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「組織論・運動論」討論欄

三重の原罪を背負った共産党の民主集中制(9)

2009/10/30 原 仙作

65、現在の日本の政治情勢の一特徴
 前回の連載から大部時間が経ってしまったので、これまでの連載の要点を振り返っておこう。なお、あらかじめ断っておきたいことは、100年前のロシアの問題をどこかのご本尊のように”盆栽”として趣味で詮索しているわけではなく、常に念頭におかれているのは今日の日本の政治情勢であり、共産党(jcp)の主張と行動だということである。
 とりわけ、以下の検討は民主集中制(MS」)の問題であるばかりでなく、レーニンが言う「日和見主義との絶縁」ということの理解とその理解に基づく統一戦線戦術の考え方にも関連してくる。民主党政権という”世にも新しい”政権にどのように対応するのかという問題とも関わっている。
 最近、jcpが急遽打ち出した「建設的野党」論も、政治情勢が展開する”歴史の地盤”が変われば、自ずから単なる是々非々では済まぬものになることを不破や志位らはあまり自覚していないようである。自民党政権でも是々非々であったが民主党政権でも是々非々で行く、というのが志位らの「建設的野党」論であるが、一般論や月並みな是々非々で事態に対応できるかどうかである。
 政権交代後の9中総では「予断と予測でものをいわないというのが、私たちの姿勢として大事であります。」(「赤旗」10月16日)と志位らは言うようになった。この「姿勢」の転換は、6月の8中総で主張していた「予断と予測」、すなわち「『二大政党』の競い合いによる暗黒政治への逆行」なる規定を、事実上、否定したものである。不破jcpの「科学の目」が目の前で展開する現実に反論されて、自己批判もなくズルズルと軌道修正していく姿が如実に表れている。
 民主党政権によるガソリン暫定税率の廃止という政策に対し、jcpが環境税への転換を対置したり、あるいは高速道路無料化政策に、その財源を社会福祉に使うべきだというjcpの主張は、自民党政権に対するような単純な是々非々では済まなくなっている事例である。一見して、jcpの政策の方がいいとは言いがたい。
 小沢主導の国会法改正も同様である。三権分立を日本に実在するかのごとく前提とする一般論からの批判では、まるで役に立たないであろう。実態としての三権分立ではない官僚支配とその政治が三権の全体を覆っている日本の実情が批判の前提に置かれなければならない。
 マルクスの『資本論』の副題が「経済学批判」とある所以を今更、不破jcpに指摘しても詮無きことかもしれないが、批判はすべて、一般論からではなく現状の理解・批判から出発しなければならないのである。
 この国の”新しい形”とそこへ接近する具体的な構想(特に経済)ぬきには、個々の政策についてさえ正確な判断ができない時代にはいっているということであり、党綱領が対案だという”大風呂敷”だけでは間に合わなくなってきている。
 jcpのこの立ち後れは、論争のないjcpの言論風土とその「MS」が生み出す化石化した政治図式や教条に原因があるばかりでなく、世界史的レベルで時代の構造が大きく転換してきていることによるものと考えられるのである。
 旧左翼やリベラル左派とでも言うべき論者の多くは例の「ムジナ」論に慣れ親しんでいるものだから、民主党に議席を与えすぎることに警戒警報を発令していたものだが、鳩山政権の実際の動きを見れば、308議席という戦後史上最高の議席をえて、むしろ、脱自民党政治の色彩を強めているように見えるのである。
 この予想はずれが続くとすれば、その原因は「ムジナ」論から直接出てくる自民党流搾取・統治システムの再構築云々よりも、民主党がこの時代の構造転換に適応しようとしているからである。そうなるとjcpの影はますます薄いものになる。
 そればかりではない。ここ10年の腐敗し尽くした自民党政治があったがゆえに、カルト的色彩を強めていたにもかかわらず何とか支持をつなぎ止めていたjcpも、国政では瓦解へと一挙に突入する可能性が高くなるであろう。党内外の事情が共振してjcpの「MS」の是非を問う日が近づいている。

66、前回までの要約
 レーニンが第10回党大会(1921年)で提案した分派禁止決議は、クロンシュタットの反乱に見られるように、農民の動揺による政治危機が全土に広がるという緊急事態に対応する一時的組織措置だったのである。不破らはその政治危機を故意に隠蔽して分派禁止決議恒常説を唱えていた。
 この問題についての21世紀に入ってからの出版物に触れてみると、「検証・党組織論」(いいだもも他5名、社会評論社2004年)があるが、分派禁止決議が党内の組織路線闘争(党内民主主義の拡大か中央集権化か)としてとらえられており、レーニンは「中央集権的志向から脱していなかった」(同書63ページ)とされている。しかし、すでに連載(2)で見てきたように、レーニンが当時の最重要課題と見ていたのは、組織問題を巡る路線闘争という些細な問題ではなく、危機的な政治情勢への組織対応の問題であった。
 連載(4)~(8)で明らかにしたことは、レーニンの民主集中制(「MS」)の内容についてである。レーニンのそれは党の内外での「公開制」をベースに、そのうえに少数派の完全な権利保障、役員の選挙制、報告・更迭制、各級党組織の自治の制度が組み立てられており、そのような民主主義組織の統一を保障するものが「決定への服従」(=「行動の統一」)なのである。そして、この組織における党員の行動原則が「批判の自由と行動の統一」であった。
 ブルジョア的近代の達成物たる個人の『思想・信条の自由』は、この組織の制度と党員の行動原則を貫く”原理”となっており、個々の党員はおのれの”良心”に従っておこなう公然たる言論とその行動が保障されているのである。

67、不破らによる反論の特徴
 ここでは不破らの批判が集中する論点(「批判の自由と行動の統一」)に絞ることになる。その主な論点は三つある。一つは1912年のプラハ協議会で「解党派」と絶縁して党内に分派のない「新しい型の党」、「革命的マルクス主義の党」を作ったのであって、「批判の自由と行動の統一」という原則は分派が許容されていた1912年以前にしかあてはまらない原則だという主張である。もう一つは、それが党内に分派があるという状態、すなわち二つの党が同居しているような状態におけるボルシェヴィキの行動原則であって、分派のない党にあっては適用できないものだとするのである。
 要するに、分派のあるなしが基準にとられており、一方は党史上の区分の問題として、他方では党内状況の相違として、その区分と相違が無視されているという批判なのである。三つ目の批判点は、党の決定後の批判を認めると、党は統一行動がとれず「討論クラブ」になってしまうという周知の俗説的批判である。
 レーニンの「MS」の組織にあっては通常、分派を禁止していないのだから、そもそも分派のあるなしを基準に党史を区分したり党内状況の相違を云々する事自体が事実に反する不合理な主張なのである。レーニンの「MS」の編成原理(『思想信条の自由 』を核心とする)からしても、これらの批判は成り立たないものである。以下、不破らの主張に内在して、その主張が誤りであることを見ていこう。

68、不破による党史の二分論
 検討の順序として、まず、1912年1月のプラハ協議会を分岐点とする党史の二分論から見ていこう。あらかじめ、プラハ協議会(ロシア社会民主労働党第6回全国協議会)についての予備知識を述べておくと次のようなことである。1906年の第4回統一大会については述べてきたが、その後の反動攻勢の中で党は再び非合法化され、党内に解党派(非合法党の解党を主張する諸派)が生まれてきて党の統一的活動が不能となり解体状態に陥るのである。そこで、再び巡ってきた大衆運動の高揚の中で党の再建をめざしたのが、この協議会なのである。第一次大戦勃発の2年前のことである。
 不破の主張は次のようなものである。

