17、「非常措置」としての中央委員の除名について(1)
レーニンらが考える党組織の基本的考え方(前掲ブハーリン決議)と、分派禁止規定を採用した第10回党大会当時の危機的な政治情勢という二つの側面から分派禁止規定が臨時の措置であったことを明らかにした。そこで、分派禁止規定の恒常説をとる不破や榊の主張の検討へ進むことになるのだが、その前に分派禁止規定と関連する非常に重要な他の三点について確認しておこう。レーニンの分派禁止規定をその本来の姿で再現してみるためである。
分派禁止というと、jcp流の観念で”汚染”されてしまっているため、レーニン本来のものを再現してみることがjcpのそれと比較するためにも必要なのである。再現したものとjcpの現状とを比較することで、jcpの分派禁止論が”ウルトラ”分派禁止論であることも鮮明になる。
他の三点とは次のことである。一つは分派禁止を提案した決議案「党の統一について」のなかにあるのだが、中央委員会による中央委員の罷免について新たな規定を設ける問題についてである。もう一つは分派禁止規定の採用に関連するリャザノフの提案についてである。最後は、分派禁止規定を設定しながら他方ではレーニンが分派禁止の対象である「労働者反対派」らのグループをどのように扱っているかについてである。では、順番に検討していこう。
「党の統一について」という決議案は第7項まであるのだが、その第7項が中央委員会に中央委員を除名する権限を付与するという内容になっている。
「党内に、また、ソヴィエトの全活動のうちに厳格な規律を打ちたてるために、またあらゆる分派結成を排除してもっとも大きな統一をなしとげるために、大会は、規律の違反とか、分派の発生や黙認とかのばあいには・・・中央委員については中央委員候補に格下げするとか、非常措置としては党からの除名さえする全権を、中央委員会にあたえる。」(同32巻255ページ)
分派禁止決議と同時に中央委員会に中央委員の除名の権限を付与しているのであるが、注意するべき事はこの権限付与を「非常措置」としていることである。レーニンは「非常措置」とする理由をいくつかあげている。この「非常措置」をレーニンは「公表してはならない。」(同261ページ)と言っており、その理由をこのような中央委員の除名は起こらないだろうという予想を述べるとともに、この権限付与が法外な反民主主義的措置だからであると言う。
「大会で選挙された中央委員会が中央委員を排除する権限をもつというようなことを、どんな民主制も、どんな中央集権制も、けっしてゆるさないであろう。」(同271ページ)
18、「非常措置」としての中央委員の除名について(2)
大会で選出された中央委員を除名できるのは大会だけの権限であって、中央委員で構成する中央委員会が除名することは途方もない反民主主義だとレーニンは言うのである。jcpにおける除名の歴史をみてくると、この思想が非常に重要なものであることがわかるのである。しかし、ここはレーニンの議論に戻るとして、現実には起こらないであろうと予想しながら、法外な権限を中央委員会に与えて、しかもそれを公表するなとは、レーニンも血迷ったことをすると思えるのだが、どうであろうか? レーニンの認識では政治情勢はそれほどに危機に満ちていたということである。すでに引用したが、レーニンが「どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべき時」だと言っていたことを思い出してもらいたい。
「これは非常措置であって、情勢が危険なことを意識して、とくに適用されるのである。」(同271ページ)
緊急事態、非常時対処の党組織の対応として、そういう条件のもとで”万々が一”の手段として採用する反民主主義的独裁的組織対応だとレーニンは言うのである。このような措置を提案するレーニンを反民主主義者、独裁者と呼ぶのはあたらないであろう。その独裁的措置という性格が十分意識されており、それゆえに限定された特殊な政治情勢のもとでのみ臨時に適用されると言っているからである。当然にも、そうした特殊な政治情勢が克服されればその「非常措置」は解除されることが前提されているのである(注11)。
この「非常措置」を決議の第7項で決めた根拠となる当時の危機的な政治情勢は、言うまでもなく分派禁止を決めた当時の政治情勢と同じものである。だから、この「非常措置」は分派禁止決議が「非常措置」、臨時のものであることを傍証するものなのである。
すでに検討してきた当時の危機的な政治情勢が、一方では中央委員会へ中央委員の除名権を付与し、他方では分派禁止を決議させることになったのである。両者は一体となって危機的な政治情勢に対応する党組織の統一性をつくりだそうとした方策なのである。分派禁止規定にしろ中央委員会への除名権限の付与にしろ、それらが書かれている「党の統一について」という決議の内容自体が何度も言うが特殊な当時の政治情勢に立脚するものなのである。
