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「組織論・運動論」討論欄

三重の原罪を背負った共産党の民主集中制(8)

2009/4/24 原 仙作

63、上田耕一郎と佐藤昇
 「MS」論については、1960年に党内の傍流である「構造改革派」から二つの論文が世に出ている。同じ「構造改革派」に属し、後に党を飛び出した安藤仁兵衛はこれら二つの論文を高く評価していた(安藤仁兵衛「戦後日本共産党私記」文春文庫374ページ)。一つはすでに「38項」の<注21>で触れた佐藤昇の論文「前衛党における民主集中制の考察」(「思想」1960年11月号、「現代帝国主義と構造改革」所収)、もう一つは「今日の哲学Ⅱ」(三一書房1960年)に載せられた上田耕一郎の論文「現代における前衛組織」である。佐藤は後に社会党の構造改革派のイデオローグとなり、上田は周知のように弟の不破とともに党の副委員長に出世していく。これらの論文を書いた後の両者の人生行路はまったく別のものとなり、上田兄弟は佐藤ら構造改革派批判の先陣に立つことになったこともよく知られている。
 上田の論文は副題が「イタリア共産党の『新しい型の党』について」となっており、イタリア共産党の党組織論を紹介したものであるが、その組織論から学ぶべき諸論点(党内民主主義の拡大にかかわる)を取り出している。しかし、この論文は後に「イタリアの路線の不当な一般化」(上田・不破の共著「マルクス主義と現代イデオロギー」下巻42ページ、1963年)として、構造改革派であったかつての持論全体を自己批判することで否定されるに至っている。
 内容を見ると「新しい型の党」とは大衆的前衛党であり、宣伝中心ではない実のある改良をめざす構造的改良の党であり、組織論に直接関わる主張では「党内民主主義の徹底的拡大は、けっして集中制を否定することではなく、逆にそれを不可欠の補足物としており、民主集中制に堅固な基礎を与えるものである。」(「今日の哲学Ⅱ」111ページ)という程度の思想、党内民主主義拡充の一般論が中心となっている。
 レーニンの「MS」論を検討してきた目から見れば、まことに食い足りないのであるが、しかし、何もこれらの論点まで「イタリアの路線の不当な一般化」として否定する必要はなかったであろう。上田は構造改革派としての持論全体の自己批判の中に組織論上の肯定できるものさえすべて流し込んでしまったことになる。言わば、いくじのない”坊主懺悔”のような自己批判なのである。この自己批判は理論家のそれではなく、”政治屋”のそれであることが”坊主懺悔”ぶりに現れている。Jcpの「MS」論がその再構成の芽をここで摘んでしまったと言えるであろう。
 そこへいくと佐藤の議論はレーニンに即して原理的で具体的である。すでに述べた理論研究と政治行動の区別もあれば、「批判の自由と行動の統一」もある。さらには批判を党内に限定せず党の内外で自由であるという「51項」で検討したところの内容まで書かれている(佐藤・前掲135ページ)。しかし、自己批判せずにその主張を貫いた佐藤は党から”追放”されてしまうことで、ここでもjcpの「MS」論再生の芽が摘まれている。
 佐藤は党の内外を問わず「批判の完全な自由」(佐藤・前掲132ページ)を主張していたのであるから、論理的には「完全な公開制」の主張にたどり着くまではあと一歩を残すのみであり、仮に「完全な公開制」まで「広範な民主主義的原則」を貫徹させれば、分派禁止が党の正常な、恒常的な制度ではあり得ないという結論にもたどり着けたであろう。
 しかし、上田も佐藤もスターリン批判が起きた後の論文であったにもかかわらず、分派禁止の呪縛からは共通して逃れられてはいないのである。ここに彼らの生きた時代のイデオロギー状況という歴史的制約が刻印されている。

