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「組織論・運動論」討論欄

原仙作さん、人文学徒さんへ

2009/3/6 樹々の緑

   ご無沙汰しております。週一の更新ペースになって、あまり見落すこ となく拝読しています。もっとも、このペースでは、いざ問題意識を喚 起されたときに若干間延びを感じるため、よその掲示板で議論をさせて いただいたこともあります。
 「ウェブ上の言論活動よりも実際の活動にウェイトを置く」ようにし てから、ある意味で浦島太郎状態にあったのが、それなりに改善される ようになり、問題意識は深まったのですが、他方では、この場に具体的 なことは書きにくくなってしまいました。どのように「折り合い」をつ けるか、思案中です。

   ところで、人文学徒さんは、原さんの「口先では共産主義の必然を言 うものの、本当にそう信じているとはとても考えられない」というとこ ろに、とくに感慨を覚えられたそうですが、私は、次のところに特別の 感慨を覚えました。

> 私の深く確信するところでは、今は捨て去られているマルクスやレーニンの言論が見直され復活してくる日は必ずやってくるのであって、その日のために、意図的に作られた誤った権威、あからさまなウソで塗り固められた「理論」を批判しておくことは、その昔、マルクス主義の洗礼を受けて学生時代を送った者の義務だと考えているのです。(2月20日付;組織論・運動論欄)

 私は、ずっと以前に、原さんや人文学徒さんの世代を、自分よりも一 回り程度上ではないかと想定して投稿したことがありました。「上」だ という印象は変りませんが、上記引用部分、殊に「その昔、マルクス主 義の洗礼を受けて学生時代を送った者の義務だと考えている」というと ころには、胸に迫ってくるものを感じます。
 「社会主義の崩壊」以後、マルクスがそもそも問題にした事柄――私 流にいえば、「自由・平等・博愛」という近代市民革命が標榜した人権 と社会理念は、「所有の自由・搾取の自由・貧困の自由・餓死の自由」 でしかなく、その課題は未だ達成されていないこと――自体も、まるで 「無かったかのように」扱われてきた反面で、グローバル資本主義・新 自由主義・自己責任論の系統的な攻撃の前に、若者を中心とする世代が いいように食い物にされてきたのが、この「失われた20年」の経過であ ったように思います。

   とりわけ、20代~30代の「若者」と話してみて痛感するのは、自分た ちが若い頃に、よく意味も理解しないである種ファッションのように語 り・その後その実質が解ってきたマルクス主義の基礎概念、トータルな 社会認識・歴史認識を、彼らがほとんど共有していない、ということで した。もちろん、彼らに言わせれば、「そんな観念的な議論ばかりして いて、自分自身が他者を踏みつけにして暮らしていることに無感覚だっ たじゃないか!」ということにもなるでしょう。
 けれども、彼らが「自分の身の回り半径5メートル」あたりから出発 して、その怒りをぶつける対象を社会の中に「発見」しようとするとき、 トータルな社会認識・歴史認識の欠落が、極めて大きな障害となってい ることは、否めない厳然たる事実であると思います。

   そして、私が彼らと同じような感覚で、若者の現状を憂慮し寄り添お うとしている「上」の世代を見るとき、「上」の世代の人たちは、この 問題の深刻さを知ってはいるものの、その原因についてほとんど定見を 持ち合わせていない、と感じています。それで、一方で「若者の感覚は 理解しづらいなぁ」と嘆いたり、他方で説教じみた言説を垂れたりする のではないかと推測しています(原さんや人文学徒さんに当て付けた趣 旨ではありません。念のため)。

   以前に、暮れから正月にかけて人文学徒さんへの返信という形で投稿 をしたとき、自分の学生時代の経験が、こんなところで関わりを持って くるとは夢にも思いませんでした。しかし、最近の私の確信では、1970 年代を通じて「正統マルクス・レーニン主義者」として学生活動を経験 した多数の人たちに当時の指導が与えた否定的影響が、現在の若い世代 における社会認識・歴史認識の形成と継承の未達成に、大きく影響して いる、と言わざるをえないのです。残念ながら「上」の世代の人たちは、 自分たちの「すぐ下」の世代にどうして継承者が激減しているのか、皆 目見当が付いていません。

> 私は文字どおりの思想の変化としての”転向”を非難する気は毛頭ありませんが、不破の場合は、若きマルクス学徒が党の幹部になるにつれて、どこかで”変節”してしまっています。変節の芽は彼の若き頃から生まれていて、どういう結論にでも議論を組み替える彼の才覚がそれです。企業人であれば、その才覚は有能さとして実証されたかもしれませんが、科学的社会主義という社会科学の領域ではその才覚は最大の欠点になります。(同)

 深い同感を覚えます。
 そして、この“変節”は、実は問題とされている人たちの人格の基底 部分で起きている現象であって、戦後社会の「マルクス主義ブーム」の 中で、無自覚的な「立身出世主義」が、カウンター文化である「マルク ス・レーニン主義」村において花開いたのではないか、という仮説を、 私は懐いています。これらの人たちにとっては、実は「マルクス主義」 の方が「借着」であって、隠された立身出世主義の土壌から「社会の中 に自分の居場所がないならば、自分でその居場所をつくる」才能が開花 した結果、現在の事態に立ち至っているのではないか、ということです。
 とりあえず、感想として述べさせていただきました。(3月6日)