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「組織論・運動論」討論欄

三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(2)

2008/12/12 原 仙作

8、当時のロシアの政治情勢を詳しくつかむ必要がある
 レーニンの提案する分派禁止規定が一時的なもの、当時の政治情勢に規定された非常時のものであることは、レーニン全集の32巻にある113ページにわたる大会でのレーニン報告を虚心に読めば誰にでもわかることなのである。たとえば、中央委員会報告の「結語」でレーニンは次のように言っている。

「党の団結、党内に反対派があることをゆるさないことは ─ 現在の時期から生じる政治的結論である。」(レーニン全集32巻201ページ、以下ページ数のみ表示)

 これだけ明確に、当時のロシアの政治・経済事情から生じている方策だと言っているのに、そんな事情があろうがなかろうが分派禁止恒常説を採るのは、ナチスドイツを軍事的に打ち破ったスターリンの威光と各国共産党執行部による組織維持の便宜こそが、恒常説を頑強に支えてきた理由であることを示しているのである。
 レーニンの分派禁止規定がどのような意味で一時的な、非常時のものであったか、当時の社会状況、その中心にある政治情勢を検討することでさらに明確にしておこう。前回の結論を点検する意味もあるし、また文献解釈問題に最終的な決着をつけるために必要な準備作業である。
 10回大会当時が非常時であったことがクロンシュタットの反乱を例にあげられ、再び内戦の危機が生じていたからだとするのが分派禁止一時説をとる論者の通例であるが、実はこれだけの指摘では十分ではない。というのは、内戦ならば1917年の第一次革命の時からすでにはじまっているからである。レーニンの有名なテーゼ「帝国主義戦争を内乱へ!」を思い出すだけで十分であろう。何故、レーニンが1918年でもなく1919年でもなく、1921年3月という時期に分派禁止規定を実行に移したか、その理由を確認するためにはもう少し当時の政治経済情勢の掘り下げが必要なのである。そこまで掘り下げないと非常時の分派禁止規定であることも十分鮮明にならない。不破や榊の謬論を明確にするためにも必要なことなのである。
 レーニンの報告は膨大で多岐にわたった議論をしているが、関連するポイントをレーニンの文章で再現してみよう。レーニンが当時の政治情勢のどこに焦点をすえて分派禁止規定を設けたかをつかむ必要があり、言わば当時のレーニンの頭脳の中を再現する試みである。少々くどいほどの引用をすることになるが、レーニンの認識を包括的につかむには必要なことである。

9、当時のロシアの政治情勢1(戦争から平和へ)
 ①、「さらに同志諸君、われわれはいまはじめて、全世界の資本家と帝国主義者に支援された敵の軍隊が、ソヴィエト共和国の領土にいないという条件のもとで、大会をひらいている。」(同32巻173ページ) 「戦争から平和への移行である。」(同176ページ)
 問題を深く掘り下げるための第一の重要な事実がこれであるが、一時説を採る論者の多くもこの事実を軽視している。外敵の軍隊は追い払った。そこで何が生じたか?

 

 ②、「軍隊を復員させる」(同177ページ)ことである。膨大な兵士の復員を組織するにあたって輸送手段の荒廃、食糧不足、燃料不足などが広範に露呈したのである。

「こうして復員させるとなると、・・・これまでわれわれがまったく軽視してきた諸任務に、当面させられたのである。経済上の危機にしても、社会上の危機にしても、政治上の危機にしても、幾多の危機の源は、かなりの程度ここにある。」(同178ページ)
③、「復員にともなうこれらの困難の程度が考慮されなかったということは、疑いもなく、中央委員会の誤りであった。」(同178ページ) 

 レーニンは外敵を追い払うために全力を挙げたので、そうした考慮ができなかったと弁明しているのだが、jcp執行部とはずいぶん違って、自己の誤りに率直である。弁明の後でレーニンは次のように言う。

④、「幾多の誤りのもとになり、かつ危機を激化させているこの基本的事情(内戦の勝利に全力をあげたこと─引用者注)から、つぎに、幾多の、さらに深刻な不均衡、予定または計画上の誤りが ─しかも、計画上の誤りだけでなく、われわれの階級と、この階級がそれと協力して、またときには闘争しながら、共和国の運命を解決しなければならない諸階級との、力関係を規定するうえでの誤りが、党活動の中で、またプロレタリアート全体の闘争のなかで、どのようにあらわになったか、という問題にうつりたいと思う。」(同179ページ)

