38、これまでの連載の要約
前回までの4回の連載では4つの側面から、レーニンが10回党大会で提起
した分派禁止決議が当時のロシアの政治情勢(ボルシェヴィキ政権倒壊の危機)
に規定された緊急の一時的組織対応であることを明らかにした。第一は社会主義
世界体制の崩壊が象徴する世界的なコミュニズムの退潮という世界史と日本共産
党(jcp)の凋落が示した事実、第二はブハーリンが報告したマルクス主義党
組織論の一般的見地、第三はレーニンが分派禁止を提案した決議と大会報告とい
う文献の検討、第四は分派禁止を恒常的措置と解釈する不破・榊の主張を検討し
その誤りと”工作ぶり”を指摘してきた。
そして、付随的にではあるが、レーニンの分派禁止決議では独自の政治行動を
ともなわないグループや潮流としての存在とそのグループや潮流による思想・理
論研究はなんら否定されていないこと、党員グループがある種の政治思想をもつ
こととその政治思想にもとづいて政治行動をとることとが厳格に区別されている
ことにも触れてきた(注21)。
以上の検討に照らし合わせると、jcpの分派禁止規定とその実際の運用が”
ウルトラ”という形容詞がつく分派禁止規定となっており、近代における思想・
信条の自由、その不可侵性(個人の尊厳)を否定する内実を持つものとなってい
ることをも指摘してきた(注22)。
こういうわけで、我々は民主集中制(「MS」)と不可分なものとされてきた
分派禁止という”亡霊”から解放されたわけであるが、しかし、これまでの検討は
それがレーニンの一時的な提案でしかなかったことを明らかにしたにすぎない。
まだレーニンの提案する「MS」の内容を正面から踏み込んで検討したわけではな
い。そこで、これからレーニンの主張する「MS」の内容を取り扱うことになる。
<(注21)、これらの2点については、書き忘れていたが、その”原型”が藤井
の「増補新版・民主集中制のペレストロイカ」(1990年)の前著「民主集中
制と党内民主主義」(1978年)ですでに指摘されていた。潮流、グループの
許容については、1910年当時の党内事情を例に(同書99ページ、私の場合
は1921年の10回党大会レーニン報告を例にしている)、後者の区別は「プ
ロパガンダと理論的討論の区別」(同書172ページ以下)として指摘されてい
る。
また、藤井以前の指摘では、1960年に佐藤昇が「前衛党における民主集中
制の考察」(「思想」1960年11月号、「現代帝国主義と構造改革」所収、
134ページ、青木書店)で理論活動と政治活動の区別を指摘している。この佐
藤の論文は今日からみても優れたものであり、後で触れることになる。>
<(注22)、jcpの「科学的社会主義」は、レーニンの言う「マルクス主義
の三つの源泉」を踏襲して、近代ブルジョア社会の諸科学の達成を残らず継承し
ているとして、イギリス生まれの古典派経済学やフランスの社会主義、ドイツの
古典哲学をあげるのをよく見かけるが、近代ブルジョア法に結実した個人の思
想・信条の自由も継承すべきものである。
jcpは政党の自律性、自治や綱領を理由に党員の思想・信条の自由を制限で
きるかのように主張し、近代ブルジョア法の一成果を事実上拒否しているのであ
るが、その主張は個人の独自の思想(党の決定とは異なる戦略・戦術、政綱)保
持を政治行動同様に規制できるとする両者の混同=誤りであり、原理的にも実際
上もできない相談であることは連載(3)の<注17>で説明してきた。jcp
の執行部はそのできない相談をウルトラ分派禁止規定とその運用で代行してお
り、分派嫌疑の「査問」が人権侵害の拷問の様相を呈することになる必然性も連
載(3)の<注18>で実例を挙げて説明してきたところである。思想検閲は自
白の強要を不可避とし、自白の強要は中世的拷問へとかぎりなく接近していく。
なお、思想・信条の自由に対する制限については「53項」以下で詳しく検討す
る。>
39、第4回党大会(統合大会)の組織を取り上げる理由
レーニンの「MS」を検討するにあたっては、ロシア社会民主労働党(ロシア
共産党の前身)第4回大会(統合大会、1906年4月)の組織に関するレーニ
ンの主張を取り上げることからはじめる。周知のように、レーニンの党組織論に
関しては有名なものに「なにをなすべきか」(1902年)や「一歩前進、二歩
後退」(1904年)などがあり、レーニンが党形成の主体の側の事情や政治・
社会情勢に対応して、この時期に党組織論を変化・発展させてきた党史があるの
であるが、党史をトレースするということはしない。そうしたレーニンの党組織
とその理論の一集約点となったものとして第4回大会を取り上げるのであるが、
ここに集約点となったというのは以下の理由による。
第一は4回大会当時の社会事情である。第2回大会以後、党はボルシェビキ
(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂し、第3回大会(1905年4
月)はとうとう分裂大会となるのであるが、1905年末に第一次ロシア革命が
勃発し、大衆運動の激発に後押しされて両者の統合が大衆的規模で政治課題とし
て登場してくること。
第二は、第一次革命の結果として、公然たる党活動が可能となる政治情勢が切
り開かれたこと。地下活動ではない公然たる党活動が可能となった時代のレーニ
ン党組織論こそ、今日の党組織論の参考にすべきものであること。
第三は第4回大会が両分派の統合大会であったという党大会の性格である。す
なわち、統合大会における組織のあり方は少数派の権利保障を徹底するものでな
ければ統合は成功しないという両当事者の事情があり、もっとも民主主義的でか
つ統一的な党組織論が模索され合意されたであろうと予想されることである。少
数派が合意できる党組織という条件を満たした党大会であったことである。
今少し、組織の編成原理に近づけて言えば、意見(認識)の相違が存在するこ
とを前提とした組織であって、その相違を党の統一という枠組みの中でいかに民
主主義的に解決していくかを探求した組織事例であることである。jcp執行部
にあっては意見の相違が存在すること自体が例外、ないしは簡単に認識の一致に
到達できるとしていることを後(連載9以降)で見るが、その見方(認識論)こ
そ異常なのである。
レーニンがリャザノフの提案を拒否する見解を連載(2)で紹介したが、同じ
綱領の下で活動していても情勢の展開の中では「根本問題についての意見の相
