25、分派禁止はレーニン党組織論の到達点?
これまで明らかにしてきたように、現代史の経過のうえでも、政党組織論の一般的基準(ブハーリン決議)から見ても、当時の政治情勢をめぐるレーニン文献のうえでも、トロッキーが言うように「ボリシェヴィズムはフラクションを容認しないなどという今日の教義は衰退の時代の神話にほかならない」のである。
それでは、今度はjcpが分派禁止規定が恒常的なものだとする不破・榊らの主張を検討してみよう。まず、彼らの文献史上の主張から見ていこう。その主張の根幹は、レーニンの党は革命闘争の中で発展しており1921年の分派禁止規定はレーニンの党組織論の到達点だということにある。
「ロシアでも科学的社会主義、共産主義の潮流が、社会民主主義の潮流からきっぱり分離し、さらに分派を許さない統一政党としての組織原則を確立するのは、三つの革命を含む二十年近い歴史を経て到達したことであって、そこに到達する過程には、小ブルジョア的潮流と連合していた時代もあれば、分派や派閥の自由を認めていた時期もあった。」(不破哲三「科学的社会主義か『多元主義か』」、「前衛」1979年1月号、39ページ、以下、不破「多元主義か」と略称する)
つまり、メンシェヴィキのような潮流と同居し分派や派閥を認めていた党の時代から「分派を許さない統一政党」へと発展しており、その到達点が1921年の10回大会における分派禁止決議だというのである。榊利夫の場合も同様である。
「1903年の第2回大会でボリシェヴィキとメンシェヴィキとが生まれて以後、レーニンは当初は党内の派閥状態を当然と考え、革命的マルクス主義にたつボルシェヴィキ派の強化をめざした。しかし、1912年のプラハ協議会は派閥状態に終止符をうった。このあとも、分派は形のうえでは禁止されていなかった。しかし、分派の有害さがいっそう明確になったのち、1921年の第10回大会では分派禁止の措置がとられた。こうした歴史的経過をふまえれば、分派禁止がレーニンの『新しい型の党』の到達点の一つであることは明白である。」(榊利夫「民主集中制論」1980年、107ページ、以下、榊「集中制論」と略称する)
26、到達点ではなく、組織は社会状況に応じて変化する
さて、この「到達」(不破)、「到達点」(榊)という認識であるが、ソ連崩壊以前の七〇年代はレーニンの権威がまだ残っていたので、レーニンの権威を承認するかのような外観を持てば何でもオーケーというわけで、こうした主張がよく吟味もされずに大手を振ってまかり通っていたのである。また、たいていのものは、長年同じことに取り組んでいれば発展というものはあるだろういう経験に照らしても受け入れられやすい主張であった。
ところが政党組織の場合は、そのような一路発展・到達というような見方がそもそもできるのか、という問題がある。連載(1)の<6項>で紹介したブハーリン決議「党建設の諸問題について」によれば、「組織形態と活動方法は完全に、所与の具体的・歴史的状況の諸特質およびその状況から直接的に生み出される諸課題に規定される」からである。簡単に言えば、その社会状況の変化に対応して組織形態と活動方法は変化するのであるから、変化の前後の組織形態を組織形態の発展とか「到達点」というような用語、観念でとらえることは不適当であるということになる。
不破はこの「到達」という用語を発展して「到達」したという意味で用いていることは、「この転換は、第2インタナショナルの時代の古い型の党から新しい型の革命党への質的発展、脱皮を意味する」(「多元主義か」40ページ)と言っていることからもわかる。
分派容認から分派禁止への変化というような党組織形態の大きな変化は、前者Aから後者Bへの「質的発展」・「到達」ではないのである。前者より後者が改良を加えた”すぐれもの”であるわけではない。
その組織がすぐれているかどうかは、Aという組織とBという組織を比べることでわかるわけではなく、その組織が社会状況にどれだけ適応しているかということからわかるのである。だから、そもそも発展・「到達」というような用語でAからBへの変化をとらえるのは間違いなのである。分派容認の組織形態が適合的な社会状況もあれば、すでに検討したように危機的な政治情勢のもとで分派禁止を必要とする場合もあるという関係があるにすぎない。社会状況の変化に応じて”すぐれもの”はAという組織形態であったりBであったりするのであって、AとBの比較でどちらが”すぐれもの”であるかという議論はできないのである。もちろん、Aと比較して常にBが”すぐれもの”だとする不破・榊の「到達点」の主張は成立のしようがないのである。
27、jcp執行部の奇妙な生態
分派禁止の組織形態が「到達点」、言うなればレーニン党組織論の最高の発展段階だとする観念が、そもそもマルクス主義の世界観、哲学には適合しない、合致しない。jcpの「科学的社会主義」からすれば、世界の発展・変化は無限であり『弁証法』的だと見るのが、その教義の根本だからである。jcpの教義は『弁証法』だらけとさえいえる。最近では、jcpの10年にわたる国政選挙の後退を些事と説明した「政治対決の弁証法」(不破)がある。しかし、どういうわけか、党組織論になるとレーニンの分派禁止の党組織論が唯一の「到達点」で他のものはなく、jcpの『弁証法』も古いパソコンのように、そこで"フリーズ”してしまうのである。
そこへいくと、世間の組織観の方がはるかに弁証法的で柔軟である。世間は不破や榊とは逆の見方をしている。金太郎飴のような同じ見方しかできない集団ではその集団・組織は発展できないというのが世間の常識である。いろいろな見方、考え方をする人たちがいてこそ、会社組織は発展するという見方が常識となっており、新入社員の採用でも応募者の出身大学を不問にするとか、一芸に秀でた者、学生時代に特別に打ち込んだものがある異色分子を採用するなど、いろいろな採用上の工夫がこらされるようになっている。
jcp委員長の志位は昨年の参議院選の惨敗を検討した秋の5中総の「結語」で、党中央が出す決議の読了率が「3割前後では、まともな党のあり方とはいえません。」と言っていた。してみれば、jcpの組織の現状が「まともな党のあり方とはいえません」というほどの状況にあることを執行部は知っているわけである。それならば、そうした状況に立ち至った党組織のあり方をその旧来の組織論にまで遡って再検討してみるのが常識というべきであろう。しかし、組織の現実に背中を押されながらも、ここでも、その「到達点」論の手前で直立不動、”フリーズ”してしまうのである。jcp執行部の不思議な習性である。
不破らの実際の行動を見ると、再検討どころか、『弁証法』を殺しにかかっていることがよくわかるのである。2000年の第22回党大会でjcpは規約の全面改定をやっているが、党員の意見表明の権利という側面で見れば、全面的改悪であったことがあきらかである。象徴的な例が「党員の権利と義務」を規定した規約5条の5であり、そこには「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。」と書かれている。