 レーニンの視点は、ボルシェヴィキ党の政治活動、その誤りに向けられており、またその誤りが危機をより激化させてプロレタリアートと他の諸階級の「力関係」にどういう影響を及ぼし、その「力関係」をどのように変えつつあるかということにも向けられている。しかし、そこへ進む前にもう少し経済危機の様子を見ておこう。

10、当時のロシアの政治情勢2(農民経済の危機の激化と労農対立)
 ⑤、中央委員会の誤りとは「一定の食料予備をつくりだすべきであった」のにそれをやらず、「こうして危機は法外につよまり、激化し、悪化するにいたった。」(同180ページ) 「燃料についても、これに似たことがたしかにあった。」(同181ページ) 戦乱と不作、破壊された輸送事情等のために「食料割当徴発の中心が、穀物の余剰の余り多くない地域に集中された」ため、「農民経済の危機が度はずれに激化するという結果になった。」(同182ページ)
 つまり、外敵を国外に追い払い兵隊の復員が始まると、食糧備蓄も燃料備蓄もないことが明らかになり、加えて中央委員会の様々な誤りのために「農民経済の危機が度はずれに激化する」ことになったというのが、10回大会の背後にある経済事情なのである。そこで次に、こうした経済危機におかれた労農階級の姿を見てみよう。

⑥、「わが国のプロレタリアートの大部分が階級から脱落していること、未曾有の危機と工場閉鎖の結果、人々は飢えのために逃げ出し、労働者はむぞうさに工場を捨て、農村に落ちつかなければならなかったし、労働者でなくなってしまったことは明らかである。・・・また前代未聞の危機、内戦、都市と農村の正常な相互関係の中絶、穀物輸送の杜絶の結果─労働者が飢え、しかも穀物が輸送されてこない・・・・これらすべてのことこそ、まさに経済的にプロレタリアートの階級脱落を生み出しているものなのであり、まさに、ブルジョア的=無政府主義的傾向をここに呼び起こし、またそれを発現させているものなのである。」(同208ページ)

 戦争と内戦、穀物輸送の杜絶、経済危機が激成されて社会全体が無政府主義的傾向を強めているが、同じ事情が頼りとするべき”組織されたプロレタリアート”を階級脱落状態にしているとレーニンは言うのである。

⑦、「もちろん諸君はみな、とくに戦争と荒廃と復員と、大凶作によって呼び起こされた窮乏の極度の激化にもとづいて、どんなに多くの事件が、どんなに多くの事情が、農民の状態を、とくに苦しく、危険なものとしているか、またプロレタリアートからブルジョアジーの方への農民の動揺をどんなに不可避的に強めたかをよくご存じである。」(同226ページ)

 農民は経済危機に苦しみ反ボルシェヴィキ的となりブルジョアジーの側に動揺している。その最中に「農民はソヴィエト権力に─さしあたりなに一つ受けることのない大工業のために─信用貸しをしなければならないのである。これが、巨大な困難を生み出している経済事情」(同194ページ)である。 

「この二つの階級の利害は異なっている。小農民は労働者の欲していることを欲してはいない。・・・われわれは、わが国で農民とのあいだに打ち立てられた関係の形態が農民には不満であり、農民はこの形態をのぞんではいないし、今後、農民はこういうふうにしては生きていかないだろうと、率直に言わなければならない。これは争う余地がないことである。農民のこの意志は、はっきりと表明された。これは大多数の勤労人民の意志である。」(同227ページ)

 こうして、レーニンは農民の全余剰生産物を徴発する割当徴発制の継続が不可能なことを指摘する。この割当徴発制を維持するかぎり、農民はブルジョアジーの側へ動揺し、ソヴィエト政権存立の基礎である労農同盟は破壊され、農民はソヴィエト政権に反旗を翻すことがはっきりしてきた。