違」(多数派とは別の政治綱領、政綱)は発生してくるのであって、党組織は意
見の相違の発生を前提においた組織制度を構想しなければならないのである。ま
してや、社会主義世界体制が崩壊したばかりか、前人未踏の現代史の領域で、退
潮してきた社会主義勢力が新たに理論と実践を開拓しなければならない時代にお
いてはなおさらのことである。
第四は、この党大会ではじめて党史史上に「民主主義的中央集権制」という用
語(後に我々が「民主集中制」というそれ)が登場し、規約の上での組織原理と
して明文化されることである(藤井「ペレストロイカ」76ページ参照)。
第五に、すでに我々は10回党大会の分派禁止決議が、当時の危機的な政治情
勢の産物であり、一時的な緊急避難的な組織対応であったことを見てきたのであ
るから、分派禁止規定のない4回大会の組織を10回党大会へいたる過渡的な組
織とみる必要は毛頭ないわけである。
40、レーニンの言う民衆集中制の四原則
さて、それでは4回統合大会の組織についてであるが、規約の条文を検討して
みてもjcpの規約でもわかることだが、なにがどう民主集中制(「MS」)の
システムであるかは容易にはわからない。そこでレーニンの言うところの
「MS」の核心となる文章を取り上げることからはじめよう。
「組織問題では、われわれは中央機関紙編集局の権利についてのみ意見を異にし た。われわれは、中央委員会が中央機関紙編集局を任命し更迭する権利を主張し た。われわれすべては、民主主義的中央集権主義の原則、あらゆる少数派と[党 に]忠誠なあらゆる反対派の権利の保障、各党組織の自治、党のあらゆる役員の 選挙制と報告義務と更迭可能性の承認については意見が一致した。これらの組織 原則を実際に遵守すること、この原則の誠意ある一貫した実行に、分裂を防ぐ保 障があり、また党内の思想闘争と厳重な組織上の統一、共通の大会のすべての決 定にたいする服従とが完全に両立するものとなりうるし、またならねばならない ことの保障があると、われわれは考える。」(「旧『ボルシェヴィキ』分派に属 していた統一大会代議員の、党へのアピール」 レーニン全集10巻、300 ページ、1906年4月)
この文章は統一大会直後にボルシェヴィキ分派が全党へ向けて発したレーニン
作成のアピールである。このアピールが出された事情をよりよく理解するために
は、統一大会ではかつて多数派であったボルシェビキが少数派に転落し、統一大
会の基本的諸決議、諸決定がメンシェビキ主導で決定されたということを知って
おくことが必要である。レーニンは少数派になったとはいえ「すべての決定にた
いする服従」を説いているのであるが、この文章の中に「民主主義的中央集権主
義」、すなわち、「MS」の主要な原則が述べられている。
両派は組織問題に関しては中央機関紙編集局の権利について意見を異にしただ
けで、その他は一致したとあり、その一致した「MS」の原則とは、第一に「あ
らゆる少数派と[党に]忠誠なあらゆる反対派の権利の保障」、第二は「各党組織
の自治」。これは「各党」の組織の自治ではなく、組織の各段階の各級組織の自
治、各地方党組織の自治のことである。第三は「党のあらゆる役員の選挙制と報
告義務と更迭可能性の承認」、第四は「大会のすべての決定にたいする服従」で
ある。
これら四点は、その項目をみるだけでは何も珍しいものではなく、jcpの規
約でも言葉の上では相応に取り入れられていることである。しかし、レーニンの
主張の内容は、jcpのウルトラ分派禁止規定に”汚染された”組織の理解からす
れば、まったくの別物なのであって、その理解の”コペルニクス的”転換が必要と
されるほどなのである。次項ではその違いを理解するためには、これら四原則に
個別に立ち入る前に、「MS」の”土台”となるレーニンの主張を検討する必要が
ある。
41、「広範な民主主義的原則」と「完全な公開制」
まず、レーニンの次の文章をかかげよう。
「『広範な民主主義的原則』というなかにはつぎの二つの必要条件がふくまれて いるということには、おそらくだれも異存がないであろう。すなわち、第一に完 全な公開制、第二にすべての職務の選挙制、である。公開制なしに、しかもその 組織の成員だけにかぎられない公開制なしに、民主主義を論じるのは、こっけい であろう。われわれはドイツの社会民主党の組織を民主主義的という。というの は、この党では、党大会の会議にいたるまで、万事が公然と行われているからで ある。だが、自己の成員以外のすべての人々にたいしては秘密のヴェールでとざ されているような組織を、だれも民主主義的だとはいわないだろう。」(「なに をなすべきか?」レーニン全集5巻、514~515ページ、1902年)
レーニンが政党組織の民主主義を語る場合、その組織の民主主義的性格の不可
欠の原則として「完全な公開制」と「職務の選挙制」をあげているのであるが、
まず注目するべきことは、ここにいう「完全な公開制」についてである。「完全
な公開制」とは中央委員会をはじめとして党内での議論が党員間に公開されてい
るだけでは足りず、党外にも公開されているものでなければ、その組織は民主主
義的だとは言えないと主張していることである。しかもこの主張を非合法活動を
強いられている1902年の段階ですでに述べている。
「なにをなすべきか?」という著作が、組織問題に多くのページを割かれた論
戦の書であり、この引用文を含むレーニンの論旨はこうした「広範な民主主義的
原則」は党が非合法下にある場合は実行不可能であることを述べているのである
が、公然たる党活動が可能になるならば実現するべきものであるという主張であ
ることは明瞭であるといえよう。また、この公開制の一端は非合法時代から一定
の範囲で実行されていたのであって、それは大会議事録が出版されていたという
史実で裏付けることができる。
党が民主主義的であると言えるためには、「完全な公開制」、党内の成員だけ
にとどまらない公開制が必要だという思想は、今日のjcpを顧みるとき、よく
よく深く検討するべきものといえるであろう。jcp執行部には久しく”忘れら
れた言葉”である。レーニンにあっては、ほとんど自明のごとく語られているの
がわかる。この自明さを理解することは、jcpの「MS」を見慣れ、また、そ
の中で活動してきた党員には非常にむずかしいのではあるまいか。
42、「完全な公開制」とはどういうことか?