かつては機関構成員、役員に課されていた制限が個々の党員レベルにまで拡大されており、インターネット時代の”口封じ”規約になったと批判されるわけである。「さざなみ」サイトでも特設欄を設けて多数の投稿を集め、その改悪ぶりが指摘されている。規約改定が大改悪であることが様々な角度から指摘されており貴重な投稿が多くみられる(注19)。
<(注19)、インターネット時代を敵視する規約改悪となっていることを指摘した吉野傍「インターネットと『さざ波通信』の弾圧を目的とした規約全面改定案」(2000年9月21日)、党員の意見発表の権利制限をかいくぐるアイデアを提案している「新規約の『民主的』解放とその『革命的』利用」(出不精の学生、2000年11月28日)など、秀逸なものが多くある。>
28、コミンテルン第3回大会の党組織論
そこでjcp執行部には、弁証法的思考に立ち返ってもらうために、レーニンが分派禁止決議を出した第10回党大会から4ヵ月後に開かれたコミンテルン第3回大会における党組織のあり方に関する決議を紹介しよう。連載(1)の<注3>で引用したが、レーニンが外国人に理解させることに失敗したと言っていた決議である。題名は「共産党の組織建設、その活動方法と内容についてのテーゼ」という。不破や榊の「到達点」論からすれば分派禁止規定が盛り込まれていてもよさそうなものだが、それはまったく盛り込まれていない。
「Ⅰ 総論 (1) 党の組織は、党の活動の諸条件と目的とに適合していなければならない。共産党は、プロレタリアートの革命的階級闘争のすべての段階をつうじて、またそれにつづく社会主義への、すなわち共産主義社会の第一段階への移行期においても、プロレタリアートの前衛、その指導的前衛部隊でなければならない。 (2) 共産党にとって絶対的に正しい、不変の組織形態というものはありえない。プロレタリア階級闘争の諸条件は、たえまない変転の過程をつうじて変化してゆく。そして、プロレタリアートの前衛の組織もまた、この変化に応じてたえず適切な形態を探し求めなければならない。同様に、歴史的に規定された各国の特質は、それぞれの党に適応した特殊な組織形態を条件づけている。しかし、分化には一定の限界がある。さまざまな国における・・・・プロレタリア階級闘争の諸条件には、あらゆる特異性にもかかわらず、相似性が存在しており、これが国際共産主義運動にとって基本的な意義をもっている。この相似性こそ、すべての国の共産党の組織のための共通の基礎をあたえている。この基礎のうえに、共産党の組織をひきつづき適切に発展させることが必要であって、既存の党をなんらかの新しい模範的な党とおきかえようとつとめたり、絶対的に正しい組織形態や理想的な規約を求めたりしてはならない。」(「コミンテルン資料集1」、443ページ、大月書店、1978年)
「総論」のこの内容は、すでに引用したブハーリン決議の思想と同じものである。党組織はその政治課題と社会的諸条件に応じて柔軟に形成されなければならず、普遍のモデルというものはないのだと言っている。ただし、そうはいっても何もかもが違うというわけではなく、いくつかの基本的に共通するという側面・「相似性」があり、それをこの決議で述べようとしているわけである。
項目を拾い出してみると「Ⅱ民主的中央集権制について」がある。「相似性」としての分派禁止が書かれるべきであるとすれば、この項目の中でということになるがそれは書かれていない。「Ⅲ 共産主義者の活動義務について」、「Ⅳ 宣伝と扇動について」、「Ⅴ 政治闘争の組織について」、「Ⅵ 党新聞について」、「Ⅶ 党組織の全体構造について」、ここか、分派禁止規定があるのはと思われるのだが、ここにもない。反対に次のような文言さえある。
「中央指導部の選挙にあたっては、重大な戦術上の異なった見解を抑圧してはならない。むしろ、そうした見解にも、その最良の代弁者をつうじて総体的指導部内に代表をもつ可能性をあたえるべきである。」(同「資料集1」、463ページ)
すでに連載(3)の<項22、23、24>で紹介したように、レーニンが「労働者反対派」を取り扱った対応と同じことが主張されている。 つづいて「Ⅷ 合法活動と非合法活動の結合について」がテーゼの最後の項目になる。
分派禁止論は影も形もないのである。こういうわけであるから、不破や榊の「到達点」論は、およそレーニンの権威に寄りかかった”ヒラメ”論というほどのものでしかないのである。だが、彼らの「到達点」論は他に日和見主義と絶縁した「新しい型の党」という主張とゴチャ混ぜになっているので、後に再び「到達点」論に立ち返りそのゴチャ混ぜぶりを再切開することになる。
29、不破による当時のロシアの政治情勢認識1
さて、不破らは、レーニンが「到達」したという分派禁止論が恒常的な決定であることを具体的にはどのように”論証”しているかを見てみよう。ポイントはブハーリン決議が言うように、組織の形態変化を決めることになる社会状況であり、当時のロシアの政治情勢である。不破はしたり顔で、ボルシェヴィキ党10回大会当時の分派禁止規定をめぐる田口の歴史認識の誤りを教えてやるという口調で、次のように当時の政治情勢についての不破の蘊蓄を開陳している。
以下の不破の蘊蓄には不破流”ディベート術”の粋が込められているので、その粋をどのように記述すれば浮き彫りになるか、悩むほどなのである。そこでまず、不破の原文全体を掲げ、次にその原文に逐条ごとの私のコメントを挿入したものと二種類の不破の文章を載せることにしよう。まずは、不破の原文である。
「・・第10回党大会が開かれた1921年という時期の情勢は、ソ連が、外国からの軍事干渉の打破に基本的に成功し、平和な建設に移行しつつあることを、特徴としていたのである。 分派の禁止の決定と情勢との関連についていえば、大会では、軍事干渉の危険などの一時的条件の問題ではなく、農民国における社会主義建設が、小ブルジョア的住民の間で動揺をつよめやすいというロシア革命の独特の困難と、そのもとでの『プロレタリアートの前衛の意志の統一』の特別の重要性が指摘された。
レーニンはそれ以前にも、社会主義革命の勝利後に、『プロレタリアートの無条件の中央集権ともっとも厳格な規律』を必要とする根拠として、『国際資本の力』だけでなく、資本主義的な『習慣の力、小規模生産の力』の影響との闘争をあげていたが、このことは、革命後のロシアに特有のものではなく、国際的に共通の問題である(「共産主義内の『左翼主義』小児病」、1920年、全集31巻8ページ)。この種の要素は、今日の発達した資本主義国においても、巨大なマス・メディアを媒介としての各種のブルジョア的、小ブルジョア的、反共主義的イデオロギーのはんらんなど、特有の形態で存在し、プロレタリアートの『忍耐、規律、剛毅、不屈、意志の統一』を必要とする諸条件の一つを形づくっているのである。 そして、いっそう重要なことは、この決定が、革命後4年間にわたる、各種の分派活動との闘争の実践的総括として提起されていることであり、だからこそ、この規律は、この時期のソ連共産党の特殊な措置にとどまらず、共産党の民主集中制の、組織原則の重要な構成部分として、国際共産主義運動の全体にとりいれられてゆくことになったのである。」(不破・「多元主義か」55ページ)