「田口氏らの誤りは、ロシアの社会民主労働党内に、革命的潮流と日和見主義的潮流、ボルシェヴィキ分派とメンシェヴィキ分派が共存し、党が、後には二つの政党に決定的に分化するようになる二つの分派、二つの潮流の連合体であった時代に、レーニンがかかげたスローガン(「批判の自由と行動の統一」のこと─引用者注)を、歴史的条件を無視して、共産党の民主集中制の普遍原理として絶対化してしまったところにある。」(不破「多元主義か」39ページ)

 あるいはこうである。 

「革命的潮流と日和見主義的潮流とが一つの党のなかで共存するというこの状態が清算されて、日和見主義的潮流と絶縁した革命的マルクス主義の党を建設するという仕事は、1912年、解党主義の潮流を党から追放することによってなしとげられ、国際的には、第一次世界大戦において日和見主義が『祖国擁護』の社会排外主義に転落したことを決定的な契機として1914年から1920年代初頭にいたる過程を通じて行われた。この転換は、第二インターナショナルの時代の古い型の党から新しい型の革命党への質的な発展、脱皮を意味するものである。」(不破「多元主義か」39~40ページ)

 ご覧のように、分派の存否が基準になっているのであるが、この主張は再び要約すると次のようになる。1912年のプラハ協議会までは党内に日和見主義の分派が存在したが、この協議会でこの分派は追放され、党は「革命的マルクス主義の党」、「新しい型の革命党」になり「質的発展」を遂げた。この分離と「革命的マルクス主義の党」の建設は第一次世界大戦を契機に国際的にも1914年から20年にかけて実行されたものであり、藤井や田口のようにこの党史上の区分を無視して「批判の自由と行動の統一」という行動原則を党史全体に適用するのは党の「歴史的条件を無視」したものであり誤りだというのである。

69、不破の二分論にある混同
 まず、簡単な整理を行っておこう。不破はあれこれの議論をごちゃ混ぜにして好みの結論へ誘導する癖(つまり、通説的結論が常に先にある理論展開ならざる作文テクニック)があるのだが、1912年のプラハ協議会の時期には、まだ1914年の第一次大戦は勃発しておらず、第2インターの崩壊も現実には存在しないのであるから、「国際的には」どのように「新しい型の革命党」が発展するかは、ここでの主題とは何の関係もないことである。
 レーニンは「国際的には」2年後に、共産主義運動の何がどうなるか、何も予想していないし、予定もしていないことである。むろん、将来、国際的に第3インターナショナルのような国際共産主義組織を作り、そこでの組織構想をデザインし、そのデザインを前提に、1912年のロシアでその構想を先行的に実現しようとしていたわけではない。世界的な規模で組織的的分離を進める構想どころか、現実には、レーニンは1912年11月の「バーゼル宣言」(帝国主義戦争反対を決議)採択にむけてヨーロッパの社会民主主義勢力を結集しようと努力していたのである。
 不破らが言う問題の所在は、「批判の自由と行動の統一」という行動原則がロシアでは1912年以前にしか適用できない原則であったのかどうかということにある。日和見主義との分離が第一次大戦の勃発後に国際的に再生産されたことは問題の所在にとっては、さしあたり未知の未来に属することである。ここは問題を混乱させないために両者を区別して論ずるべきである。しかも、後に論ずるがロシアにおける解党派との「絶縁」と国際的な日和見主義との「絶縁」とはまったくの別物なのである。

70、不破による党史の二分論は事実に反する
 不破の主張では、「革命的潮流と日和見主義的潮流とが一つの党のなかで共存するというこの状態が清算されて」、「日和見主義との絶縁」が行われ、「新しい型の革命党」が誕生し党組織が「質的発展」を遂げたことになる。
 しかし、この主張は事実に反するのである。まず、不破の事実認識についての誤りを指摘しておこう。「解党主義の潮流」は日和見主義の諸党派の全体とイコールではないのである。日和見主義の潮流の全体が解党派なのではない。大部分の日和見主義の各派は解党派になったのだが、日和見主義の潮流に分類できるが非解党派もいたのである。
 榊の著書(前掲「民主集中制論」108ページ)は「レーニン時代の党の主要派閥(分派)と構成の推移」という図表をかかげて、プラハ協議会における党派の状況を示しており、党に残留した分派をボルシェヴィキとともに「メンシェヴィキ党維持派」をかかげている。この「メンシェヴィキ党維持派」はどんな一派であるかと言えば、その中心人物はかの有名なプレハーノフであり、プレハーノフ派のことである。
 榊の著書の図表によれば、党内の諸分派はボルシェヴィキ派、メンシェヴィキ党維持派、召還派、最後通牒派、解党派、ブンド派、トロッキー派となっており、前二者を除いて除名されるわけであるが、その除名でボルシェヴィキ派の党支配はより強まるが、それだからといってボルシェヴィキ派で党が”純化”され「日和見主義との絶縁」が行われたというわけではないのである。つまり、1912年のプラハ協議会後も「メンシェヴィキ党維持派」という日和見主義の一分派は残っていたのである。
 この事実だけで、不破の言う「革命的潮流と日和見主義的潮流とが一つの党のなかで共存するというこの状態が清算」とか、「新しい型の革命党への質的発展」とかいう主張がすべて、事実に反する”フィクション”であることが明らかになる。不破は事実をろくに調べていないのである。
 要するに、プラハ協議会以後も党には日和見主義の分派が存在したのである。分派の存否を基準とした党史の区分を1912年に置くことの誤りは明らかである。不破らの主張する党史の区分は成立の余地がない。

71、プラハ協議会の決議は何と言っているか? 
 不破の主張には根拠がないことをさらに示すために、研究のための”一次資料”であるプラハ協議会がおこなった決議を参照することにしよう。プラハ協議会において解党派の追放を決めた「解党主義と解党派のグループについての決議」は、つぎの文章を置いている。

「(二)、1910年1月の中央委員会総会は、この潮流(解党派のこと─引用者注)との闘争をつづけて、この潮流が『プロレタリアートにたいするブルジョアジーの影響の現れ』であることを全員一致でみとめ、党が真に統一されて、これまでのボルシェヴィキ派とメンシャヴィキ派とが合同する条件は、解党主義と完全に手をきり、社会主義からのこのブルジョア的偏向を最後的に克服することであると規定した。」(レーニン全集17巻473ページ)

 この文章からすぐにわかることだが、解党派との絶縁がメンシェヴィキ派全体との絶縁をめざしているものではないことがわかるであろう。「これまでのボルシェヴィキ派とメンシェヴィキ派とが合同」するためには解党主義と手を切ることが条件になると、これまで党は言ってきたのだと決議は主張している。そして、決議の最後はつぎの文章である。

「協議会は、潮流と色合いの別にかかわりなく、すべての党維持派に、解党主義と闘争すること、・・・非合法のロシア社会民主労働党の再建と強化のために全力をあげることを呼びかけるものである。」(同全集17巻474ページ)
 

 「潮流と色合いの別にかかわりなく」という文章に注目されたい。この決議文からわかるように、不破の言うような「日和見主義との絶縁」はまったく問題になっていないのである。非合法の党組織を解消してしまえという解党主義の主張では党組織そのものが維持できないから「解党派」とは絶縁するほかないということなのであって、どのような妥協もありえない対立点が生まれたから、その対立点を基準に諸分派を区別し解党派とは「絶縁」しなければならないとレーニンは主張しているのである。むやみやたらと日和見主義だから絶縁するというわけではない。これがここで銘記すべき最も重要なポイントである。