 ⑧、そこで、周知のようにレーニンは割当徴発制を廃止して現物税を採用し、生産物の余剰を農民が商品として販売できる新経済政策(ネップ)に転換し、農民の要求=「自由商業のスローガン」に譲歩しつつ経済の再建をめざす路線に転換しようと提案するのである。
「いまやわれわれは、平時の諸条件に適応しなければならない。中央委員会はこの任務に直面した。それは、プロレタリアートの権力の存在という条件のもとで、現物税にうつるという任務」(同196ページ)である。
 ソヴィエト政権はみずからの階級基盤であるプロレタリアートを「階級脱落」で失い、今また、小ブルジョア階級である農民は割当徴発制に不満でいたる所で暴動を起こし「自由商業のスローガン」を支持してブルジョアジーの方へ動揺を強めている。戦争から平和への移行の季節は中央委員会の誤りもあり、労農対決という新たな形態(注6)の内戦の危機をむかえる季節となってしまったのである。これが10回党大会をとりまく基本的な政治情勢にほかならない。

<(注6)、これまではツアーリズムやブルジョアジー、地主、外敵との闘争であったのだが、今や人民内部の闘争が始まる危険性がせまっていたのである。この点について、レーニンは次のような表現をしている。「階級間の関係そのものが変化した。」(同174ページ) 「これらの関係はわれわれが考えていたようなものではない。」(同186ページ) 「これはなんといっても新しい事がらである。」(同191ページ)>

11、当時のロシアの政治情勢3(ロシアの特殊性としての小ブルジョア性)
 さらにレーニンは次のようなロシアの特殊性を取り上げる。

⑨、「ところでわが国には第一の特殊性、すなわち私の述べた、ロシアに極度に固有の特殊性がある。それは、わが国ではプロレタリアートが少数であるというだけではなく、それがいちじるしく少数であり、農民が大多数であるということである。」(同194ページ)

 農民がボルシェヴィキの経済政策である食料の割当徴発に不満を募らせ、頼みの綱である圧倒的少数のプロレタリアートは階級脱落を起こし、しかもその国が恐ろしく小ブルジョア的な特徴を持つ国の場合は一体何が起こるのか?
 このような社会状態をイメージで言えば、レーニン率いるロシア共産党とソヴィエト権力は経済危機に触発され不満と暴動でブルジョアジーの側へ動揺する農民の大海に浮かぶ小島のようなものである。農民の不満、反発が何かのきっかけで大暴動となり、全国に波及すれば小島はまたたく間に農民暴動の大波に飲み込まれて海の藻屑と消える、そういう一触即発の社会事情、そういう政治情勢になりつつあった。レーニンのそうした政治情勢認識からすれば、日一日一日が目をつぶって地雷原を歩くような、あるいは薄氷を踏む心境であったであろう。
 そこにクロンシュタットの反乱が勃発するのである。ペテルブルクの水兵を中心とする反乱と言えば、文字通り、ロシア大革命の主力、中心部隊で勃発した反乱にほかならない(注7)。 すでに見た社会状況からすれば、来るべきものがやってきたのである。しかも大革命の中心部隊、その核心で起きたのである。

<(注7)、トロッキーの証言では、大革命以来、ペトログラードの兵士の最良の部隊はすべて全土に派遣されてしまっており、「残されていた水兵は、・・・まったくやる気のない連中を大勢かかえていた。」(イダ・メット「クロンシュタット叛乱」146ページ、鹿砦社1971年)と言う。>

12、当時のロシアの政治情勢4(クロンシュタットの反乱)
 ここではじめてクロンシュタットの反乱の問題にたどりついた。あらかじめ断っておくと、ここではクロンシュタットの反乱の歴史的評価には踏み込まない(注8)。分派禁止規定が生まれた社会背景を明確にするために、レーニンの見た反乱の姿をフォローするだけである。