大雑把に不破の議論の特徴をいうと、「ロシア革命の独特の困難」がいつの間にか今日の「巨大なマス・メディア」問題と等置されている。これでは当時のロシアの政治情勢をまるでわかっていないことになる。ロシアの政治情勢を具体的につかむ必要があるのに、不破はその特徴を逆に革命を困難にする一般的な諸条件、「国際的に共通の問題」に解消してしまっている。不破の場合、どうしてこのような議論になってしまうのかというと、当時のロシアの独特の政治情勢を「国際的にも共通の問題」に解消しないことには分派禁止恒常説を基礎づけられないからである。だから、その目的に沿った結論を導き出すために”工作”が行われるのである。そのカラクリを逐条解説で解明していくことにしよう。上記の不破の原文一行ごとに<>(くさび括弧)で囲った私のコメントをつけていくという方法でやってみることにする。
30、不破による当時のロシアの政治情勢認識2
「・・第10回党大会が開かれた1921年という時期の情勢は、ソ連が、外国からの軍事干渉の打破に基本的に成功し、平和な建設に移行しつつあることを、特徴としていたのである。
<なるほどなるほど、ここはそのとおりである。─以下、<>括弧内は引用者・原のコメント>
分派の禁止の決定と情勢との関連についていえば、
<うん、これこそ聞きたいことだ>
大会では、軍事干渉の危険などの一時的条件の問題ではなく、農民国における社会主義建設が、小ブルジョア的住民の間で動揺をつよめやすいというロシア革命の独特の困難と、そのもとでの『プロレタリアートの前衛の意志の統一』の特別の重要性が指摘された。
<不破は当時起きていたクロンシュタット反乱などのロシアの小ブルジョア的動揺性からくる反乱・暴動という政治情勢に進まず、農民国ロシアの住民の小ブルジョア的動揺性という特徴の指摘で立ち止まっている。小ブルジョア的住民の動揺性は小ブルジョア的住民の性格ではあっても「情勢」ではない。「情勢」とは、住民の小ブルジョア性が具体的にどういう問題を起こしているかということなのであるが、不破はそこに踏み込まないのである。だから、小ブルジョア的住民の具体的動向を問題にすべきところを、不破は小ブルジョア住民の性格の問題に”すり替え”ているのである。不破得意の”すり替え論法”である。たとえて言えば、短気を起こしやすい性格というものを例に取ると、レーニンはすでに短気を起こして物を破壊している状態を問題にしているのであるが、不破は短気という性格を問題だと言っているのである。クロンシュタットの反乱や農民の暴動に進まず、こうした”すり替え”をする理由は、次の文章でわかる。>
レーニンはそれ以前にも、社会主義革命の勝利後に、『プロレタリアートの無条件の中央集権ともっとも厳格な規律』を必要とする根拠として、『国際資本の力』だけでなく、資本主義的な『習慣の力、小規模生産の力』の影響との闘争をあげていたが、このことは、革命後のロシアに特有のものではなく、国際的に共通の問題である(「共産主義内の『左翼主義』小児病」、1920年、全集31巻8ページ)。
<これで不破の”すり替え”のねらいがはっきりしたであろう。ここでは不破の言う「ロシア革命の独特の困難」が”すり替え”という変換をうけて、資本主義的な「習慣の力」と等置されて「国際的にも共通の問題」に”一般化”させられてしまっている。クロンシュタットの反乱や農民の暴動に進めば、こうした”一般化”ができないのである。「ロシア革命の独特の困難」はこの一般化でロシア革命「独特の困難」が雲散霧消してしまっている。レーニンの提起する分派禁止と情勢の関係を問題にするのであれば、情勢の具体的な姿を明らかにし、その姿と分派禁止決議の関連を検討しなければならない。ところが不破は具体性ではなく、逆に具体性が消え去る”一般化”を行っている。これは”不当な一般化”である。このような一般化が行われれば、読者は地の果てまでもつれて行かれることになる。>
この種の要素は、今日の発達した資本主義国においても、巨大なマス・メディアを媒介としての各種のブルジョア的、小ブルジョア的、反共主義的イデオロギーのはんらんなど、特有の形態で存在し、プロレタリアートの『忍耐、規律、剛毅、不屈、意志の統一』を必要とする諸条件の一つを形づくっているのである。
<とうとう不破の言う「ロシア革命の独特の困難」は今日の巨大なマス・メディアがもたらす問題と同じであることが明らかにされたわけだ。”不当な一般化”をするとこういうことになる。こうして、分派禁止は過去も現在も未来にわたって、資本主義がある限り全世界で必要となると主張する段取りが整ったわけである。>
そして、いっそう重要なことは、この決定が、革命後4年間にわたる、各種の分派活動との闘争の実践的総括として提起されていることであり、
<おいおい、レーニンはどこでそんなことを言っているか? 明らかに不破の独断である。レーニンは連載(2)の<注10>で引用したが、「いまは反対派は不要である。そんなときではない! どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべき時であり、反対派にかかずらっているべきときではない。それは、客観情勢から生じることである。苦情を言わないでほしい。」と言っていたのであって、緊急事態には討論ではなく銃だと言っているのは明瞭であろう。4年間にわたる分派闘争の「実践的総括」ではなく、政権倒壊の危機だから銃をとれとレーニンは言っているのである。それとも、4年間の「実践的総括」という不破は分派禁止決議の後は、ところかまわず、いつでもどこでも銃をぶっぱなすつもりなのであろうか? >
だからこそ、この規律は、この時期のソ連共産党の特殊な措置にとどまらず、共産党の民主集中制の、組織原則の重要な構成部分として、国際共産主義運動の全体にとりいれられてゆくことになったのである。
<やれやれ、やっと結論に到着した。この結論はすり替え、不当な一般化、独断の連鎖のうえに成り立っている。これが不破の論文に典型的な議論の進め方なのである。そのうち不破は突然、丹沢の山荘から銃をとれ、と叫び出すであろう。>」(不破・「多元主義か」55ページ)
31、不破による当時のロシアの政治情勢認識3
さて、こうして「ロシア革命の独特の困難」が現代マス・メディア問題と等置され、分派禁止は国際共産主義運動に取り入れられたと書いておいて、上の不破の引用文に直接続けて、不破はレーニンの分派禁止決議の一部を引用するのである。
