投稿する トップページ ヘルプ

「組織論・運動論」討論欄

三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(11)─党史から─

2010/2/5 原 仙作

97、日本共産党史を見る視点
 党史に関する前回の連載を読んで、党員諸兄の中には党史の否定的部分だけを見ているという感想もあるであろう。しかし、否定的部分に力点が置かれるかどうかは、私の主観、好みで選択できる問題ではないのである。
 半世紀ぶりに政権交代が行われたが、日本共産党(jcp)はその重大な政治・社会的意義を理解できなかった。「同じ穴のムジナ」であるこの政権交代に意味はないと主張してきた執行部の”無惨な姿”が党史研究の力点の置き所を強制するのである。
 jcp執行部のこの無惨な見解は、リアルな政治の現状を離れた単純な階級闘争史観に基づく政治図式によるものである。この図式によれば、jcpならざる政権は何によらず、支配階級の基本政策の実行を”法則”づけられた存在として規定されている。
 jcpの万能の政治図式では、今のところ、少々良く見える政策の実行も支配階級の基本政策を実行するために新政権が行う”カモフラージュ”か”アメ”にすぎない。こうして多くの国民はだまされる。そこで、新政権の”本質”を暴露する機会は逃がしてはならずとばかりに、検察による小沢降ろしの攻撃に喜々として飛び付くことになるのである。
 結果は暴走する検察の応援団と成り下がり、政策の是々非々とか言っていた志位の「建設的野党」論もすぐに”地金”が出てしまうことになる。jcpにあっては階級闘争の承認は、単純にあちらかこちらかの常に白黒二元論に還元されてしまうのである。

98、社会の変化と白黒二元論
 マルクスやレーニンの時代は、今日から見れば社会構造が単純で、階級闘争は遠からずして暴力革命に収斂する社会構造を持っていたのであり、社会の中間的領域はほとんどその独自の存在を発揮できる余地がなかった。ヨーロッパの各国社会民主党も帝国主義戦争の勃発を前にしては、賛否を問われその中間はありえなかった。それゆえに、白黒二元論に還元しやすく、また還元できるのもその社会構造の反映という側面があったのである。
 しかし、今日、マルクスやレーニンの予想を越えて、民主主義が広範に定着する社会になると、暴力革命は過去のものとなる。現代においては、政治現象をかかる単純な二元論に還元することは中間的領域がもつ独自な役割(これこそ現代が過去と区別される一特徴)を見失うことになるのであり、そのことによって、jcpの政治方針に多くの時代不適合が生まれてくるのである。中産階級に象徴される政治の中間的領域が独自の存在感を発揮できるような時代になれば、統一戦線のあり方も根本的に変わるし政治戦術も変わらざるを得ない。

99、宮本顕治の党史観
 宮本顕治によれば、党史研究は実に単純なものであり、jcpの側に立つ党史研究か、あるいは支配者の側に立つものかのいずれかである。この白黒二元論の見地は今日のjcp指導部にも明らかに継承されている。彼は1980年の記念講演で次のように言っている。

「日本共産党の歴史を語る場合に、二つの立場があるということをまずお話しておきたいと思います。・・・したがって支配階級の立場から共産党をみるのか、日本共産党自身の立場、活動、実績をもとにして日本共産党をみるのか、これは、日本共産党をみるまったく相反する立場であります。」(「50年問題資料集」第4分冊所収193~4ページ)

 言うまでもなく、この党史観はおそろしく素朴で単純である。現実の実態をぬきにしてjcpが無条件に肯定されており、支配階級には属さない一般の国民大衆の立場というものも存在しない。jcpには与しない一般大衆の立場とは、大衆の政治意識の如何に関わらず支配階級の立場に与すると宮本党史観では分類されるほかないことになる。なるほど、戦前、国民に”石もて追われる”経験を味わった宮本にふさわしい見解とも言えるようだ。
 宮本はその単純な党史観を「科学的社会主義」だと思いこんでいるが、決してそうではなく、これはマルクス主義の戯画、奇形的なマルクス主義なのであり、どうしてそんな奇形的マルクス主義の持ち主が淘汰されずにjcpを40年にわたって支配したのかということこそが、私の党史研究の主題なのである。