そこで一工夫して、方向を変え、、党内からではなく党外からjcpの組織を
眺めてみるとしよう。日本では1999年に成立した”情報公開法”を念頭に置け
ばわかりやすいであろう。あれは国の行政機関が対象だという反論もあろうが、
要は国民主権の理念からすれば”公的機関”はすべて情報公開法の対象になるべき
ものなのである。
政党は本来は私的結社にすぎないが、それが国民の過半数の支持を結集すれば
国家意思の担い手となり国家を直接に操縦する組織となるという特殊な団体・組
織なのであって、その私的結社は国民の一定の支持を結集し国政に一定の影響を
与える規模に発展した段階ではもはや私的結社という性格を脱ぎ捨て政党(公
党)となり、国民主権のもとでは情報公開法の対象になるのだと理解すればい
い。国民の側から見れば情報公開法の対象であり、党内では批判や論争を含め
て、すべての議論が党内にオープンにされるという公開制の存在、その両者の全
体が「完全な公開制」であり、政党組織における「広範な民主主義的原則」の貫
徹だ、とレーニンは主張していることになる。
jcpにあっては、すぐに権力からの組織防衛という反論が出てくるのである
が、この主張は民主制下の公党としての主張ではなく私的結社に先祖返りした議
論である。公然活動が可能となった政治情勢のもとでは、レーニンはかかる組織
防衛論をまったく問題にしていない(注23)。おそらくは党勢の発展という見
地から見れば、組織防衛論で党を守るメリットより、党の誤りを隠し、したがっ
て党を「秘密のヴェール」で覆い、国民から遮断し、国民との垣根を作り党の影
響力拡大の妨げとなるデメリットのほうが大きいと見ているのである。
だが、根本的には、革命は人民が主体的に決起してはじめて実現する大衆的・
歴史的大事業であるという革命の性格に由来するものと考えるべきなのであろ
う。すなわち、党の主張を人民に浸透させること、党の主張を広く人民に届け、
人民が主体的に事態を判断し、党とともに革命の事業に決起するには、党の主張
や活動ばかりでなく党内における議論にいたるまで、総じて党の姿の全体が公開
され人民各層との意見交流等を通じて人民各層に理解されることが不可欠だとい
う思想にもとづくのであろう。この思想については「49項」で検討するが、
レーニンは「労働者大衆を党の諸問題の意識的解決に引き入れよう」と言ってい
る。
俗な言い方をすれば、党が信頼されなければ、その主張は国民に支持されない
のであり、国民の信頼を得るには党の政策や個々の実績ばかりでなく、党の「秘
密のヴェール」をできるだけなくし、裸の党の姿で、党の実情を公開して国民に
理解してもらうことが必要なのである。誰も相手を深く知ることなくして信頼を
寄せることはできない。
民主制下では「完全な公開制」が全党を覆うべき主要な組織原則なのであっ
て、組織防衛論からする公開制の遮断は党員名簿などごくごく限定された領域の
みに適用されるべきなのである。
とりわけ今日、半世紀にわたる自民党支配のもとで政治不信が国民に蔓延して
いる政治状況の下では、政党の公式声明を額面どおりに受けとる国民はいないと
いう事情を考慮すると、レーニンの言う「完全な公開制」は国民の信頼を獲得し
支持を拡げるにあたって決定的ともいうべきであろう。また、jcpにはさらに
大きなハンディがあることを考慮するべきである。それは社会主義世界体制の崩
壊という世界史的事実であり、共産主義政党の理念と国家運営が信頼を失い、政
権党になる資格としては国民多数から落第点をつけられているという事情である
(注24)。
この「完全な公開制」の思想は、「広範な民主主義的原則」の第二にあげられ
ている「職務の選挙制」についてのレーニンの説明にも現れている。党の役員選
挙に党外の大衆が登場するのである。
<(注23)、このサイトへの投稿で何度か引用したが、レーニンは党執行部の 誤りを公然と自己批判する必要を述べており、その誤りが公然と行われることで 被るデメリット、政敵や権力の側からのその利用を問題にしていないのである。 むしろ逆に、公然と自己批判すること、そうした情報を”公開”することこそが党 と大衆を訓練し全体としての社会主義運動を発展させることになるのだと主張し ている。
「政党が自分のおかした誤りにたいしてとる態度は、その党がまじめであったか どうかをはかり、党が自分の階級と勤労者大衆にたいする自分の義務を実際には たしているかどうかをはかる、もっとも重要で、もっとも確実な基準の一つであ る。誤りを公然とみとめ、その原因をあばきだし、それを生んだ情勢を分析し、 誤りをあらためる手段を注意ぶかく討議すること──、これこそ、階級を、ついで 大衆をも教育し、訓練することである。」(「共産主義内の『左翼主義』小児 病」全集31巻43ページ、太字はレーニンの強調)
また、ドイツ社会民主党が1891年に新綱領草案を作った際、エンゲルスは
その草案を批判する意味で、これまで公表されてこなかったマルクスの批判
(「ドイツ労働者党綱領評注」、通称「ゴータ綱領批判」1875年)をリープ
クネヒトら党指導部の反対を押し切って発表するということがあった。その発表