「『党の統一について』の決議案について言えば、この決議案のかなりの部分は、政治情勢の特徴づけを内容としている。」(同261ページ)
なお、付け加えておけば、この「党の統一について」という決議案と「わが党内におけるサンディカリズム的無政府主義的偏向について」という決議は、ともにレーニンの提案になるものであるが、もともとは10回大会の当初からの議事日程にあったわけではなく、「予定された議案がほとんどかたづいた最終日の会議(3月16日午前)でレーニンがいわば緊急動議のかたちで提出したものであった。」(藤井前掲「民主集中制のペレストロイカ」152ページ、以下、「ペレストロイカ」と略記する)と指摘されている。
<(注11)、この「非常措置」を後に公表した上で、恒常的措置としたのはスターリンである。1934年の党規約に盛り込まれ、多少の修正はあるが各国共産党の規約に受け継がれていた。jcpの現規約では第23条がそれにあたる。このスターリンの措置について、レーニンが原型を提供したと非難する議論があるが、その非難は”濡れ衣(ぬれぎぬ)”と言わなければならない。「非常措置」という限定をはずせば、その措置はもはやレーニンの提案とはまったく別のものだからである。この区別がわからない非難は盲目的な非難と言うほかない。>
19、リャザノフの提案について(1)
次はリャザノフの提案についてである。
現在のjcpは組織の各段階で多数派が全代議員を獲得して党大会の代議員を構成する。したがって全代議員を多数派が独占するのであるが、当時のボルシェヴィキ党ではそれぞれの政治綱領をもつグループも一定の比率で代議員に選出されていた。10回党大会でも大会議長団のうちにレーニンが分派の対象として批判する「労働者反対派」が選ばれているのである。「ここで、病気のグループを代表している人々が議長団に選出されている。」(同205ページ)
リャザノフの主張は分派を禁止するのなら、政治綱領に基づいた大会代議員選挙もやめるべきだと言うのである。分派を禁止して言わば党が一枚岩になるのだから、政治綱領に基づく代議員選挙をやり、異論者を一定の割合で大会代議員に選出する選挙方法を残すのはおかしいし、必要がないというのである。つまり、jcpのように各組織段階で選挙を行い、その結果、多数派が全代議員を独占することになっても、それはそれで党全体の意志の表現で、文字通り、党の統一を実現できることになると言うわけである。jcp執行部になりかわってリャザノフがjcpの主張を代弁しているようなものである。ところがレーニンはその主張に反対するのである。
「同志リャザノフの希望は、残念ながら、実行できないと思う。根本問題について意見の相違がおこっているばあいに、われわれは、党員や中央委員から党に上申する権利をうばうことはできない。私には、どうしてわれわれにそれができるのか、見当がつかない。この大会は、将来の大会の代議員選挙を、なにによっても拘束することはできない。」(同275ページ)
「もし、たとえばブレスト講和の締結のような問題がおこったとすれば、どうするのか? そういう問題はおこりえないと、君は保障するのか? 保障はできない。そういうばあいには、政綱にもとづく選挙がおこなわれなければならないということもありうる。・・・もし、統一についてのわれわれの決議と、また、もちろん、革命の発展とが、われわれを団結させるなら、政綱にもとづく選挙はくりかえされはしないだろう。われわれがこの大会で受けた教訓は、わすれられはしないだろう。だが、状況が根本的な意見の相違を呼び起こすなら、それを全党の審判に付することを禁止することができるであろうか? できない! これは、実行不可能な、度はずれの希望であって、私はこれを拒否するように提案する。」(同275ページ)
20、リャザノフの提案について(2)
ご覧のような次第である。ここにはふたつのことが述べられている。一つは少数派が異論を党大会で表明するのは党員の奪うことのできない権利であるということ、もうひとつは「根本問題についての意見の相違」が将来生まれる可能性は誰も否定できないのだから、政綱にもとづく選挙は制度的に廃止することはできないということである。
意見の相違を表明する、上申するのは党員の”権利”なのであって、jcpのように上部の判断でその受理か否かを決められる性格の問題ではないのである。「根本問題についての意見の相違」があれば、執行部の判断の如何に関わらず党大会において少数派の意見が表明され、それを審議しなければならないのである。「根本問題について意見の相違」を持つ党員は党大会に出席する権利を持っているのであって、党は大会への出席を保障する何らかの措置=制度的ルールを作っておかなければならない。支部内の代議員選挙で多数派として選ばれなかったから大会代議員になれず、少数意見を持つ者がだれも大会に出席できないという事態を避ける制度づくりが必要なのである。