64、藤井一行の議論と当連載の主張の関係
 レーニンの「MS」論の内容に関する考察を終えるにあたって、ここで簡単に藤井一行の主張(「民主集中制と党内民主主義」1978年)と私の主張の異同について触れておこう。スターリン型「MS」論がまだ流布していた時代に、藤井が荒野にレーニンの「MS」論を再生させる一本の道を開拓したのであるが、これは彼のたいへん貴重な功績である。この論文なしには私の連載はありえなかった。
 私の主張はと言えば、藤井のつけた道を拡張し舗装道路にしただけのことである。ここに比喩的に言う「拡張」と「舗装」とは、藤井の主張がレーニンの思想を歴史的経過を追って発掘したのに対し、私のそれはマックス・ウェーバーの用語を借用すれば、一つの”理念型”に再構成したものである。
 具体的に言えば、①、レーニンの言う「完全な公開制」、「41項」で引用した「公開制なしに、しかもその組織の成員だけにかぎられない公開制なしに、民主主義を論じるのは、こっけいであろう。」という思想を文字どおりに理解し、党員全体への「公開制」(藤井の主張の力点はここにある)だけではなく党外へも貫かれる「公開制」として明確にし、この「公開制」をレーニンの「MS」論の土台にあるもの=「広範な民主主義的原則」として徹底させたことである。
 ②、次に、「批判の自由と行動の統一」という行動原則における「批判の自由」を党外における党員の言論活動にまで拡げた点は藤井と同じであるが、私の場合は、この党外にまで拡げた「批判の自由」を「完全な公開制」と結びつけたことである。この結合によって、行動原則としての「批判の自由」の範囲が組織政策の領域の問題ではなく、「広範な民主主義の原則」、すなわち組織原則、組織原理の領域の問題であることを明確にしたことである。党指導部によって、少数派の権利保障とはどの範囲までにするかという議論が可能な組織政策の問題ではなく、そうした議論が不可能な組織原理・原則の問題であることを明確にした。具体的な組織規約はこの原理、原則にかぎりなく近づけねばならないのである。
 ③、「批判の自由」を単に少数派の権利保障としてばかりでなく、本源的には党員個々人の思想・信条の自由の保障であると再把握し直し、「特定の行動の統一がやぶられていないかぎり、まさにいたるところで完全に批判の自由があることを意味している」というレーニンの思想の意味するところを明確にしたことである。この再把握は藤井にはないものである。レーニンの言う「批判の自由」は近代ブルジョア法に結実した人類史の偉大な達成物=思想・信条の自由をその核心に置いているのである(注38)。
 仮にこの「拡張」と「舗装」を藤井の主張を発展させたものと見なすことができるとすれば、藤井と私の主張の間には社会主義世界体制の崩壊という現実が横たわっていることを指摘しておかなければなるまい。

<(注38)、現代における意志決定と『思想・信条の自由』の歴史的地位
 (1)、従来、マルクス主義の陣営はブルジョア社会の批判に忙しく、『思想・信条の自由』についても、その考察を主に社会的・経済的諸条件との関連でだけ行ってきたために、その形式性、実態としての不自由を暴き出すことに集中してきたと言ってよいだろう。マルクス、エンゲルスがそうであった。「自由・平等・ベンサム!」なのである。しかし、エンゲルスも言っているが、彼らは新理論の創始者として史的唯物論の土台を作り上げることに集中せざるをえなかったからなのであって、後世の我々がマルクス・エンゲルスによる批判の視角にとどまっているのは創造性の欠如、単なる怠慢が理由なのだと言わざるをえないだろう。
 それに加えて、イデオロギーの領域では常にブルジョア・イデオロギーとの理論闘争や「左右の日和見主義」との理論闘争があり、また、前衛党組織の党派性維持、そのための党内へのブルジョア・イデオロギーの浸透への警戒心などもあり、党内における思想・信条の自由は批判と統制の対象でしかなかったのである。jcp執行部が頻繁かつ無限定に使う「自由分散主義」なる批判がその代表例である。
 70年代末には、藤井や田口らの研究も不破や榊によって集中攻撃をうけたし、80年代末には「ネオ・マル批判」とも「ネオ・マル粛清」とも言われるユーロ・コミュニズムに親和的な党員学者・知識人の除籍問題も起きている。
 マルクス主義陣営内のこうした諸事情のために、『思想・信条の自由』がもつ人類史的達成についての正当な評価を行うことがまったく不十分であったのである。思想史的には評価できても、自分らの政治的実践では評価もできなければ、その評価を取り入れることもできなかった。

