84、日本共産党史のうちに最後の原罪を探る
今回は、「解党派との絶縁」と「日和見主義との絶縁」との違いに関連して統一戦線戦術のことを書くつもりであったが、予定を変更して別稿に譲り、連載を急ぐことにした。他党派をどのようにとらえ、どのような対応を取るべきかという問題は、この9月に成立した民主党政権への対応とも関連している。階級対抗をベースにおいた共産党(jcp)流の単純な政治図式で切り裂けるかどうか、私の考えるところでは、この政権のとらえ方がマルクス主義の試金石ともなっているからである。
さて、この連載の題名は「三重の原罪を背負った共産党の民主集中制」というもので、すでにその原罪の二つは記述してきたところである。
ひとつは20世紀半ばまで”現人神”が君臨するという日本の遅れた精神的風土であり、そこでは国家が個人の内面まで支配することが、言わば日常的なものとして受容されてきたのであって、その精神的風土がjcpをも部外者にしてはおかなかったという問題である。
思想の統一という名の下に、党が党員個人の内面まで支配しようとする。その端的な例証は連載(3)の<注18>に示した”査問”の実態や21世紀に入って作られた新規約5条の5がそれである。この条項では「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」という党員の義務を課している。すでに述べたことだが、レーニンが「このような批判を・・・禁止することは不可能である」と言ったこと(連載(7)の<注35>参照)が、極東のjcpにあってはいとも易々と禁止事項にされているのである。
もうひとつの原罪は、スターリン由来の分派禁止恒常説をとる民主集中制(MS)だということである。基準となるレーニンの民主集中制を明らかにし、それとの対比で示した数々の<注>の中で、jcpの実情を示してきたところである。とりわけ、連載(9)の末尾の<注46>で示したように分派の認定が党執行部の”腹ひとつ”という”ウルトラ”な分派禁止であり、「新日和見主義事件」が象徴的な事例である。
そこで、残る原罪の最後の問題は、jcpの「MS」を生み出してきたjcpの党史のなかに存在するということである。いわゆる「50年問題」が中心になる。この「50年問題」とその表面上の解決である「六全協」(1955年、第六回全国協議会)こそが、今日のjcpの”鋳型”を作り上げたのであり、その”鋳型”を40年にわたり維持してきた主柱が「六全協」の主役の一人であり、またその後、党最高権力者として1997年まで君臨してきた宮本顕治なる人物なのである。
85、戦前のjcpは政党の体をなしていない政治結社(1)
不破らがボルシェヴィキ党史を1912年で区分したのは誤りであったが、jcpの党史を見る場合は戦前と戦後は分けて見るべきである。戦前のjcpはその政治的影響力という視角からみれば、政党としてよりも”政治思想の潮流”としてとらえた方が実態に合っているであろう。
jcpの公認党史で見れば、1922年7月の創立、1924年3月解散、1926年12月再建から1933年末に宮本らが例のリンチ事件で逮捕されるまでの正味活動期間はわずかに9年足らずであり、jcpの存在は苛烈を極めた天皇制絶対主義支配の下では、それ以上の存在になることができなかったと言うべきである。jcpはその”幼年期”にして成長することなく壊滅したのである。
このような評価はjcpには不服であろうが、たとえば、レーニンはボルシェヴィキの党史を振り返って次のように言っている。
「ボリシェヴィズムは、政治思想の潮流として、また政党として、1903年以来存在している。」(「共産主義内の『左翼主義』小児病」全集31巻9ページ)
レーニンは「政治思想の潮流」と「政党」という二つの側面から、ボリシェヴィズムは1903年以来存在していると言うのであるが、「ロシア社会民主労働党」の創立は1898年である。では、1898年から1903年までの5年間は何であったのかと考えてみるべきである。
確かに党は1898年に創立し、政治思想としても明確な輪郭を持っていたが、政治に影響を与える組織としての実態がなかったのであり、両者が結合し実態のあるものとして政治的影響力を発揮し始めたのが国内のストライキ闘争が高揚する1903年からだとレーニンは言うのである。レーニンの党史回顧にはjcpのような自己美化の片鱗も見られない。
86、戦前のjcpは政党の体をなしていない政治結社(2)