100、宮本国際派の主張の欠陥=組織問題への限定
 さて本題に戻るとして、「臨中」のそれまでの所業を見ればわかりきった取り扱い(組織内で”干される”状態)(注52)を宮本は受けているのだが、宮本自身にしてもそうした取り扱いを予想できなかったわけではないであろう。それにもかかわらず、宮本が「臨中」に屈服したのは国際的権威への事大主義という弱点(注53)もあるが、それ以上に、宮本国際派の活動方針に屈服の大きな原因があったのだと指摘しなければならない。
 宮本らの活動方針は、政治情勢とは本質的に無関係なものであったということである。宮本国際派にあっては、その基本的主張は徳田中央が非公然化して地下にもぐる1950年6月6日以前の状態、すなわち1947年12月の第6回大会決定時の中央委員会の状態に戻せということであった。

「・・党の統一の回復をめざす原則的なたたかいを開始した。・・・全国統一委員会が、その政治的な活動において、第6回大会の決定した行動綱領および、民主民族戦線のよびかけなど、解体前の中央委員会が統一して決定した諸方針をまもる態度をつらぬいて、あらたな政治目標をうちだすことをさけたのも中央委員としての原則的な責任を十分考慮して意識的にとった行動であった。」(「70年党史」上225ページ)

 「原則」、「原則」と何やら宮本の”身構え”ぶりが感じられるが、6回大会(1947年)以後、レッド・パージや朝鮮戦争、サンフランシスコ条約の締結へと政治情勢が大きく変わっているが、そのこととは無関係に党内組織問題だけが主要課題として取り扱われており、宮本国際派の主張は、ひたすら分裂前の統一していた中央委員会を回復させろという組織上の要求だけなのである。
 これでは、両者の対立は組織をどういう形で再統一させるかという問題に収斂してしまい、中ソの権威から宮本が分派なのだと断定されてしまえば、宮本が「臨中」に復帰して党の統一を回復させるという方法が最も”オーソドックス”なものになる道理ということになる。
 51年8月のコミンフォルム論評を受けて全面降伏したのは、宮本派ばかりでなく神山をはじめとして反所感派の全体に及び、降伏を拒否したのは一部の文学者や武井昭夫や安東仁兵衛の全学連グループだけであった。ちなみに、全学連グループの不破哲三は全面降伏派である。

<(注52)、前回連載の<注51>で宮本の書いた「経過の概要」について触れたが、その中に次のような記述がある。「51年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになったが、仕事を始めるに至らず。一、二週間して不適任者として解除される。」(「日本共産党史<私の証言>」58ページ、日本出版センター、1970年) この文章は亀山が神山から見せられたものを筆写した、手書きそのままのコピー(活字ではない)なのであるが、宮本が自己批判し「5全協」前後に「臨中」に復帰していたことが改めてわかるのである。>

<(注53)、宮本は、当時の事情の下では、中ソへの事大主義、とりわけスターリンへの”盲従”ぶりは克服しがたい権威として常識であったかのように平然としているのであるが、マルクス主義の考え方からすれば当然視できるものではなかろう。レーニンの党が当時の第二インターの権威たるカウツキーの党合同提案を拒否した事例があるし、毛沢東の「農村から都市へ」という長期戦略も、『長征』途上でのコミンテルン派(ソ連留学組、都市部執着派)との党内闘争を勝ち抜いて実行し獲得された中国独特の戦略に他ならない。戦前のjcpにあっても、再建当時(1926年)、党内で流行となった福本イズムでコミンテルンと一戦を交える行きがかりとなった事例もある。
 だから、当時のjcpの事大主義を当時の国際共産主義運動の常識とするわけにはいかないのであって、その事大主義には戦前来のjcpとコミンテルンの関係やその幼年期で壊滅した組織の実態、jcp幹部共通の”メンタリティー”が色濃く反映しているのである。
 1943年にコミンテルン(国際共産党)は解散しており、国際共産党としての民主集中制の組織形態は各国の党の自主性を損ね各党が成長してきた実態とも合わなくなったとして解散しているのだから、なおさらのことと言わなければなるまい。
 1950年1月のコミンフォルム論評が出れば、即座に党指導部はてんやわんやになる。宮本は「全国統一委員会」を作るものの50年9月の『人民日報』社説がでると「統一委員会」を即座に解散する。その後、さらに「全国統一会議」をつくるが今度は51年8月のコミンフォルム論評で再び解散という具合で、事大主義というより中ソの権威への盲従ぶりなのである。
 その国の戦略の正しさの基準は他国の権威ではなく、その国の国家権力の性格規定や政治情勢認識の正確さ、戦略に基づく戦術とその実践における有効性にあるのだから、マルクス主義と事大主義・権威への盲従とは本来”水と油”の関係なのである。”水と油”が容易に混ざってしまうのはjcpの独自の問題なのである。すなわち、「御上」(天皇)や権威への盲目的服従という当時の日本人一般が共有してきた”メンタリティ”が宮本らにあっても例外とはなっていないということである。>