「すべての自覚した労働者が、どんなものでも分派は有害であり、ゆるしえないということは、はっきりとさとる必要がある。・・・」(不破「多元主義か」55ページ掲載)
分派禁止が国際共産主義運動に取り入れられるほど一般化していると言ったうえで、このような引用を行えば、分派は一般的に、社会状況とは関係なく有害無益だとレーニンは主張しているように解釈されてしまうことになる。これは不破流のだましの論争”テクニック”と呼ぶべきものである。自己の主張への反証となる引用を自己の主張の論証に転換させる不破流”テクニック”だ。これを”逆転のテクニック”と名付けることにしよう。
第一、ブハーリン決議にもあるように、マルクス主義の党組織論は社会状況とは無関係に組織形態を議論しないのであって、第二に、これまたすでに引用したが、レーニンの中央委員会報告の「結語」にあるように、「党の団結、党内に反対派があることをゆるさないことは ─ 現在の時期から生じる政治的結論である。」(同201ページ)ということなのであって、現代マス・メディア云々などという社会は”お呼びでない”のである。そして、第三に、前回の<項18>でも引用したが、レーニンは「『党の統一について』の決議案について言えば、この決議案のかなりの部分は、政治情勢の特徴づけを内容としている。」(同261ページ)と述べていたのである。だから、分派禁止決議を現代のマス・メディアが問題になる社会状況にまで拡張して適用することはできないのは言うまでもない。
この分派禁止という組織形態を変更する決議は、当時の危機的政治情勢に対処するための一時的な組織的措置なのであって、当時の危機的政治情勢のもとでは、「どんなものでも分派は有害であり、ゆるしえないということは、はっきりとさとる必要がある。」ということなのである。クロンシュタットの反乱が起きるような社会状況の下では”どんなものでも分派は有害”だとレーニンは言っているのであって、不破はその特殊な社会状況という限定を意図的に、すり替え、不当な一般化という”工作”でマス・メディアが問題になる現代にまで押し広げ、独断と逆転のテクニックで分派禁止を無限定な、普遍的なものに変換してしまったのである。
不破は「ロシア革命に独特な困難」ということを現代マス・メディアが革命運動に与える困難と同様なものと把握したことで、レーニンが直面した社会状況をまったく理解していないことを暴露したのであるが、その無理解のうえに立って分派禁止規定の恒常説を唱えているにすぎないのである。
32、20年後の不破の認識の変化
不破・田口論争から20年後、不破は「レーニンと資本論」(1998年~2000年)という膨大な著作を書いている。その研究方法は「レーニン自身の歴史のなかでレーニンを読む」(不破)ということらしく、簡単に言えばテーマごとにではなくレーニン全集を時系列に読んでいき不破の思いつく論点を書き連ねていった著作である。そこでは、分派禁止決議をあげた1921年3月頃の政治情勢にも触れているであろうから、不破の認識がレーニン全集を読み直してどれほど発展したか、上記引用の不破の認識と比較してみることにしよう。何にしても1921年の第10回党大会の時期はロシア革命の大転換(戦時共産主義からネップへ)の時であるから、当時の政治情勢を素通りしてしまうわけにはいかないのである。
不破はE.H.カーの「ボリシェヴィキ革命」から次のような文章を引用し、その記述を「この説明は、かなり真実にせまったものだと思います。」(「レーニンと資本論」第37回、219ページ、「経済」2000年10月号、新日本出版社)と言っている。カーはこう書いているのである。
「農民の不穏の爆発は、1920年9月の復員とともにはじまり、その冬に規模をひろげ、はげしさを増して、レーニンが1921年3月にみとめたように、『何千万の腐敗した戦闘隊員』が匪賊に転化するにいたった。この広範な動乱が1921年3月のクロンシュタットの蜂起──1918年夏以来はじめての、ソヴィエト権力に対する内部からの計画的な反乱──の背景であり、その前奏曲であった。」
カーのこの記述は、連載(2)のレーニン報告①~⑬を見てきた我々には既知のものであるが、不破には田口との論争の20年後にカーに教えられたことであるらしい。「この説明は、かなり真実にせまったものだと思います。」という表現がその証拠である。してみれば、<項31>で述べた結論である不破は当時の政治情勢をわかっていないということが不破の”自白”で証明されたわけである。しかし、まだ結論を急ぐのは止めよう。
不破は「あとからこの時期をふりかえるレーニン」という小見出しをつけて次のように書いている。不破は第10回党大会から1年8ヵ月後の1922年11月のレーニンの演説「ロシア革命の5カ年と世界革命の展望」から引用する。
「1921年にわれわれが内戦のもっとも重要な段階を乗りきり、しかも勝利をもって乗りきったあとは、われわれはソビエト・ロシアの大きな──おもうに、もっとも大きな──国内の政治的危機にぶつかった。この危機は、農民のいちじるしい部分の不満を呼び起こしたばかりでなく、労働者の不満をも呼びおこした。それは、ソビエト・ロシアの歴史上、農民の大多数が意識的にではなく、本能的、気分的にわれわれに反対した最初の機会、そして最後であってほしい機会であった。」(「レーニンと資本論」同225ページ記載)
このレーニンの演説もその内容は我々には既知のものである。レーニンが10回大会報告でそれこそ口から泡を飛ばして繰り返し言い続けてきたことである。ところが不破の認識はまったく違っていて、レーニンのこの演説を読んではじめて納得したようなのである。
「転換への決断(ネップへの政策転換のこと─引用者注)をした諸会議では、レーニンは情勢の深刻さについて、ここまで深刻な言葉を使いませんでした。しかし、あとでふりかえると、危機の深刻さにはたいへんなものがあったのです。この演説でのレーニンの情勢規定は、冒頭に引用したカーの文章を思わせるものがあります。事態はまさに、ソビエト・ロシアが10月革命以後に経験した『もっとも大きな政治的危機』だったのです。」(同「レーニンと資本論」225ページ)
そうなのだよ、やっと判ったのかい不破君よ、と言いたくなる衝動がこみ上げてくる。そうすると、田口と論争したときの「マス・メディア」とこの危機を一緒くたにして「国際的にも共通の問題」と一括した誤りもわかるだろうね。当時はロシア独特の深刻な政治的危機だったのだよ。そして、「国際的にも共通の問題」にできないとなると、レーニンの分派禁止決議を世界中にばらまくわけにもいかないこともわかるよね。確かに不破20年の進歩がある。それならjcpのウルトラ分派禁止規定も再検討することを提案したい。
不破は田口との論争の20年後に、ロシア共産党10回大会当時の政治的危機が容易ならざる深刻さをもっていたことを理解したようである。つまり、田口との論争当時はロシアの当時の政治情勢をさっぱりわからないまま、現代の巨大なマス・メディア云々と田口に蘊蓄をたれ分派禁止決議の恒常説を唱えていたわけである。