jcpは今日においても戦前の栄光を手放しで称揚するのであるが、”政治思想の潮流”として限定した場合にだけ、その称揚は肯定できても政党ということになれば”粉飾決算”となってしまうのである。というのは、1926年末の党再建後、1928年の「3.15事件」による大量逮捕、翌1929年の「4.16事件」による大量検挙、1930年の田中清玄委員長の下での武装闘争の誤り、1932年の熱海における全国代表者会議は「スパイM」の手引きで全員逮捕、1933年6月の獄中党幹部の「転向声明」と大量転向、そして1933年末は宮本顕治らのリンチ致死事件が発覚して最後の中央委員会も壊滅する。
これらの史実は非合法党組織の形成過程での生みの苦しみを示しているのであるが、結局、権力に対抗できる全国的・統一的党組織を形成できないまま、戦前のjcpは壊滅したということに他ならない。その間の活動にいかに光芒を放つ出来事があろうとも、この全体的特徴づけは変えようがないのである(注47)。
<(注47)、もうひとつ、外国との対比で見れば、戦前jcpの組織水準がより明瞭になる。晩年のエンゲルスとドイツ社会民主党の例が参考になる。ビスマルクによって制定された社会主義者取締法(1878年成立、日本の「治安維持法」の先駆)を1890年に廃止させ、ドイツに凱旋する晩年のエンゲルスの姿がある。エンゲルスは、社会主義者取締法を実効なきものにしたドイツの労働者の活動を讃え、ドイツの党員たちが取締法が廃止されて寂しいと陽気に言うのを例を引き、「われわれの組織は─敵が賞賛しかつ絶望するほど─鉄壁です。それがそんなに鉄壁になったのは、・・・ビスマルクの社会主義者取締法のおかげです。」(「ザ・デイリー・クロニクル紙特派員とのインタビュー」マル・エン全集22巻、542ページ)と鼻高々であった。その歴史の事例と戦前のjcpを対比してみるべきである。
87、戦前のjcpは政党の体をなしていない政治結社(3)
つまり、権力に対抗する持続的組織を形成できない政治団体は革命政党としての実態を持っていたとは言えないのであって、”政治思想の潮流”、せいぜいのところ政治思想団体と呼ぶしかない政治結社なのである。命がけで反戦平和と民主主義を主張した唯一の政党というjcpの自慢話も、その政治的実効性の観点が抜けた自己評価なのであり、丸山真男によって批判(「戦争責任論の盲点」1956年)される理由なのである。
戦前のjcpはインテリ層には大きな影響力を及ぼしたが、その党員数は最盛期でも500名ほど(注48)にすぎなかった。
労働運動への影響力をみても、党壊滅2年前の1931年の段階で、jcpの指導下にあった『全協』の組合員数がわずかに「約1万人」(「日本共産党の70年・年表」82ページ、1994年、以下「70年党史・年表」と略す)である。むろん、当時の大多数であった農民層への影響力は絶無というほどのものでしかない。
なお、戦前のjcpの党組織がその幼年期のままであったことは、後段で小林多喜二の小説『党生活者』の検討でも示されることになる。
それゆえに、ここでは、jcpの党史の検討は戦後が中心となるのであり、今日のjcpの直接の先蹤となる「50年問題」が主に取り上げられることになる。
<(注48)、田中真人「1930年代日本共産党史論」7ページ、三一書房1994年。伊藤晃「転向と天皇制」53ページ、勁草書房1995年)。
1957年に「50年問題」を総括したjcp文書・「50年問題について」には、戦前のjcpについて次のような記述がある。「また、党の組織はきわめて小さく、明文化された規約による大衆的な党組織の運営の経験に欠けていた。」(「50年問題資料集3」279ページ)
何と戦前は明文化された党規約もなかったのである。戦前のjcpの党員数についてさえ、当のjcpが党内文書、記録として保存しておらず、特定の時期の正確な党員数を把握していない。これは権力の弾圧回避のために記録を残さなかったという理由だけではなく、権力に対抗する組織の実質をついに戦前は形成できなかったことの現れでもある。同じ非合法下にあったボルシェヴィキが規約論争をやり、大会記録を残したばかりか出版した事実と対比して見るべきである。 >
88、「50年問題」の発端
「50年問題」を概略すると次のようになる。1950年1月6日、コミンフォルム(ソ連が主導する各国共産党の情報交流機関)は、当時jcpが採用していた占領下平和革命論(いわゆる野坂理論)を批判する論評(「日本の情勢について」)を発表したのだが、書記長・徳田球一を中心とする党政治局は『所感』を発表して反論、他方、政治局少数派の宮本顕治や志賀義雄はコミンフォルム論評を評価し、ここに評価をめぐる意見の相違が生まれたのである。