 (2)、周知のように、『思想・信条の自由』という”思想”は、歴史的には信教の自由(ピューリタン革命の産物)として人類史に登場し、漸次、その内実が拡張されて今日の『思想・信条の自由』として定着している。この『思想・信条の自由』は今日の歴史的条件、とりわけ核兵器の出現とIT革命という歴史的条件の下では人類史における真に最高の生産物、”発明”としての相貌を帯びてきており、階級の廃止という旧来の人類史的課題ばかりでなく、その課題とともに、同時に、自然との共存という新しい人類史的課題を解決するための最大の”とりで”となりつつある。
 その含意は次のようなことである。「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場」(「資本論」第1巻第一版序文)というように、マルクスは人類史を自然史的過程として考察している(「レーニン「国家と革命」)のであり、共産主義社会の経済的基礎を、資本主義的生産関係という拮抗から解放された生産力を無制限に発展させるという、そうした高い生産力水準に置いていた。
 資本主義における生産力の発展はやがてその生産関係を拮抗として破壊し社会主義社会へと飛躍する。資本から自由となった生産力は、これまた資本の枷から自由となった科学技術の無限の発展とその生産への応用によって無限に発展し、その無限の生産力の発展の上に築かれる「必要労働」(マルクス「資本論」)の縮小とそれに反比例して増大する自由時間の拡大(「自由の王国」の到来)、という共産主義の構想、この構想は人類史を自然発生的経済発展の延長線上に見いだす構想であって、どこまでも人類史を経済発展の論理を基礎にすえる自然史的過程ととらえる見地である。
 しかしながら、『核兵器』の出現と自然の有限性(再生不能の自然破壊)という現実に直面し、人類は無限の生産力の発展を拒否するという、人間の意志による選択を可能とも必要ともする時代を迎えたのである。この意志決定にとって『思想・信条の自由』が持つ役割は決定的なものがあると言って良いであろう。

 (3)、卑近な世界である個人生活を見ても、”エコ”な生活の選択とか「スローライフ」、「シンプルライフ」と言われるような生活形態の出現やフリーマーケットの普及、インターネットを利用した不要品の交換・販売の全国的ネットワークの展開がある。
 個人の消費生活の形態が変われば消費市場が変化し、その変化を通じて企業の生産物が変わり、ひいては個別産業の存続さえ制約する変化をもたらす。日本の最大の産業と言うべき自動車産業でみれば、自動車産業の技術革新の方向は走行性能の向上から安全・省エネへ変化したが、さらにはその先には自動車産業の最大の脅威というべき”カーシェア”というべき新しい消費・使用スタイルの出現が待ち受けている
 これまでの常識では、私的所有の対象物とされてきた商品生産物が現実の個人生活の中で、その私的所有を否定され、その否定の対象がマイカーから乳母車にまで拡大する時代を迎えており、こうした消費者の消費・使用スタイルの転換は、100年に一度と言われ始めている現在の”世界恐慌”で大きく促進されることになる。
 この意志による選択、決断は『核兵器』の場合にも当てはまる。アメリカの哲学者ジョン・サマヴィルは1962年のキューバ危機にあたり、ソ連がキューバに核兵器を持ち込めば、ケネディはソ連を核攻撃することを決断していたと、弟・ロバート・ケネディの証言(遺稿)で明らかにしていた(ジョン・サマヴィル「平和のための革命」日本語版への序文、芝田進午訳、岩波書店1974年)。この事実は、核兵器の使用(人類絶滅の危機)の封印は平和運動だけで解決できるものではなく、非常に重要な要素として、その管理者や権力者の人間の意志、決断に依存していることを証明したのである。
 翻訳者の芝田は核兵器の発明が自然史的過程の延長線上に共産主義社会を展望することがマルクスのように単純にはできなくなったことを次のように表現した。「共産主義への社会構成体の移行が必然的であるという法則性が実現されない可能性が出現した」(芝田進午「核時代Ⅰ」青木書店、84ページ、1987年)。まことに慧眼であったと言わねばならないであろう。
 今日の時代にあっては、すでに人間の意志のもつ社会発展とそのコースへの影響、その比重はマルクスの時代の比ではないのである。極端な言い方をすれば、その意志によって、人類史の発展コースを変化させることができるほど大きな比重を占めるようになったのである。