この不破の無理解は、不破の”工作”ぶりを検討した前項<項31>ですでに指摘していたことであったが、改めて20年後の不破の文章で確認できたわけである。
そして、20年後であれ、不破が「もっとも大きな政治的危機」であったことを認めれば、分派禁止決議についての文献解釈論争は決着がついたのである。分派禁止決議は当時の「もっとも大きな政治的危機」に対応する臨時の一時的な組織対応だったのである。
33、ウソをつけば、ウソを繰り返すはめになる
しかし、これで不破を解放するわけにはいかない。以下、<項33>、<項34>は文献解釈論争の検討ということからみれば末節のことであるが、20年後の不破による自己正当化の”工作”手口の解明である。
不破のこの20年後の”目覚め”には重大な事実誤認が含まれているのである。レーニンが事態の深刻さを認識したのは「あとからふりかえると」ではないのだ。不破の言うように、あとから振り返ってレーニンが事態の深刻さを認識したということになると、10回党大会当時のレーニンは事態の深刻さを知らぬまま分派禁止決議を書き、途方もない反民主主義的措置である中央委員の除名権を「非常措置」として中央委員会に付与したことになる。そんな馬鹿な話はない。レーニンは事態の深刻さを大会報告で明確に主張している。
1921年3月の第10回党大会では「どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべき時」とレーニンが絶叫していたのである。レーニン報告をまとめた連載(2)の①~⑬を見れば判るように、レーニンの大会報告を読めば、レーニンは深刻な情勢認識をしているのであり、不破がそれに気がつかないはずがないのである。100数十ページにわたる大報告なのだ。
だから、不破が「あとからこの時期をふりかえるレーニン」と言う主張には二重の誤りと一つの不自然さがあることになる。一つはレーニンが10回大会当時は事態の深刻さに気がついていないという誤り。次はレーニンが10回党大会の1年8ヵ月後に当時の事態の深刻さに気がついたという誤り。さらには、こうした二重の誤りを犯す不破の主張にはレーニンの大会報告を読んでいながら、レーニンの深刻な情勢認識に気がつかない、読み落とすという途方もない不自然さがあるのである。大会報告を読んでレーニンの深刻な情勢認識を確認すれば、「あとからふりかえると」というような話の出てくる余地はないのである。
これはどういうことなのであろうか? 不破の、例によって例のごとき”工作”、詐術、作り話なのである。一度ウソをつくと何度もウソをつかなければならなくなる例である。
なんで不破がこうしたありえない馬鹿げた重大な事実誤認を二重に犯して作り話をでっち上げるに至ったかを説明しよう。田口との論争では分派禁止を「国際的にも共通の問題」にするべく、ロシアの当時の政治情勢を「習慣の力」やマス・メディアの影響と同等なものにまで意図的に格下げ(不当な一般化)したことを不破は忘れていないのである。そのために「レーニンと資本論」でロシア革命の転機となる第10回党大会当時の政治情勢に触れざるを得なくなって、はたと困ったのである。
論争という形式ならば田口との場合に見られたようなあれこれの不破流の”工作”テクニックで乗り切れたが、当時のロシアの政治情勢を叙述するということになると、そうしたテクニックは使えないし、デタラメな政治情勢を記述すれば、ロシア史の研究者に簡単に事実誤認を批判されてしまうことになる。そこで真実なところ(=深刻な政治的危機)を記述せざるを得ないのであるが、しかし、それでは田口との論争における自説が破綻する。分派禁止に関わる重要論点であり、破綻させるわけにはいかない。こうして、不破はディレンマに陥ることになったのである。
いろいろ考えて不破がひねり出したアイデアが、レーニンは事態の深刻さに後から気づいたという”学説”、不破得意の作り話である。こうすると、当時の政治情勢をありのままに叙述できるし、他方ではレーニンは当時、事態を深刻に見ていないからレーニンの分派禁止決議は当時の政治情勢の特殊性に拘束されたものではないという主張も、やろうと思えばできるわけである。これでなんとか田口との論争での主張と表面上の辻褄をあわせられると不破は考えているのである。しかも、レーニンが当時気づいていないのであるから、不破が20年後に気づいても不思議ではないというわけでもあろう。
しかし、”工作”の証拠と言うべきあり得ない見落としという不破の不自然さと重大な事実誤認という二つの痕跡を”犯行現場”に残さざるを得なかったのである。 ウソにウソを重ねる不破の”ままごと遊び”の一例である。
なお、参考までに言えば、「レーニンと資本論」では不破は10回党大会のネップへの転換だけを取り上げ分派禁止決議には一切触れていない。これも実に奇妙なことである。なぜなら、10回大会の主要な議題となったのはネップと分派禁止決議だからである。両者は当時の危機的な政治情勢に対応するボルシェヴィキの二つの政策であった。しかも分派禁止決議はjcpの今日に直接連なる問題でもあるから、触れない方がおかしいであろう。不破は10回大会の分派禁止決議を意図的に避けているのがわかる。
さらに、分派禁止決議に触れない奇妙さはこの著作を書いた時期を考慮するとなおさら際だつことである。すなわち1998年から2000年と言えば、社会主義世界体制が崩壊して10年がたち、フランスやイタリアの共産党がその「MS」を放棄し、否応もなくjcpも過去の理論を点検する必要に迫られていたはずだからである。不破による「レーニンと資本論」もそうした意図があったはずで、そのなかで『国家と革命』をこき下ろしていたのも見直しの一環であった。さすれば、ほとんどいたるところで倒壊した共産党組織の「MS」なる組織原則も再検討の素材にして当然だったはずである。 ところが不破は分派禁止決議にはまったく触れないのである。なぜか? 理由は簡単にわかるであろう。田口との論争における自分の誤った情勢認識に触れなければならなくなるからである。
34、不破の作り話の楽屋裏
改めて、不破の作り話の楽屋裏を詳述すれば次のようになる。
すべての出発点は、不破が当時の危機的な政治情勢を知りながら、田口との論争で10回党大会当時の危機的な政治情勢をすり替え、不当な一般化、独断、逆転のテクニックという”工作”手法を使い”なきもの”にして分派禁止恒常説を唱えたことが原因なのである。20年前は、田口をやりこめることに集中していたから後先を考えなかったが、20年後に「レーニンと資本論」で当時の真の政治情勢を叙述せざるをえない場面にぶつかり、「もっとも大きな政治的危機」と書かざるを得なくなって、新たな”工作”が必要になったのである。