徳田を中心とする政治局多数派は「所感派」と言われ、少数派の宮本、志賀らは「国際派」と言われた。レーニン流に言えば「根本問題についての意見の相違」の発生である。
宮本党史の集大成と言われる「70年党史・年表」によると、1950年1月18日、第18回拡大中央委員会で「コミンフォルム論評の積極的意義を認める決議」を採択したとある(同「年表」129ページ)。同時に野坂の「私の自己批判」を採択、志賀意見書撤回と、こうしてコミンフォルム論評をめぐる党内の意見対立はコミンフォルム論評を認めることで一応まとまったことになるわけである。
激しい対立が一転して収まったのは、第18回拡大中央委員会で論争の最中に、中国共産党機関紙「人民日報」(1月17日付)がコミンフォルム論評を支持する社説を掲載したことがわかり、それが決定打となったからである。
しかし、1月23日の政治局の会議では「多数決で宮本統制委員会議長を九州地方の指導に長期に派遣と決定」(同「年表」129ページ)したという。言わば、徳田中央による宮本の左遷である。スターリンや毛沢東の権威があるからコミンフォルム論評の線でまとまったものの、ワンマン徳田は腹いせに徳田に反対した政治局員・宮本を左遷したというのが宮本党史の見方である(注49)。
<(注49)、この左遷には、さらに前史があって、戦後の党再建をめぐる対立が指摘されている。それは府中刑務所に収監されていた徳田らを中心とするか、宮本が主張する戦前最後の中央委員・宮本、袴田らを中心とする再建かという対立があり、また、戦後の解放下のjcpの活動の中で、徳田が抜擢し重要な役割を与えていた伊藤律の女性スキャンダルの処理をめぐる紛糾や徳田のワンマン党運営などをめぐる反目がある(亀山幸三「戦後日本共産党の二重帳簿」24ページ、現代評論社1978年、以下「二重帳簿」と略記)。
小山弘健は「徳田と律の関係は、スターリンとベリアの関係を小型にした日本版だった。」(小山「戦後日本共産党史」47ページ、芳賀書店、1966年、以下「小山党史」と略記)とまで言っている。また1949年9月9日付で中西功の有名な「中西意見書」が出され、そこで党内官僚主義の跋扈とその弊害が指摘されていることも取り上げておくべきだろう。
要するにjcp指導部にあっては、徳田のワンマン党運営に加えて俗世間的な対立があって、そのいざこざが理論問題であるコミンフォルム論評をめぐる所感派、国際派のグループ分けにも反映していくのである。第18回拡大中央委員会で意見の一致にいたりながら、党内が分裂していく別の原因がjcpの組織問題として存在していたのである。
現実のjcp指導部が、このように”現世的”であり俗世間の有り様と無縁ではないことを確認しておくことは重要なことである。>
89、「50年問題」へ結実する党内三大要因
戦後当初からあった党内主導権争いや、その後、徐々に生まれてきた徳田中央のワンマン党運営(後に徳田の家父長的個人指導とか党運営と呼ばれるようになる)とそれへの反発というこの二つの傾向は、コミンフォルム論評を契機に、所感派と国際派という対立と結びつき、所感派による国際派の組織的排除が始まるのである。
ところが、ここにもう一つの事件が発生する。それは当時日本を占領していたアメリカのマッカーサーが1950年6月6日にjcp中央委員の公職追放を発令したことである。その前年から始まったいわゆる『レッド・パージ』の一エポックであり、北朝鮮の南進開始ではじまる朝鮮戦争の勃発が6月25日であるから朝鮮戦争の機運とも連動した米占領軍の動きであった。
さて、公職追放令を受けた徳田中央はどうしたか? 「70年党史」では20日間の猶予期間があったにもかかわらず、徳田中央は何らの対応もとらず、「こうして徳田派は、弾圧を機に意見の違う宮本顕治、蔵原惟人ら7人の中央委員を一方的に排除して、正規の連絡を絶ちきり、党を分裂させた。」(「70年党史」上、215ページ)と言う。「『クーデター的手法』による党中央の解体」(同215ページ)とも言う。
「70年党史」ではコミンフォルム論評をめぐる意見の相違を伏線に、ここに徳田中央は国際派・宮本らを排除し、中央委員会開催という正規の手続きを踏まず地下に潜り、党を分裂させてしまったと言うのである。これが「50年問題」の本格的始まりである。
以後、徳田中央主催の秘密会議「5全協」(1951年10月16日)で野坂の占領下平和革命論に代わる51年綱領(武装闘争路線・スターリン綱領)が決定され、火炎瓶闘争などがはじまり党内の混乱が輻輳していくことになる。