 (4)、この比重の変化は、マルクス時代の史的唯物論のアプローチの仕方を過去のものにする。過去のものにするという意味は、役に立たなくなったという意味ではなく、”古典”になったという意味である(注39)。
 1848年のフランス2月革命を考察したマルクスの「フランスにおける階級闘争」(1850年)について、エンゲルスは1895年の序文で次のように言っていた。「ここにあらたに出版される著作は、マルクスが彼の唯物論的な見解によって現代史の一時期を、与えられた経済状態から説明しようとした最初の試みであった。」 また、こうも言っている。「著者の考えでは、政治上の事件を究極において経済的な原因の作用に還元することであった。」(マル・エン全集22巻504ページ) 
 当時としては、これで十分であったろう。事態の進行を伝統的な王侯貴族や僧侶の古衣装をまとった諸党派の争いからではなく、その衣装をはぎ取り経済状態から説明する方法が斬新であり、史的唯物論による分析の礎石をすえるものだったからである。
 この方法が今では過去のものになったというのは、事態をより精密にとらえるには上部構造の要因をも考慮しなければならないという方法論上の一般的要請によるものでもなければ、当時と今日では社会・政治現象が複雑化しているから経済状態からだけでは説明できないという考察の対象の変化からくる要請によるものでもない。人間の意志が社会・政治現象に占める地位、比重が決定的というほどに変わったからである。

 (5)、暴力革命が過去のものとなった主な理由もここにある。共和制が存在するから暴力革命が過去のものとなり平和革命の現実的可能性が生まれるわけではないことは、マルクス、エンゲルスが終生、イギリスについてさえ平和革命の現実性(実在的可能性)を否定していたことでもわかることである。マルクスはイギリスの議会制の下でも「奴隷所有者の反乱」を想定していた(英語版『資本論』へのエンゲルスの序文、1886年)。
 だから、マルクスの言説から直接、今日の平和革命論を導き出すことはできないのであって、不破の「議会の多数を得ての革命」論をマルクスの言説で基礎づける試みは破綻するほかないのである。無理に基礎づけようとすれば、マルクスを議会主義のクレチン病者にするか、あからさまな”ウソ”をつく以外にないのである。
 大多数の国民は社会改革を求めてはいても暴力的手法を用いることには断固として反対なのである。旧列強間で争われた帝国主義戦争が過去のものとなったのも植民地が独立したという理由ばかりではなく、戦争と暴力を拒否する諸国民の意志が反戦平和運動として興隆したからに他ならない。戦前の先進国諸国民が戦争へと易々と動員され数千万人が殺し合うという”狂気の歴史時代”と対比してみるべきである。
 戦後の反戦平和運動が質量ともに飛躍的な発展を遂げたことは一目瞭然である。米帝(旧帝国主義列強の最後の遺物)がベトナム戦争で敗北した理由もベトナム人民の抗米救国・民族解放闘争ばかりでなく、それと結合した米国内外の反戦平和運動の興隆があったからである。産軍複合体を心臓とし戦争を生存条件とする米帝が、その敗北の教訓から戦争の機械化・民営化を試したイラク戦争もすでに敗北、政権交代による撤収がはじまりつつある。
 きわめつけは、まさにソ連を始めとする社会主義諸国の崩壊劇に他ならない。あの”人民”革命はこれまでの人類史が見せてきた革命とは様相が一変している。人民の経済的窮乏や戦争を起動力とするこれまでの人民革命とは異なって、自由と人権への希求を主な起動力としており、かつ、ほとんど平和的なものであった。東欧における革命を資本主義をやり直す「遅ればせの革命」(ハーバーマス)と規定するのは、経済構造の変化だけを見て21世紀革命の先駆とも言うべき政治革命(平和革命)の特質を見失った誤りである。