はエンゲルスによれば「党中央委員会の中に大憤慨を、党そのものの中に大喝采
を引き起こした」(「エンゲルスからラファルグへの手紙」1891年2月10
日、マル・エン全集38巻、21ページ)。
この公表についてエンゲルスは次のように言っている。
「この手紙(マルクスの『ゴータ綱領批判』のこと─引用者注)が敵の手にひと つの武器を渡しはしないかという懸念は、いわれのないものだった。悪意のある 中傷はありとあらゆるものにつけられる。しかし、だいたいにおいて、敵がわの 印象は、こういう容赦のない自己批判を知って、すっかりたまげたというもの だった。そして、自分自身にこんなことをつきつけることができる党は、よほど の内面的な力をもっているにちがいない! という感じだった。」(「エンゲル スからカウツキーへの手紙」1891年2月23日、マル・エン全集38巻30 ページ)
エンゲルスの言う「こうした容赦のない自己批判」とそれへの評価が、社会主 義者取締法が廃止されてからわずか1年後に行われていることである。日本国憲 法が施行されてから半世紀以上経つのに、年がら年中、党防衛論がjcp執行部 の”醜の御楯”(しこのみたて)となっている事態は尋常ではないのである。>
<(注24)、自分の右足を左足で踏みながら前進(?)しようとする不破路線
何度も言ってきたことだが、jcp執行部にあっては、自画自賛の傾向とあい
まって世界の共産主義運動の負の遺産にたいする自覚があまりにも希薄である。
その証拠は、2000年の規約全面改訂で党員の義務として「党の決定に反する
意見を、勝手に発表することはしない。」(規約5条の5)という馬鹿げた条項
を新たに設けたことである。これでは党員は一般国民との議論では党の公式見解
以外の主張はほとんどできないことになる。国民が聞きたいのは党員の”肉声”な
のだ。
ソ連共産党の崩壊を「双手をあげて歓迎」したり、ソ連社会を「ニセの社会主
義」であったと言えば、その負の遺産とjcpは”無縁”であると証明したことに
なり、jcpを旧ソ連共産党の同類として否定的に見ることは日本に根深い反共
主義の偏見であると簡単に”解決”してしまっている。その言動を見る限りでは、
jcpの指導者達はjcpを否定的に見る多くの国民の今日の見方が戦前来の反
共主義とは異なり世界史的な事実の裏付けを持っている点を見落としているので
ある。
jcpへの国民多数の批判的意識は、今日では戦前来の反共主義とは質を異に
し、もっと理性的なものとなっているだけに頑強なものと把握するべきであろ
う。マスコミで伝えられてきたスターリンの大量粛正や他の社会主義諸国に共通
して広範に見られた人権侵害、民主主義の欠如、毛沢東の文化大革命の惨禍やカ
ンボジアのポル・ポト政権による大量虐殺はまぎれもなく世界各地の共産主義勢
力の行った歴史的蛮行であり、そうした惨事を引き起こした思想とjcpの思想
とはまったく無関係ではなく相応の共通性があると多くの国民は歴史的事実の裏
付けを持って見ているのである。
だから、多くの国民は根深い政治不信の意識とともにjcp執行部の公式の声
明を額面どおりに受け止めることはまずないのであって、”口先”や”空約束”では
ない実績による説得とともにレーニンの言う「完全な公開制」が他の政党以上
に、また過去のどの時期以上にjcpには必要なのである。
そして”不破”規約ともいうべき新規約(第5条の5が典型)と不破の言う「議
会の多数を得ての革命」、「多数者革命」路線は矛盾するということも指摘して
おくことにしよう。どこが矛盾しているかと言えば、レーニンの言う「完全な公
開制」とはまったく逆行しているからであり、すでに述べたように「完全な公開
制」は国民主権思想が要求するところだからである。国民多数の理解を得てはじ
めて成立する「多数者革命」路線は、党の実情を公開することなしには不可能で
ある。政治路線であれ組織規約であれ、不破の打ち出す新機軸には整合性がない
のである。不破が新規約を作り「多数者革命」路線を定式化する? 不破は自分
の右足を左足で踏みながら前進(?)しようとする。jcpが総選挙向けに現在
行っている「党を語る大運道」も失敗に終わらざるを得ない究極の原因もここに
ある。>
43、「完全な公開制」をベースとする「全般的監督」の下での「選挙制」
「民主主義の第二の標識である選挙制についても、事態は(帝政ロシアでは─引 用者注)これよりましではない。この条件は、政治的自由が行われている国々で は自明のことである。・・・そして、劇場の舞台が観客の眼にさらされているよ うに、全政治舞台がすべての人の眼にさらされているのだから、あるひとがこれ を承認しているか承認していないか、支持しているか反対しているかということ は、新聞からでも人民集会からでも、だれでもわかる。これこれの政治家が、こ れこれのスタートをきり、これこれの進化を経て、その生涯の難局にあたってこ ういうふうに真価を発揮し、総じてこれこれの資質においてすぐれているという ことは、みなが知っていることで、だから当然に、全党員は事情に精通したうえ で、そのような活動家をある党職務に選挙するとも選挙しないとも、決めること ができる。