以上の概括からわかることだが、「50年問題」での党分裂に至る経過には三本の流れがある。①、戦後当初からの指導部争奪戦の流れ(府中刑務所派か戦前中央委員会派かという対立)と徳田ワンマン指導体制への批判、②、コミンフォルム論評の評価を巡る対立、③、マッカーサーによる中央委員追放令に端を発する徳田党中央の地下潜行と国際派の排除=党の分裂、ということになる(注50)。
<(注50)、いささか先走った言い方になるが、このような党内問題の発生は、jcpが戦前はその組織の規模からしてセクトに留まったことと不可分の関係にある。すなわち、党員500名程度という非公然の組織規模、権力との対抗で頑強な統一的全国組織を形成できなかったこと、そこに見られる組織作りとその運営の”家内工業”的特徴、そして幹部の長い獄中生活と経験不足、これらの要因が戦後の急激な党勢力の伸張の中で組織の欠陥として露呈したのである。戦前、組織の幼年期のまま壊滅した党が、戦後、急に大人の対応を要求されることになったのである。
マルクス・レーニン主義は、連載(1)の「6項」にあるブハーリン報告で示したように、組織の一般的な形態は指示できるものの、それぞれの国で具体的にどのような組織形態をとるべきかは教えてくれないし、具体的な党運営の方法も教示できないのである。どういう党組織を具体的に作り上げるかは、その国の党幹部の資質と力量の問題である。すでにこの連載で見てきたように、レーニンの民主集中制もあれば、jcpの「MS」もあり、同じ民主集中制と言っても天地の違いが出てくる。>
90、公認党史への『徳田分派』の登場
「50年問題」の事実経過はさして複雑怪奇なものではない。公認党史が複雑怪奇になるのは史実の評価が逆転され、逆転された評価にもとづき党史が書き直されてしまう、すなわち、党史の偽造が行われるからである。もっと具体的に言えば、「50年問題」の史実は宮本の都合の良いように書き直されているのである。
以下、史実と偽造の関係を見ていこう。「70年党史」では「徳田・野坂分派による党中央の解体と分裂の強行」(同・上214ページ)となっている。言わば、昨日までの党中央が公職追放をうけて”地下に潜った”ところ、徳田指導部が突如として「分派」になってしまっているのである。
分派のなかった党に分派ができるとすれば、党中央とは異なる意見を持つグループの方が分派となるのであって、党指導部が分派となるのではない。党内主流派は党執行部を握る多数派である一方、執行部に対して異論をもつグループが特定の主張(政治綱領)をもち党内で独自活動を始めれば、そのグループが分派ということになる。どちらが分派であるかは、党執行部が起こした混乱の種類や性質によって決まるのではない。
徳田分派という「70年党史」の規定は、分派概念を乱暴に破壊し党史評価の逆転をもたらしている。宮本ら国際派が分派ではなく徳田党中央が分派だという「70年党史」は党史の事実の改ざんだと言わなければならない。
難しい判断が必要な話ではない。公認党史は「40年史」、「45年史」、「50年史」と増補・改訂がなされてきているが、私の手元にある1978年刊行の「増補 日本共産党の50年」においても、1983年発行の「60年史」でも徳田中央を分派とする表現はない。通常理解する分派概念からすれば当然のことである。
しかし、「65年党史」で、「事実上の徳田派を分派的に形成する重大な誤り」(「65年党史」上132ページ)という表現が登場し、1994年の「70年党史」ではじめて「徳田分派」なる新規定が出現し、それにともない徳田中央の決定した諸機関と諸決定が「徳田分派」が勝手に行ったこと、党としては非正規のものにされてしまうのである。つまり、「徳田分派」の実行したことには宮本jcpは無関係で、宮本jcpには何の責任もないことにされるのである。こうしてjcp党史は複雑怪奇なものになる。
典型例は「5全協」で採択された51年綱領が「70年党史」では「51年文書」なる諸文書のひとつになってしまっていることである。私の手元には日本共産党中央委員会発行の「日本共産党綱領集」(1962年発行)があるが、そこでは「綱領─日本共産党の当面の要求〔1951〕」とある。
何とも幼稚で宮本に都合のいい話なのであるが、おそらくは、元「所感派」の盟友・野坂参三が1992年に党を除名されたことで盟友への遠慮がいらなくなったこともあるのであろう。「70年党史」が宮本党史の集大成と言われる由縁であり、宮本顕治86歳、執念の”創作”である。
91、宮本は分派を自己批判して「臨中」の下に降っていた(1)