党内における意見表明の自由とは、このような制度保障があってはじめて権利たりうるのである。政綱にもとづく選挙とはその制度保障なのである。jcpのように支部のなかだけでの意見表明の自由、異論の留保、あるいは3年に一度の公開討論報に2000字以内での意見を様々な制限付きで発表できるというような”形ばかり”のものであってはならないのである(注12)。
ここにはjcp執行部の常識を覆すレーニンの考え方が表明されている。「根本問題についての意見の相違」を持った少数派党員は他の多数派党員と同様に大会へ出席する資格、権利があるという考え方である。
決議や決定は多数決制でおこなうほかないが、大会代議員の選出を多数決制で選ばなければならないという理由はない。代議員を多数決制で選出し、多数派が大会代議員を独占するのは党内民主主義としては決してのぞましい形態ではない。jcp執行部が国政で口癖のように言う比例代表制のほうが党内の思想状況を党大会に正確に反映することになり民主主義的であろう。
jcpの場合は、代議員定数の完全連記制により51%の得票率で全代議員を独占できる反民主主義的選挙制度であると当サイトの投稿で指摘されている(注13)。この形態は、jcpが批判する小選挙区制以上に少数意見を排除する仕組みであって、党員の意見の状態、分布を大会代議員に正確に反映させるという側面を欠落させているのである。
<(注12)、”査問”被体験者の元党員・油井喜夫の著作「汚名」(毎日新聞社1999年刊)をみると、3年に一度の公開討論でさえ投稿の掲載を拒否されている。油井は新日和見主義事件で1972年に四日間の”査問”を受けたが、その22年後に1994年の20回党大会むけの公開討論に意見書を出したが、「大会議案処理事務局から『赤旗評論特集版』に私の意見書を掲載できない、と電話でいってきた。」(同書277ページ)と証言している。>
<(注13)、吉野傍「『少数意見を反映させるシステムを』へそまがりさんの提起に答えて」(組織・運動論欄1999年6月22日) 彼の指摘では、この完全連記制はアメリカ南部の奴隷諸州において、多数派の白人が全議席を独占するために考え出された選挙制度だと言われている。その非民主性は今日の小選挙区制どころでの話ではないということになる。>
21、リャザノフの提案について(3)
ここで強調しておくべきことは、jcpの選挙制度にみられるこの欠落は単に党内民主主義が不十分だという欠点にとどまらないことである。革命政党には致命的な欠陥をもたらすということである。一つは異論をもつ党員の意見表明の自由の制限・抑圧となることである。この制限・抑圧は一つの欠点というような性格のものではなく、革命政党の生命線である党員の自主性、自発性を抑圧する。個人の知的世界が歴史に類例のないほど広がった21世紀の現代とあってはなおさらのことである。そして党内の人材育成にも重大な障害をもたらすことになる。もうひとつは、政党という組織を”集団的認識装置”(注14)として見た場合にその欠陥があらわになるのであるが、論争を支部段階にとどめるのか党大会でやるのかでは、党大会で論争する方が論争の質の点でも、衆知を結集した審議という点でもより正確な決定や認識を得るためにベストなのである。
多数派独占の選挙制度では論争は基本的に末端の支部どまりであり、支部レベルの論争の質が全党の決定を左右するということになる。これでは執行部提案の是非を質の高い異論・批判で洗い直し点検することができないのであって、誤った執行部提案を修正する組織機能も低下せざるを得ないことになる。
その意味では質の高い反対論こそ歓迎されるべきであり、反対論者は共通の反対論者グループでその主張の質を高める理論研究を切磋琢磨することが望ましいとさえ言えることになる。正確な認識、決定こそ、革命政党のこれまた生命線なのであるから、多数派独占となるjcpの選挙制度が二重三重に重大な欠陥をもつ選挙制度であることがわかるのである(注15)。
政綱にもとづく選挙を廃止できないというレーニンの議論は、将来における重大な異論の発生を否定できないという理由や異論の表明の権利保障という理由だけにもとづくのではない。レーニンの直接の言及を越えるが、その議論からして当然言えることは、このように革命政党の生命線にかかわる重要な二つの側面の制度保障でもあるということなのである。
したがって、これらの見地からすれば、すなわち政党組織の編成原理からみるということなのだが、分派禁止は一時的なもの、現在の緊急な政治情勢に対応する臨時のものでしかありえないのである。というのは、レーニンにあっても分派禁止とは「同志諸君、いまは反対派は不要である。そんなときではない!」(同209ページ)ということであり、反対派にその政治綱領に基づく政治活動、その思想の宣伝を禁ずることだからである。それらを禁ずれば、政綱にもとづく選挙は事実上は不要となり、異論の表明は抑圧され、上述の革命政党の生命線というべき重要な二つの側面が組織から失われてしまうからである。
組織の生命力より組織の存続自体が危機に瀕するような事態にあって、民主主義より”戦闘力”、強力な統一が必要な特別の場合だけに限定して一時的に使用するほかないのが分派禁止規定なのである。