101、政治課題ぬきの分派闘争が示すjcp幹部の小ブルジョア性
 ここで大いに強調しておかなければならないことは、「50年問題」に示される党史上の最大の分派闘争が党内の組織問題に終始し、ついに国民的政治課題が闘争の焦点に登らなかったということである。本質的なところで”コップの中の嵐”なのである。国民の政治課題そっちのけで、党内の権力闘争(分派闘争)に熱中しているのであり、そこにjcpという政党が持つ根本的特徴、その階級的な特徴、すなわち、小ブルジョア急進主義という特徴(注54)が露出しているのである。
 労働者階級の経済的利害を第一の政策課題に掲げていることや綱領に共産主義をめざすと謳っているからといって、それだけで自動的にその政党を労働者階級の政党にするわけではない。その第一の政策を実現するために実効性のある組織と実践、その結果をともなう政治活動を行うことができるものでなければ、その第一の政策も”絵に描いた餅”にすぎず、看板倒れの労働者階級の政党なのである。
 中ソへの事大主義も小ブルジョア急進主義の一構成部分なのであり、小ブルジョア急進主義という階級的特徴と国民的政治課題ぬきのこうした党内闘争オンリーの性格とは深く結びついている。
 戦前党が幼年期(政党ならざる政治思想団体レベル)のまま戦後に越境してきたばかりか、監獄から占領軍によって「解放」され、突如として暗闇から「獄中18年」の”栄光”の中に投げ出されたのであるから、党の幼年期と共にあった幹部らの人格の錬成度からすれば、手のつけられない”舞い上がりぶり”があったのであり、それゆえにまた、党の幼年期という性格(「左翼小児病」!)が幹部らに共通する理論と実践、また人格として”骨化”することにもなったのである。
 というのも、「獄中18年」という栄光は、党の幼年期・壊滅を反省させる契機とはならず、その幼年期の有様を至上のものとして”聖化”する役割を果たしたからである。幹部らが体現する言論と行動は日本の敗戦によってすでに実証ずみの真理として、そのまま至上のものとして、天皇制に盲従し戦争を賛美した誤れる国民諸階層がその”指導”に従うべきものと彼らには考えられたからである。
 この”聖なる不幸”は、反天皇制はおろか民主主義のための闘争すらほとんどできなかった戦前日本のインテリ層によるjcpにたいするコンプレックスによって増幅される。
 そして、この”骨化”と”聖化”は、「50年問題」を通してそれにふさわしい人物として”自己美化”の権化ともいうべき宮本顕治なる人格を抽出することに帰結していくのである。”自己美化”という宮本の人格の隔絶した特徴こそ、理論的には他の主要幹部とは選ぶところがない宮本が党内闘争で最終的な勝利者となる主要な理由となるのである(注55)。

<(注54)、ここに言うjcpの指導部の『小ブルジョア急進主義』を最初に指摘し、反省したのは戦前jcpの指導者であった佐野学と鍋山貞親であり、彼らが獄中から発表した「転向声明」(「共同被告同志に告ぐる書」1933年)においてである。jcpは「転向声明」ということで、書かれているすべてが誤りであるという取り扱いでやってきたが、民族排外主義等の弱点はあるものの彼ら二人が指導してきた党自身のことについては深刻な反省をしており傾聴するべき多くの指摘がなされているのである。
 また、レーニンが第三インターナショナルを創設した当時、そこへ結集してきた各国社会民主主義党の左派グループのほとんどが「左翼小児病」の特徴を示していたことも想起されるべきであろう。そのために、第三インターナショナル第二回大会に向けて、急遽、レーニンが「共産主義内の『左翼主義』小児病」を書き上げ、その偏向の特徴をロシアの経験と対比して示し各国グループに配布したのである。
 この第三インターナショナル当初の事例をみてもわかるように、マルクス主義党の形成はマルクスらの著作を読めば簡単に形成できるものではないのである。個人が誕生して以来、各人が身につけてきた自然発生的認識とその認識方法、ならびに思考形態から脱皮することが必要であり、言わばレーニン的な認識と思考に至るには「左翼小児病」の一時期を苦闘して克服する時期が避けられないように見えるのである。そして、その克服の仕方如何が各国の党形成に独特の性格を刻み込む。それはあたかも個人の幼年期がその人格に重要な影響を及ぼすのに似ている。
 戦前jcpの場合は、実に特異なものであって、幼年期のまま壊滅し、その幹部連が監獄に凍結・保存されていたままで、戦後、突如として「獄中一八年」の”栄光”の中に投げ出されるのである。>

