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「組織論・運動論」討論欄

樹々の緑さんへ

2009/3/13 人文学徒

 お久しぶりです。また、お互いお懐かしい。お元気な声が聞けて、嬉しかったです。

 さて、意外と大事な指摘と思うから、僕なりの意見を述べたいです。昔の左翼知識人に関わってだけでなく、今の日本人に対しても大事な指摘と。

【  戦後社会の「マルクス主義ブーム」の中で、無自覚的な「立身出世主義」が、カウンター文化である「マルクス・レーニン主義」村において花開いたのではないか、という仮説を、私は懐いています。これらの人たちにとっては、実は「マルクス主義」の方が「借着」であって、隠された立身出世主義の土壌から「社会の中に自分の居場所がないならば、自分でその居場所をつくる」才能が開花した結果、現在の事態に立ち至っているのではないか、ということです 】
【 「そんな観念的な議論ばかりしていて、自分自身が他者を踏みつけにして暮らしていることに無感覚だったじゃないか!」 と 】

 ここの「立身出世主義の左翼的現れ」とでも言うべきものについて、ちょっと討論したいんです。
 先ず初めに、こういう「心」はいろんな要素を含んでいて、また一見これと矛盾するいろんな要素と現に密接に絡み合ってもいることが多いもので、到底そういうこと一つとしてだけの一色では描ききれないのではないかと問題提起をしたいです。
 例えば「多くの人に認められたい」「その一つの現れ」とこれを言い変えれば、悪ばかりではありませんよ。「子どもは褒めて育てよ」と言いますが、こういう子どもの心が悪いものとは誰も言わないでしょう。また、褒められ慣れてきた子が他人を踏みつけにするというばかりでもない。そういう子が思春期などになって苦労を味わったときには、いじめられてばかりいた子よりおおいに柔らかく、優しくなることもあるんじゃないでしょうか。これらは、大人についても同じ事が言えるんじゃないでしょうか。
 そしてもう一つ、今述べたことから、こういうことも出てくると思います。人間の性格の「内面的定義」というものは、必ずその同じものが長所も含んでいるということね。「立身出世主義」がエネルギー、勤勉を伴うというのは誰にでも分かりますが、ほかにある体験が加われば、上に述べたように優しさになる場合もあるということですね。
 以上から、さらにまたこんなことも言えるんじゃないでしょうか。心を心としてだけ定義したら、「仮想世界」しか見えてこないということです。心の現れ、行為と結びつけて論議しなければいけない。自愛は自愛であって博愛の反対物にしかなりませんが、現実の自愛には博愛も含まれることが大いにあると語ったらよいでしょうか。

 スターリンや毛沢東や宮本顕二がなんで悪かったかというと、民主集中制とともに育まれたということを切り離しては、考えられないでしょう。これでもって、一人の人を切るという実践を重ねるたびに、悪くなってきたというようなね。こういう事をやるたびに、人は自分をごまかしたり、自己正当化もやるものですしね。こういう要素もあって形成された「心」を、一般的な「立身出世主義」で定義するには、あまりにも無理があると思います。
 ちなみに、裁判ではまず心は裁きません。裁けないからです。行為そのものの事実を認定、確定して、それへの情状酌量の時などにちょっと心が関係する程度だ。この情状酌量でさえまず、過去の「体験」を持ち出してきて、そこから浮かび上がる「心」を推し量るというやりかたなんじゃないかな。どこまでいっても思想自身は裁けないものだと思います。その実態や定義がはっきりしないということじゃないでしょうか。