⑩、「この運動(クロンシュタットの反乱のこと─引用者)が小ブルジョア的反革命に、小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性に帰着することは、まったく明らかである。これはなんといっても新しい事がらである。・・・そこには自由商業のスローガンをかかげていつでもプロレタリアートの独裁に反対してきた小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性が現れている。しかも、この気分は、非常に広く、プロレタリアートに反映したのである。それはモスクワの諸企業に反映したし、地方の幾多の場所にある企業に反映した。この小ブルジョア的反革命は、疑いもなく、デニキン、ユデニッチ、コルチャックをあわせたよりも危険である。なぜなら、いま問題としている国は、プロレタリアートが少数者を占めている国だからであり、零落が農民的所有のうえに現れている国だからであり、しかもそのうえ、われわれは、信じられないほど多数の一揆分子を生み出した軍隊の復員といった事態を抱えているからである。」(同191ページ)
「『われわれは権力機関をすこし訂正するだけだ』─これがクロンシュタット派の希望である。だがその結果は、・・・パリの新聞が2週間にわたってこれらの事件を書きたて、白衛軍の将軍が姿を現したのである。こういうことになったのである。すべての革命もこのように、これと似た歩みをした。だからこそ、われわれはこう言うのである。─いやしくもわれわれがそれに近づく以上─私の最初の演説でも指摘しておいたことだが、─どんなにそれが無邪気なものに見えようとも、そのようなことがらには銃でこれに答えるために、われわれは団結しなければならない」(同214ページ)
「いくらかでも自覚した農民は、・・・どんなあともどりでも、古いツアーリ政府への復帰を意味することを理解しないわけにはいかない。クロンシュタットの経験がこのことをしめしている。そこでは白衛派もいや、われわれの権力もいやだというのだが、─だが別の権力はない─」(同240ページ)

 レーニンの言うところでは、当時の危機的な政治情勢のもとでは、反乱軍の要求を受け入れ、ソヴィエトの再選挙を実施し、ボルシェヴィキぬきのソヴィエトができれば、それは反ボルシェヴィキ気分が蔓延する全国に波及しボルシェヴィキの権力は倒壊し白衛派の権力が必然的に生まれるというのである。それは世界の革命史の通例であり、そこには第3の道はない。白衛派の権力が生まれれば、当然のことながら全土にわたり凄惨な革命派狩りがはじまり、回帰してきた旧地主、富農と分配した土地の新所有者・貧農との血で血を洗う内戦が再び全土で始まることもレーニンの脳裏にあったであろう。クロンシュタットの反乱はそうしたロシア革命の岐路にたつ事件であった。

<(注8)、が、多少の補いはつけておくべきであろう。反乱軍の名誉回復はソ連崩壊後の1994年に行われている。ソ連が崩壊した今日、後進国ロシアにおける社会主義革命がそもそも無理だったのだという見地から、逆算的に歴史をさかのぼり、1917年の大革命をレーニンのクーデターだとする見解も多くなってきているようである。そうした見地からすれば、クロンシュタットの反乱こそ”無理な革命”の歪みが典型的に噴出した事例ということになり、反乱軍が言うボルシェヴィキ独裁国家が誕生したのであり、その国家こそがスターリンのソ連の原型を形成するという”辻褄あわせ”となる。
 しかしながら、私はそうした見地は採用しない。直感的に言って、そもそも、その議論自体が”人工的”なものに感じられるのである。この世の歴史であれ、個人の人生であれ、そうなるための諸条件が典型的に整ったところで、生まれてくるべきものが典型的な姿で生まれ順調に成長する例などめったに見たことがないからである。あるいは<注5>のトロッキーの言葉を借りれば、「世界の転覆という目的をかかげて、・・・否定者、反乱者、戦士を結集しようとする真に革命的な組織がいかにして、思想的衝突なしに、・・・生き、かつ発展しうるであろうか?」という生きた現実のダイナミズムを承認するのであれば、クロンシュタット反乱軍の正義とレーニンの武力鎮圧という誤り=悪というような今日の常識的な民主主義観に適合した議論に歴史がすんなりと収まってくれるはずがないと思うからである。どういう表現がいいか迷うところであるが、ロシア革命全体の大義と部分の大義が衝突しているのがクロンシュタット反乱の姿なのである。
 政治においてはどんな要求であれ、それらの要求が出される政治情勢の有様によっては政治改革・革命に役立つものにもなれば、政治反動の役割を果たすことにもなる。単純な”食料よこせ”というデモでさえ、ソヴィエト政権が危機的状況に置かれているときに実行されれば、政権倒壊のきっかけになりうる。ましてや現実に政権倒壊の危機があるときに、実質的には”ボルシェヴィキぬきのソヴィエト”という要求を掲げては双方に妥協の余地はなくなり、武力で決着をつけるしかなくなるであろう。
 後世の我々が、反乱軍が提出した政策の各項目を検討して、単なる生活改善と民主主義的政治改革の提案にすぎないとその正当性を評価するだけでは政治の領域では抽象的考察にすぎず、現実の政治情勢を捨象した一面的考察になるのであって、その一面的考察を楯に、正当な要求を出した反乱軍を武力鎮圧したレーニンを独裁者、反民主主義者と判定し、そこに”ソ連の原罪”を見るような思考は個人の好みに合わせて歴史を解釈することと同じである。
 ソ連崩壊後の議論は一般に、第一次世界大戦と内戦という当時の歴史状況を忘れて民主主義の破壊者探しに忙しく、こうした安易な議論になるものが多い。勃発したロシア革命の渦中にあって、進むも地獄、退くも地獄という状況のなかでどういう選択がよかったのかを主体的に考えてみるべきであろう。後に大革命を回顧して病床にあったレーニンは次のように言っている。