将来における意見の相違の発生は避けられず、その相違が発生すれば政綱にもとづく選挙、すなわち異論者のグループの存在を前提にする選挙を行わなければならないのである。そして政綱にもとづく選挙が異論者の集団の存在を前提にするということは、言うまでもなく、分派、潮流、グループ等(注16)の存在を認めるほかないということである。
論理的にはこうした相関関係があるのであって、レーニンの”希望的観測”では、異論を審議し処理する技術に党全体が習熟すれば、政綱にもとづく選挙はくりかえされることはなくなるだろうと言うのである。だが、政党組織の制度論としては”希望的観測”を前提に組織の制度設計はできないのであって、やはり論理的な関係が前提となり、リャザノフの提案は「度はずれな希望」ということになるのである。
こうして、どういう側面から10回党大会の分派禁止規定を考察しても、それは一時的な臨時の措置と言うほかないのである。レーニンの存命の時代は一度も分派禁止規定が党の規約に取り入れられなかった理由も以上の考察で明白となっていると言えるであろう。
<(注14)、芝田進午は次のように言っていた。「『民主集中制』自体が組織過程であると同時に認識過程である」(芝田進午「実践的唯物論への道」187ページ、青木書店、2001年)
<(注15)、jcpはレーニンの言うこの「度はずれな希望」をやって、全会一致の党大会であったと、党大会ごとに執行部は”胸を張る”のであるが、彼らの政党組織についての思想はレーニンとはまったく異質であることがわかるのである。そればかりではない。かれらの執行部についての自己意識が、事実の上では執行部”無謬論”に立っていることをも示しているのである。彼らにはできるだけ異論にさらして自己の執行部原案を点検するという思想はない。jcp執行部はどうにもこうにも不合理なまでに政綱にもとづく選挙制を”毛嫌い”しているようである。
ここではまだ不破の出番ではないが、jcp執行部の姿をあらかじめ象徴的に示しておくことも意義があろう。不破は政綱にもとづく選挙を少数意見をもつ党員を特権扱いする反民主主義的制度だと非難している。
「圧倒的多数の党員が執行部原案に賛成して、『反対意見』が、正規の選出方法では大会に反映しえないような、ごく少数の場合であっても・・・党機関紙での討論を認めるだけではなく『反対意見』者にたいしては、特別に党大会で意見を開陳できる特権を、制度的に保障せよ・・・ということが田口氏の真意なのである。少数意見者にたいしてだけ、民主主義や平等の原則にも反する特権を要求し・・云々」(不破哲三「科学的社会主義か『多元主義』か」、「前衛」1979年1月号、49ページ)
不破にあっては、少数意見を大会代議員に反映させる選挙制度=政綱にもとづく選挙は、少数意見者を特権扱いする反民主主義制度なのであるが、レーニンにあっては大会に出席して見解を表明するという多数派と同等の権利を少数派にも認める民主主義制度なのである。
「根本問題について意見が相違」するグループごとに候補者名簿を出し、グループの得票比率に応じて代議員数を候補者名簿から選ぶ方式、すなわちグループごとの比例代表制がレーニンの言う政綱にもとづく選挙と理解すれば、不破の特権論がお馬鹿な珍論でしかないことがわかるであろう。不破の特権論は政綱にもとづく選挙を”生理的”なまでに”毛嫌い”するあまり、不合理な主張にはまりこんでいることは明白である。
不破のこの引用ひとつとっても、不破が「MS」をまともに研究したことがないことがよくわかる。不破らによる党支配の現実の便宜が実際のところではjcpの「MS」を貫く基本思想なのであって、その基本思想をカモフラージュするのが得手勝手に解釈されたレーニンの組織論に関わる言説なのである。この点は次回から見ることができるであろう。>
<(注16)、藤井はレーニン時代の分派、潮流・グループの違いを次のように説明している。「つまり、特定の政綱と規律で結合した党内党員集団、言いかえれば、党の中の党がフラクション(jcpが言う分派のこと─引用者)と性格づけられるのである。」(藤井「ペレストロイカ」102ページ) 「『潮流』とフラクションとは内部規律の有無によって区別されている」、「潮流とは組織的行動をとらない特定の思想集団のことである」(藤井、「ペレストロイカ」102ページ)
藤井の要約するこの区別からみれば、jcpの分派概念は非常に広くてレーニン時代の”潮流”はもちろん、”潮流”のミニ版である”グループ”でさえ分派に該当し、党支部を異にする二人以上が集まって執行部に批判的な議論をすれば、もう分派あつかいなのである。”ウルトラ”分派概念というほかない。>
22、分派禁止と理論闘争と思想の『宣伝』の相互関係(1)
三つ目は、分派禁止決議の対象にした「労働者反対派」や「民主主義的中央集権派」をレーニンがどのように取り扱っていたかという点である。そこから何が見えてくるか?