党人がその政治舞台においてとる一挙一動が世人の全般的(文字どお りの意味で)監督のもとにおかれる結果、生物学で『適者生存』と呼ばれる過程 を生じさせる自動的な機構がつくりだされる。完全な公開制と選挙制と全般的監 督との『自然淘汰』によって、つぎのような状態が保障される。すなわち、各活 動家が結局『その適所』におちつき、自分の力量と才能とにもっとも適した仕事 にあたり、誤りをおかしたときにはそのいっさいの結果を身をもって経験し、ま た彼がどれだけ誤りを自覚し、それを避ける能力をもっているかをすべての人の 眼の前で証拠だてる、というような状態がそれである。」(「なにをなすべき か?」同515~516ページ、太字はレーニンの強調)
私が特別に注目すべきだというのは、第一に選挙にあたって候補者は、様々な
情勢のもとでの諸問題で示した賛否の態度やその全活動経歴を全党員に知られて
いなければならないということ、したがって、候補者が党の内外でどのような意
見と行動を示したかも全党に公開されていなければならないということである。
そうした情報公開の下ではじめて党員は自主的な判断で役員を選出できることは
いうまでもない。党の役員を選挙するにあたって候補者についての情報が全党員
に開示されていることが当然のことだとレーニンは言うのである。
ひるがえってjcpの党大会における役員選挙はまったく逆である。規約には
あるが、実際には行われず、中央委員の選挙から幹部会員、常任幹部会員、委員
長、書記局長にいたるまで党のトップである不破の指名であることは、元常任幹
部会員であった筆坂秀世の著書「日本共産党」(新潮新書)を引くまでもなく周
知のことである。
その第二は「党人がその政治舞台においてとる一挙一動が世人の全般的(文字
どおりの意味で)監督のもとにおかれる」という部分である。党の役員選挙はも
ちろん党員だけに投票の権利があるが、しかしその役員は完全な公開制のもとで
は、党員ばかりでなく国民を含めた「全般的(文字どおりの意味で)監督のもと
におかれ」る。その意味は二重であろう。選ばれた役員はその一挙手一投足を党
員の視線にさらされるだけでなく、議員になるような役員は国民の視線にさらさ
れて「全般的監督」を受けることになるばかりでなく、党内選挙をする際も一票
を投ずる党員の判断に国民の意向(人気等)が反映することでも「全般的監督」
が行われ、「適者生存」の人物が選出されていく。
実例をあげれば、残念ながらjcpにはないのであって、2001年に小泉が
総裁選に立候補した自民党の総裁選がそれである。総裁選挙では国会議員ばかり
ではなく都道府県にも一定数の投票権が割り当てられ、各地方党員の投票は国民
の圧倒的人気を反映して小泉に投じられ彼が圧勝したのであった。そして、その
小泉の手で2005年には衆議院の2/3を確保するという事態が出現する。自
民党はレーニンの組織論を知っているわけではないが、長年の経験で世知に長け
ていたわけである。
レーニンは「完全な公開制と選挙制と全般的監督」とことさらに「全般的監
督」を付け加えている。「完全な公開制」をベースにおくことによって党の役員
選挙は民主主義的なものになるばかりでなく「全般的監督」の機能が働き、国民
多数の意向も反映され、真に有能な人材が適材適所に配置されて党の全体的な活
動が発展する人的保障が整うことになるというわけである。「その組織の成員だ
けにかぎられない公開制」が文字どおりに実施されることによって、党と国民の
距離が一挙に縮まるばかりでなく、その接近が党発展の重要な条件(人材)を育
成していくことがわかるであろう(注25)。
<(注25)、人材育成の重要な条件としての完全な公開制
党にとって人材の育成、その適材適所がいかに重要であるかを強調し、ここに
いう「全般的監督」にあたる実例をレーンは「何をなすべきか?」のなかで書い
ている。
「ドイツ人を見たまえ。ドイツ人のところでは、組織が民衆を把握しており、万 事が民衆からおこり、労働運動がひとりあるきすることを学びとっているという ことは、諸君も否定しようとはしないとおもう。ところが、この幾百万の民衆 は、自分らの『10人』ほどの試練を経た政治指導者たちをなんと良く評価する ことができ、なんとしっかりこの指導者たちにすがりついていることだろう。議 会で反対党の代議士が社会主義者をからかって、つぎのように言ったことが再三 あった。『・・・諸君の運動は労働者階級の運動とは口先だけで、実際にはいつ も同じ首領の一団が表面に立っている。年がら年中、10年たっても20年たっ ても、いつも同じべーベル、いつも同じリープクネヒトだ。・・・』 しかし、 ドイツ人は、・・・せせら笑っただけであった。ドイツ人は・・・試練を経た、 職業的に訓練され、・・たがいに協調をとってきた指導者なしには、どの階級も 堅忍不抜の闘争を行うことができないということを、理解しているのだ。」 (「なにをなすべきか?」レーニン全集5巻495~6ページ)
形ばかりの類似性で不破も志位も10年、20年と同じだと言ってはなるま
