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「組織論・運動論」討論欄

三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(1)

2008/12/5 原 仙作

1、はじめに
 この投稿の目的は、日本共産党(以下、jcpと略記する)の組織原則である民主集中制を検討し、その欠陥をレーニン文献にまで遡って具体的に示し、そのうえで現代の政治課題を効果的に実現するのにふさわしいjcpの組織原則を提案することである。
 jcpの後退は21世紀に入ってとりわけ顕著となり、その後退の主要な一因が組織原則である民主集中制にあると考えるからである。jcpの執行部は、政党の自律性と権力からの組織防衛という二つの理由で共産主義運動に伝統的であった民主集中制なる独特な組織原則を採用しているのだが、その組織原則が今日の社会に定着した民主主義の水準と比較するとあまりにも狭く時代遅れになっているのである。その結果、”後続部隊なき前衛”として、権力からの組織防衛どころかおのれの行為によって組織衰退を招いているというのが実情である。しかし、この党の指導者はその図式化し化石化した理論と独善的自己認識や党員管理の便宜等で自縄自縛に陥っていてjcpを取り巻く現実が見えなくなっているのである。
 マルクスやレーニンが次のようなテーゼを残さなかったせいか、革命的な政党は時代の民主主義の水準を越える民主主義を党内に実現するのでなければ発展できないのであるが、そのことが、この党の指導者にはどうしてもわからないようなのである。
 本投稿ではjcpの民主集中制(以下「MS」と略記する)の検討を70年代末のその論争史にまで広げたため、叙述が膨大になったことに鑑み、あらかじめ内容の構成をおおまかに説明しておくほうが読者には便宜であろう。
 内容は三つの部分に分かれる。第一は、「MS」を検討する一般的な理論上の基準の提示とその基準にもとづいたレーニンの分派禁止規定の検討である。第二は、レーニンの分派禁止規定を中心においてその政党組織論、民主集中制論をめぐる70年代末の文献解釈論争に立ち入り、その論争を検討する。最後は分派禁止規定に関連してjcpの50年問題の総括を再検討する。そこでは総括の天地が逆転していることが示されるであろう。
 考察の全体を貫くモチーフは分派禁止規定を中心とするjcpの「MS」の検討であることは言うまでもない。 なお、民主集中制という用語をjcpの組織原則の表現として限定し、本来の表現は民主主義的中央集権制であるとする議論もあるが、ここでは用語の表現にはこだわらない。両者は同じものを表現しているものとして取り扱い、相違はそれぞれ具体的に示すことで区別することにする。

2、本投稿の位置づけ
 本投稿は、当サイトの理論・政策欄に連載した拙稿「共産党指導部のサークル化・化石化・小児病化とその淵源(1)~(10)」への補足をなすものである。「共産党指導部のサークル化・化石化・・・」は、jcp執行部についての言わば臨床研究であった。そこではjcp執行部の政治の特徴が小ブルジョアの政治として示されている。庶民の政治意識を無視する政治情勢認識の主観性や党外の野党、その他国民運動との共同の領域で現れるセクト主義、自己認識における途方もない独善性、マルクス主義の図式的理解などがその特徴であるが、他方の経済政策では労働者階級の利益をかかげているところにjcp執行部の特異性があった。
 jcp執行部に労働者大衆に”溶け込む”能力があれば、戦後の半世紀の間にその小ブルジョア性を払拭できたはずであるが、それが払拭できずにいるのは、その「MS」なる組織原則が党内外からの執行部批判を遮断する城壁の役割を果たしてきたからである。
 本稿が連載への補足であるというのは、そうした意味であり、jcpの「MS」は今ではjcp執行部の防護壁であるばかりでなく、jcpと庶民を隔てる城壁としての役割も鮮明にしてきている。
 また、連載と本投稿の補足とを合わせて、その全体は2年前にみずから宿題としておいた課題への責めの一端を果たすものである。2006年11月に現状分析欄への投稿「日本国憲法が日本革命の綱領となる時代の到来と無党派、共産主義(3)」の末尾で次のように書いておいた。「以上で第1部がおわる。全体は第3部までとなる。第2部はマルクス主義理論の変化、第3部は日本の変革主体の問題を取り扱う。」 
 第3部として予定していた「日本の変革主体の問題」にあたるものが、「共産党指導部のサークル化・・・」と本投稿である。むろん、日本の変革主体の全体がjcpであるわけではないが、「前衛党」として労働者階級を”指導”すると自認していたjcpは変革主体の重要な一角であることはまちがいないのである。その変革主体の重要な一角たるjcpが”労咳(ろうがい)”をわずらっており、政治変革をリードする存在としての能力を現在のところ持ち合わせていないことを上記連載で検討してきた。
 変革主体全体の考察は、レーニン世界から大きく変貌した現代世界をベースとする第2部と密接に関連するため、他日を期すほかない。