まず、20年後に不破が気がついたことにせざるを得なかったことが第一。しかし、単に気がついたと言うのでは田口との論争の際の自説の誤りが露呈するから、レーニン自身が当時は気がついていなかったという作り話をでっち上げる必要が出て来たのである。「あとからふりかえると」がその作り話である。これが第二。その目的は二重である。レーニン自身が当時気づいていないのだから分派禁止決議は当時の情勢に規定されたものではないと暗々裏に主張すること。および、レーニンが気づいていないのだから、大会報告でも深刻な政治的危機について述べられていないのだと読者に想像させ、したがって、不破が20年後まで気がつかなかったのも不思議ではないという印象をつくりだすことである。
第三は、10回党大会以後のレーニン文献から、作り話にふさわしい、レーニンがあとで気がついたと読者に思わせられるような適当な文献を探し出すことである。これが適当だというわけで「ロシア革命の5カ年と世界革命の展望」(コミンテルン第4回大会レーニン報告)を読者に紹介したわけである。
しかし、ここにも難問があった。紹介する際、この報告まではレーニンは気づかなかったとは不破は書かないのである。あるいは、この報告ではじめてレーニンは当時を回顧、検討し、当時の深刻な事態に気づいたとも書かないのである。不破はなんと書くか? 「あとからこの時期をふりかえるレーニン」(同「レーニンと資本論」225ページ)、「あとでふりかえると」(同)である。
1年8ヵ月後のレーニン報告でレーニンが「あとでふりかえると」「もっとも大きな政治的危機」に気がついたのならば、不破は明確にそう書けばいいのだがそれができない。不破の引用した前前項のレーニンの引用文には、そんなことは書かれていないからである。
確かにレーニンは当時のことを振り返っているが、それは報告の題名が「ロシア革命の5カ年と世界革命の展望」だからである。病気のレーニンはロシア革命の全体は報告できないと言って、新経済政策(ネップ)だけにしぼって報告するのだが、そこでレーニンはネップへの転換を決めた10回党大会当時の政治情勢を述べているのである。だから、当時の情勢を改めて検討するというような特別の扱いではなく、不破の願うような”気がついた”というような発言はないのである。当たり前である。不破の引用したレーニンの報告部分は連載(2)の①~⑬で紹介したレーニンの情勢認識の要約にすぎないからである。
不破は作り話のために、当時の政治情勢認識を繰り返しただけのレーニンの発言を当時の政治情勢についての”新発見”報告にすり替えてしまったのである。ウソは限りなく広がっていく。田口との論争の20年後に当時の深刻な政治的危機に気がついたという不破のウソ、レーニンも当時は気づかず1年8ヵ月後に当時を「ふりかえると」気がついたというウソ、「ロシア革命の5カ年と世界革命の展望」で10回党大会当時の危機的な政治情勢について、レーニンは気がついたというウソ、ウソの三重奏と言うべきだろうか。
20年後に不破が気づいたという「もっとも大きな政治的危機」を不破は田口との論争当時から知っていたと私は改めて主張する。なお、この私の主張は次項以下でさらに補強されることになる。
35、”省略”で事態を乗りきる榊
榊の場合を見てみよう。榊が当時のロシアの政治情勢をどの程度把握しているかである。
「もちろん、分派禁止措置をとるにいたった背景に、当時の情勢があることは自明である。レーニンも『党の団結、党内に反対派があるのをゆるさないことは─現在の時期から生じる政治的結論である』(第10回大会での『中央委員会での報告の結語』、全集32巻201ページ)と述べている。『同志諸君、いまや反対派は不必要である。そんなときではない! ・・・・ われわれには反対派はもうたくさんだという結論をくだすべきであろう』(同前209ページ)とも指摘している。 しかし、この当時の『時期』『政治的結論』を理由に、分派禁止措置を『特殊』化する根拠はレーニンの言葉からは発見できない。 むしろ、『現在の時期から生じる政治的結論』だという表現は、分派禁止措置をそうなるべきものとしていたことを物語っている。 『いまや』反対派はたくさんだという『結論』も同じである。1920年からの分派抗争をふくむ『分派闘争の全歴史』は、党の革命の事業にとっての分派の有害さをいよいよあきらかにし、分派禁止の必要性と緊急性を痛感させることになった。 ここにこそ、『分派は有害』なものとして、それを禁止することが『一時的な措置』ではなく、『分派闘争の全歴史』から引き出された当時の到達点であったことの追加証明がある。」(榊「集中制論」135ページ)
どうであろうか? この文章から榊の言わんとすることを、その根拠と結論を明確な相互関係のうちに理解することができるだろうか? 何が「追加証明」なのであろうか? 「むしろ、『現在の時期から生じる政治的結論』だという表現は、分派禁止措置をそうなるべきものとしていたことを物語っている。」という文章などは何を言っているのかまるでわからない。肝心な所でまるでろれつがまわっていない。
このろれつの回らない文章を理解するポイントは次の点にある。「同志諸君、いまや反対派は不必要である。そんなときではない!・・・・」 このレーニンの文章の続きを榊は「・・・・」と省略しているのである。そこにはレーニン全集では次のように書かれている。「どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべきときであり」と書かれているのである。したがって、この文章が省略されずに引用されると次のようになる。
「同志諸君、いまや反対派は不必要である。そんなときではない! どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべきときであり、 われわれには反対派はもうたくさんだという結論をくだすべきであろう」
このように省略なしに引用してしまうと、「しかし、この当時の『時期』『政治的結論』を理由に、分派禁止措置を『特殊』化する根拠はレーニンの言葉からは発見できない。」という榊の主張は根本から崩れてしまうことがわかるであろう。「どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべきとき」という時期が尋常な時ではないことが明らかになるからである。
榊は不破と同様に、ここで引用の一部省略という”テクニック”をつかって、分派禁止措置を「特殊化」する根拠は発見できないと偽ったのである。そうしておいて「分派闘争の全歴史」からくる結論が分派禁止措置であり、その措置は「一時的措置」ではないと独断的に主張するのである。榊も不破と同様に、結論が先にあって、その結論を出すために引用の一部省略という”工作”をしているのである。そろいもそろって”工作好き”で、インターネット時代の”工作員”と見まごうほどで、これがjcpのイデオローグのかつての”双璧”だったらしいのである。
36、不破・榊は理論家ではなく”工作員”
念のために、榊が省略したレーニンの文章をその前後も含めて全文掲載しておこう。榊訳とは少々異なるが、連載(2)の<項16>の<注10>でも引用してある。