理屈では、どう見ても宮本・国際派が分派になるのであり、史実でも宮本らは分派として自己批判し、徳田中央のもとに復帰していることを簡単に触れておこう。当時の宮本の行動からみても、自分を分派と認めているのだから「徳田分派」という主張は二重に成り立たない。
宮本ら国際派は、地下に潜行した徳田中央による組織的排除に対抗して、1950年8月31日~9月1日にかけて「全国統一委員会」を結成している(「70年党史年表」133ページ)。ところが、9月3日、タイミングを計算していたように、ふたたび中共機関紙「人民日報」が社説で徳田中央(北京へ亡命・北京機関と呼ばれる)の国内における公然指導部である「臨時中央指導部」(通称「臨中」、議長・椎野悦朗、以下説明の便宜に徳田主流派の国内指導部を「臨中」という表現で統一する)支持を表明するや、宮本らは「全国統一委員会」を「解消」(1950年10月22日、「70年党史年表」134ページ)してしまう。
だが、「臨中」は国際派の統一申し入れを拒否し、国際派の組織的排除を続行したため、宮本ら国際派は新たに「全国統一会議」を結成(1951年2月末、「70年党史年表」136ページ)し、「理論機関誌『理論戦線』を創刊」(同136ページ)している。「理論戦線」のほかにも雑誌「解放戦線」を創刊し、宮本論文「党の統一を妨害しているのは誰か」(ペンネーム瀬川陽三)が「理論戦線」第一号に載ったのは1951年1月(「50年問題資料集2」211ページ)である。
宮本ら国際派は独自の機関誌まで創刊しているのであるから、りっぱな分派ということができるだろう。しかも、1951年4月22日に行われた全国的な地方選では、「臨中」側が東京都知事選に社会党の加藤勘十を推したのに対し、「全国統一会議」側は哲学者の出隆をかつぐという対抗ぶりであった。
92、宮本は分派を自己批判して「臨中」の下に降っていた(2)
「臨中」は「4全協」(1951年2月23日~27日)を秘密裏に開催、新中央委員の選出、「軍事方針」を決定するという重要な出来事があるが、またしてもコミンフォルムの論評(「分派主義者にたいする闘争に関する決議について」)が8月10日に発表され、「4全協」支持、宮本ら反「臨中」派を分派と断定する事態が起きている。これが宮本らを含めて反主流派の諸分派・グループには最終的な決定的打撃となった。「70年党史年表」は次のように言う。
「コミンフォルムの機関紙・・・が『4全協』の『分派主義者にたいする闘争にかんする決議』を報道、日本共産党の内部問題にかんする重大な干渉、徳田・野坂分派を公然と認知、党中央と党の統一をもとめる宮本らを『分派』あつかい」(「70年党史年表」137ページ)したのである。
しかし、「70年党史・年表」は、こうは言うものの、分派としての独自の組織活動を継続したわけではなく、史実では当時の宮本らはコミンフォルムに分派と認定され、抵抗することもしない。「全国統一会議」は1951年10月初旬に「解散声明」(「70年党史年表」138ページ)を出し、そのメンバーはおのおの自己批判書を「臨中」に提出して党に復帰することになるのである。国際派の立場を説明すべく50年末にモスクワに渡っていた袴田里見がスターリンの一喝で変心、その自己批判書を「臨中」が発表(1951年8月23日、「70年党史年表」137ページ)するということも行われている。
コミンフォルムの援軍をえた「臨中」側の対応は峻厳をきわめ、国際派はいわゆる”坊主懺悔”の状態で党に復帰することを許される有様であった。国際派の中央委員として「全国統一委員会」まで宮本と行動をともにしていた亀山幸三が宮本から直接聞いた話では自己批判書を「三度書き直しを命ぜられた」という(亀山「二重帳簿」159ページ)。宮本自己批判書は今もって発見されていないようであるが、当時の状況で、国際派の代表格というべき宮本が自己批判書を書くことなく党に復帰したとは考えられないことである(注51)。
<(注51)、─jcpという政党に占める宮本顕治の特異な位置─
「5全協」(1951年10月16~17日)当時、徳田主流派に属し、東京都委員会の「キャップ」をしていた増山太助は次のように言っている。
「8月21日に20回中央委員会総会が召集され、『モスクワ製』の『51年綱領』が承認され、10月3日からおこなわれた『五全協』で新しい『綱領』を採択、同時に『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』という論文が発表された。この論文─『軍事方針』は、・・・『51年綱領』を実践する戦術的一歩』として20回中央委員会総会も承認しており、また『国際派』の宮本顕治らも『51年綱領』とこの『軍事方針』をともに承認して党に復帰することになったのであるから、この二つの文書は特別な意味をもつことになった。」(増山太助「戦後期左翼人士群像」220ページ、つげ書房新社、2000年、以下増山「左翼人士」と略称)