「党の統一について」の決議原案の第5項には次のように書いてある。
「大会は『討論用リーフレット』や特別の論集をもっと規則的に発行するよう、・・・指令する。」(同254ページ)
また「わが党内のサンディカリズム的および無政府主義的偏向についての・・・決議原案」では、次のように書かれている。
「第一に、これらの思想とのたゆみない、系統的な思想闘争。第二に、これらの思想の宣伝はロシア共産党に所属することとあいいれないということを、大会がみとめること。大会は、党中央委員会に、大会のこれらの決定をきわめて厳格に実行することを委任するとともに、前記のすべての問題について党員諸君がきわめてくわしく意見を交換するために特別の出版物、論集、等々の紙面をさくことができるし、またさかなければならない、と指示する。」(同259ページ)
これらの記述について、レーニンは次のように解説する。
「これらの多くの思想を検討することは、われわれの文筆家と、さらにこの潮流の指導者たちとにまかせよう。というのは、決議案の終わりに、われわれは、前記のすべての問題について党員がもっとくわしく意見を交換するために、特別の出版物や論集の紙面をさくことができるし、さかなければならないと、わざわざ断っているからである。」(同264ページ)
「理論家はいろいろいるし、彼らは、党につねに有益な忠言をあたえてくれるであろう。これは必要なことである。われわれは大きな論集を2、3冊出版しよう。これは有益で、絶対に必要なことである。」(同268ページ)
これらの引用からわかることは次のことである。サンディカリズム的、無政府主義的偏向という特徴を持つ「労働者反対派」などの分派は「解散」(同255ページ)しろ、「これらの思想の宣伝」は党内外で禁止するが、他方では、彼らの提起する「前記のすべての問題」について出版物で公開討論し研究することは行うということである。
その思想の宣伝は禁止だが、その思想とその思想が提起する問題についての理論闘争、意見交流、研究はやるべきだというのである。レーニンはこの区別を強調している。
「諸君には─諸君はみな、何らかの形の扇動家であり宣伝家である─、たたかう政党の内部での思想の宣伝と、特別の小冊子や論集のなかでの意見の交換との区別がわからないのであろうか? 私は、この決議案を理解しようとのぞむのならだれでも、この区別がわかるであろうと、確信している。」(同268ページ)
「理論的討論と党の政治方針、政治闘争とは、別の問題である。」(同265ページ)
23、分派禁止と理論闘争と思想の『宣伝』の相互関係(2)
さらにはレーニンは次のような発言を行っている。
「われわれは中央委員会で、公平でありたいという願いを強調するために必要なことはなんでもやった。」(同271ページ) 「ご承知のように、われわれは『労働者反対派』の代表者ふたりを中央委員会に受け入れ」(同270ページ)たし、「たとえば私にしても『労働者反対派』と『民主主義的中央集権派』の代表者がわが中央委員会にはいることがのぞましいと、公然と言明してきた。」(同270ページ) 「中央委員会に『労働者反対派』に属する同志を入れるということは、同志的信頼の表明である。」(同273ページ)
分派は禁止、その思想の宣伝は禁止だが、分派の代表者を中央委員会に受け入れ同志的信頼を表明したうえにその思想についての理論的討論、研究等はやるのである。
こうしたレーニンの”スタイル”はjcpが歴史のうえでも現実にも示してきたスタイルとは根本的に相違している。jcpの場合は、分派だ、規約違反だ、除名だ、反党分子に転落した、が相場だからである。
いったい何が違うのか? 理論的研究・討論と政治闘争を区別していることに注目するべきである。理論的討論は「われわれの文筆家」と「この潮流の指導者」にまかせようというレーニンの言葉からわかるように、分派の禁止は思想グループとしての少数派の存在を否定、禁止しているものではないのである。この点の理解が決定的に重要である。
原理的に言えば、執行部と異なるある思想を党員が抱くことはもともと禁止できないのである。jcp規約もその5条の5において党員は「意見を保留することができる」と定めている。決議や決定で禁止できるのは、規制できるのはその思想の「宣伝」、すなわち政治行動だけである。だからこそ、思想については理論闘争で、理論的説得で行うしかなく、少数派の意見表明の権利の部分的実現と統一して、討論誌その他出版物で行うのである(注17)。