 (6)、マルクスの有名な言葉に「暴力は革命の助産婦」(注40)というものがあるが、この言葉はそれまでの人類史の真実を言い当てているばかりでなく、暴力革命が避けられない当時の小市民的平和主義を批判するものでもあった。暴力についてのこの真理は暴力革命が不可避であった歴史時代(第二次大戦まで)までは生きており、この真理と人類史を自然史的過程としてとらえる思想は一体のものである。戦争と経済的窮迫に追われる人民は、その意志の如何にかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず革命的暴力に訴えざるを得なかったという歴史の無数の事実がその一体性の根拠となっている。この真理こそ、人類史を自然史的過程として把握することに科学的根拠を与えている。
 しかし今日、人類の多数は二つの世界大戦という”狂気の歴史時代”を経験することを代償に絶対平和主義の思想を選択し、かつ、その意志を実現するに足るほどの実力を身につけつつあることを第二次大戦後の世界史で実証しつつある。資本によるコントロールが不能な世界に広がる民主主義、反戦平和運動がその意志の集団的表現であり結晶体をなし、日本における平和憲法擁護、核廃絶運動などもその一分肢をなしている。
 今では、大多数の諸国民によるこの絶対的平和主義の思想の選択を不動の事実、既成の事実として、あらゆる諸科学がそうであるように、政治科学においても諸理論展開の前提におかれなければならないのである。  こうして、マルクスの言う暴力の歴史的役割についての真理は、人間の意志によって歴史上の役割を終えつつあり(今日ではその真理が通用するのは、未だ部族紛争が生きているアフリカ諸国などにすぎなくなった)、それと同時に人類史は自然史的過程としての歴史に別れを告げる時代に足を踏み入れつつあるというのが現代にほかならない。ここに社会発展とそのコースを決めることに人間の意志が果たす現代的な役割、過去の人類史の各時代とは決定的に異なる重要性と比重を持つ役割が示されている。
 その比重の程度、その比重の変化がもたらすマルクス主義への影響(注41)はここで論ずるべき課題ではないのであるが、ともあれ、以上のようなわけで、現代における人間の意志のもつ画時代的役割、比重の変化を理解できれば、意志決定の拠り所と言うべき『思想・信条の自由』のもつ致命的なまでの重要性も明らかだと言わねばならないだろう。

 (7)、なお、その重要性について補足すれば、諸科学がその研究の対象に根本的に拘束され、真理の基準が対象のうちに存しているのに対し、ソフトウェアは諸科学が受けるこの拘束からまったく自由であり、個人の発想と構想それ自体が唯一の制約要因となる社会的生産物である。日々、社会、経済の中で大きな役割を果たしつつあり、新しい生活スタイルの構成要素ともなり、また、その生活スタイル創造の梃子ともなっているソフトウェアのかかる特性と対照してみても、個人の『思想・信条の自由』のもつ画時代的な重要性は明らかなのである。