3、70年代末の民主集中制論争
 jcpのこれまでの歴史で最も多く論じられてきた問題は、日本の現状分析をめぐる戦前戦後の歴史的な二つの論争(戦前の日本資本主義論争と戦後の自立・従属論争)を除けばjcpの組織の問題、いわゆる「MS」と呼ばれる組織問題である。この「MS」なる用語で表現されるものは、一般にjcpの組織の基本構造、あるいは組織の有様(存在様式)を根本的に規定する組織原理・原則として理解されているのであるが、世間には一枚岩の党組織という印象をもたらし、独裁制か、それに近いものとして批判の対象になってきたと言っていいであろう。
 70年代の論争の発端ともなった立花隆の大部の著作「日本共産党の研究」では「暴力革命とプロレタリア独裁と民主集中制とは三位一体」(立花「日本共産党の研究」文庫版(1)31ページ)と規定され、「MS」は暴力革命を遂行するのに適合的な軍事集権的党組織、すなわち「民主集中制は、本質が独裁である」(同30ページ)と言われている。
 旧社会主義諸国の政権党である旧ソ連共産党以下、崩壊した各社会主義国の政権党も同じ呼称でその組織原理を表現していただけに、立花のような批判は今日ではますます説得力のある主張に聞こえるようになっていると見ていいであろう。
 そうした批判に対して、jcpの対応は伝統的に反共攻撃と把握する対応であり、旧社会主義諸国の「MS」は本来の「MS」から逸脱したものであり、jcpのそれは本来のもの、政党組織の編成原理としては最も民主主義的であると反論してきたのである(注1)。
 国内で一大論争となった時期を振り返ると、大都市部における革新自治体の席巻とjcpの70年代の躍進の時期と重なるのであるが、1976年から1977年末まで「文藝春秋」に連載された立花隆の「日本共産党の研究」に端を発し、折からのユーロ・コミュニズム(先進国革命論)の思潮の紹介とともに70年代末のマルクス主義陣営内の論争で頂点に達する観がある。代表的なものはjcpの機関誌「前衛」誌上にも登場した不破哲三・田口富久治論争があり、レーニンの党組織論を研究した藤井一行の著作を批判した榊利夫の著作(注2)などがあげられよう。jcpが大会決議や党幹部による「MS」論を網羅的に集めた刊行物「民主集中制と近代政党」を発行したのも1978年のことである。
 田口にしても藤井にしてもjcpの「MS」を独裁制だと言っているわけではなく、主張の大要からすればその一枚岩的組織のあり方を時代に即してもっと民主主義的なものに変えるべきだという主張なのであるが、jcp側のとらえ方は立花らの反共攻撃に呼応した前衛党組織を解体する反共攻撃の一種と把握して断罪したのであった。

<(注1)、ここであらかじめjcpの「MS」についての簡便な説明をしておくことにしよう。jcpの「科学的社会主義」思想をベースに編纂された「社会科学総合辞典」(新日本出版)では次のように説明されている。