異論者グループ、思想グループが大会決議に従って、その思想にもとづく政治行動を一時禁欲し、党の統一的政治活動に参加するのであれば、彼らの存在は党の政治活動上は何ら問題はなく、むしろ多様な思想の持ち主が中央委員会で活動することは望ましくさえあるということになるのである。レーニンはこうも言っている。
「この第5項には、『労働者反対派』の功績を認めると述べてある。」(同273ページ) 「第5項を読んでみたまえ。・・・『官僚主義との闘争とか、民主主義や労働者の自主活動を発展させること、等々の問題についての実務的な提案は、どんなものでも、もっとも注意ぶかく研究』・・・『しなければならない』と。・・これは功績の承認である。」(同273ページ) 「もし諸君が決議案の正確なテキストを照合してみるなら、・・・官僚主義との闘争における承認と、援助を受けたいという願いの表明とがあるということが、おわかりになろう。」(同273ページ)
だから、レーニンの分派禁止規定についての通常の理解(jcp執行部の理解)は何重にも誤っているのである。分派禁止は一時的なものであるだけではない。分派禁止は、分派としてグループ化した党員集団の思想は禁止しておらず(できない相談だ!)、禁止できるのはその思想にもとづく政治行動、「宣伝」だけであって、したがって、その思想を「宣伝」(=政治行動)しない思想集団としての存在は承認されているのである。
<(注17)、近代における個人の自由権の中核をなすのが信教の自由、思想・信条の自由であるが、この犯すことのできない精神内面の自由は、個人がいかなる思想を抱こうがそれを禁ずることはできないという考え方であって、政党の内外で区別はできない。後の議論で見るが、jcpの幹部の主張では綱領を承認して入党したのであるからその思想の自由にはおのずから制限があり、党はその思想を統制しその逸脱を咎め処分できるかのように言うが、この主張は混乱の極みである。統制できるのは党員の政治行動だけなのである。
基本的人権は政党をも拘束すると言うべきである。そもそも近代の政党が基本的人権のひとつである結社の自由という権利のうえに成立するものでありながら、基本的人権が結社の前で立ち止まるという考え方は成立の余地がない。工場の門前で憲法が立ち止まることはないのと同様である。
たとえば、jcpの党員が、修正資本主義のほうが社会主義より良いという思想をもつにいたった場合でも、その思想の保持は禁止するわけにはいかない。かつては社会主義が良いと考えてjcpに入党したが、その後、ソ連の崩壊を見て修正資本主義や社会民主主義の方が良いというように考えを変えるということは大いにありうることである。この思想の変化も禁止できるものではない。仮に、禁止するとすれば、党内に”思想点検・検閲所”が必要になり、党員は定期的にその保持する思想を”申告”しなければならず、また、偽りの”申告”を摘発する”システム”すら開発し、摘発のエキスパートたる”思想検事”すら育成しなければならなくなるであろう。
しかも”摘発”の基準をどうとるのであろうか? 現在のjcp綱領では当面の「民主主義的改革」が現行憲法の枠内での改革ということであるのだから、資本主義肯定、あるいは社会民主主義思想に変化した思想を抱く党員であってもただちに綱領に反する思想と判定するわけにはいかないであろう。しかもである。綱領は市場経済を前提とする社会主義を展望しており、その社会主義像たるや曖昧模糊とした観念でしかないのであるからなおさらのことである。>
24、分派禁止と理論闘争と思想の『宣伝』の相互関係(3)
分派禁止と言っても、現在のjcpからの類推で分派や思想グループを組織的に解体してそのメンバーをバラバラにしてどこそこの支部に所属させ、相互の意見交流を禁止し、異論を支部に封印するというようなものではない。レーニンの党では分派禁止が決められても、異見表明(思想、理論の討論)は出版物等で公然と行われているのである。分派禁止の決議によって、分派は一時的にその政治活動を制限され、思想集団、ゆるやかな”潮流”ないしは”グループ”へと人為的に”退化”させられて存在するということなのである。「解散」させられるのは政治行動を行うものとしての分派や潮流なのであって、政治行動をともなわない異論者の思想グループとしての存在は何ら否定されていない。<注16>に示された藤井の定義と関連させれば、その思想の「宣伝」を禁止された「潮流」としての存在はなんら禁止されていないのである。現在のjcpから類推して、何人かで集まって中央を批判する議論をすれば分派だというような”ウルトラ”分派禁止措置ではないのである。