72、1912年と1914年以後を同一視する誤り
 ここまで考察を進めてくれば、1914年の第一次大戦勃発後の国際的な日和見主義との「絶縁」ということとの違いも明瞭になるであろう。不破は1912年の党内状況の事実も独特な「絶縁」の基準(「解党派」だけとの分離)も無視して、1912年も第一次大戦勃発後も同じ日和見主義一般(全体)との「絶縁」だと誤って同一視しているのである。
 次の文章は不破の「研究」では「自明のこと」なのだそうだ。「革命的脱皮」とか「レーニン党組織論の核心」とか、何やらマルクス・レーニンを読みかじったばかりの若者のような表現が満載なのだが、不破哲三48歳の文章である。

「とくにレーニンの党組織論を研究しようとするときに、ロシアでは1912年に、国際的には1914年以後におこったこの質的変化──日和見主義を『正当な構成部分』としていた党から、日和見主義と絶縁した党への革命的脱皮の意義を理解せず、脱皮以前の党と脱皮以後の党とを同列においてその組織原理や『批判の自由』のあり方を議論するといったやり方で、問題の核心──レーニン党組織論の核心をとらえることはできないのは、自明のことである。」(不破「多元主義か」41ページ)

 熟年になってからもこうした文章を書く人物の著作は、”すべて”眉に唾をつけてから読んだ方がよい。不破らはプラハ協議会についての一次資料である前掲の決議文を読んでいるはずだが、それにもかかわらず「日和見主義との絶縁」が行われたと主張するのは一体どういう”料簡”なのであろうか? 

73、不破がこっそり打ち明けたこと
 そこで、日和見主義との絶縁ではなく、解党主義との絶縁だという私の主張を裏付ける不破の主張を紹介しよう。田口・不破論争の時期である1978年11月に、不破が中央委員会の理論部会の研究会で行った研究報告に「レーニンの党組織論の歴史について」というものがある。田口らとの論争とは異なり、”内輪”の報告だからであろうが、わりあい率直な物言いで報告している。そこではこう言っている。

「・・・党大会にかわる全国会議として1912年1月プラハ協議会を開き、ここで解党主義との絶縁をはっきりさせて、正真正銘の革命的マルクス主義の党を、ここで確立するにいたるのです。ただ、当時のレーニンの文章をいろいろみてみますと、いろんな理由があると思いますが、日和見主義との絶縁ということを一般的な党の原則としては、まだこの時期にはいっていない。」(不破「現代前衛党論」所収、新日本出版、373ページ、1980年)
 

 語るにおちたとはこのことである。レーニンが言ってもいないことを不破らが「日和見主義との絶縁」だ、「新しい型の党」だと言ってレーニンに押しつけていることがわかるであろう。不破の言う「いろんな理由」はいろいろあるのではなく、ただ一つの理由があるだけである。
 すなわち、すでに述べたことだが、レーニンは解党派との絶縁を行ったのであって、やみくもに日和見主義全体との絶縁をやろうとしていたわけではない。だからレーニンは「日和見主義との絶縁」とは絶対に言わないのである。日和見主義の潮流が2年後に丸ごと帝国主義戦争賛成に回ることになるとはレーニンは夢にも思っておらず、まだメンシェヴィキとの統一を完全にあきらめているわけではないのである。
 日和見主義の歴史的帰結、すなわち第一次大戦による祖国防衛論への転落、ブルジョアジーの側への完全な移行という歴史の事実を知る後世の不破の頭の中には、解党派=日和見主義=ブルジョアジーの手先への転落というずさんな図式があるから、レーニンが「日和見主義との絶縁」と言わないことが腑に落ちないのである。
 不破は腑に落ちないことを田口らとの論争を機会に真剣に研究してみるべきであった。しかし、jcpの「MS」を防衛する任務だけが頭にあるものだから、きちんと研究しないままに、「日和見主義との絶縁だ」とか「新しい型の革命党」だとか、「いろんな理由」をわからぬまま書きまくって「自明のことである。」とホラを吹いているのである。 

74、不破の二分論の源はスターリンの偽造
 他の何も読まなくとも、「71」項に引用したプラハ協議会の決議を読みさえすれば、不破のような「日和見主義との絶縁」とか「新しい型の革命党」とか「革命的マルクス主義の党」、はては「質的発展」から「レーニン党組織論の核心」まで、そういうスローガンめいた表現は生まれてくる余地はないのであるが、それがどうして生まれてくるのか? 
 不破のこれらの”テーゼ”は、不破の独創ではなく、実は「スターリンとその側近」の見解であることを藤井は海外の研究者の論文をひきながら指摘している(藤井「ペレストロイカ」290ページ)。その主旨はスターリンが党中央に登場したのがこのプラハ協議会であることから、プラハ協議会を「新しい型の党」の出発点として”箔付け”する必要があったというものである。
 「ソ連共産党史Ⅰ」(増補第4版、1972年版)でもプラハ協議会は「党から日和見主義分子を一掃することを目的としていた。」(「ソ連共産党史Ⅰ」国民文庫版225ページ)とか、「プラハ協議会は、新しい型の党を建設するうえですぐれた役割をはたした。」(同230ページ)と書かれており、スターリン党史が継承されている。
 何のことはない。不破はかつて通説となっていたスターリン党史を忠実になぞっているだけなのである。レーニン全集を直に読むと通説と比較していろいろと腑に落ちないことが目につくのだが、不破はその腑に落ちないところを「いろんな理由がある」という言葉で自分を誤魔化して通説に従い、田口や藤井を攻撃するのである。

75、不破の持ち出すとっておきの引用文
 以上で、不破の言うプラハ協議会を分水嶺とするボルシェヴィキ党の党史区分が成り立たないこと、ならびに不破テーゼの”タネ本”を明らかにしたのであるが、公正を期するために、不破が自説を裏付けるために持ち出すレーニンが1914年5月に書いたつぎの文章を検討しておこう。

「1912年以来すでに2年以上にわたって、ロシアでは組織されたマルクス主義者のあいだに分派はないし、単一の諸組織内では、単一の協議会や大会では、戦術についての論争はない。あるのは、1912年1月に、解党派は党に所属するものではないと正式に声明した党と解党派との完全な決裂状態である。」(全集20巻「統一の叫びにかくれた統一の破壊について」349ページ、1914年5月、不破「多元主義か」56ページ) 

 この論文は解党派との統一を説くトロッキーを批判したもので、第一次世界大戦がはじまる2ヵ月前のものであり、プラハ協議会から2年4ヵ月後にあたる。なるほど、レーニンは分派は存在しないし戦術についての論争もないと書いている。してみれば、プラハ協議会で日和見主義の潮流が一掃され党の”純化”が行われたかのような印象を受けることは確かである。この引用文はスターリン党史である前掲の「ソ連共産党史Ⅰ」(前掲230ページ)にも引用されている。

