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「組織論・運動論」討論欄

3・13付人文学徒さんへ

2009/3/20 樹々の緑

 だいぶ言葉が足りなかったようです。
 そのため、第一に、「立身出世主義」の用語法について認識の齟齬が生じてしまったようです。また第二に、人文学徒さんの引用された2箇所の趣旨がかなり異なっていることが伝わらなかったようです(前者は「立身出世主義」についての見解ですが、後者はそれとはまったく関係がありません)。

 先に第二の点から簡単に述べますと、人文学徒さんご引用の部分【「そんな観念的な議論ばかりしていて、自分自身が他者を踏みつけにして暮らしていることに無感覚だったじゃないか!」と】は、「立身出世主義」についていっているのではなく、いわゆる「問題解決的思考法」すなわち「個別問題から普遍的問題へ」と思考や社会認識を発展させていくのが顕著である「若者」の発想に対して、かなり上の世代である私たちが、「普遍的社会構造認識から個別的問題の性格規定へ」という逆の思考方法の有用性を強調すると、こういう(引用部分のような)反論が必ずといってよいほど返ってくることを指摘したかったのです。

 「有用性」ということで私が考えていたのは、課題解決に立ちはだかる困難の社会的性質をあらかじめ把握して運動に取りかかる、ということです。1961年綱領流の言い方をすると、「(改良ではなく)革命の課題であるのに、いかにも改良の課題であるかのように唱えて運動を唱導するのは、政治的・社会的詐欺になってしまう」ということでした。もちろん、そうした認識自体が、運動の過程で深化させられ、変化発展するものですから、「あらかじめ」といっても限界があります。しかし、その分析視角を自覚的に持つのと持たないのとでは、政治的方針を立てるうえで天地の隔たりが生じるだろう、と私は思っています。単なる「問題解決的思考」に基づく「政策論的主張」の限界が、そこに顕著に表れるだろうと思っています。

 ご存知かどうか分りませんが、昨年『季論21』『ロスジェネ』という季刊誌が、相次いで創刊されました。編集委員に重複もありますが、それぞれに関わっている人々が切実に感じているであろう問題には、かなりな共通性を感じ取ることができるのに、なぜか、すれ違っているという印象を拭えません。ひじょうにマイナーな引例で申し訳ないのですが、最近かなり深刻に考えていることです。
 同じような感想は、市民運動家と研究者との間にも感じられます。好例としては、湯浅誠・河添誠編『「生きづらさ」の臨界』(旬報社2008年11月25日初版第1刷刊)冒頭の、編者両氏と本田由紀・東大教授との鼎談を挙げられるように思います。この3氏は、ほぼ同じ世代であるにも拘らず、その立ち位置の違いから、微妙に問題意識がずれています。もちろん、鼎談者らは互いに学び合うスタンスで話しているのですが、私には、そこに社会的な亀裂のようなものが幽かに感じ取られるのです。
 この話を始めると長くなるのでここで止めます。

 「観念的」というのは、素朴には、現実に生じている諸問題を切実に受け止められない、あるいは、現実問題を実践的に解決できない、ということを指しています。と同時に、これは印象ですが、「普遍から個別へ」という思考方法に、「世界精神の開示」に似た観念論的な臭いを嗅ぎ取っているのかも知れません。あくまで、リアルな社会の把握の問題なのですけれど…。

 次に、第一の点、人文学徒さんが「立身出世主義の左翼的現れ」と表現されたことについてですが、私が「立身出世主義」と呼んでいるのは、明治期以降、教育勅語や文部省唱歌「ふるさと」(志を果たしていつの日にか帰らん」)、唱歌「仰げば尊し」(身を立て名を挙げやよ励めよ)に象徴されるような、敗戦までに幼少時を過した(宮本顕治氏も不破哲三氏も含まれます)一般の日本人に染み付いていると思われる、特定の心性を指しています。
 私の世代のように、昔「生得の民主主義の子」といわれて育った世代の中に、これに代るものを探せば、おそらく「エリート主義」がその位置に納まるでしょう。私たちの活動仲間には、「こいつは、日本の政治社会の変革を切望しているのではなくて、『人の上に立って号令をかける』のが好きなだけじゃないのか」という人種が結構いたのです。

 こういう、支配層が教育や社会思潮を通じてほぼ系統的に浸透させているイデオロギー批判を厳密に通過しないで、目先の「政治的力量」だとか「分析の優秀さ」を頼りとして指導層を形成してしまうと、原さんが指摘された“変節”は、容易に起きうるのだということです。
 中国共産党の地方幹部(地方だけとは限らないでしょうが)の腐敗などを見るとき、その「系統性」に着目せざるをえません。私が「立身出世主義」といっているのは、そうした心性をいっているのであって、「近代的個人」一般が持っている功名心だとか名誉欲だとか、よりよい生活上の地位を求める心だとかを、それ自体として非難しているのではありません。

 労働者が、ひとりの人間として当然に持っている「よりよい仕事がしたい」という創造的労働欲求も、労働の結果が持つ社会的価値に対する欲求(「自分の仕事で社会の人々の幸福にいくらかでも貢献したい」)――それらは、当然に肯定されるべきものです――も、現実の資本主義社会の中では、搾取関係を通じて際限のない「ただ働き残業」「過労死」に容易に繋がりうるわけですし、悪徳商法の営業マンのように、反社会的な結果に荷担することにもなりうるのです。

 これとまったく同じように、「近代的個人」として当然に有し、かつ肯定されるべき「心」のあり方が、支配層のイデオロギーが優越性を発揮する社会構造の中では、いつしか歪んで実現されて行く、そのことに、共産党組織とて無縁ではないのだと思います。
 ところが、「やっていることが正しいから」という単純な理由だけで、その厳密な批判的検討がなおざりにされてしまい、「政治的センス」だとか「古典文献に関する博識さ」だとか「どんな論理でも巧みに組み立てる器用さ」だとかが独り歩きしてしまい、指導者が“変節”を果たしてもチェックできなくなるのでしょう。
 その「チェックできなくなる」ところで、民主集中制の病理が指摘できるのであって、「チェックできる体制がないから“変節”が起きる」のではないと思っています。時間がないので、お答えになっているかどうか、心許ない気がしますが…。(3月20日)