「たとえば、彼らが西ヨーロッパの社会民主主義の発展期に丸暗記していた論拠は、はてしもないほど紋切り型であって、われわれはまだ社会主義を実現するほど成熟していない、・・・社会主義の客観的前提がない、というにある。そして、つぎのように自問しようとは、だれの頭にも思い浮かばないのである。すなわち、第一次世界大戦中に生じたような革命的情勢に遭遇した人民なら、窮境に動かされて、文明のいっそうの発展の見込み、かならずしも普通ではないかもしれないが、それにしてもなにがしかの見込みを人民にあたえたような闘争に突入しそうなものではないかと。」(「わが革命について」全集33巻498ページ)

 あるいはまたレーニンはこうも言う。

「社会主義を建設するために、一定の文化水準(とはいえ、この一定の『文化水準』がどんなものであるかは、誰も言えない、なぜなら、それは、西ヨーロッパ諸国の一つ一つでちがっているから)が必要ならば、なぜ、この一定の水準の前提を、まず革命的方法で獲得することからはじめて、そのあとで労農権力とソヴィエト制度をもとにして、他の国民においつくために前進してはいけないのであろうか。」(同「わが革命について」499ページ)

 私の考えるところでは、ロシア革命が20世紀に与えた衝撃とその影響力の大きさからみて、あれはやはり社会主義大革命だったと評価するのであり、それが崩壊すべき脆弱性を抱えざるを得なかったのは20世紀という歴史的条件(二つの大戦と冷戦)の産物だからであり、”20世紀社会主義”の限界と見るのである。
 様々な欠陥があろうとも社会主義国なのだという社会主義生成期論をとなえていたjcpが、ソ連崩壊後「ニセの『社会主義』」(6中総、「赤旗」2008年7月13日)と呼ぶようでは、社会科学をプロパガンダの一分野に格下げするものであって、この執行部は情勢の変化で主張をコロコロ変える”鵺(ヌエ)”のような存在になってしまった。平和と民主主義がjcpの専売特許でなくなれば、もはや”北斗七星”たる羅針盤の地位を喪失するのであろう。>

13、当時のロシアの政治情勢5(ブルジョアジーの戦術転換)

⑪、「われわれは、ブルジョアジーが農民を労働者に敵対させようとつとめていること、労働者のスローガンをかかげて小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性を労働者に敵対させようとつとめていること、それが直接にプロレタリアートの独裁の倒壊に、つまり資本主義、地主・資本家の旧権力の復活になるであろうということを、銘記しなければならない。そこには、政治的危険がある。幾多の革命が、このうえなくはっきりとこの道をたどってきたし、われわれはいつもこの道を指摘してきた。この道は、われわれの前にはっきりと現れたのである。それが、政府党である共産党に、プロレタリアートの指導的・革命的分子に、われわれがこの1年たえずしめしてきた態度とは別の態度を要求することは疑いない。この危険は、疑いもなく、より以上の団結を、疑いもなく、より以上の規律を、疑いもなく、より以上の協力一致した活動を、要求している! これなしには、運命がわれわれにもたらしたもろもろの危険を、かたづけることはできない。」(同193ページ)
「ソヴィエト権力の敵の最新の戦術上のやり方の特異性を説明することである。これらの敵は、公然たる白衛派の旗をかかげた反革命が見込みがないことをさとって、こんどは、ロシア共産党内部の意見の相違につけいろうとして、また、ソヴィエト権力をみとめることに外見上いちばん近そうに見える政治的潮流に権力を引きわたすことによって、なんとかして反革命をおしすすめようとして、全力を傾けている。」(同253ページ)