76、レーニンの引用文が示す真実
 しかし、この文章は1912年に「日和見主義との絶縁」をしたことの証明にはならないのである。1914年の5月段階で「分派はない」という党内状況がもたらされる原因は一つであるとは限らず、現実にはいろいろありうるからである。「日和見主義との絶縁」によってもかかる結果がもたらされるであろうが、他方では、党内に存在する諸分派との”融和”によっても「分派はない」状態がもたらされうる。どちらであろうか?
 プラハ協議会から1年3ヵ月後の1913年4月に、解党派をめぐる組織問題を扱ったレーニンの論文に「論争問題」という表題のものがあるが、そこにはこういう文章がある。国会からの国会議員の召還を求めツアーリズムの下での議会活動を否定した「召還派」(フペリョード主義=プラハ協議会の解党派の一分派)について、次のようにレーニンは言っている。

「・・・社会民主党の国会活動と合法的可能性の利用を否定することにある偏向は、ほとんど完全に消滅してしまった。ロシアでは社会民主党員のだれひとりとして、もはやこういうまちがった、非マルクス主義的な見解を説こうとするものはない。『フペリョード派』・・・は党維持派メンシェヴィキと肩をならべて『プラウダ』(いわゆるレーニン党機関紙のことー引用者注)で働くようになった。」(「論争問題」、レーニン全集19巻150ページ、太字はレーニンの強調)

 この文章からわかることは、プラハ協議会後も「党維持派メンシェヴィキ」が党内で活動していることはもちろんのこと、除名された召還派さえ、その誤った召還主義と解党主義を捨て党に復帰しているという事実である。さて、どちらの原因で分派が消滅したのかと言えば、このレーニンの引用文で明らかなように、「日和見主義との絶縁」ではなく、プラハ協議会以後の2年の間に除名された「召還派」が考えを改めて党に復帰し、また「党維持派メンシェヴィキ」との党内融和が進んだ結果、「分派はない」状態が生まれたのである。
 また、不破の引用するこの文章(第一次大戦の2ヵ月前)には「解党派との完全な決裂状態」とはあっても「日和見主義との絶縁」とか「決裂状態」とは述べていないことにも留意されるべきである。jcpの常識からすれば驚くべきことに、除名された「召還派」という分派さえ、党に復帰することが許されているということである。jcpとボルシェヴィキとの違いは絶大で、しかも、この復帰は非合法下のツアーリズムの下でおこなわれているのである。
 なお、「論争問題」というレーニンのこの論文を不破はその「前衛」論文(「多元主義か」44ページ)で引用しているのであるが、この文章は目に入らないようである。
 「日和見主義との絶縁」とか「新しい型の革命党」なる不破の主張が、スターリン党史をなぞるだけでロシアの党史を偽造するフィクションであることは明らかである。

77、榊利夫の場合も不破と瓜二つ
 つぎの榊の主張を見てみよう。

「レーニンとボルシェヴィキは、困難とたたかい、党の再建をめざして精力的な活動をくりひろげ、ついに1912年1月の第6回協議会(プラハ協議会)で党の再建をかちとる。このプラハ協議会で再建された党は、それ以前の日和見主義潮流と並存した党の再建ではなく、日和見主義と明確に絶縁して革命的マルクス主義にしっかりとたち、組織上も民主集中制によって堅く統一した『あたらしい型の党』として出発する。」(榊「民主集中制論」55ページ)

 何かお経を読むような型にはまった文章であるが、「日和見主義と明確に絶縁」という議論は不破と同じである。彼らは後の第3インターの創立で日和見主義と絶縁した党というものを、スターリンにならって、事実に目をつむってでも1912年に持ち込みたいのである。すでに述べたが、榊はその著書で図表を作って党維持派メンシェヴィキが党に残ったことを表示していたのに、こうした主張をするのである。
 これで不破らが批判する第二の論点=「分派のない党にあっては適用できない行動原則だ」とする主張も根拠なきものであることは明瞭となった。1912年以後も分派は存在したが、相互批判と運動の経験の中で統一的な活動ができるようになってきたのである。

78、20年後の不破の自己否定
 「新しい型の革命党」とか「革命的マルクス主義の党」、「革命的脱皮」や「レーニン党組織論の核心」、「自明である」とかいう勇ましい不破の主張が、その20年後に、「議会の多数を得ての革命」と言い出す頃になると、どう変化したかを見ておくことも無意味ではあるまい。言わば、田口との論争の時期には、不破は第3インターナショナルの党組織論(21箇条の「加入条件」、1920年)をこれらの言葉で天まで持ち上げて、その組織論を1912年のプラハ協議会にまで越境させるほど”崇拝”していたのである。
 しかし、レーニンの『国家と革命』を時代も歴史も越えて、暴力革命唯一論と規定して否定してしまえば、暴力革命の時代(=帝国主義戦争の時代)に適応すべく苦闘したレーニンによる第3インターナショナルの党組織論も一転して批判されることになるのは必定である。不破はこう言っている。

「それ(21箇条の『加入条件』のこと─引用者注)は、結局、ロシア革命のなかでボルシェヴィキ党が身につけてきた組織や活動を、組織や活動の一般的なあり方を決める『原則』にまとめ、これをコミンテルンへの加入の資格としたものでした。いま、これらの『加入条件』を読むとき、各国の共産党の存在と活動の条件を一律の枠組みにはめこもうとする当時の考え方そのものに疑問をいだかざるをえません。たしかに、当時の情勢のもとでは、革命的潮流と日和見主義的潮流とを区別し、”ふるいにかける”ということは、必要な態度だったでしょう。しかし、その仕事が、万国共通の組織と活動の原則を定め、その承認を求めるという機械的なやり方で、はたして達成されたでしょうか。また、ボリシェビキの経験をまとめあげたこれらの『原則』が、はたして、すべて万国に共通する、普遍的な”ふるい”になりえたでしょうか。」(不破「レーニンと資本論」、「経済」2000年8月号、151ページ)

 不破のこの主張が歯切れが悪いのは、田口論争の時の自分の主張が念頭にあるためであろう。ボルシェビキ党の組織論を国際的に普遍化したのは誤りだと断定してしまえば、田口論争の時の自己の勇ましい主張を否定することになる。
 しかし、この引用文で不破の言っていることは、ボルシェビキ党の組織論を第3インターナショナル(コミンテルン)の党組織論に格上げして普遍化したのは誤りだということなのである。
 不破の主張がこうしてコロコロ変わるのは、何度も言ってきたことであるが、レーニンらが当時の歴史の現実を理論化した諸命題をその歴史を忘れて公式として理解するからであり、他方では、歴史を離れた公式であればjcpの都合で自在に適用しあやつれるからである。
 「議会で多数を得ての革命」という不破の今日の見地からすれば、「プロレタリアートの独裁」の承認を「加入条件」の中心に掲げるレーニンの組織論を認めるわけにはいかないというのが、不破jcpの政治的都合なのであるが、そこに見られる不破の思考はレーニンと不破の時代の違いを無視して不破の都合が20世紀初頭に”越境”していることがわかるであろう。1914年以後を1912年に越境させたことと同じことが今でも行われているのである。
 こうして、不破のように理論を”玩具”にしてしまえば、不破の”古典研究”も趣味とはなり得ても、政治実践の方針を決める能力を鍛えるものとはなり得ないのであって、21世紀のjcpの低迷ぶりが実証しているところである。