ところが、jcpの場合で言えば、実際のところでは分派の禁止はその思想の保持まで禁止するものになっている。分派の禁止は”棄教のすすめ”なのである。jcpの分派禁止、「MS」は異論の保持を禁止し思想の一致を事実上少数派に求めているのである。ここに根本的な誤りがある。レーニンとの根本的な違いがある。なるほど、jcp規約は執行部とは異なった意見を留保する権利を認めているが、その意見を表明する機会が支部の内部だけという極度に制限された実情(この実情が分派禁止を現実に担保する)では異論の保持は否定されているのと同じことである。政党に参加して、自分の思想、考え方をおのれの精神の内部にしか保持できない状態と同然の状況に置かれ、賛成者を求めての政治活動、宣伝を狭い支部を越えてできないとすれば、それは政治活動家としては死を意味するものでしかない。
このようにjcpの分派禁止規定が異論の保持さえ本質的に否定し、党中央との思想の一致、異論者への”棄教”を求めているから、異論の表明がすぐに分派だ、規約違反だと除名騒ぎにまで発展するのである。jcpの除名騒動の基本形がここにある。異論者が、その言論表明を支部内に封印されるから、たまらず党外で意見表明をすると問題を党外へ持ち出したという理由で党規約違反に問われ除名されるのである。これをjcp執行部は異論の保持者だから処分するのではなく、規約違反を犯したから処分したのだと言うのが通例である。しかし、ことの本質は異論を狭い支部内に封印するという事実上の”棄教のすすめ”の制度化が問題なのである。
jcpの分派禁止規定には、明らかに日本の伝統的な精神風土の浸透がある。半世紀前の戦前までは、国民はその精神の内部まで天皇制イデオロギーで鷲づかみにされ、その精神を国家によって管理され、”不敬罪”なる法律まで存在し、滅私奉公が理想の人物像となり、特攻隊攻撃に従容として従軍した歴史をもっている。
国家や党が国民の精神の内部にまで入り込み管理するという伝統的精神風土に慣れているために、jcpの執行部も党員への”棄教のすすめ”の犯罪性(=反人権性)にはいたって鈍感であり、分派禁止をウルトラな怪物に仕立てても平然としているのである。この執行部は自覚的であるかどうかは別にして、党員を自立した精神の持ち主として、西欧近代が達成した個人としてその存在を現実には認めていないのである(注18)。
jcpの”ウルトラ”分派禁止規定は三重の”原罪”を背負っていることになる。一つは戦前来の伝統的精神風土であり、二つめはスターリンの分派禁止論の継承であり、第3は、jcp執行部の党員支配(指導・管理ではない)の必要性である。党員支配というjcp執行部が背負った独特の側面はjcpの「50年問題」を取り扱うところで明らかにすることになる。
<(注18)、──”jcpの暗黒”──
党員を西欧近代が達成した個人としてjcp執行部が認めていないことは、”査問”と言われる党員調査で赤裸々に実証されている。
1972年の新日和見主義事件で査問を受けた油井喜夫は査問者に「肝臓で入院中であることを告げたが、彼らは誰も体調を気にしなかった。」(油井、前掲「汚名」38ページ)と言い、一日だけの外出許可をとった病院にさえ連絡もとれず4日間の査問を受けたという。また、査問者の党幹部・諏訪茂に次のように言われている。「釈明権はない!」(同67ページ) 「やったか、やらなかったか、質問にこたえればいいんだ!」(同67ページ) 油井は「私は諏訪にどなられて、はじめて査問の意味を体で知った。」(同67ページ)と書いている。油井によれば、査問開始にあたり「君の党員権をいまから停止する」(同35ページ)と宣告される。そうなると、その後の被査問者への扱いは病院への連絡も取れず、病人としての扱いも受けられず、自己弁護の権利も認められず、要するに中世における受刑中の”囚人”並の無権利状態に置かれるのである。