増山のこの記述では「10月3日」という「5全協」の日付が誤っており、正しくは10月16日と17日であるが、それにしてもこの記述からわかることは、宮本の「復帰」は「5全協」の前後である。亀山の著作では「10月上旬」(亀山「二重帳簿」154ページ)となっている。つまり「全国統一会議」が10月初旬に「解散声明」を出した直後に、あまり日を置かずに宮本は自己批判書を三度書き直して「臨中」の下へ「復帰」していると見てほぼ間違いはないであろう。
そこのところを「70年党史」は次のように書いている。
「51年8月のコミンフォルムの論評ののち、党の統一回復を主張した人々(主に「全国統一会議」にいた宮本らのこと─引用者注)は、党中央委員会を解体した側がつくった不正規の『指導機関』のもとに『復帰』することにされた(「された」と言うのは、いかにも宮本流で、自分らが納得しなければ”される”必要はなかったであろう─引用者注)が、『分派活動』としての自己批判と『51年文書』(51年綱領のこと─引用者注)と『四全協』規約の承認が前提とされ、『復帰』自体も円滑にすすまず、分裂による不正常な状態が長くつづき、統一回復への一歩をふみだすには、1955年7月の『第六回全国協議会』(「六全協」)をまたなければならなかった。」(「70年党史」上231ページ)
この宮本の文章(と言うほかない)からでも、宮本ら国際派が全面降伏で「臨中」指導部の下に復帰せざるをえなかったことがわかるであろう。しかし、宮本が復帰したのかどうかは、この文章からはわからないのである。というより、「『復帰』自体も円滑にすすまず」という文章をいれることで二つのことが意図されている。一つは宮本の復帰を不明のままにすることで宮本の自己批判も不明にしてしまうこと、もうひとつは、党の統一は「六全協」なのだと読む者に思わせることなのである。
事実は、他の反主流派のグループも宮本も自己批判して復帰しているのであり、いかに宮本らには不服ではあっても、51年10月の「5全協」の頃には党は再統一されていたのである。小山党史は次のように言う。「とにかく、党の分裂抗争は、不正常な形で突然に終止符がうたれた。」(「小山党史」126ページ)
この再統一の事実を隠すこと、隠さなければ、宮本が自己批判して「臨中」の軍門に降っていたことが明白になるからである。その4年後の「六全協」は、その再統一を世間と全党へ周知させ、かつ、半非公然状態であった党を公然化させるための”セレモニー”にすぎなかったのである。
なお、宮本の自己批判に関連して宮本が書いた「経過の概要」という文書がある。これもまた宮本にまつわる”幻の文書”である。関係者が全文を公表することを期待したいところである。亀山の推測では「6全協」後に書かれたもののようだが、宮本が神山茂夫に見せたものを亀山が入手している。コピー機のなかった時代であるから、おそらく亀山は筆写したのであろう。その「経過の概要」には次の記述があるという。
「八・一四放送後、別項の声明を発し、中央委員の指導体制を解体す、この間、期限つきで、自己批判の提出を・・・・これに応ず。また、経過措置として臨中側との交渉、地方組織の統合その他に他の諸同志とともにあたる。」〔亀山「二重帳簿」159ページ)
亀山の証言や増山の記述、「70年党史」の記述や宮本の「経過の概要」にしても、すべては宮本の自己批判と「臨中」への復帰を示していることは明らかである。
私が宮本の自己批判と「臨中」への復帰という史実にこだわるのは、それが宮本による”執念”の党史偽造の中心点・動機にあたるものだという理由ばかりでなく、最初に述べたように現代のjcpの”鋳型”を成型した主柱が宮本であることにもよるのである。一言で言えば、現在のjcpの”鋳型”は宮本顕治の人格という回路を通じて成型されており、三つの原罪を背負うjcpのウルトラな「MS」も同様なのである。ここにjcpの特異性があり、また宮本の特異な位置がある。>
93、宮本指導部の出自と分派禁止の「MS」の矛盾
権力を握った者が自己の権威付けのために歴史を”新たにつくる”ことは、古くは古事記・日本書紀の時代から無数の例があるが、この「徳田分派」という党史の改ざんは、なぜ40年にわたる宮本の執念をもって強行されたのであろうか?