(8)、レーニンは、むろん核兵器の出現やIT革命の時代を知ることはなかったが、文盲率70%というほどの帝政ロシアの地で、少数派に「まさにいたるところで完全に批判の自由がある」ことを主張することで、今日の『思想・信条の自由』に合致する思想を展開し組織論に実地に適用していたのである。真に偉大な者のなせる技である。
 思えば、マルクスの思想は人類解放の思想であり、『思想・信条の自由』が十全に享受される社会(「自由の王国」!)をめざしたものであったが、レーニン以後、後世のコミュニズムは資本の暴力的攻勢に押され、また権威主義と教条主義に堕し、既存の陣地をまもることに汲々として解放の思想の核心を忘れたのである。
 陣営内に自由な言論空間(『思想・信条の自由』)を作り出せなかったことが諸悪の根源である。そのことは、『思想・信条の自由』がもつ今日の歴史的地位、その重要性に照らせば一目瞭然と言うべきであろう。
 だからまた、レーニンの”鉄の規律”という言葉ほど誤解されているものもないのである。それは軍事規律とはまさに対極にあるもので、自由な言論とその闘争の結果として生まれた合意、その合意にもとづく統一のことなのである。自由な意志に基づく私的結社(ボルシェヴィキ)が組織規約上の統制で軍事規律とみまごうほどの統一を生み出せるわけがないのである。かの有名なローザ・ルクセンブルクによるレーニン組織論への批判も自説を語ることに忙しく、ロシアの実情をよく研究せぬままに批判しているために的を失している。
 そしてまた、かかる考察の地平からjcpの今日の「MS」を眺めると、党員の思想・信条の自由を否定するウルトラ分派禁止付きの「MS」がjcpの発展にとって”最大の死重”となっていることも明瞭なのである。戦後半世紀をこえるその維持は、jcp発展の一阻害要因から最大の阻害要因へと転化し、その理論と実践、および人材の結集と育成にまで浸透する”化石化”、小児病化の元凶となっているのである。これまでの論述で随時、jcp執行部の姿について、わずらわしいほどの膨大な脚注をつけてきたのはjcpの死重の具体相を示すためであった。>

<(注39)、古典になったというのは、基本的なものだが、今日の現実を理解するうえではその有効性が非常に限定的なものになったということである。エンゲルスは最晩年、メーリングへの手紙で次のように言っている。

「だが、これは、マルクスや私の書いたもののなかでは十分に強調されておらず、それについてはわれわれは等しく責任がある点です。すなわち、われわれはみな、はじめのうちは、政治的、法的、その他のイデオロギー的の諸観念や、またこれらの諸観念によって媒介される諸行為を、基礎にある経済的諸事実からみちびきだすことに重点をおいていましたし、またおかざるをえませんでした。そのさい、われわれは、内容面に気をとられて、形式面をおろそかにしました。つまり、それらの観念等々がどのようにして成立するか、その仕方をです。・・(中略)・・ここでは、問題のこの面を示唆するだけにとどめるほかはありませんが、思うに、われわれはみなこの面を不当に軽視してきました。昔からよくある話で、はじめはいつでも内容に気をとられて、形式を軽視してしまうのです。すでに言ったように、私も同じくそういうふうなことをやりましたし、この誤りに気づいたのは、いつも遅ればせ(post festum)でした。だから、私はこのことであなたを非難するどころではありません──あなたより古くからの同罪者として、私には、むろん、その資格はまったくありません、それどころではありません──」(「エンゲルスからメーリングへの手紙、1893年7月14日」マル・エン全集39巻86~87ページ、太字はエンゲルスの強調)

 この手紙はメーリングの著作「レッシング伝説」への感想を書き送ったものであるが、その著作につけられた付録「史的唯物論」に関連して自分らの著作の不十分さを指摘したものである。エンゲルスは「誤り」だとさえ言っている。その学説を創始した巨人にしてこの謙虚さ、自己批判ともいうべき冷静な視線がある。ましてや、凡百の我々においてをや、という気がするのであるが、jcpの「科学的社会主義」は事実上の、真理の唯一の独占者となっているのだから、その思想はマルクスらのものとは異質なものというほかないのである。>

<(注40)、この言葉を正確に引用すると次のようになる。

「暴力は、古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦になる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜勢力なのである。」(「資本論」第1巻第7篇第24章「いわゆる本源的蓄積」、国民文庫版③419ページ)

 後にエンゲルスはこの思想を「反デューリング論」(1877年)のなかで受け継ぎ、デューリングが暴力は絶対悪(人類の堕落・堕罪、歴史の変造)という主張に反論して次のように言っている。