い。1903年のドイツ帝国議会選挙では、ドイツ社会民主党は有効投票数
949万票のうち32%にあたる301万票を獲得し、議席定数397のうちの
81議席を占める議会第二党に成長しているのである(安世舟「ドイツ社会民主
党史序説」102ページ、お茶の水書房1990年)。戦後半世紀を経ても得票
率7~8%のjcpとはわけがちがう。ドイツには有権者の32%の支持に支え
られた指導者たちがいる。この数字の格差は、質的な違いと言うべきで、政治活
動を含めて当時のドイツ社会民主党とjcpの組織の間には根本的な違いがある
と見るほかないのである。100年前のドイツ社会民主党のほうが今のjcpよ
り100年も進んでいる。この比較は「1893年のドイツ社会民主党と
2004年の日本共産党」という題名で「理論・政策」欄に04年12月17日
づけで投稿してある。
レーニンは党の発展にとって人材の育成が革命の正否を決定するほどに重要な
事業であることを後年、何度も強調していたことであり、その人材の育成が党の
完全な公開制を重要な条件としていることは言うまでもない。
「しばしば『指導者』を地下にもぐらせなければならない条件(完全な公開制の 欠如と読み替えよ─引用者・注)のもとでは、りっぱな、信頼できる、試験ずみ の、権威ある『指導者』をそだてあげることは、とくにむずかしい仕事であ る。・・・・無能な指導者を放逐し、それを有能な指導者に代えることと当然結 びついた批判だけが、有益な、実りの多い革命的な活動となるであろうし、『指 導者』を教育して、政治情勢を正しく理解すること、この情勢から出てくる、し ばしば非常に複雑な、こみいった任務を理解することを大衆に学ばせるであろ う。」(「共産主義内の『左翼主義』小児病」レーニン全集31巻51~52 ページ、太字はレーニンの強調)
「あらゆるばあいに役立つような処方箋、あるいは一般的な基準・・・を考えだ すのは、ばかげたことである。個々のばあいを理解できるためには、自分で考え なければならない。複雑な政治問題をはやく正しく解決するうえに欠くことので きない知識、欠くことのできない経験、欠くことのできない──知識や経験のほか の──政治感覚を、その階級に属する思慮深いすべての人々の長い間の、ねばり強 い、さまざまな、あらゆる方面にわたる活動によって、つくりあげるということ ──まさにこの点に、党組織と名実ともにそなわった党指導者とがもつ意義が、と りわけあるのである。」(同「小児病」55ページ)
民主党の小沢秘書逮捕という国策捜査が発動された政治情勢(2009年3
月)さえ適格に把握できず、自党浮上の好材料とばかりに小沢の献金問題に飛び
つき、あろうことか、議会制民主主義を踏みにじる国策捜査の応援団、自公政権
の支援団体に成り下がるという醜態をさらすjcp執行部の現状をみるにつけ、
指導者の育成問題の重要性が痛感されるのである。麻生政権は単純化しつつある
政治情勢(政権交代の現実化への接近)を国策捜査で複雑化させるという反民主
主義的・暴力的手法を採用したのだが、かつての党首・宮本の抜擢で出世してき
た現在の愚かな不破・志位執行部は議会制民主主義の危機を忘れて敵の”口車”に
乗り政治献金問題を描き出してしまった。
戯画風に言えば、知性はないが悪賢い闘牛士・麻生が窮地に陥り合図を送る
と、あらぬ方向で赤布が振られ、それを見た石頭の闘牛・志位は闘牛士を忘れて
あらぬ方向の赤布に突進し始めた、というところである。
すぐれた政治指導者を育て上げることは難しい事業なのであるが、jcpは指
名制を事実上採用してその育成事業をさらに困難にし、こうして敵が仕掛けた政
治情勢の複雑化に対応できない、敵の計算づくの”口車”に簡単に乗ってしまう愚
かな指導者群を育ててきたのである(注26)。>
<(注26)、 不破や志位らの能力と愚劣な選挙戦術の因果関係
(1)、不破や志位らの抜擢型の指導者は世間によくあるように一芸有能型の
人物たちなのである。不破は宮本の見解をマルクス、レーニンの文章で権威づけ
る能力を買われたし、志位にあっては宮本見解をわかりやすく説明する能力が評
価されていたようである。ところが政治指導者の能力は相応の理論認識を前提
に、相互の力関係や国民の政治意識等を押さえた上で、変化する政治情勢を瞬時
に総合的に判断して事態の核心つかみ適切な戦術を提起できるものでなければな
らない。言わば、情報総合型の指導者が政治指導者の適格性をもつのであって、
この指導者は党員と国民の「全般的監督」のもとでこそ、適切に選抜されてくる
ものなのである。
というのは「全般的監督」の下では一芸だけではなく、その理論活動と組織活
動、ならびに大衆運動における実践の全般的評価がなされるからである。一芸型
指導者はその一芸にふさわしい部署に配置されていく。理論部署であったり宣伝
情宣部であったりという具合である。ところが、抜擢された一芸型指導者が、複
数の後継者候補がいないとか何らかの理由で党の戦略・戦術を指揮する総合型政
治指導者の地位につくと、その戦略・戦術が近視眼的で不器用、紋切り型になる
のは、不得手な分野では誰もが不器用で紋切り型、定型型、公式型になるのと同
じことなのである。