<(注55)、スターリンの「粗暴」さと宮本の”自己美化”
(1)、ここで想起してもらいたいのは、レーニンがスターリン更迭を求めた決定的理由についてである。それは民族問題などの理論上のスターリンの誤りではなく、スターリンの人格の問題であったということである。この点はよくよく考えてみるべき論点なのである。

 「スターリンは粗暴すぎる。この欠点は・・・書記長の職務にあってはがまんできないものになる。」

 レーニンの遺言と言われる有名な部分である。確かに政権党の書記長が粗暴では権力が暴走する危険がある。しかし、その危険性だけが更迭理由というわけではないのである。その後に続く文章は次のとおりである。

 「だから、スターリンをこの地位からほかにうつし、すべての点でただ一つの長所によって同志スターリンにまさっている別の人物、すなわち、もっと忍耐づよく、もっと忠実で、もっと丁重で、同志にたいしてもっと思いやりがあり、彼ほど気まぐれでない、等々の人物を、この地位に任命するという方法をよく考えてみるよう、同志諸君に提案する。」(「大会への手紙」、全集36巻、704~705ページ)

 「スターリンは粗暴すぎる」というところだけが注目されるのであるが、その後に続く書記長にふさわしい人物像の諸要素がすべて人格に関わるものばかりだという点に注意を促したいところである。絶大な権力を付与された人物の人格は党組織の有様とその組織の実践を決定づける重要な要因なのである。
 その意味で、レーニンの遺言がその死後、中央委員会で公表されたにもかかわらず、レーニンの遺志に反してまでスターリンが擁護されたのは、すでにスターリン一派の勢力の強大化やスターリンの狡猾な組織能力があったとはいえ、「粗暴」なスターリンの人格そのものが当時の内外の政治情勢に”マッチ”したものとして党内で許容されたからなのである。

(2)、時代がそれにふさわしい人物を生み出すと言われるのはそのことである。jcpにあっては、時代というよりさらに狭く、当時のjcp組織内部の事情にすぎないが、その事情が宮本顕治なる人物を押し上げてくるのであり、スターリンの「粗暴」に対応する宮本の人格とは”自己美化”ということになる。
 この”自己美化”なる人格(性癖)は、当時のjcp党員の心情、すなわち、一時は謳歌した戦前の栄光とミゼラブルな「50年問題」との恐るべき落差が生み出す党員心理の結晶体と言うべきもので、宮本死して後なお、委員長・志位の演説で”自画自賛”として満面開花し続けているものである。
 死せる宮本は不破ばかりか志位をも走らせているところを見ると、この”自己美化”なる人格・性癖・心情はjcpの「科学的社会主義」からくる独善性の反映というよりも、理論以前の問題として、jcp幹部の幹部たる資格の問題、すなわち、彼らjcp幹部の”DNA”と見た方が実態に合っているようである。マルクスらの主張にはもともと独善性という特徴がないことは、『資本論』であれ、『帝国主義論』であれ、膨大な資料収集とその分析に裏付けられていることでもわかることである。
 だから、このDNAを持たざる者は宮本jcpのトップに立つことは出来ないのである。不破にあっては、その”自己美化”は自分の主張を何であれマルクスの言説で”牽強付会”することで表現されることになる。
 ”自己美化”というものが単に個人の性格であるだけであれば、その伝承はありえないし、あまり好ましい性格とも思われないであろう。ところが、”自己美化”の権化たる宮本が浮上してくるのは、おそらく、宮本にあっては”自己美化”なるものが共産主義の理想に対する絶対的信念の自己表白と同義だったからであり、多くの党員にそのように思われたからであろう。50年代の党員の栄光と悲惨の落差が生み出す党員心理を収攬しえたのも、そのように考えると合点がいく。