「だが、暴力は、歴史上でもう一つ別の役割、革命的な役割を演じているということ、暴力はマルクスのことばを借りれば、新しい社会をはらんでいるあらゆる古い社会の助産婦であるということ、暴力は、社会的運動が自己を貫徹し、そして硬直し生命を失った政治的諸形態を打ち砕くための道具であるということについては、デューリング氏はひとことも語らない。」(マル・エン全集20巻190ページ)>

<(注41)、マルクス主義への影響ということで一例を挙げれば、連載(2)の「12項」の<注8>で述べたクロンシュタットの氾濫がもつ悲劇が今日では回避できるようになったということである。暴力革命という方法を人間の意志で社会発展の選択肢からはずして社会変革を進めることが可能となった時代から眺めて、はじめてあの悲劇が持つ歴史的、時代的制約がよくわかるのである。すなわち、対立する両者が自己主張を貫けば、暴力的解決という選択肢しか残らないという時代的制約のことである。 このことは、人類史が暴力が持つ歴史的役割=”鉄鎖”から解放されれば、マルクス主義の戦略も戦術も大きく変わるし、変わらなければならないことを教えている。
 階級的利害の対立は暴力によらず、民主主義的方法で解決しようとする時代、言葉を換えて言えば、敵対的解決の形態から妥協的解決の形態(注42)へと主流が転換する時代がやって来たということであり、そのことはまた、生産関係に規定された階級という制約を越えて、多かれ少なかれ階級的な諸個人が連帯することを可能とする時代がやってきたということでもある。”人民”ではなく、今日では”国民”(あるいは市民)という表現を用いて政治革命の主体を表すことが必要となった根拠もここにある(注43)。
 マルクス主義の全戦略、戦術はこの可能性を考慮に入れて、この可能性を最大限に追求するものとなってはじめて国民多数の支持を獲得する可能性をわがものとするのであり、反対に、旧来の階級的に規定された諸個人の区別、経済的利害の対立を絶対的なものととらえ、非和解性のものとして分離・固定化させ、その上に全戦略・戦術を組み立てる教条的なやり方は暴力革命が不可避であった歴史時代のもの、過去のものとなるのである。かつての安定的な概念区分の境界が流動的になった現代ほど、事態の具体的分析が重要性を増している時代もないのである。
 階級対立が敵対する階級相互の殺戮戦(暴力革命)となるほかなかった歴史時代には、階級区分・対立はあらゆる領域に貫徹する時代であって、ヒューマニズムや人間性もまたその内容は階級ごとに異なる。フランス国歌の歌詞にも瞥見できるように、階級内部に通用する相互扶助のヒューマニズムは敵階級に対しては武器による攻撃を要求する。民主主義もブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義が対立し、かくて、人類という概念もまたひとつの空疎な抽象概念にすぎなかった。階級区分・対立が貫徹し相互に殺し合うことを宿命づけられた歴史時代にあっては、その生物学的共通性以上のものを人類概念は持つことができなかったのであって、生きた社会概念としての共通分母でくくれる現実的根拠は存在しなかった。
 しかし、今日では暴力で階級的利害を解決するという方法を、諸階級の諸個人の共通の意志によって排除することで、階級による区分・対立を越えたヒューマニズムや人間性、民主主義、そして人類範疇が成立する土台ができつつある。”宇宙船・地球号”という標語はその象徴である。
 かつては、越えることができない非和解的階級区分・対立があらゆるところに貫徹する時代に革命的であった方法(代表例は暴力革命)が過去のものになり、かつては誤っていた方法(代表例が平和革命)が有効になるという時代の変化がもたらす転倒劇が政治の様々な領域に生まれてくるのであって、以前のままの革命家が反動家になるとマルクスが言い、ヘーゲルが”歴史の皮肉”(「小論理学」)と言った事態がここでも貫徹してくることになるのである。かくて、理論の上では教条主義が最大の弊害になる。>