「民主主義的中央集権制(民主集中制) 党内民主主義と中央集権制とを統一した前衛党の組織原則。すべての党員に選挙権、被選挙権、党の会議での発言権など党員としての民主的権利を保障し民主的な党運営をはかるとともに、少数は多数に、個人は組織に、下級は上級にしたがい、分派をみとめず、政党として統一した実践をおこなう組織のありかた。」(同辞典634ページ)  また、党の戦後の苦い経験(50年問題)を素材に次のように記述している。「党の決定は無条件に実行する。」 「意見の相違によって組織的な排除をおこなってはならず、党員が党の決定に同意できない場合には、自分の意見を保留し、また指導機関に自分の意見を提出する権利をもつこと」(同辞典635ページ)

 このような「MS」のどこが反民主主義、独裁なのだとjcpは反論するわけであるが、問題となるのは「分派をみとめず」ということに集中的に現れる。今後の検討で明らかにするがjcpの場合、「分派」の概念が極限大に解釈され、党執行部の決定、方針への批判が事実上禁じられているのと同じ結果になっているのである。>

<(注2)、この論争は田口の著作「「先進国革命と多元的社会主義」(大月書店1978年)、および藤井の著作「民主集中制と党内民主主義」(青木書店1978年)などに触発されたものであった。不破・田口論争は「前衛」1979年1月号の不破論文「科学的社会主義か『多元主義』か」、「前衛」79年9月号の田口の反論「多元的社会主義と前衛党組織論─不破哲三氏の批判に答える─」、「前衛」80年3月号の不破の反論「前衛党の組織問題と田口理論」がある。榊の包括的藤井批判には「民主集中制論」(新日本出版1980年)があり、藤井の主張は前掲「民主集中制と党内民主主義」(青木書店1978年)と、不破らへの反論を補った「改題新版 民主集中制のペレストロイカ」(大村書店1990年)がある。>

4、論争はすでに決着がついている
 この論争以後、jcpの「MS」をめぐる大きな論争は途絶えるのであるが、四半世紀を経た21世紀の今日から振り返ると、論争の帰趨はすでに明らかになっているというべきである。その争いは双方の主張の是非がどこにあるかという議論を越えて、すでに歴史の事実の承認の問題となっている。田口や藤井の著作の基底に流れる時代の変化という問題意識を読み取れず、反共攻撃としてしか受け止められなかった不破、榊らjcp側の完敗に終わったのである。
 ここで、すでに歴史の事実の承認の問題となっているというのは、次のことを指している。第一は、「MS」を政党組織の編成原理とするソ連・東欧旧社会主義諸国の政権党の全面的崩壊があり、第二は先進資本主義国における最有力共産党であったイタリアとフランスの共産党による「MS」の放棄がある。第三は、jcpがこの論争以降の80年代から長期低落の過程に入ったことである。その指標は1980年をピークとする機関誌「赤旗」の減少(355万部から173万部へ)であり、1987年の49万人をピークとする党員数の40万前後への減少と党員の高齢化、青年層の比重低下がある。支部数でみても1995年の約28000から2000年の26000、2005年の24000(3中総)、そして2008年には22000支部(「赤旗」2008年11月16日付、中央委員会による募金の訴え)へと急速に減少してきている。jcp予備軍たる「民青」が70年代初頭の20万から今日では約2万人へと減少していると言われすでに久しい。そして21世紀に入って顕著となる国会議席の大幅な減少があげられよう。1998年の衆参合計の49議席(衆議院26、参議院23)から2007年の16議席(衆議院9、参議院7)へと惨落となっている。
 これらの事実は、jcpの頭脳たる不破が「政治対決の弁証法」なる衒学用語で、jcpの発展途上における一時的後退と強弁しても、そうした解釈を許さぬ重みと全面性をもっていると言うべきである。