14、当時のロシアの政治情勢6(小ブルジョア的無政府主義的自然発生性の危険性)

⑫、「ロシアのような国では、小ブルジョア的自然発生性の非常な優勢や、戦争の結果避けられない零落や貧困化や疫病や不作や、さらには貧困と人民の災厄の極度の激化が、小ブルジョア的および半プロレタリア的な大衆の気分の中に、とくに激しい動揺の現れを生み出している。こうした動揺は、ときにはこれらの大衆とプロレタリアートとの同盟をつよめる方向にすすむし、ときにはブルジョア的復古の方向にすすむ。そして、18世紀、19世紀および20世紀のすべての革命の全経験が完全に明瞭に、また説得的にしめしているように、こうした動揺からは、─プロレタリアートの革命的前衛の統一や力や影響がほんのすこしでも弱まる場合には─資本家と地主の権力および所有の復古のほかにはなにも起こりえないのである。」(同259ページ)

 ここで、ようやく目的地の入り口にたどり着いた。分派禁止規定が当時の政治情勢に規定された一時的なものである理由が、⑫の引用に示されている。飢餓と欠乏と経済危機が明らかになり、農民の動揺やと都市勤労者や兵士の不満が爆発し、反ボルシェヴィキ気分をもつ小ブルジョア的・無政府主義的自然発生的な運動が始まったのであるが、それが散発的なものであれば大した危険ではない。ところが、この運動は戦術転換したブルジョアジーと地主によってボルシェヴィキ政権の転覆のために利用されているばかりか、その小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性が農民国・ロシアでは特殊で強力な伝染力を持っている点で最大の危険なのである。これが分派禁止規定を、ほかでもない1921年の第10回党大会で設けたことを理解するポイント、最も重要な点である(注9)。
 「自然発生性」という訳語がわかりにくいが、ロシアの小ブルジョアである農民特有の政治意識、政治的気分のことであり、それが7年にわたる戦争と内乱、それに続く経済危機とボルシェヴィキの誤りのために無政府主義的、反ボルシェビキ的なものとして出現していたのである。しかも、その気分は強力な伝播力、伝染力を持っている。

「この自然発生性が活気づいていること」(同206ページ)、「この自然発生性は、わが国のような国では、賛成者と支持をもっとも多くもつことのできる、また広範な大衆の気分を変え、一部の党外労働者にさえひろまっていくことのできる、もっとも危険な敵であること」(同199ページ)
「この小ブルジョア的自然発生性から生じる困難は、大きなものであって、これを克服するには、大きな団結、──しかも、形式的な団結にとどまらない団結──が必要であり、単一の、協力一致した活動が、単一の意志が、必要である。」(同186ページ)

<(注9)、この小ブルジョア的無政府主義的な自然発生性の伝染力というものは、机上の研究者にはわかりにくいものであるために見落とされやすいのである。しかし、政治指導者にはきわめて重大な政治現象なのである。多少とも”体感”できる日本の事例を持ち出せば、1960年代末に起きた全共闘運動をあげることができるであろう。経済危機を背景とするロシア全土の農民のそれと比較すれば、ミニチュアというほかないが、それでもその不可思議な伝染力を多少とも理解するよすがとなるであろう。全共闘運動は1968年初頭から全国に一挙に広がり、いたるところの大学で”全学バリケード・ストライキ”が流行したものである。日大などは右翼学生の牙城とみられていたものだが、そこでも”史上最強”の全共闘がまたたくまにできあがった。>

15、当時のロシアの政治情勢7(小ブルジョア的自然発生性の党内への浸透)