<(注42)、「妥協的解決の形態」というと、「革命的」な人士は目をつり上げるかもしれないので、一言コメントしておこう。「妥協的解決の形態」という表現は、暴力革命が示す「敵対的解決の形態」との対照でこのような表現を用いたにすぎない。ここに言う「妥協的解決の形態」は階級相互の利益や要求を常に妥協的に、暫定的に解決することを意味するわけではない。20世紀末の東欧革命がその例であるが、政治的諸条件の組み合わせや階級相互の力関係に圧倒的格差ができ、かつ、改革派に根本的で現実的、具体的な改革構想がある場合には「妥協的解決の形態」、すなわち”平和的解決の形態”でも根本的な社会改造となることは十分ありうることなのである。>

<(注43)、jcpはかつては人民と呼んでいたものを国民と言い換えることができる根拠を、今日では労働者階級が国民の大多数を構成するようになったからだと主張するが、数の過多で階級区分を曖昧にするのは誤りである。そのうえ、労働者階級の比率や人数は増え続けていると言っても、19世紀も20世紀も、労働者階級や農民、都市商工業者その他の都市勤労者の全体を表す人民が大多数であったことには変わりはないのである。
 暴力革命を過去のものとする国民の意志が不動のものとして定着し、自然史的過程としての人類史に別れを告げ一国と人類史の発展コースを選択することが可能となった時代は、人民主権論から国民主権論への転換を必要とするのである。不破らが言うように、国民に占める労働者階級の比率の過多から人民≒国民というのは時代の転換を理論的に把握できない没理論なのであって、高橋彦博が批判する点でもある(高橋「左翼知識人の理論責任」98ページ、窓社1993年)。また、堤清二が老骨に鞭打ち「敵をも味方にするようなやり方」をjcpに提唱するのもこの時代の転換を察知しているからである。>

64、jcpの組織再編の提案について   以上の検討からjcpのウルトラ分派禁止つきの「MS」は根本的に再編し直さなければならないことがわかる。今のままでは、日本の歴史の中では最も自由な生活を享受してきた青年層を結集できないし、理論の発展もなく、人材を育成できず、愚かな指導者の下での愚かな戦術で党を化石化、小児病化させるばかりでなく、政治改革が現実の日程に登ってきた今日では政治情勢の複雑化に対応できず反動的な役割しか果たせなくなってくるのである。 政権交代を前にしたこの3月の小沢秘書の逮捕という国策捜査へのjcpの対応がその一例である。 
 再編の眼目を箇条書きにすれば次のようになろう。①、完全な公開制を組織原則とし、基本的に中央と県段階のあらゆる会議における議事録を公開すること。また、必要に応じて下級機関の会議の議事録も公開されるべきである。②、分派禁止規定を廃止すること。③、レーニンの言う「批判の自由」を承認すること。④、党内少数派の権利保障の見地から比例代表制か、それと同等の大会代議員の選出方法を採用すること。 ⑤、党の役員の選挙制を完全に実施し、より多くの党員有権者の投票権を保障する措置を講ずること。全党員による党三役の直接選挙制。⑥、レーニンの言う各級党組織の自治を認めること。⑦、党職員(専従)の労働基本権を認めること。⑧、党員の行動原則としての「批判の自由と行動の統一」を採用するが、この「行動の統一」はレーニンの言うように無条件のものではなく、決定にもとづく行動への留保権を党員に認めること。
 その理由は20世紀における共産主義勢力による数々の蛮行への反省ということがある。この留保権を認めることの利点は次のようなものである。一方では党員個々人が誤った決定の実行者になることへの拒否権を認めることになり、他方では党執行部に、より説得力のある主張、議論を強制することになる。レーニン流に言えば、「批判の自由」と「行動の統一」の相互関係の境界を時代に合わせて、「批判の自由」の領域を拡大する方向へ修正するのである。

 次回は、不破、榊の反論を検討するが、その反論の主旨は分派が容認されていた時代のレーニンの組織論は、その到達点、レーニン組織論の最高の発展段階である分派禁止付きの「MS」論には適用できないということにある。この反論はすでに破綻していることを見てきたが、改めて彼らの反論の詳細を検討し、あわせて、これまで理解されてきた「日和見主義」の潮流との”分離”ということの通説的理解の誤りを明らかにする。(つづく)