79、分派がない党組織でも意見の相違が発生することは避けられない
 そもそもの話が、分派がなければ「批判の自由と行動の統一」という行動原則が不必要だという主張そのものが不合理で成り立たない。
 党の政治思想を「革命的マルクス主義」で統一するという考え方自体が観念論以外の何物でもないのである。一体何が「革命的マルクス主義」であるかは、絶えず生起してくる新しい政治経済現象を前にして簡単に答えの出せるものではなく、わかりきったことではないのである。エンゲルスではないが、現象と本質が一致するなら科学はいらない。不破が20年後に建前上のレーニン崇拝者から批判者になるのもその一例である。
 統一した政治思想とは、せいぜいのところ、党の綱領上、「基本的な諸原則」(レーニン)の一致という以上の意味を持たせるわけにはいかないのである。あらゆる政治現象について、その過去と未来についてのすべての解答を用意した「革命的マルクス主義」の百科全書がどこかにあるのならば別だが、ブレスト講和問題の党内論争を例に引くレーニンを持ち出すまでもなく、政治情勢の大きな転換や歴史的大事件が発生するたびに、分派のない党内でも意見の相違は発生するのであって、何が「革命的マルクス主義」かが論争問題になるのである。分派のあるなしにかかわらず、「批判の自由と行動の統一」が必要な理由である。
 卑近な例では、現在の自民と民主は「同じ穴のムジナ」というjcpの主張さえ、政権交代後、志位執行部は「建設的野党」論ですっかり舞台裏に隠してしまったが、そこで問われていることは、隠すことで解決される問題ではなく、「ムジナ」論等のjcpの「科学的社会主義」、戦後の半世紀の中で変化してきた”時代の全体”を視野の外に置くその単純な政治図式の是非なのである。

80、「批判の自由」と「行動の統一」の範囲
 残る不破らの批判は、「批判の自由と行動の統一」がjcpを「討論クラブ」にするものだという論点である。レーニンの言う「批判の自由」は、選挙戦を例にとると、選挙期間中を除き、選挙方針の決定前も決定後も、公然と自由に批判できるというものである。
 不破はつぎのように言う。

「田口氏が藤井氏とともにここで主張するのは、こうした党内での討論や批判の自由、意見の留保と再討議の権利保障ではなく、党の決定を、決定の採択後も公然と批判しつづける自由のことであろう。しかし、党が必要な討論を経て統一した方針を決定したあとでも、これを公然と攻撃したり批判したりする自由が無条件に認められるような組織原理が、党を討論クラブに変えてしまい・・・大衆的前衛党としての役割を発揮しえなくすることは、容易に理解されるところである。」(不破「多元主義か」38ページ)

 不破が最も気に入らないのは、党中央が決定した後に公然と批判するということである。榊にあってはこうなる。

「問題は、決定後の批判の可否にあるのであり、『批判の自由』の名による決定の不履行、党規律の破壊にある。」(榊「民主集中制論」145ページ)

 なかなか率直でよろしい。その規律の是非を論じているときに、「党規律の破壊」と論証ぬきに断定されては議論にならないが、不破や榊の頭の中は、とにもかくにも、決定後の批判はその時期の如何に関わらず「党規律の破壊」という理解なのである。
 不破は決定後の批判を認めているが、その「再討議の権利保障」とは選挙戦が終わった後の支部内での議論のことなのである。決定が出されると、それ以後、選挙戦が終了するまでは批判は許されず、批判が許されると「討論クラブ」になると不破は言うのである。「党規律の破壊」と「討論クラブ」ではずいぶんちがうが、その違いは問わないことにしよう。
 要するに、決定が下されれば、決定に基づく実践が終了するまでは批判は許されず、許されるのは実践後だけであり、実践の総括をめぐる時期だけだというわけである。
 したがって、表面的に見れば、不破との違いは決定後、選挙戦に突入するまでの期間の「批判の自由」は認められるか否かということにある。

81、「批判の自由」の範囲は原理・原則の問題
 この違いはどういう性質の問題であろうか? 連載(7)の「52」項に紹介したレーニンの「引用6」を再掲しよう。①~⑧の番号は便宜的に私がつけたものである。

「①これが、いったい、どういうことになるか、考えてもみたまえ。党員集会では、党員は、大会決定に矛盾する行動を呼びかける権利があり、大衆的な集会では、『個人的意見をのべる』完全な自由が『あたえられ』ない、とは!! ②決議の作成者たちは、党内の批判の自由と党の行動の統一との相互関係の理解をまったく誤ったのである。③党綱領の諸原則の範囲内での批判は、党の集会だけではなく、大衆的な集会においても、完全に自由でなければならない・・・。④このような批判あるいはこのような『扇動』(というのは、批判と扇動とを区別することはできないから)を禁止することは不可能である。⑤・・・中央委員会が、批判の自由を不正確に、あまりにもせまく規定し、行動の統一を、不正確に、あまりにも広く規定したことは明らかである。⑥一例をとってみよう。大会は、国会選挙に参加することを決定した。選挙は完全に特定の行動である。選挙のときに(たとえば、こんにちのバクーで)選挙に参加するなという呼びかけをすることは、どんなものでもどこでも党には絶対に許されない。この時には、選挙についての決定の『批判』も許されない。・・・反対に、選挙が、まだ公示されていないようなときには、選挙に参加するという決定を批判することは、どこでも党員には許される。⑦もちろん、この原則の実践への適用は、これまたときとすると、争論をひきおこすだろう、⑧だがほかならぬこの原則にもとづいてのみ、あらゆる争論とあらゆる疑惑が、党にとって名誉となるように解決されうるのである。」(太字はレーニンによる強調)
 

 ⑥の文章からわかるように、レーニンは選挙の公示前は、決定後であっても批判は許されると言っている。また、この期間の批判は党内に「争論をひきおこすだろう」ことが予想されることも述べている。しかし、そうした「争論」やある種の混乱が起こりうるとしても、「⑧だがほかならぬこの原則にもとづいてのみ、あらゆる争論とあらゆる疑惑が、党にとって名誉となるように解決されうるのである。」と自説を擁護しているのである。レーニンにあっては「党規律の破壊」という観念はさらさらない。
 レーニンの別な言葉で言えば、「⑤・・・中央委員会が、批判の自由を不正確に、あまりにもせまく規定し、行動の統一を、不正確に、あまりにも広く規定したことは明らかである。」ということになる。
 レーニンにあっては、具体的実践行動の期間と「行動の統一」の期間は厳密に一致しており、それ以外の期間は「批判の自由」を制限するどんな制約も認められないし、認めるべきではないと主張しているのである。「批判の自由」の範囲と「行動の統一」の範囲の厳格な規定は、政党においても『思想・信条の自由』の権利を持つ党員個々人の言論の自由を保障しその行動を規制する原理・原則なのである。
 ところが、不破の場合は、決定後と選挙公示前の間の期間も「批判の自由」を否定しているのであるから、「行動の統一」の範囲を「不正確に、あまりに広く規定したこと」になる。その結果、生まれてくる害悪は党員の「批判の自由」の侵害であり、党員の自主性の毀損である。この傷害は長い間に党を死に至らしめる打撃なのであって、決定後のありうる一時的混乱とは比べものにならない重大事をもたらすものである(注44)。