5、「MS」を検討する一般的基準
 jcpの「MS」の問題とは、伝統的な論争が示すように分派の承認をめぐる論争に集約されると言っても過言ではない。上記の論争においても田口や藤井は分派を承認せよとjcpに迫っているわけではないのであるが、不破らの主張は分派の承認への道を開く議論として田口らを批判しており、jcpの過敏な神経のありかがよくわかるのである。
 本投稿では今では30年前のこととなるが、70年代末の論争を素材にjcpの「MS」を検討する。社会主義世界体制の崩壊後の今日からすれば今更の感がなきにしもあらずであるが、jcpにあっては当時のjcp執行部の主張がそのまま生きて現状の「MS」を維持しているからである。その象徴が論争の一方の当事者である不破である。彼は今でもjcpの最高幹部としてjcpに君臨していることは周知のことである。
 jcpの「MS」をめぐる論争は主に藤井の主張に対する不破、榊の反論という形になっており、その論争の中心はレーニンの組織論をめぐる解釈である。したがって、両者の主張を判断するには、レーニン組織論をレーニンの活動開始からその死去に至るまでの期間について習熟している必要があるうえに、特に不破・榊の主張には随所に独特の解釈ないしは独断があるために議論のより分けに相当の忍耐が必要とされる。
 そこで分派問題に焦点をすえて問題を整理するために、マルクス・レーニン主義の党組織論に関するあれこれの議論、文献を知らずとも判断がつく一般的基準を置くことからはじめよう。あらかじめ双方の解釈の是非を判定する基準を明確にしておいた方が論争を判定する叙述を簡明なものにするのであるり、また、そのぶんだけ読者の判断も容易になるはずである。
 すでに述べたことだが、論争はもはや歴史の事実の承認の問題となっており、jcp流の一枚岩的組織となる「MS」はあまりに欠陥が多く時代遅れとなっているということの確認が第一の基準である。
 第二は、現代社会においては、およそ組織たるものはことごとく民主主義の側面と集中・統一の側面を両面とも備えているものであって、それぞれの組織が目的とするものと組織の置かれた社会状況に対応して両者のバランスがとられて組織が生きているということの承認である。一般に軍隊組織は集中・統一の側面が最も肥大化し民主主義の側面はほぼゼロとなるし、芸術家組織となると芸術家の個性が最大限に尊重され、軍隊組織とは逆に民主主義の側面が大きくなるという具合である。
 社会の組織は政党を含めて一般に、軍隊と芸術家組織の中間のバランスのうえに組織が形成されていると言えるであろう。 このことは組織について何か専門的知識、あるいはマルクス主義の何事かの理論を知らなければわからないという性質の問題ではない。至極常識的な判断で理解できるものであるはずである。jcpの政党組織論は冗長な古典文献解釈で問題を神秘化させてきたことは後に見るであろう。
 第三は、民主主義と集中・統一という両者のバランスをどこにおくかと言えば、その基準は主に組織の目的であり、その目的達成に最も適合的なバランスはどこにあるかということになる。したがって、組織の目的の相違に対応して両者のバランスもおのずと異なってくるはずである。
 政党の場合でいえば、組織の目的のほかに重要な基準として社会状況があげられよう。同じ政権奪取という目的であっても、非合法活動が日常となる社会状況と民主主義が定着した社会状況の下では、目的達成に最も適合的な両者のバランスは変わってくるはずである。端的に言って、暴力革命の形態で政権奪取へ進むのか議会コースで進むのかでは両者のバランスは大きく違ってくる。前者の場合では民主主義の側面と比べて集中・統一の側面の比重が大きくなり軍事的組織の側に傾斜し、後者の場合では民主主義の側面の比重が大きくなるという関係がある。
 なお、ここに言う社会状況にはそれぞれの国の歴史や風土、資本主義の発展度合いの違いなどからそれぞれに異なってくる国民の社会意識も含まれることは当然のことである。
 念のために言っておくのだが、jcpはこのような組織についての一般的基準を政党にも当てはめるアプローチをすると、階級闘争を忘れた組織の考察だと批判するのであるが、さにあらず。階級闘争も両者のバランスの取り方に反映するのであって、決して階級闘争を捨象しているわけではない。
 これらのことがjcpの「MS」問題を取り扱う場合の交通整理の一般的基準である。特別にマルクス主義のなんとか理論とかいう専門的な知識を必要とする議論ではない。