「そして私は、いまでは反対派が提供するテーゼと論争するよりも、『銃をとって論争する』ほうがはるかにましだ、と言わなければならない。同志諸君、いまは反対派は不要である。そんなときではない! どこであろうと、いまや銃をもってたたかうべき時であり、反対派にかかずらっているべきときではない。それは、客観情勢から生じることである。苦情を言わないでほしい。同志諸君、いまや反対派は不必要である!」(レーニン全集32巻、209ページ)
これだけの文章を掲載すれば、さすがの榊も分派禁止措置を「特殊化」する根拠を発見できないとは言えなかったであろう。<項33>との関係で言えば、あとから振り返ってレーニンは気がついたという不破はこの文章も読み落としていることになるわけである。しかし、私が不破は読み落とすはずがないという理由、読み落とし、気がつかなかったというのはあまりに不自然だと言う理由も、こうした発言をレーニンが大会報告でしているからである。これほど強烈な発言はめったにあるものではない。
さて、榊による意図的な引用の一部省略から何がわかるであろうか? 読者にも考えてもらいたいところである。推理小説の謎解きのようなおもしろさがある。
第一にわかることは、榊によるこの省略は、榊がレーニンのこの深刻な事態認識を知っていることを意味している。知っていて榊の主張に都合が悪いから省略したのである。第二に、レーニンの深刻な事態認識を知っているということは、有名なクロンシュタットの反乱もあるわけで、榊は当時の政治情勢がソビエト政権にとって「もっとも大きな政治的危機」(不破、前掲「レーニンと資本論」225ページ)であるか、それに近い深刻な事態であることも知っていたわけである。知っていて、榊は上述のろれつのまわらないデタラメな文章を書いている。すると、どういうことになるか? 第三に、不破も田口との論争当時から、レーニンのこの深刻な情勢認識を知っており、榊と同様にボルシェヴィキ政権が危機的状況に陥っていたことを知っていたのである。
というのは、二人で手分けして田口と藤井との論争をしていたわけであるから、jcpの分派禁止恒常説に関わる基本的な側面については当然、二人の見解の統一を図っていたはずだからである。二人がばらばらな見解を述べていては田口・藤井との論争にならないわけで、場合によっては同士討ち、特に”工作”が必要な部分については”きちんとした”意思統一”さえ必要であったと言うべきである。
つまり、当時のレーニンの深刻な情勢認識については無視するという”意思統一”があったはずなのである。そうでなければ、そろいもそろって、当時の情勢について、不破のような詐術の四連発や榊の引用省略というような”工作”が集中するはずがないのである。
私は田口と論争する不破の文章を検討した際(<項31>)は、結論として不破は当時の政治情勢をわかっていないと書いた。不破の文章を検討しただけではそれ以上のことは言えなかったからである。しかし、今や不破は最初からわかっていて、分派禁止恒常説に引きずっていくための”工作”文をあらゆる手法を用いて綴っていたのである、と言い直さなければならない。
こうした結論、すなわち、不破も榊も10回大会当時の危機的な政治情勢を知っていて、分派禁止恒常説を維持するために、すでに紹介した不破・榊のふたつの”工作”文を書いていたのである。同志・榊が少々”ドジ”であったために不破の”犯行”も全面的に解明されることになったのである。
この結論から振り返って眺めると、不破の足取りは実に鮮明に見えてくる。レーニンの深刻な情勢認識を知りながら、すり替え、不当な一般化、独断等の連鎖を用いたのは恒常説に結論を引きずっていくためのもので、最初から意図的なものであり、それだからあれっぽっちの文章に四つも”工作”が行われたのである。「ロシア革命の独特の困難」として小ブルジョア的動揺性までは言及しながら、そこから不破も知っているはずの有名なクロンシュタットの反乱にみられる暴動の広範な勃発には進まず、一転して「習慣の力」、マス・メディア論に反転したのは十分に意図的なものだったのである。
だからまた、20年後の「レーニンと資本論」で不破が重大な政治的危機であったことに気がついたというのもウソである。田口との論争当時には「もっとも大きな政治的危機」をないものにしていたため、20年後に当時の情勢の叙述が必要になった際、気がついたふりをしたのである。しかもレーニンを”遅れてやってきた仲間”に仕立てるというおまけまでつけて。レーニンが当時わかっていないのだから、不破がわからなくとも無理はないと言わんばかりに思わせぶりにである。
読者には思い出してほしいのだが、連載(2)で当時のレーニンの情勢認識を①~⑬まで延々と紹介したのだが、それをみればわかるように当時のレーニンの危機的な情勢認識を、不破や榊が見落とすということがあまりに不自然なのである。レーニンが第10回党大会報告で言う危機的な情勢認識に本当に気がつかないのであれば、彼らは日本語の読解力がないと断じざるをえない。彼らは分派禁止恒常説を維持するためにデタラメ八百の”工作文”を書いて田口、藤井を批判したのである。残念なことに、これが不破らの「科学的社会主義」の実態なのである。
37、分派禁止決議をめぐる論争の結論
以上で、分派禁止決議をめぐる文献解釈上の問題は基本的に終わりである。その「到達点」論は成り立たず、当時の情勢は不破が20年後に白状したように「もっとも大きな政治的危機」だったのであって、分派禁止決議を当時の情勢とは無関係に世界に普遍化させる恒常説は破綻したのである。
不破にしても榊にしても分派禁止決議をあげた当時のロシアの社会状況とレーニンの情勢認識を知っていながら、一時説を否定するために、あらゆる”工作”をして分派禁止恒常説を唱えているということである。彼らの文章には科学的探求という精神の片鱗もみられない。どんな誠実さもない。あるのはjcpの「MS」を維持するための妄執だけである。田口、藤井の掃討を二人に厳命し原稿を点検する宮本顕治の影さえ感じ取れるほどである。彼らの不可解なまでの妄執(多分、私が規定する小ブルジョア執行部という本性からくる)が、分派禁止恒常説を維持するためのなりふり構わぬ”作文”を書かせているのである(注20)。
今日にいたるjcpの「科学的社会主義」が、社会主義世界体制崩壊以後の、時代の先進思想としての役割を果たせなくなっている原因の一端をここに見ることができるであろう。”作文”の世界では、現実をどうにでも塗り替えることができるが、リアルな世界の現実は頑固なもので、不破や榊の”工作”程度で塗り替えられるものではないのである。不破、榊が完敗して理由である。
<(注20)、──不破哲三の三百代言的論文作成手法とその社会背景──