<(注44)、決定後も批判する自由があるということは、不破が予想するように、自動的に批判の乱舞となり党内が混乱するというわけではないであろう。決定前に反論者の意見も自由に表明させ、十分に議論を尽くすことが大事であり、議論を尽くし考え得る最も正確な決定がなされれば、決定後に馬鹿げた批判はほとんど起きないと考えるのが常識であり、馬鹿げた批判を継続すれば批判者が党内で相手にされなくなるだけである。
 だから、不破らの主張は決定前の一部幹部の間での論争のない決定の取り決めという実際と相関関係にあるのである。一部幹部間で、論議を尽くさぬ決定の取り決めをするから決定後の批判を忌避したくなるのである。不破は塾考することもなく、「公然と」批判されることがとりわけ”お気に召さぬ”のだが、レーニンの引用(連載6の「引用5」や連載7の「引用7」)をみればわかるように、党内の論争は公然と行い世間に持ち込み労働者大衆がその論争に習熟できるようにし、その論争について世論ができあがるようにして党内論争に決着をつけるべきだという思想までレーニンは展開している。

「⑧だが、行動の統一という範囲以外では──われわれが有害とみなす行動、諸決定、諸傾向にたいして、もっとも広範に、自由に、討議し、論難するべきである。⑨このような討議、決議、抗議のなかではじめて、わが党の真の世論ができあがることができる。」(「引用5」から)

 これほど明確にレーニンは言っているのだが、不破らはそれは分派の承認されていた1912年までのルールだと主張して忌避するのである。レーニンのこの主張はすでに見てきたように分派のあるなしに関係はない。党派の利害の問題ではなく、人間の認識の持つ不可避的な有限性、相対性、簡単に言えば誤りを犯す可能性を普段に持っていることへの組織的保障措置の問題なのである。
 レーニンはかつてロシアマルクス主義の父とも見なし尊敬もしていたプレハーノフとの論争も経験し、党のすぐれた指導者と言えども聖人君子ではなく、誤りを犯すばかりか、様々な世俗的理由でその誤りに固執し馬鹿げた弁護論さえ展開する現実をよく知っている。いわんや、戦後の半世紀を経てなお7%の得票率しか得られず、衆議院選で0勝900敗ともなる戦術をとり、国政選挙で連戦連敗を続けるjcp指導部にあっては、なおさらのことである。
 「批判の自由」をその原理・原則に則った範囲まで拡げ承認することが、jcpの再生には不可欠なのである。>

82、「批判の自由」の範囲はjcpではあまりに狭い
 なお、「批判の自由と行動の統一」に関して、レーニンと不破の主張の違いはもうひとつある。レーニンにあっては、「批判の自由」は、党の内外を問わない自由、公然たる「批判の自由」なのであるが、jcpにあっては党内だけに限定され、党外での批判は統制の対象になるということである。
 実際は、XX中総自体が志位らによって書かれ中央委員会で形式的に決定される。それでもう決定なのであって、決定前の党内討議・批判の場はない。後は選挙等の結果が出た後、狭い支部内であれこれ言えるにすぎない。しかも、その限られた時期と空間における批判の声が、上級機関に上がっていく組織制度上の保障がなにもないときている。
 レーニンの言う党員の「批判の自由」は、「行動の統一」の期間以外は公然かつ無差別に自由であるのに対し、jcpにあっては選挙後の支部内だけに封印されており、ほとんど無差別に”不自由”なのである。この差は限りなく大きい。
 レーニンにあっては「批判の自由」にともなう「争論」やある種の混乱は、原理・原則の厳密な貫徹に伴い起こりうるマイナスとして甘受すべき対象であり、そのマイナスは党員の経験に基づく修練によって克服すべきものとなっている。「批判の自由」が保障する党員の自主性を何よりも重視するから、起こりうるマイナスも甘受すべきものとなる。その結果、自主的で相互批判の中で修練を積んだすぐれた党員と集団が生まれてくるのである。

83、「批判の自由」を不当に制限する結果は?
 そこで、レーニンの主張とは対極にあるjcpの具体例で考えてみよう。この10年は「大衆的前衛党としての役割を発揮」しうる不破の理想とする党内状況であったと言えるであろう。何度選挙に負けようが批判一つ出ない党内状況、不破流に言えば、党の「統一と団結」はこれ以上ないばかりに”すばらしいもの”(?)であったが、「大衆的前衛党としての役割を発揮」できたのであろうか? あるいは連敗続きの原因となる諸問題が、「あらゆる争論とあらゆる疑惑が、党にとって名誉となるように解決」されてきたであろうか?
 都議選の惨敗とその後の民主党への対応の変化は「大衆的前衛党としての役割を発揮」するどころか、不破らの批判に抗して国民が切り開いた政権交代実現という流れの事後承認というていたらくではなかったのか。「自公政権の退場」というスローガンを掲げたのは7月の都議選惨敗後であり、総選挙の期日決定のわずか2週間前のことである。
 また、80億円もかけて立派な党本部ビルを建てたが、供託金の没収に堪えられず全小選挙区から半小選挙区立候補戦術に転換したと言うのは「党にとって名誉」な解決であったのか?
 全小選挙区立候補戦術という決められた選挙方針があっても、決定後の「批判の自由」を許し、その批判に耳を傾け、公然と党内外で論争を組織し、大衆を論争に巻き込み大衆の意見を吸収した方が”半”小選挙区立候補戦術に転換するのはもっと早くできたであろうし、”半”という中途半端な転換も克服できたのではないのか? 
 しかも、こうした論争を党内外で行った方が国民の政治意識、その動向を正確に把握でき、無党派の政権交代派との連携もでき、都議選の惨敗とその後の見苦しい政治対応(反省なき自公政権退場論への急変)も避けられ、「党にとって名誉となるように解決」されたのではないのか? 
 「討論クラブ」とは公然たる批判を封印し、「党の力量が足りない」と、抽象的で空疎な選挙総括を繰り返す現在のjcp執行部、すなわち常任幹部会のことではないのか。「党の力量」が足りないのではなく、”執行部の力量”が足りない。反省が足りない。いくら惨敗しても責任を問われない党執行部こそ、「討論クラブ」という名にふさわしいであろう。(注45)
 不破の場合にかぎらず宮本時代から半世紀にわたって、jcpは党員の行動の原理・原則を曲げて「批判の自由」をほとんど無際限に広く統制してきた。原理・原則を曲げた戦後半世紀にわたるjcpの”実験”(jcpの「MS」)がどのような結果をもたらしているかは、もはや縷々説明するまでもないであろう(注46)。

<(注45)、直近の9中総(10月13日)でも、総選挙の総括を「党の力量が足りない」ということに求めているが、この総括ほど抽象的で空虚、無内容なものはないのである。志位ら執行部が「討論クラブ」そのものである格好の例証である。
 その無内容さに志位らはいつになったら気づくのであろうか? このような総括は自民党でも同じように言えることである。仮に自民党が惨敗の総括に「党の力量が足りなかった」と言ったら、志位らは何と批判するであろうか? わが党と同じですばらしい総括だと言うであろうか? おそらく、自民党は無反省で敗北の原因を真摯に探求し明らかにしていないと言うであろう。
 jcpでも同じことである。この空虚な総括では連戦連敗の具体的原因はさっぱり明らかにならない。 たとえて言えば、体の具合が悪くて医者に診てもらったら、”歳だからねぇ”と言われるのと同じことなのである。おそらくは志位らも知っていて、こうした無内容な総括を何度もやっているのである。その理由は、原因を真摯に研究すれば連敗続きの執行部の責任問題が浮上するからである。>