6、ブハーリン報告が示すマルクス党の組織
 さて、そこで前項の主張をロシア共産党10回大会の決議で言い換えてみよう。前項の一般的な組織のとらえ方をマルクス・レーニン主義の表現に言い換えれば、古い左翼も”アレルギー”を起こさないであろう。この10回大会(1921年)は有名なもので、大会の主要なテーマは新経済政策『ネップ』への転換であり、組織問題として有名な分派禁止規定が採択された大会であった。そして、これら二つの主要テーマを強制するかのごとくに、大会直前にクロンシュタットの反乱が開始されている。
 この大会では組織問題について三つの決議が採択されている。「党建設の諸問題について」、「党の統一について」、「わが党内のサンディカリズム的および無政府主義的偏向について」がそれである。分派禁止規定は「党の統一について」という決議で行われているのであるが、ここで紹介するのは大会の当初からの議題にあがっていた「党建設の諸問題について」のものである。この決議ではロシア共産党の組織論が包括的に述べられており、主眼は戦争から平和という時代の転換に対応する党組織の変化についてであった。ブハーリンによって報告されている。

「Ⅰ、一般的前提 (1)革命的マルクス主義の党は、革命組織のすべての段階に通用する絶対的に正しい党の組織形態というもの、同様な党の活動方法というものの探求を根本的に否定する。反対に、組織形態と活動方法は完全に、所与の具体的・歴史的状況の諸特質およびその状況から直接的に生み出される諸課題に規定される。 (2)この見地からすれば、いかなる組織形態や照応する活動方法も、革命の発展の客観的諸条件の変化にともなって、党組織の発展の形態からこの発展の枷(かせ)に転化しかねないことが理解できる。そして反対に、通用しなくなった組織形態も、照応する客観的諸条件の復活にさいしては、再び不可欠かつ唯一の合目的なものとなりうるのである。」(藤井一行「民主集中制のペレストロイカ」所収335ページ)

 ごらんのとおり、マルクス党の組織形態はその政治課題と社会状況に応じて変化させなければならず、今日有効な組織形態が明日も通用するとは限らず、すでに廃れて過去のものとなっていた組織形態も状況によっては復活してくるという柔軟性、弾力性を持って組織形態と活動方法を追求することが必要だと言っているわけである。前項で目的と社会状況の変化に応じて民主主義と集中・統一のバランスをどうとるかと言ったことを別の言葉で言い換えたものである。
 この決議の文言はマルクス主義の政党組織論の神髄というべきものだが、しかし神髄という言葉を使うほど神々しい高度な内容があるわけではなく、しごく合理的なものである。
 俗に言えば、政党という組織は政治目的を達成する手段にすぎず、その政治目的達成のために、社会状況に応じて合理的、効率的、あるいは効果的な諸形態を探求し、柔軟に弾力的にその形態を変化させるべきものなのである。
 このような思想に基づけば、マルクス主義政党の普遍的な組織モデル、原型というようなものは存在し得ず、レーニンの党組織でさえ、せいぜいのところ参考にできる研究事例であるにすぎないことになる。ましてや、レーニンの時代とはすでに100年を隔て、資本主義の発展段階にしろ、民主主義の定着度合いにしろ、およそ別世界というべき現代にあってはなおさらのことである。
 そして、ここでも直面するのは”柔軟性”、”弾力性”という問題である。それはjcp執行部の思考や実践に見える公式論、ワンパターンぶりとは対極にあるものである(注3)。

<(注3)、最晩年、病をおして出席した共産主義インターナショナル(第3インター)第4回大会でレーニンは短い演説を行っており、次のように述べていた。

「1921年の第3回大会で、われわれは、共産党の組織的構成、活動の方法と内容にかんする決議を採択した。この決議はすばらしいものである。だが、それはほとんど一貫してロシア的である。つまり、すべてが、ロシアの条件からとられている。この点に、決議のよい面もあるが、また悪い面もある。・・・第2に、たとえそれを読むにしても、それがあまりにロシア的だから、外国人のだれもそれを理解するものはいないであろう。・・・それは一貫してロシア精神が貫いているからである。第3に、例外としてだれか外国人がそれを理解したところで、彼はそれを実行することはできないであろう。これが決議の第3の欠陥である。・・・私は、われわれが、この決議で大きな誤りをおかしたという印象、つまり、われわれが自分で今後の成功への道を断ってしまったという印象を受けた。・・・われわれは、わがロシアの経験を、外国人にどう紹介したらよいのか理解しなかった。決議に言われていることはみな、空文句にとどまっている。しかし、これを理解しなければ、これからさき前進していくことはできない。」(「共産主義インターナショナル第4回大会」全集33巻447、8ページ、1922年11月) 