その理由は、後に党中央を握った宮本の”正統性”を弁証・美化するという一般的な理由ばかりではなく、もっと具体的な理由があったと見るべきであろう。それは分派禁止の党組織論、すなわちjcpの「MS」との整合性の問題である。
後の宮本指導部が少数派の分派・国際派から身を起こして多数派となったと思われていては、分派禁止の「MS」は説得力を持たないことになるわけである。金科玉条の組織テーゼを自ら破っていては、いかにも具合が悪い。そこで、宮本は分派禁止の「MS」と整合性をとるために「徳田分派」と新規定し、史実を逆転させ分派の汚名を徳田らに負わせることで40年ぶりに懸案を解決したということになる。
党組織の実情は宮本体制で盤石であり、その「MS」も揺るぎないにも関わらず、党の公認党史という文献上の改竄に40年がかりで”決着”をつけるというすさまじい宮本の執念、完璧な自己美化への執着は、凡百の者には想像を絶するものがあり、それゆえにまた金科玉条の組織テーゼ(分派禁止)違反という経歴の傷も二重に許しがたいものになるのである。
94、宮本の右往左往と自己美化(1)
しかし、このような解決は史実に矛盾することになる。それは国際派の頭領であった宮本がソ連や中国の批判に遭遇して、自己批判して「臨中」に復帰・屈服したという問題である。徳田中央に組織的に排除されて、やむなく宮本国際派という分派を作らざるを得なくなったものの自己批判して「臨中」に復帰という具合で、宮本の首尾は一貫していないのである。
宮本が分派禁止の「MS」が正しいと思うのであれば、自己批判して「臨中」に復帰した事実を堂々と公言すればいいのだが、自己批判して「臨中」に復帰したことを隠そうとする。
後のことになるが、やがて武装闘争の誤りへの党内からの批判が激しくなると、「臨中」指導部は復帰してはいたが”干されていた”宮本を指導部に引き入れる工作をするのであり、宮本はその工作に乗り「六全協」指導部に名を連ねるのである。1955年1月、「六全協」の半年前に「岩本巌を介して志田が宮本に会見をもとめ、宮本が志田、西沢隆二らと会う。」(「70年党史」年表145ページ)
宮本jcpの出自からすれば、分派禁止の「MS」との整合性をとろうとすれば、こちらの”路線”のほうが分派禁止の「MS」との矛盾はないし史実とも合っていることになる。 宮本は分派活動をしたが、中ソの批判を受け入れ自己批判して党に復帰し、やがて党指導部たる「臨中」の要請を受け「臨中」指導部で活動するようになり、「6全協」の舞台準備をして「6全協」で党中央に正式に復活した。これが史実であり、宮本はこのように主張すれば、分派禁止の「MS」との矛盾もなくなるし党史を改竄する必要もなくなる。
ところが、宮本は自己批判して「臨中」の軍門に降ったことを隠そうとする。自己批判をして「臨中」の軍門に降ったという事実は、51年綱領と「臨中」の軍事路線を承認したことを意味するので、宮本は党幹部としてこの責任の一端を背負うことになるのが嫌なのである。
分派にされるのは嫌だ、「臨中」の武装闘争路線を認めた責任を負うのも嫌だ、というわけである。宮本も並の俗物根性から無縁ではないのだが、恐ろしく幼稚で、ずいぶんと欲張りで自己美化の傾向が強い。党の分裂以来、なかば行動を共にしてきた亀山は宮本の性格について次のように言っている。「宮本の文書作成上におけるねばりと自己美化の執念に、私は内心『これは大変な男だ。恐るべき異常心理だ』と思った。」(亀山「二重帳簿」258ページ) ここにいう「文書作成」とは、「6全協」後に作成した「50年問題について」という党中央による総括文書のことである。
95、宮本の右往左往と自己美化(2)
それで、「70年党史」では「臨中」に復帰した頃の宮本をどう書いているか?