(2)、たとえば、政治改革を求める国民の多くが民主党に期待を寄せている
場合、jcpの戦術は民主党を政権につける戦術を採用しこの国民の期待を実現
させるべきだと古典の巨匠らは何度も言っているのだが、jcpの不破や志位は
それがわからない。というより、わからないで来た結果、誤った戦術を継続して
きたために国政選挙の連敗を招き、今では指導部の権威がガタ落ちとなり、1議
席増を金科玉条とする近視眼、視野狭窄に追いつめられているのである。政治指
導者としての無能力が相乗的に彼らの首を絞めている。
彼らには民主党がjcpから票を奪うように見えているのであって、愚かにも
検察の国策捜査が”天の助け”に感じられたのである。こうして国策捜査を肯定し
て小沢民主党を攻撃し、議会制民主主義を破壊して恥じない自・公政権の支援団
体となるという最悪の選択をしてしまったのである。
レーニンの言うこうした戦術を理解できないのは、不破や志位らが学生運動以
外の労働者の大衆運動を組織した経験がないまま党本部入りし党組織を指揮する
ことになったことにも一因があろう。若くして労働者大衆とは組織を通じて間接
的にしか接触することがなくなっている。労働者大衆がどういうことを契機に変
わっていくのか、宣伝扇動で変わるのか、それとも変わらないのか、学生のよう
なわけにいくのか、いかないのか、実地の豊富な経験の蓄積がないからわからな
いのである。
(3)、レーニンがイギリスの労働党をとりあげて、第一次大戦後の労働者が 自由党から労働党へと移っている場合、労働党への期待が高まっている場合には 労働党を政権に押し上げることが共産主義者の任務だと述べたことを紹介したこ とがあるが、その戦術のポイントは次のことにあった。労働者大衆は自分たちの 実践の実際の経験によってのみ学ぶのであって、共産主義者の宣伝で労働党に期 待する労働者大衆を共産主義者の側に引き寄せることはできないこと、これは各 国で繰り返された国際的経験である、ということであった。レーニンの「共産主 義内の左翼主義小児病」という著作に書いてあることである。同じことはエンゲ ルスも言っている。
「自由主義諸党が実地に恥じさらしをしないあいだは、これらの党が政権の座に つき、彼らにはなにひとつやる力がないことを実証する機会をもたないあいだ は、われわれは、大衆を自由主義諸党から離反させることはけっしてできな い。」(エンゲルスからべーベルへの手紙、1884年6月6日」マル・エン全 集36巻、145ページ)
不破や志位らはこの機会にマスコミと連動する形で小沢の金権政治批判をやれ
ば民主党に対する国民の期待をある程度払拭できると単純に考えているが、金権
政治にクリーンなだけで支持がjcpに集まるわけではない。金権政治にクリー
ンなことは誰でもわかっているが、jcpには衆参合わせて16議席しかないこ
とに示される別の問題があるのであるから、ことは不破や志位らの単純に考える
皮算用にはならないのである。彼らが常に忘れているのはこのことである。
仮にjcpの小沢批判やマスコミの攻撃で民主党が以前の予想より40議席減
らすとしても、jcpにはわずかに2~3議席が来るのみで残りの37、8議席
は自民党へ行く、という具合になるのである。「週刊文春」3月26日号の宮川
隆義の予想では、西松ショックで当初予想より民主党は47議席減となるが
jcpは2議席増の13議席にとどまる。その結果、自・公政権が安泰となれば
悪政が継続し再び民主党への期待は高まるばかりか、その高まりに比例して小沢
批判で民主党を攻撃したjcpへの政権交代派からの敵意も高まってくるのであ
る。こうして、jcpは小沢批判で現在直面している事態を乗り越えるのではな
く、逆に事態を拡大再生産し、現在以上の難題を抱え込むことになるのであ
る。”自・公・共”共闘という批判も激しくなるであろう。要するに、野党を巻き
込んだ政治改革の構想がなく、目先の1~2議席増をめざした小沢金権政治批判
は、民主党への国民の期待を結局払拭できないばかりか、次々回の総選挙では政
権交代派国民から大きな敵意という代償をjcpは頂戴することになるのであ
る。
(4)、不破や志位がよく言う「政治を大本から変える」という主張も選挙戦
の公約に使えば、馬鹿げた空約束でしかないことを彼らは理解できないのであ
る。選挙戦での公約は選挙戦に勝利すればjcpは実行しなければならない。し
かし、衆議院9議席の力量で、仮に3倍増したにしても「政治を大本から変え
る」ことなどできはしないことは志位らばかりでなく国民誰もが知っていること
である。するとどうなるか? jcpの幹部は空約束の大言壮語の徒という評価
が定着し、国民が政治に関心を深めるにつれてまともな話し相手にはされなくな
るばかりなのである。
その政策も戦術も相互の力量・戦力を十分考慮したものでなければならない。
自分の力量も考慮せずに選挙戦術を立て、空約束を大言壮語する党指導者は”馬
鹿者”であると定義するのにわざわざレーニンを呼び出すまでもないであろう。
政治指導者としての能力のない彼らの手にかかれば、すべてが紋切り型、公式