 なぜ外国人がわからないのか? なぜ、レーニンは外国人にわかるような説明に失敗したのか? ヒントは次のレーニンの著作にある。レーニンがロシア革命の成功例についてその戦術を中心に外国人の説明すべく急いで書き上げたのが、有名な「共産主義内の『左翼主義』小児病」という本であるが、そこでの結論は次のことであった。「われわれが勝利にむかって、もっと確信をもって、もっとしっかりすすむのに、ただ一つだけたりないものがある。すなわち、戦術のうえでは最大限に弾力性を発揮しなければならないということを、すべての国のすべての共産主義者がいたるところで、徹底的に考えぬいて自覚することである。」(全集31巻91ページ) 
 どこでもここでも弾力性のある思考が問題になっている。この弾力性のある思考をどう説明するか、というところに困難があったのである。レーニンが言う「今後の成功への道を断ってしまった」原因は、組織についても戦術についても、そしておそらくは時代の転換についても、共産主義者が柔軟で弾力的な思考ができなかったということにある。>

7、レーニンの分派禁止規定は一時的なものである
 以上の確認から、一気に分派禁止規定の文献解釈上の急所に突入することにしよう。10回党大会で、レーニンが提案した分派禁止規定は恒常的なものであったのか、それとも臨時のもの、一時的なものであったのかという問題である。
 すでに結論は明らかである。政党組織の形態について上記の決議の見解からすれば、当時の社会状況が要請する一時的なものと結論する以外にないのである。レーニン党の初期から1917年の大革命を経て1921年のこの決議に至るまで分派禁止が行われてこなかった歴史を振り返っても、この結論は首肯できるものである。
 古くはロシア革命史研究の大家、E.H.カーが「党の緊急事態から生まれたこのような諸方策」(注4)と述べて同様の結論を採っているし、分派禁止決議に賛成票を投じたトロッキーも同様である(注5)。トロッキーは自分が分派のレッテルを貼られたから自己弁護のために一時的だと言っているわけではない。
 藤井は10回大会当時の政治情勢の重大性に言及するレーニンやブハーリンの主張、14回大会に至っても分派禁止が規約に取り入れられていなかったことをあげて一時説の採用に傾いている。
 いささか大雑把な言い方になるが、スターリンや各国の共産党、jcpらが恒常的なものという解釈をとってきたのであるが、それ以外の学者、研究者は一時説が多数派であり、ソ連共産党が崩壊した90年代以降では恒常説はjcpを除けば絶無というほどの状況になっている。
<(注4)、E.H.カー「ボリシェヴィキ革命」第1巻168ページ、みずず書房 原典は1950年出版である。>
<(注5)、「1921年3月、少なからぬボリシェヴィキをまきこんだクロンシュタット反乱の日々、第10回党大会はフラクション(日本で言う分派のことである。─引用者)の禁止、すなわち国家の政治体制を支配党の内部生活にもちこむという措置に訴えざるをえないと判断した。しかし、フラクション禁止はやはり情勢が本格的に好転したらただちに撤廃されるべき例外的措置として考えられていた。」(トロッキー「裏切られた革命」岩波文庫129ページ)
「ボリシェヴィズムはフラクションを容認しないなどという今日の教義は衰退の時代の神話にほかならない。実際にはボリシェヴィズムの歴史はフラクションの闘争の歴史である。加えて、世界の転覆という目的をかかげて、その旗のもとに果敢な否定者、反乱者、戦士を結集しようとする真に革命的な組織がいかにして、思想的衝突なしに、グループ化や一時的なフラクション形成なしに生き、かつ発展しうるであろうか?」(トロッキー・同127ページ)> つづく