<(注46)、「新日和見主義事件」について
(1)、独自の政治綱領がなければ分派ではない
 ”実験”の典型例は1972年に行われた青年の大衆組織・「民青」における幹部党員の粛清事件である。世に「新日和見主義事件」と言われている。すでに多くの論評や出版物が出されているが、この連載で明らかにしたレーニンの民主集中制論の見地から「事件」を検討してみよう。
 同「事件」で査問の犠牲者となった油井喜夫によれば「100名近く」(油井「虚構」3ページ、社会評論社2000年)が処分されている。同じ査問を受けた川上徹によれば、自己批判書を提出した程度の軽い処分者を含めれば600~1000人ともなると言われている(川上「査問」172ページ、ちくま文庫、執筆・公表は1997年)。
 最近、「事件」の中心にいた川上徹と大窪一志の著書「素描・1960年代」(同時代社2007年)が現れたが、それを読んでも、明確な政治綱領があったわけではなく、分派として粛清した党中央もいろいろな批判論文を発表したものの、その政治綱領を証拠文書として明示できなかった。
 したがって、レーニン基準で言えば「分派」どころか「潮流」でさえない。「分派」は党中央とは異なった政治綱領と内部規律を持ち、多数派をめざす独自の組織活動を行うものであり、「潮流」は独自の政治綱領をもつが内部規律がない。
 川上らは今でもjcp基準の分派の観念に縛られ、「分派活動」をしたと自認しているようである(「素描」301ページ、「査問」では否認)が、「官僚主義ではないか」、「革命の代行主義だ」、「修正主義ではないか」(同書266ページ)という、青年特有の反権威主義的な感覚で「ボーリング研究会」なるものを作っている程度であり、党幹部の広谷俊二や党員ジャーナリストの川端治、高野孟らと接触があったものの、内部規律を持った集団を形成していたわけではない。
 また、当時の党規約を見ても、規約前文に「派閥をつくり、分派活動をおこなうことは、党を破壊する最悪の行為である。」(「前衛」312号、第11回党大会特集、293ページ、1970年7月)とあるにすぎず、「分派」の定義すらない。要するに、「分派」と認定するための基準となる”犯罪構成要件”さえ定められておらず、党中央の判断に委ねられている”いい加減さ”なのである。

(2)、「民青」という青年大衆組織への暴力的干渉
 共産党中央が「民青」の上限年齢を28歳から25歳に引き下げる提案(「事件」の発端)をしたのに対して、川上ら「民青」幹部が反対して「民青」内でオルグをしたことなどは反党活動ではなく、大衆組織の自主活動に他ならない。その自主活動を反党活動として処分の対象にするのは、そもそも政党組織と大衆組織の区別がわかっていないのである。大衆組織への党中央による不当な干渉である。争点となった党中央の提案が党の一般的政治方針ではなく、年齢問題という「民青」固有の問題という性格をもっているからである。
 仮に一般的政治方針の提案があった場合には、それは「民青」の問題ではなく党内問題であり、その場合でも、その方針に反対しただけで反党活動と言うわけにはいかない。党中央の提案がどのような性格をもつものであれ、中央の提案に反対することが即反党活動であると規定されるのであれば、その組織は独裁組織というほかないであろう。
 連載(7)の「60」項に引用したレーニンの文章をみればわかるが、党中央による特定の大衆組織に対する”提案”にその大衆組織の党員は従う義務はなく、党員は自分の”良心”に従う義務があるだけである。レーニンは言う。

「『自分の内部生活や日常活動の問題では、党グループは自主的である』と。つまり、(ソヴィエトの─引用者注)代議員団のすべてのメンバーには、中央委員会の指示によってではなく、良心に従って投票する権利と義務がある。」

 jcp中央の馬鹿げた粛清が「民青」を壊滅させる起点となったことは明らかであり、jcp予備軍たる青年のプールが枯渇すればどうなるかは党の現状が示しているとおりである。大衆運動の自主性をつぶされた「民青」は当時の20万人から現在2万人へと減少したと言われており、党員の減少率をはるかに上まわっている。

(3)、学生運動の高揚と宮本顕治の誇大妄想が衝突する
 この「新日和見主義事件」の本質は、宮本の独裁的な大衆組織支配のやり方(スターリンの伝導ベルト論と同じ)による大衆組織への干渉・破壊ということにある。川上らの「研究会」活動は、彼らの反・党中央意識の程度がどうであれ、独自の政治綱領を持つほどの組織的集団活動がないのであるから、青年にありがちな反権威主義的気分の発露という程度のものと理解するほかなく、「分派」どころか「潮流」と言えるものでもなく「事件」の付随的側面にすぎない。
 1968年から69年にかけて学園闘争が全国へと爆発的に広がったことをみればわかるように、当時は時代への”焦燥感”とも言うべき空気が学園に充満していたのであって、その”焦燥感”を「民青」も全共闘も左翼セクトも共有していた時代である。その”焦燥感”の内容がいかなるものであったかは議論百出であるが、学生大会の演壇から、「デモ決行!」と叫べば、行きずりの学生も参加し一挙に数千人規模のデモンストレーションが始まるという時代であった。
 当然、その”焦燥感”あるいは新しい時代への予感に駈られて、試行錯誤の動きが「民青」を含めて広範な青年層の間に出てくるのである。自主的な試行錯誤の動きは、当然にも反権威主義的な色彩を帯びざるをえない。
 宮本党史(70年党史)では「『新日和見主義分派』を粉砕した。」と意気軒昂であるが、党本部忠誠派の「三役室」の前で「ヒラメ」と呼んで「タイやヒラメの舞い踊り」(前掲「素描・・」325ページ)と歌う連中の行為は反権威主義的気分の発露、青年の”悪ふざけ”と言うほかないのであって、そうした児戯をともなう青年の模索を「分派」策動として「粉砕」し、有為な多くの青年たちの人生を破壊したのは宮本の病的な”誇大妄想”が原因なのである。

(4)、宮本顕治の特異性が「事件」をつくりあげた
 どの時代にも、ある社会層の運動が興隆する場面があるものだが、運動の興隆にともない、時代の新しい様相の影響もあり、不可避的に既成の経験的な理解からはみ出す現象が出てくる。それが社会に根ざした真の大衆運動であるかぎり、その興隆は多数の参加者の旺盛な自発性、自主性に支えられているからである。
 宮本は青年党員のそうしたはみ出す動向を”分派の芽”として「粉砕」したのである。「分派の芽は双葉のうちに断つ」と宮本が言っていたと、川上も油井も共通して書いている。
 しかし、また何とも没理論で情緒的な言い草ではないか。ここにこの事件の全問題を解く鍵がある。
 「民青」の上限年齢を28歳から25歳(幹部は32歳から30歳へ)に変更するという問題は、”革命の大義”とは何の関わりもない年齢変更問題であって、即決しなければならない問題でもなければ、妥協のできない問題でもなく、jcpの政治路線を変更する問題でもない。25歳に変えなければ「民青」がつぶれるという問題でもなく、日本の政治運動全体の中で見れば、ささやかなエピソードにすぎない問題である。
 そのような問題での反対を「分派の芽は双葉のうちに断つ」という宮本の判断は”異常なもの”と言うしかないのである。理屈から言えば、”芽”のうちはそれが何に育つかわからないものであるから処分できないものであるが、宮本がその”独特の嗅覚”で断罪の斧を振るったことがわかるであろう。
 そして、この”独特の嗅覚”こそ、宮本の”誇大妄想”を引き起こすのである。”芽”はその大木に育った姿を誇大に妄想しなければ斧で切り倒せるものではない。
 宮本にしてもスターリンの「伝導ベルト論」の誤りくらいは知っているはずだが、実践で、党と大衆組織の関係を適切に処理できないのは、理屈以前に、その”嗅覚”と”誇大妄想”に血液を送る大衆(運動)に対する極度の”不信感”が宮本のうちに潜んでいるからだと解する以外にないのである。
 すでに見てきたように、レーニンは10年にわたるメンシェヴィキとの抗争を経てもなおかつ「日和見主義との絶縁」とは言わないのである。それだけ政治的見解の相違のあれこれの重要性を峻別し組織の統一に努力している姿と比較してみればいい。
 宮本にあっては、jcp傘下の大衆とその運動が自主性を発揮し始めるや、それに対する極度の”不信感”を栄養源にして独特の”嗅覚”と”誇大妄想”が鼓動を始めるのである。大衆への極度の”不信感”と”独特の嗅覚”と”誇大妄想”、と三拍子そろえば、それらは一体のものとして宮本の特異な戦前・戦後体験(「50年問題」)の産物であることが了解されるであろう。