(3)、 戦前の大量転向の事例を見てもわかるが、個々人も党もその理論と実践では間違いを犯しうる、しかし、その間違いを犯しうる危うさをも乗り越えさせるのは他ならぬ理論と実践のあれこれを越えた共産主義の理想への絶対的信念にほかならず、この絶対的信念のあるなしが戦前の党員としての一切の成否を決定した、と宮本は経験的に考えるのである。戦前における転向の主要な動機は佐野学らの「転向声明」を見るまでもなく、実践における躓きである。
 だから、転向者であるかないかこそが、党員の天地を分ける基準であり、その宮本的基準がいかに厳格を極めたかは有名なことである。「50年問題」後、神山茂夫の復党を巡って宮本が「偽装転向も転向の一つだ」(亀山「二重帳簿」45ページ)と主張して、神山の復党に反対したこともその一例である。
 宮本にあっては共産主義の理想への信念は誤りを犯しうる理論と実践を越えた地平に成立するものなのであって、この信念に到達できた者こそ、jcpのトップの座に座る資格を得るのである。
 しかしまた、ここで言っておかなければならないことは、理論とそれに基づく実践の検証という煉獄の試練に晒されず、その試練から隔絶された地平に成立する信念とはいかなるものなのか、ということである。言うまでもなく、この地平では信念とは信仰と同義にほかならない。この、もともとの”DNA”こそが小ブルジョアという人格の特徴であり、ひどく主観的になる自己評価の源基であって、独善性の究極の原因となり、対外的には実践における教条主義を強制する。jcpにあっては、誤った実践であっても一般論(教条)で即座に弁護(自己美化)できる形式が必要なのであって、その実践が本質的に”受動的”になる理由である。全小選挙区立候補戦術を見よ。>

102、宮本国際派は分派闘争を貫徹するべきであった
 ところで、宮本が「統一会議」を解消し「臨中」に復帰した1951年10月初旬頃とはどういう時期であろうか? 「臨中」が「5全協」を開いたのが1951年10月16、17日であって、野坂の占領下平和革命論に代わる51年綱領(武装闘争路線・スターリン綱領)と具体化された「軍事方針」が決定されている。「70年党史年表」では次のように記述されている。

「徳田分派による『中核自衛隊』、『山村工作隊』の活動など武力闘争方針による活動が1951年末から1952年7月にかけて集中的にあらわれる。」(同「年表」138ページ)

 つまり、<注51>で指摘したことだが、宮本は、「臨中」が「51年綱領」を採択して武装闘争へのめり込んでいこうとする、まさにその時に「臨中」に自己批判書を提出して「臨中」指導部の下に復帰するわけである。
 この事態はどういうことを意味するであろうか? はっきりしていることは、「51年綱領」を採択した時点で、党内情勢は根本的に変化していたということである。分裂当初の国際派の排除という党運営手法の是非を争う単純な党内情勢ではなく、「臨中」は武装闘争路線を採用しており、問題の重点が少数派排除の組織問題から政治路線の相違に移っていたのである。
 「統一委員会」を解散した時(50年10月)とは異なり、51年10月ではもはや「統一会議」を解散して「臨中」の軍門へ下るのは誤りであったということである。
 「臨中」が「51年綱領」を採択した以上、「統一会議」は「51年綱領」とそれに基づく武装闘争に反対する政治方針を新たに掲げ、反「臨中」闘争を貫徹しなければならなかったのである。 政治情勢も敵味方相互の力関係も、国民の政治意識も考慮していない主観的であまりにも馬鹿げた武装闘争路線だからである(注56)。
 何にもまして明確なことは、「臨中」が「51年綱領」を採択し、「軍事方針」に走った以上、宮本ら「統一会議」・国際派は分派として肝をくくり、独自組織を固め、武装闘争路線に反対する政治活動を党の”内外”で展開するべきだったということである(注57)。

<(注56)、「臨中」が武装闘争を激化させる「51年末」という時期に注意しなければならない。51年9月にサンフランシスコ条約(講和条約)が締結され、形式的にしろ日本の主権が回復されたのであるから、日本をアメリカ帝国主義の植民地と把握し中国並みの植民地解放闘争を実行するような権力構造はむしろ解消される方向に動いていたはずなのである。それが逆に武装闘争の激化に向かうのは、権力構造に変化なしと「臨中」が認識していたにしても他の要因が作用していたと考えられるのである。
 それは宮本ら反所感派が「5全協」(51年10月)前後に「臨中」指導部の下に復帰し、大勢として党が「統一」を達成したことである。その「統一」によって、武装闘争を批判する党内勢力が消失したことが大きい。
 「臨中」が「軍事方針」を決めたのは「4全協」(51年2月)であるが、その実行が「五全協」を経て年末からとなった理由の一端はこの「統一」であろう。武装闘争という路線は軍事的規律を不可欠にしているのであり、党内が分裂し、一方が武装闘争を拒否し反対という論陣を張っていては、方針は強引に採決できても実行は難しいからである。その意味でも、反「臨中」の中核たる宮本派が「臨中」の軍門に降ったことの重大性が浮き彫りになるのである。宮本が自己批判と「臨中」への復帰を隠し、武装闘争の責任を回避しようとする具体的な理由がここにある。
 <注51>で増山太助の著作を引用して宮本の「臨中」への復帰が51年10月上旬頃であることを示したが、その増山の著作からの引用文の続きを掲載しよう。