⑬、「われわれはいまや、重大な脅威に当面する時期にある。小ブルジョア的反革命は、すでに述べたように、デニキンよりも危険なのである。このことは、同志諸君も反駁しなかった。この反革命は、小ブルジョア的・無政府主義的であるだけに、いっそう独特である。私は、この小ブルジョア的・無政府主義的反革命の思想やスローガンと、『労働者反対派』のスローガンとのあいだには関連があると主張する。」(同202ページ)
「(『労働者反対派』の同志コロンタイの小冊子は─引用者)サンディカリズム的偏向・無政府主義的自然発生性であることは、だれでも知っているはずである。この自然発生性が広範な大衆のなかに、浸透していることは明らかであり、党大会はこれをはっきりさせた。この自然発生性が活気づいていること、これは同志コロンタイの小冊子と、同志シリャプニコフのテーゼで証明された。」(同206ページ)
「これこそ(「労働者反対派」の主張のこと─引用者)、労働者のなかだけではなく、わが党の内部にもある小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性であって、われわれはそれを、どんなことがあっても許すわけにはいかない。」(同214ページ)
「おそれなければならないのは、極度の飢餓、窮乏、生産物の不足の状態であって、このためにすでにプロレタリアートの完全な無力が生じており、プロレタリアートは小ブルジョア的な動揺と絶望の雰囲気に対抗できないでいる。このほうがいっそうおそろしい。」(同251ページ)。
「最近数ヵ月のあいだに、党の隊列には、サンディカリズム的および無政府主義的な偏向がはっきり現れた。・・・この偏向は、プロレタリアートにたいする、またロシア共産党にたいする小ブルジョア的自然発生性の影響によるものである。この小ブルジョア的自然発生性はわが国では例外的に強いのであるが、・・・何十何百万という農民や労働者が街頭にほうりだされている時期には、この自然発生性が無政府主義への動揺を生み出すことは避けられない。」(同256ページ)

16、当時のロシアの政治情勢8(結論)
 こうして、分派禁止規定を決めた「党の統一について」という決議のレーニン原案は次のような文章で始まるのである。

「一、一連の事情のため国内の小ブルジョア的住民のあいだに動揺がつよまっている現在では、党の隊列の統一と団結をはかり、党員相互の完全な信頼を確保し、さらにプロレタリアートの前衛の意志の統一を実際に具現した真に協力一致した活動を確保することが、とくに重要である。大会はこの点に全党の注意を促す。」(同252ページ)

「一連の事情のため・・・動揺がつよまっている現在」ということが、何を意味しているかもはや明瞭であろう。クロンシュタットの反乱に現れたような反ボルシェヴィキ的動揺、小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性が猛威をふるって党内にまで浸透してくる「現在」という意味なのである。しかもブルジョアジーが戦術転換し、その自然発生性を利用して労農同盟の離間を策している。そういう時は「党の隊列の統一と団結」、「前衛の意志の統一を実際に具現した真に協力一致した活動を確保することが、とくに重要」なのである。そうした党内の「意志の統一」がないと、あるいは「プロレタリアートの革命的前衛の統一や力や影響がほんのすこしでも弱まる場合には」、「資本家と地主の権力および所有の復古のほかにはなにも起こりえないのである。」ということなのである。

「ロシアの現在の経済情勢のもとでは避けられない小ブルジョア的動揺に、党外の自然発生性が屈服しているということが、現在の情勢である。内部的な危険は、ある点では、デニキンやユデニッチの危険よりも大きいということを、われわれは記憶しなければならない。そして、形式上の団結でなく、はるかに深い団結をしめさなければならない。だが、そういう団結をつくりだすためには、われわれはこういう決議なしにはやっていけないのである。」(同265ページ)

 従って、次のような結論になるのである。

「党の団結、党内に反対派があることをゆるさないことは ─ 現在の時期から生じる政治的結論である。」(同201ページ)(注10)