型、本質的には彼らの”山勘”や執行部の内輪の事情や要求を公式でくるんだだけ
のものになるのである。すでに見た小沢秘書の逮捕劇への彼らの対応がその典型
である。マンション内でビラをまく党員が家宅侵入罪で逮捕されれば、政治弾圧
だと騒ぐjcp執行部が、どこから見ても異常な小沢秘書の捜査・逮捕劇を国策
捜査の「根拠がない」(志位)と容認する態度は明らかにダブル・スタンダード
を採用していることになる。
(5)、紋切り型、公式型の典型は「国政選挙での共闘には基本政策の一致が
必要である」という不破や志位が得意げに主張するフレーズをあげることができ
る。このフレーズもまったく馬鹿げたもので、政治的諸条件を総合する能力の欠
如や不破や志位の頭脳の単純さを証明するものである。政党間の国政選挙共闘も
選挙制度や相互の得票の力関係、その時々の政治情勢の最重要課題等の組み合わ
せで多様になるべきものだし、多様にならなければならないのである。
このフレーズに即して正確な表現を公式風に書けば、「連合政権をめざす国政
選挙共闘には基本政策の一致が必要である」とならなければならない。政権共闘
が視野の外にあれば、野党の各党が相互に持てる基礎票を融通しあって、jcp
も他の野党も議席を増やし与党議席を減らすことに何の不都合もないと言わなけ
ればならない。これは野合でも何でもない。党の得票力を無駄に蕩尽せず議席に
結びつける戦術に他ならない。その戦術で他の野党の議席が増えても国民に何の
実害も発生しない。国家政策は与党が決めるからである。
むしろjcpのように全小選挙区に候補者を立てて500万票の得票でゼロ議
席という戦術の拙劣さは犯罪的とさえ言えるであろう。自党の議席を増やせない
ばかりでなく他の護憲野党の議席を増やすことにも役立たず、唯一、悪政の与党
議席の確保に貢献しているだけである。それならば、ある一つの政策の合意だけ
でも取り付けて野党共闘をした方がjcpの政策を実現できる可能性が少しは高
まる上にjcpの議席増にも結びつけることができることになる。
(6)、そもそものところが、レーニンやエンゲルスが労働者大衆が期待を寄
せる政党であれば、ブルジョア政党であれ政権に付けるべく選挙戦術を立てろと
言っていることを不破や志位らはどう考えているのか、ということなのである。
この戦術は野合なのか? そうではなかろう。政治革命という大目標を視野に置
き、そこへ接近する方法として、国民多数の政治意識の変化が持つ不動の特徴に
着目して選挙戦術を立てているのであって、この見地からすれば、共に連合政権
を作るのではないのだし、個々の政策上の違いはもちろんのこと、基本政策の違
いも”おおむね”問題にならないのである。”おおむね”というのは、現代史の経験
を考慮すればファシスト党は例外であるという意味である。
レーニンやエンゲルスは不破らの馬鹿げた公式を掲げていない。不破らは馬鹿
げた公式をなぜか金科玉条に持ち上げて、jcpに寄せられる支持票を死票の山
にすることをしていながら、他方では1議席増ほしさに国策捜査の応援団になり
下げる愚を犯している。これを小児病と言わずに何と言うのであろうか。左翼小
児病とはレーニンが名付けたものだが、世間の言葉に翻訳すれば、融通の利かな
い石頭ということになる。エンゲルスはこう言っている。
「僕は、とりわけ決選投票のさいにとるべき戦術についての僕の考えを彼に話し ておいた。つまり、これについてどんな場合にもあてはまる規則を立てようとす るのは無意味だと、僕は思うし、実際にもそんな規則はけっして守られはしない のだ。この場合われわれは大きな力を手中にもつことになるが、わが党の人間が 決選投票に残っていないときには、どんな場合にも棄権する、と宣言するとすれ ば、その力がまったく利用されずにしまう。実際には、そういう場合にはいつで も、たとえば中央党(編集者注によれば、「カトリック的なブルジョア政党」─ 引用者注)との選挙協定がひとりでにできあがったものだ。君たちがそこでわれ われに投票してくれれば、われわれはここで君たちに投票しよう、というわけ だ。こうして、われわれはいくつかの議席を獲得したものだ。・・・僕は彼に次 のようにさえ言った。たとえば、選挙闘争がほとんどまったくわれわれと進歩党 (編集者注によれば、「ブルジョア的・自由主義左派」の政党─引用者注)との あいだでたたかわれるベルリンのような地点では、本投票のまえに協定を結ぶこ とさえ、ありえないことではない。この選挙区はわれわれに譲れ、そのかわりに あの選挙区は君たちに譲ろう、というふうにだ。・・・僕に拙劣だと思えるのは ただ次のようなやり方、つまり、大会で、将来起こりうるさまざまな戦術的な場 合について、あらかじめ普遍的に妥当する規則を立てようとすること、これだけ だ。」(「エンゲルスからベルンシュタインへの手紙、1884年5月23日」 マル・エン全集36巻135ー136ページ、太字はエンゲルスの強調)
当時のドイツの選挙制度は小選挙区制で過半数を得た候補者がいない場合は決 選投票になるのだが、この手紙に書いてあることは、そのまま不破らの公式フ レーズと”全・半”小選挙区立候補戦術への批判そのものである。>