ここに紹介した不破の議論の仕方のどこかに人間の誠実さをみることができるであろうか? 論争する者は真理を探究する者としての誠実さを持たねばなるまい。真実の女神は誠実な探求者にしか門戸を開放しないのではあるまいか? こうした”工作”満載の議論を”労働者階級”に提供して、内心に忸怩たるものはないのであろうか? この”工作”の手口には明らかに不破の大衆蔑視の思想が投影されている。たとえて言えば、コックがハエの混入した料理を、わかっていてお客に出すようなものと言えばよかろうか。
不破の議論の仕方には、どんな手法を講じてであれ党を批判する者を口先でやっつけることは善であるという途方もない俗物の思想が現れている。レーニンは科学の党派性ということを言ったことがあるが、不破の手口はそれとは別のものである。こうした詐術のオンパレードというべき不破の論立てと論争した田口には同情せざるを得ないものがある。
連載(2)の①から⑬までに書かれたレーニンの認識するロシアの政治情勢を理解しておれば、不破のすり替えがどこにあり、不当な一般化がどこで行われ、さらにどことどこで独断と逆転のテクニックが駆使されているかがわかるのだが、通常はそこまで理解するのは困難である。
何度も不破の論文を検討するとわかってくるのだが、不破にあっては結論が先にあって、その結論を作り出すために引用がすり替えや不当な一般化、独断、あるいは禁じ手にいたるまで、様々なの手法を用いて張り合わされていくのである。そこには科学的探求というものがゼロであって、宮本顕治が必要とする論文を政治目的にあわせて書き上げてきたという”党活動”の中で磨かれてきた詐欺的と言うしかない論文作成・論争手法があるだけである。
このサイトでもそうした不破の詐欺的手法を二つの投稿で暴いてきたので、興味のある読者は参照されたい。一つは「レーニンが無知なのか、不破哲三が無恥なのか?(1)(2)」(理論政策欄2004年9月)、そこではマルクス・エンゲルスの平和革命論についての文献を読んでいないからレーニンは暴力革命唯一論者になってしまったという不破の珍説を論証するために、不破がどういう手口を使ったかが示されている。不破はマルクスのイギリス関係の文献だけを取り上げ、レーニンが読んだことが明確なドイツに関連する平和革命へのエンゲルスの言及を”なきもの”にしたのである。もう一つは「不破哲三の『古典研究』にみるカラクリ芝居・・・」(理論政策欄2006年11月)、ここではテーマの中心をなすマルクスの文章をその全体を提示せず、前半だけ読者に見せて自分に都合のいい議論を積み上げるという方法、つまり、事実上のマルクスの文章の改竄という手法をとっている。
不破は宮本に重宝される以前から結論をコロコロ変える論文を書いていた(「共産党指導部の化石化・・・(9)」の<注33>参照)が、どういう結論にでも”書きこなす”その能力が評価され、自分でもその”技術”を磨いたということなのであろう。確かに、真実なものをぬきにして、作文技術という点だけで見れば賞賛に値するほど多彩なアイデアの持ち主である。
不破が真実が基準とはならないこうした論文作成能力を発揮して党首に成り上がることができた時代背景を考えることは実に興味深い。まず第一に、不破が出世コースを登り出す60年代、70年代はまがりなりにもマルクス・レーニン主義が一定の権威をもっていた時代であり、彼らの言説に博識であるというだけで一定の評価を得られた時代である。第二は、出版や表現の自由ということでは、庶民に表現手段がなく、jcpが独占していたという事情があろう。不破の論文を精査してデタラメ八百がわかっていても、庶民にはそれを発表する手段がなかった。
田口のようにたまたま「前衛」誌上に反論を載せる機会があっても、不破流のテクニックを駆使されると、逐条的に反論していたのでは論文が煩瑣で長文になり、論点を絞り上げることも難しくなり、結局、そのデタラメぶりに十分言及できないことになるのである。藤井が不破らの「”批判”をていねいに吟味していたら、反論は本書の二倍も、三倍もの分量に達するであろう」(藤井「ペレストロイカ」279ページ)と言うのも当然なのである。
第三に、こうした論争をする世界が特殊で狭い世界のままであって、多くの研究者が参戦するということがなかった。多くの論者が参戦する学会のような場所であれば、不破のデタラメ八百も早期に摘発され、不破の化けの皮も早期にはがされていたはずである。第四は、マルクス・レーニン主義の政治論の領域では、jcpは事実上の独占的解釈権保持者として振る舞い、異論は機関紙「赤旗」やその他のjcp関連の出版物で大げさに批判されるという論争不毛の大地が作られたことである。たとえば藤井は次のように言っている。
「・・・私のこのささやかな研究(とその原型となった論文)は、思いもよらない反響を呼ぶことになった。不破哲三、榊利夫氏ら日本共産党の幹部理論家たちからいっせいに論難をこうむることになったのである。ことに『レーニンにおける党組織論の発展』という私への批判論文を収録した榊氏の著作『民主集中制論』(新日本出版社、1980年)の『赤旗』での広告文を利用しての共産党側の私の著書にたいする批評は、『批判』の範囲をこえ、政治主義的な糾弾の文言にみちみちていた。しかも、その広告が連日のように『赤旗』に掲載された。これが科学的社会主義を標榜し、客観的真理への唯一接近能力を自負する党の”批判”と知って慄然とさせられたのであった。」(藤井「ペレストロイカ」277ページ、斜体字は原文では傍点)
不破は、こうした社会背景を見越して、狭い世界での論争だから結論先にありきのデタラメ八百の論文でも、うんざりするほど引用を盛り込んだ長文にすれば化けの皮ははがれないという経験上の自信を持っていたことである。彼に科学的真理に忠実足らんとする不動の信念、誠意があれば、こうした”テクニシャン”になることを封ずる自制も働いたであろうが、不破はホームグラウンドでたたかうプレーヤーのように意気軒昂として三百代言論争をしている様子が見て取れる。
要するに、jcpの「科学的社会主義」を科学たらしめる社会的土壌が欠けていて、その欠陥を払拭すべきjcpの努力もなく、むしろ、その恐ろしく貧弱でローカルな土壌を地の利としてきたjcp執行部の精神風土に、真理への誠実さと自制心に欠ける不破のような人物が”開花”したのである。そして宮本の組織的遺産=独裁制も相続したことを付け加えておくべきであろう。
しかし、”天網恢々、疎にして漏らさず”とはよく言ったもので、致命的なことにはマルクス・エンゲルス・レーニン研究が不破の政治指導者としての能力を高めることには何の役にも立たなかったのである。役に立つはずがない。研究ではなく、”工作”でつくりあげた作文だからである。二一世紀入っての国政選挙の惨憺たる結果を見ればいい。諸党の無節操な合従連衡と宮本引退の置きみやげの産物と言うべき1998年の参議院選を除いて、不破の指揮するjcpはなすすべもなく国政選挙で後退してきたのである。そして今日、インターネットが普及すれば、庶民は表現の自由への手段を手に入れるのであって、不破の三百代言も次々と暴かれていく時代に入りつつあるのである。>つづく