その査問では釈明権はないのだから、そもそも異論の論争もありえない。jcp執行部の決定に反対か否かだけが問題にされるのである。「君は6中総に反対したんだ」(同138ページ)、「それを、君が認めるかどうかが自己批判の核心だ」(同138ページ)。 「反対した」こと、反対という思想を持ったことが罪悪視されている。まるで中世キリスト教世界の異端審問同然の様相を呈することになる。
きわめつけは、党員の最高の”組織犯罪”と目されている分派について、その解釈権がjcp執行部に独占されているということである。これでは”重大犯罪”の客観的な構成要件がないに等しく、異論者は党内ではいつ”逮捕”されるかわからないという無権利状態に置かれているのと同然である。すなわち、jcpの「MS」は本質的に独裁的なものとなるのである。
「査問官」はこう言うのである。「君ねぇ、分派というのは意識してやったかどうかというもんじゃないんだよ」(油井、前掲「汚名」111ページ)
同じ事件で、2週間にわたり監禁され査問を受けた川上徹は、油井とは別の「査問官」下司順吉に次のように言われている。「君はまだ分かっていないようだな。君が分派活動をやったかどうか、それを判断するのは君ではないんだ。党なんだ。」(川上徹「査問」60ページ、ちくま文庫2001年)
jcpにあっては、異論を持つ者は形式的な規約上も支部内に封印された”隠れキリシタン”としてしかその存在を許されないのである。jcp執行部の理論や思想、決定に対する考え方がここに現れていて、それは中世キリスト教世界の教義と同質なのである。自称では「科学的社会主義」と呼んでいるが、科学が予定する様々な学説、仮説の提起、それらにもとづく公開の論争が許容されていない。この投稿で検討する70年代末のわずかな論争以降、30年も論争がないのである。
jcpの綱領でさえ、社会科学的研究の産物であるから、実証されない限り当然にも理論仮説としての性格をもつのだが、この党にあっては大会で決定されれば”不磨の大典”のごとき扱いになる。綱領どころかXX中総決議でさえ、反対することが罪悪視されている。
中世キリスト教の教義(カソリック!)との同質性と異論を許さず”棄教”を求める対応(jcpの分派禁止、レーニンのそれではない)は表裏一体のもので、そこからjcp執行部の二面性が生まれてくる。党外に向けては、教義の基本である庶民の利益を守るjcpという装いで”えびす顔”で現れるが、党内の、庶民の目の届かないところでは異論者の動向を監視する”夜叉”のごとき教義の異端審問官としての顔も持っているのである。その中世の暗い顔が目に見える現実となるのは、異論者が同調者を求めて活動したり、執行部の方針への批判や変更を継続的に主張したりする時であり、査問の時である。
また、異論の同調者を求めるところまでいかなくとも、執行部決定に消極的なだけでも神聖な教義への不信者として”冷視”の視線にさらされることになる。最近、筆坂秀世が出版した「悩める日本共産党員のための人生相談」では、次のように書かれている。「入党する時には、それこそえびす顔で迎えてくれますが、離党したり、活動に参加しなくなると裏切り者を見るように、本当に冷たい目でみられます。」(筆坂同書100ページ、新潮社2008年) これは筆坂の体験から来る実感なのであろう。
筆坂が”不良党員”であったからだという抗弁もあるだろうが、それなら、作家の森村誠一の場合を例に出してもいいだろう。党中央との合意(契約)の下で宮本顕治の戦前の”スパイ査問事件”を主題に「日本の暗黒」なる題名の連載を1989年12月から「赤旗」で開始したのだが、1年半後、迫真のリアリズムの筆致の下で”スパイ査問事件”に筆が進もうとした矢先に突如連載が中断されるのである。森村誠一はjcpとの絶縁を宣言し、中断に抗議した担当「赤旗」記者の下里正樹は除名され、jcpは例によって下里の規律違反を「赤旗」に発表する。その「赤旗」発表に対して森村誠一は抗議文をjcpに送り次のように表現している。
「この文言には多年日本共産党に貢献した同志に対する愛情の一片も感じられず、自党の機関紙をあげて一個人を攻撃しています。」(「文藝春秋」1994年12月号)どうであろうか? 一度は党員として、あるいはjcpの協力者として共に活動をした者たちに対するこの”冷酷さ”、”酷薄さ”は一体どこから来るのであろうか? jcp執行部の幹部連は胸に手を当ててよく考えてみるべきではないか。