「言い換えれば、『統一』を実現した主流派の『4全協』『5全協』の中央委員たちは引き続き党内の指導権を掌握するために、『軍事方針』の実践を急がなければならなくなったのである。そのために、Y(これまでの軍事部門のこと─引用者注)に代わって軍事全般を掌握する中央軍事委員会が設置されることになり、臨中議長をパージされた椎野が責任者に就任することになった。もちろん関東地方委員会にも軍事委員会が発足し関東各府県における軍事委員長も任命され、その初会合が12月2日にひらかれることになったが、・・・・いわゆる「柴又事件」に発展、この機を巧みに利用した志田が『軍事方針』に『疑義』をもち『不熱心』な東京都委員会ビューロー員全員を罷免し、側近の桝井とめを、浜武司らを送り込んでキャップの私を査問にかける措置に出たのであった。」(増山前掲「左翼人士」220ページ)

 宮本ら国際派が復帰し、党が再統一された直後に武装闘争が激化していく様子が書かれているがおそらくこの通りであったろう。増山自身が当時東京都委員会ビューローのキャップをしていて「軍事方針」に消極的だということで査問・解任の経験をしているのだから、当時の記憶も相応に鮮明だと思われるのである。>

<(注57)、私がjcp党史関連の諸文献を見た限りでは、宮本ら「統一会議」分派が分派闘争を貫徹するべきであったという明確な党史総括の見解を表明しているものはない。その理由は多分、こういうことなのである。一つは、当時の”空気”を伝えて出版されたものは60年代から遅くとも70年代までのものが多く、分派禁止の党組織論の呪縛が色濃く残っていたからである。
 次に、それらの諸文献のほとんどはjcpの公認党史への批判を動機としており、宮本jcpへの批判が色濃いものであるから、宮本が結果として党を支配することになる分派闘争の貫徹という見地は想像を絶するものだからである。
 異色なのは田川和夫の「日本共産党史」(1960年)である。「一旦始まった以上、分裂をとことんまでおし進め、そのなかから日本プロレタリアートの解放闘争を指導する・真の前衛党を建設すること」(田川・同書90ページ)と書いている。これは分派闘争貫徹論ではなく、党分割論である。田川自身は1959年の綱領論争の時期に除名され、「共産主義者同盟」(ブント)に合流しているが、その後の半世紀の帰趨を見れば党分割論が誤りであったことがわかる。>

103、「50年問題」総括の”瞰制高地”
 jcpの党史の真実を見通す”瞰制高地”がここにある。「51年綱領」と武装闘争に反対する分派として、宮本ら反主流派諸分派はその意見の小異を越えて反武装闘争で大同団結し、多数派形成をめざすべきであった。
 レーニンの場合と対比してみればよくわかる。すでに見てきた第4回統一大会に向けて、レーニンは民主主義的中央集権制と「批判の自由と行動の統一」という二つの組織・行動原則をひっさげて組織統一に取り組むのであるが、その際、ボルシェヴィキの政治路線と戦術については一切の妥協を排して、相互の意見の違いを明確にして統一の実現にむけて闘うべきであると述べていた(連載(6)の「引用5」参照)のである(注58)。
 また、1912年の「解党派との絶縁」問題でも、仲介にあたった第二インターナショナルの権威・カウツキーの提案(両派の合同)をレーニンが断固拒否したことも付け加えて良いであろう(「ブリュッセル会議におけるロシア社会民主労働党中央委員会の報告と中央委員会代表団への指令」参照、レーニン全集20巻)。
 双方の意見の相違を明確にして党の統一に努力する必要がある場合があり、時によっては党の壊滅に直結する意見の相違が生まれ党の分裂が不可避となる場合もある。問題はその判断基準をどこにとるかである。前回の連載(9)で見たように、レーニンは1912年には「絶縁」の基準として非合法党の解党を支持するか否かの一点だけを問題にしたのであり、日和見主義のあれこれの誤りをひとまとめにして「絶縁」の基準にするようなことはしなかった。しかし、1914年に第一次世界大戦が始まると、一転して帝国主義戦争賛成論へ転落する日和見主義全体との「絶縁」を主張するようになる。
 宮本・国際派が、レーニンのようにその政治方針を明確にし、「軍事方針」と武装闘争に反対して他の国際派グループや反所感派と提携し多数派形成をめざせば、多数派形成は十分可能であった。武装闘争という政治方針の誤りが党を壊滅させるほど大きいからであり、それが強引に実行に移されれば誤りは急速に明らかになる見通しがあったからである。そうすれば、事実として、全党を挙げて武装闘争に突入したというjcpの不名誉を救済することもできたのである。