 以上のように、戦争から平和への移行期に、復員を契機に現れた経済危機、それによって労働者、農民の動揺が広範に起こったのであるが、その動揺がロシアのような国では伝染力の強い独特の小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性として現れ、いたるところで反乱、暴動として勃発している。ロシア革命の最大の危険であるこの自然発生性の現れに対して「どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべき時」(同209ページ)なのである。政治情勢はそうした緊急事態にある。しかも、その自然発生性はボルシェヴィキ党の内部にまで浸透してくる力を持つほどの伝染力、大衆性をもつのである。それだけにこの自然発生性と闘うには党の最大限の団結が必要とされ、そのために臨時に分派禁止規定が設定されるのである。<注5>のトロッキーの証言にあるように、経済危機が克服され社会に一定の安定がもたらされれば、廃棄されるべきものだったのである。これが①~⑬まで検討したことから出てくる結論である。
 分派禁止規定を一時的なものとする根拠を箇条書きすると、第一はロシアのようなプロレタリアの圧倒的にすくない農民国で、農民の経済危機を基盤として発生した反ボルシェヴィキ的気分を持つ伝染力の強い小ブルジョア的無政府主義的自然発生性とその運動の存在、第二はその自然発生的運動がボルシェヴィキの誤りも作用して反乱、暴動としてソヴィエト政権の倒壊をもたらす現実の危険となったこと、第三は、その自然発生性と対抗すべきボルシェヴィキ党内にその自然発生性が浸透しているということである。

<(注10)、ソヴィエト政権は、農民のブルジョアジーの側への動揺と労働者の階級脱落で今や四面楚歌に近い状態にあるうえに、ボルシェヴィキの牙城ともなったペトログラード市下のクロンシュタットで反乱が起きているのであるから、レーニンの危機感は相当なものだったはずである。その危機感は報告の合間に発する発言にも表れている。「開会の辞」で次のように言う。

「同志諸君、われわれは異例な一年をすごした。われわれは、わが党内で討論や論争をするというぜいたくをあえてした。全資本主義世界を結合しているもっとも強大、有力な敵にかこまれた党、前代未聞の重荷をになっている党が、こうしたぜいたくなことをするとはまことに驚くべきことである。」(同174ページ)

 他の「報告」部分の中でもいろいろ言っている。

「大部分の発言者は、『労働者反対派』と名乗っていた─冗談半分の名称ではない! このような時期に、このような党のなかで、反対派を結成することも、─冗談ごとではないのである! たとえば、同志コロンタイは『レーニンの報告は、クロンシュタットを避けている』と、あからさまに言った。こういうことを聞くと、私はあっけにとられるより仕方がなかった。・・・ここでした報告では、私は、始めから終わりまで全部をクロンシュタットの教訓に近づけたのである。」(同200ページ)
「(「労働者反対派」の)諸君が、このような時期に、つまり諸君自身でさえデニキンの危険よりも大きな危険であるとみとめているような危険が、わが国にせまってきているとき諸君がなにをわれわれに提供しているかを、とくと吟味してみようではないか? どのような批判を諸君はしているのか? この試験は、いまやらなければならない。・・・もうたくさんだ。党をこのようにもてあそんではならない。」(同205ページ)
「そして私は、いまでは反対派が提供するテーゼと論争するよりも、『銃をとって論争する』ほうがはるかにましだ、と言わなければならない。同志諸君、いまは反対派は不要である。そんなときではない! どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべき時であり、反対派にかかずらっているべきときではない。それは、客観情勢から生じることである。苦情を言わないでほしい。同志諸君、いまや反対派は不必要である!」(同209ページ) 

 レーニンの激越な気分が伝わってくる文章だが、ここに言う「いまは反対派は不要である。・・・それは客観的情勢から生じていることである。」ということが、恒常的な反対派不要論、恒常的分派禁止論ではなく、、当時の危機的情勢から生ずる反対派不要論であることは明瞭であろう。「どこであろうと、いまや銃をとってたたかうべき時」というのは、そんなに年がら年中あるものではない。
 マルクス主義国家論の研究をしてきた大藪龍介が「クロンシュタット事件は、・・・・レーニンさえもたじろがせ盲目に近い状態にした。」(大藪龍介「国家と民主主義」222ページ、社会評論社1992年)と言うのは、①~⑬までのレーニンの認識を見れば間違いであることがわかるであろう。レーニンは情勢全般がもたらす危機とそのロシア的な原因、その危機が階級間の「力関係」にもたらす変化を冷静に分析しているし、分派禁止決議を当時の情勢がもたらす緊急のもの、一時的なものであることをも明確にしている。>つづく