「統一会議が解散したあと、政治活動ができない状況下で、宮本は、『宮本百合子全集』各巻の解説の執筆にあたっていた。」(「70年党史」上242ページ)
「統一会議」の解散から「六全協」まえに志田重夫と会見するまで期間(1951年10月から1955年1月までの約3年間)の宮本の動向について、「70年党史」が語る文章はこの一行だけである。すこし考えてみればわかることだが、公職追放に遭って警察の監視下にあるものの、宮本が「政治活動ができない状況下」にあったわけではない。公職追放を受けた1950年6月6日以降、徳田らが地下に潜り分裂騒ぎになってからというもの、「全国統一委員会」や「全国統一会議」をつくり機関誌を創刊、自らも論文をペンネームで掲載しているわけであるから、この文章のどこかに”ウソ”があるのである。
つまり、宮本がこの一行の文章で言っていることは次のことである。「百合子全集」の解説を書いていたのは事実であるが、宮本は51年8月のコミンフォルム論評を受けて「統一会議」を解散し、自己批判して「臨中」指導部の下に復帰したものの”干される”状態が続いていたということである。「臨中」指導部の下に復帰したから「政治活動ができない状況下」にあったのである。
この一行の文章によって伏せられているのは、宮本が自己批判して「臨中」の下に復帰したという事実であり、他方では逆に、宮本の意図するところは、(俺)は武装闘争のことには無関係だよと暗示しているのである。往事の同志から「ズル顕」と言われる由縁である。
宮本党史の集大成たる「70年党史」の「50年問題」前後の記述は、一行の文章さえ、このように読み替えることができなければ、個々の文章の意味さえわからない”スフィンクスの謎”のような”迷宮”になっている。宮本の執念とも言うべき心血がそそがれ自己美化の”迷宮”が完成しているのである。
「70年党史」には、宮本らが自己批判して「臨中」指導部の下へ復帰し、党が「再統一」されたことにはまったく触れていない。「六全協」での統一という宮本らに都合の良い通説は正確なものではなく、すでに述べたように武装闘争の基礎となった「五一年綱領」が採択された「五全協」(1951年10月)頃には、党組織は「臨中」指導部の下で再統一されていたのである。
「六全協」当時、「六全協」で党の再統一がなったと対外的に宣伝していたのは、「臨中」にしても宮本らにしても、分裂した党の再統一を社会にアピールすることと共に党を公然化し、武装闘争で壊滅した組織と離散した一般党員を再結集する意図があったからである。
96、小括
以上のことを簡単にまとめておこう。「50年問題」は史実としては複雑怪奇なものではない。
戦前のjcpがその幼年期を克服できないまま壊滅したために、戦後における党勢の急拡大のなかで、指導的幹部の組織運営の経験不足、長い獄中生活の悪影響、党内の異論を解決する技術と幹部の人格の錬成度の不足(幼児性。レーニンの言う「左翼小児病」の人格的基礎と言うべきか)、その家内工業的特徴が露呈することになる。
1950年1月6日にコミンフォルム論評が出て野坂の占領下平和革命論が批判され、党政治局はそれに反発する徳田書記長ら主流派の「所感派」と宮本・志賀の「国際派」に意見が分かれる。しかし、その意見の相違は中共紙『人民日報』の社説(1月17日)が決定打となり、1月18日の第18回拡大中央委員会で、論評受け入れとして意見の一致をみるのである。
その後、マッカーサーによるjcp中央委員の公職追放(6月6日)を契機に徳田中央が地下に潜行して党の分裂がはじまり、排除された宮本ら国際派は分派組織(全国統一委員会、後に全国統一会議)を作り党の統一をめざしたが、再び、中ソの裁定・干渉(50年9月3日の『人民日報』、51年8月10日のコミンフォルム論評)があり、「5全協」(51年10月)頃に宮本らは自己批判して武装闘争に邁進する志田重夫・指導部(「臨中」)の下に復帰し、党は再統一されるのである。
「6全協」は、武装闘争と分裂の後遺症に苦しむ下部党員に一定の希望を与えたが、基本は党の再統一を党内外にアピールするためのセレモニーにすぎなかった。
ところが、その後、jcpの最高権力者となった宮本は自分と宮本jcpの正統性を弁証すべく、党史の改竄を行い、徳田中央を分派として描きだし、かつ、おのれの自己批判と「臨中」への復帰を党史から隠蔽してしまったのである。
この党史の改竄と自己美化は宮本の異常な執念をもって実行されたのであるが、その具体的な動機は分派活動をしたおのれの実績の党史からの抹殺と武装闘争への責任回避にある。
以上に述べた「徳田分派」という逆規定による党史の改竄や宮本の自己批判と「臨中」への復帰については、これまでも諸論者によって指摘されてきたことである。私の主張で新しいのは戦前jcpが党の”幼年期”のまま壊滅したということである。この幼年期ぶりが戦後に越境し、また党組織・活動のベースとなって、「50年問題」という”コップの中の嵐”があり、特異な人格を持つ宮本顕治が登場してくるのである。(つづく)