<(注58)、こういう”芸当”をjcpを含めて日本の左翼人士はできないのである。日本人は明確に自己主張しない国民性などと言われるが、一旦、自己主張をはじめて相互の相違を明示すると、今度は”別れ話”に直結していく。意見の相違が簡単に組織の分裂に直結していく傾向が強い。徳田主流の地下潜行の経緯が見本になるが、その人格の領域の問題(たとえば好き嫌いなど)が政治路線の問題に簡単に越境していき、前者が後者と簡単に融合する。それゆえに、離合集散が簡単に怨恨沙汰になる。つまりは、党幹部の人格の錬成度の不足と党組織の幼年期とは不可分な関係にある。
 意見の相違を明確にして組織統一をめざすという実践は、次のような政治的必要性に基づくものである。第一は統一が労働者大衆の要求であるということ、第二は権力を打倒し革命権力を打ち立てるには強大な組織が必要であり、そのためには可能な限り手を結び強力な組織を作り上げることが求められている、第三は、だから、基本政策の一致があれば、単にあれこれの意見の相違があるというだけでは組織統一の妨げにはならないし、妨げの口実にするべきではないことになる。手を組む相手(レーニンの場合はメンシェヴィキ)との意見の相違が、時の主要な政治課題の実践という見地から見るとき、統一的な実践を不可能にする性質のものかどうか、という判断が必要なのである。
 組織統一を必要とする客観的な政治情勢とその政治情勢が要求し限定してくる組織統一・分裂の基準(政治実践の主要課題との関係)を考慮し、様々な困難を乗り越えて忍耐強く、大きく組織統一を進める人的資質と技術を育成できるかどうかが鍵になる。
 こうした人的資質と技術は容易には育成できないものであり、ましてや、分派禁止を金科玉条とする組織では、忍耐強く対応する前に規約違反で除名という”行政処分”が先行し、育成の土壌そのものが貧困になる。
 ここで簡単に宮本の例のリンチ事件の一面に触れておこう。マッカーサーによる中央委員の公職追放令を受けて、徳田主流派は宮本ら7人の中央委員を除外して主流派だけの会合を持ち地下潜行を決めてしまうのだが、宮本はその主流派だけの会合を分派活動だと非難する。
 ところが、宮本もすでに戦前に同じことをやっているのである。中央委員・小畑達夫を殺す結果となった例のリンチ事件を宮本はどういう手続きで決めたのかと言えば、当時の中央委員はわずかに4名である。スパイとしてリンチ・査問を受けることになる大泉と小畑、そして宮本と逸見である。袴田も小畑はスパイだと言うので、宮本は逸見に査問を持ちかけ、しぶる逸見を説得して二人の中央委員の合意だけでリンチ・査問にかけている。
 宮本は中央委員候補だった袴田も含めて決定したことだから拡大中央委員会で決めたと強弁するのだが、徳田主流派ほどの多数派でない中央委員二名だけ(過半数ではない!)の言わば宮本”分派”でリンチ・査問を決定しているのである。宮本は一切のリンチはない紳士的な査問だったと言うのであるが、それならば、そもそもの話が、4名全員の中央委員会ないしは袴田ら中央委員候補を入れた拡大中央委員会で大泉と小畑のスパイ嫌疑を二人の面前で正面から議題にするべきであったであろう。査問会場に中央委員全員がそろったのであるから、中央委員会が開けないはずはない。仮に、スパイ嫌疑をかけられた二人に逃げられるのならば、それがスパイである何よりの証拠となるであろう。
 ところが、宮本らは中央委員会で議題にし大泉・小畑と論争するという当然のことを思いつかずに、やることと言えば、二人の中央委員だけで査問を決めてしまい、後は査問場所の借家探しと二人を別々に連れて行って借家に入ったところをワッと飛びかかってふん縛ってしまうという算段なのである。この恐るべき幼児性をみよ。jcpは当時の政治情勢の下ではスパイ査問は避けられず正当な組織防衛行為だと言うのであるが、査問がリンチ致死事件を引き起こすことになった直接の組織要因がこの幼児性である。
 そして、こうした幼児性から脱却できないから、レーニンのような”芸当”ができないし、小畑と大泉同席の中央委員会を開いて中央委員のスパイ問題を究明することを思いつかないことにもなるのである。宮本らのリンチ事件が党壊滅の”だめ押し”となった由縁である。最後の中央委員会の半数がスパイで、残りの半数が「人殺し」と世間で言われては残された下部党員も再建の意欲を喪失するほかないであろう。>