(5)、宮本による大衆組織の支配は絶対的なもの
 宮本のやり方から見えてくる宮本の考えは次のようなものになる。党も大衆運動も宮本指導部の指揮の下で整然と統制ある行動に服さなければ、正しく革命の道を進めないのである。革命という人間の最も偉大な行為が、あらかじめ計画されたマス・ゲームのように進むと考えているようなものであるが、これは極めつけのマルクス主義の戯画である。
 宮本のやり方では、党フラクションが指導権を握るあらゆる大衆運動はその党フラクションを通じてjcp中央の意向に沿うように統制されるか、さもなければ、党の指令に従わない党フラクションは「分派」として「粉砕」の対象になっていくことになる。党が支配する大衆組織であれば常にそうなる。jcpがヘゲモニーを握る大衆運動が大きく成長し続けることができない理由である。
 逆に、大きく成長する大衆組織は旺盛な自主性を発揮するが故にjcp中央と衝突しがちになる。こうして、大衆組織とその運動が大きな広がりを持つにつれて、宮本jcpは妨害者として立ち現れがちになる。長く分裂していた原水禁との統一行動を模索した原水協執行部が宮本の人事干渉で「粉砕」された1984年の原水協事件は「新日和見主義事件」の再発である。
 「新日和見主義事件」は、「人民的議会主義」路線への転換にともなう大衆運動重視派=「民青」中央の切り捨てであるという見方もあるが、「事件」の一側面を主要な側面と誇大に見る誤りである。というのは、「人民的議会主義」も大衆運動重視を否定していないからである。
 ここに挙げた両事件の共通性からわかるように、ある有力な大衆組織において党フラクションがヘゲモニーを握っている場合に、党の見解と指導の範囲内から”はみ出る”自主活動をおこなう党フラクションの存在を許さない、というのが宮本に独特なセクト的で独裁的なやり方なのである。そこには政党と大衆運動という、これまで蓄積されてきた共産主義運動の経験則も”へちま”もないのである。あるのは宮本の特異な経験と宮本のその特異な経験の”総括”だけである。

(6)、”死せる宮本、生ける不破を走らす”
 宮本は大衆運動の自発性の尊重、すなわち、その運動の流れに乗り、流れを促進しながら、運動全体を、エンゲルスの表現を用いれば、社会主義の方向へ導くというやり方を知らない。大衆運動の自主性を尊重し運動を促進しながらどう方向付けするかというやり方と、党組織を通じて党員を指導するやり方とは多くの共通する部分があるのであって、党員の自主性をかぎりなく毀損するウルトラ分派禁止つきの「MS」を平然と維持していては、大衆運動をうまく導くことはできないのである。
 その例が、この間の国政選挙にも現れた。民主党を政権に押し上げて政権交代を実現させようとする国民の運動を誤っているとみなして、民主党が政権を取っても政治は変わらないとキャンペーンし、jcp支持に転換させようとしたことがそれである。結果として、政権交代の妨害者の役回りをすることになり、07参議院選と09都議選で惨敗を被り、やっと、この総選挙直前に「自公政権の退場」という方針に転換した。
 宮本流のやり方が「民青」をつぶすことになり、原水禁運動の分裂を固定させ、今また、長く政権交代の妨害者となってきたという事実を直視するべきである。宮本亡き後の不破jcpは「同じ穴のムジナ」論を採用していても、レーニンのように、政治情勢の転換のためには、まず政権交代=民主党政権というステップを採用することもできたはずである。ところがそれができなかった。
 すべての組織と大衆の運動を自己のヘゲモニーの傘下に直接引き込み統制しなければ”安心”できない宮本のやり方が踏襲されているのである。”死せる宮本、生ける不破を走らす” つまり、十分な大衆運動の経験も持たぬまま党本部に入り、宮本の下で長く文筆と議員活動を続けてきた不破や志位は、政治指導者としては宮本寺の”門前の小僧”なのであり、加えて、jcpの「MS」を是としている限り、jcpの指導部は大衆運動へはセクト的にしか関われないのである。

(7)、宮本が残した負の遺産
 私の主張をまとめよう。理論の面から見れば、「事件」は単純なもので、宮本jcpによる大衆組織への暴力的な干渉なのである。「事件」が「分派」問題の様相を持たされたのは、党の支配下にある大衆組織の自主活動への、宮本の特異な戦前・戦後体験からくる不信が原因なのである。この不信があるために、「民青」幹部の党員の言動を党指導部の政治方針と指導の範囲内に統制しようとし、その範囲をはみ出す川上らは、宮本の判断一つで「分派」として断罪されることになったのである。
 宮本は、「民青」の年齢変更を大衆組織への提案ではなく党の指令と見なし、年齢問題での川上らの反対を大衆組織の自主判断と見なさず党への反乱と解釈した。反乱後の宮本らの迅速な動きを見れば、宮本の”嗅覚”は、もっと以前から川上らの”忠誠派らしからぬ”言動を警戒していたこともわかるのである。こうして、宮本の”特異性”が原因で前途ある多くの青年の人生が蹂躙されることになった。
 この宮本の負の遺産は、一方では”門前の小僧”を残し、他方ではjcpのウルトラ分派禁止付きの「MS」という組織を置いていったのであって、大衆運動への骨がらみのセクト主義という形で不破jcpはその遺産を継承しているのである。
 すでに見たように、「新日和見主義事件」は過去のものではなく、その総括をしない限り、絶えず、党組織と大衆運動に再発してくるのであるが、不破編集の「日本共産党の80年」(2003年)では、きれいさっぱり消されている。
 参考までに、jcpの指導者にレーニンの次の文章を送ることにしよう。jcpの指導者が相変わらず党と大衆組織の区別がわかっておらず、大衆組織の青年党員を引きずり回す可能性が高いので、起こりうる青年の犠牲者を少なくするためにである。

「青年たちは、かならず彼らの父親たちとはちがった仕方で、ちがった道によって、ちがった形で、ちがった状況のもとで、社会主義に近づかざるをえない。だから、われわれは、とりわけ青年団体の組織上の自主性を無条件に支持しなければならないが、これは・・・問題の本質によってそうなのである。なぜなら、青年の完全な自主性なしには、彼らをすぐれた社会主義者に仕上げることも、社会主義を前進させる準備をととのえることもできないからである。」(「青年インターナショナル(覚え書)」全集23巻176ページ、1916年、太字はレーニンの強調)>

追記:「解党派との絶縁」と「日和見主義との絶縁」の違いと統一戦線戦術の関連は次回に述べる。(つづく)