明治維新はブルジョア革命であったかどうかなどという、少なくとも私にはあまり意義を見いだせない論争がおきます。
この2つの革命が社会主義的性格を色濃く帯びるようになったのは、プロレタリアートと貧農という社会の下層の人々がその革命の主力部隊であったこと、この革命を支えたイデオロギーがマルクス主義であったことと深い関係があると思います。これらの革命を民主主義革命と定義することが正しいかどうかは別にして「立派な革命」であったことは間違いないと私は思います。この点ではやすしさんの見解に同意します。
「ロシア史上最大の混乱や飢餓・人命損失をもたらした内乱の主因は、レーニン達が始めた食糧独裁令に始まる強引な政策、商業流通・生きた経済を無視した政策にあるのではないでしょうか」(②より)
ロシア革命に限定して話を進めます。ロシア革命後の社会の混乱の原因は、ひとつはその革命が一国革命として出発したことです。もともとマルクスによれば社会主義革命は世界同時革命(少なくともいくつかの先進資本主義国における革命)として考えられていたし、実際、ロシア革命直後のレーニンもドイツ革命に大きな期待をしたものでした。しかし、歴史はロシアにおける一国革命としてしか人類史上初めての社会主義の誕生を許しませんでした。資本主義がまったくといってよいほど未成熟なロシアにおいて、社会主義建設がどれほど困難であったかは、「強大な国家権力」を掌握した時点でさえ、しばしばレーニンが強調したところでした。欧米資本主義は長い年月をかけて、国内における収奪、海外からの略奪、海外への侵略を通じて資本主義の成長を進めました。遅れたロシアでもやはり資本主義を発達させなければならない現実がありました。
もうひとつは帝国主義列強の干渉をあげないわけにはいきません。ご承知のように十月革命そのものは、武力による革命でしたがほとんど無血革命といってよいほど犠牲の少ないものでした。膨大な犠牲が出たのは権力掌握後の内戦期なのです。この時期に戦時共産主義といわれる政策がとられ、比較的富裕な農民から厳しい食糧徴発が行われました。ロシア革命に多大の犠牲を強要した主要な原因は帝国主義列強の干渉というべきだろうと思います。
暴力的な食糧徴発は長く続けられるものではありません。農民は最初は多少とも徴発に応じるでしょう。次は農民は食糧を隠匿します。暴力的にあばいて隠匿された食糧を徴発します。そうなると農民は穀物の作付けを行わず、家畜を殺してしまいます。実際にこのように推移したのです。そういう情勢の中でネップが採用されるのです。ネップは資本主義的政策ですから、すぐに投機、搾取といった資本主義の弊害が現れます。「生きた経済を無視した政策」がとられたという側面はまったく否定できませんが、「ロシア史上最大の混乱や飢餓・人命損失をもたらした内乱の主因」をこれのみに求めることは歴史的事実ではないだろうと思います。
かつては少しは自由になる時間があった時期がありまして、このときにまとめた投稿があります。関連するものがあるかと思いますのでそちらを参照して下さい。これらのほとんどは「科学的社会主義」に投稿したものです。「社会主義を考える(1)(川上 慎一)99/7/28」から順に時系列で追っていただくといくつかあります。無駄な時間を使わせることになるかもしれませんが興味があればお読みください。