104、分派闘争を貫徹できなかった宮本指導部の党史上の位置(1)
 仮に宮本ら国際派が分派闘争を貫徹し多数派形成に成功すれば、①、中ソへの事大主義を克服でき、②、指導部が引き起こした諸問題を不問・免責にする「6全協」(1955年7月)の妥協的な統一(注59)をする必要もなく、③、スターリン由来の分派禁止つきの「MS」も克服され、④、「50年問題」という党史の全真実を透明なものとすることができたであろう。さらには、⑤、武装闘争を指導した「臨中」幹部を「6全協」の幹部に戴くこともなくなり、武装闘争を実行した旧「臨中」指導部の責任も明確にでき、⑥、「6全協」指導部にいる「臨中」幹部(多数派)を含めて指導部を全体として、何はともあれ党内批判から擁護する、下部党員の批判を言いくるめ抑制するというjcp指導部の”伝統”となる醜態を示さなくとも済んだであろう。
 また、⑦、その後の綱領草案を巡る少数派の組織的排除(宮本による「臨中」手法の復活!)も免れることができたはずである。というのは、宮本・国際派自体が分派活動を貫徹して多数派に転化したのであれば、スターリン流の分派禁止付きの「MS」という呪縛から事実上解放されているからであり、少数意見を尊重する格別な意義を理解し少数意見を大事にする”党風”と組織システムを作り得たはずだからである
 すでに見た⑧、宮本による党史の改竄という宮本の私的俗物的欲求(自己美化)も起こらずに済んだであろうことも間違いなく予測できることなのである。党史を改竄して、どうして党の歴史を誇ることができようか。

<(注59)、「70年党史」は次のように言っている。

「『6全協』は、その構成や準備の点でも、党中央の分裂・解体のもとでの『4全協』『5全協』という党規約に反する不正規の『全国協議会』の継承という性格をもち、ソ連や中国の党の干渉のもとに野坂らが中心となって準備を進めるなど不正常な歴史的制約、欠陥をもつ会議であった。『6全協』もソ連、中国の覇権主義とそれへの事大主義の傾向の影響をまぬがれなかった。とくに『6全協』は『51年文書』(「51年綱領」のこと─引用者注)について、その『すべての規定が、完全に正し』かったとして、『51年文書』の承認を党の統一の前提とする誤った立場をとるなど、重大な問題点をふくんでいた。党の分裂の経過や原因の究明が今後の問題にのこされるなど、分裂問題の根源の探求にも手がついていなかった。」(「70年党史」上、243ページ)

 宮本のこの説明に見られるように、武装闘争の根拠となったスターリン”御手製”の「51年綱領」を正しいとし、「党の分裂の経過や原因の究明が今後の問題にのこされるなど」したのならば、「六全協」は「50年問題」の一体何を解決したのか? ということになる。
 ここに宮本ら国際派が分派闘争を貫徹できなかったことの帰結がある。「六全協」は、武装闘争の誤りを「極左冒険主義」として自己批判しているものの、「50年問題」の他の主要問題をほとんど解決せず、下部党員の参加しないところで開催され、とにかく党組織の公然たる統一だけを先行させたのである。
 ついでのことながら、これを読むと宮本の厚顔無恥な性格がよくわかる。自分が「臨中」に降伏し、”干された”数年を経て「臨中」のボス・志田重夫の求めに応じて、「六全協」の舞台廻しの主役の1人となり、また「6全協」決議の作成者の一人となったことには頬被りである。
 亀山によれば、「6全協」原案は3種類あるという。モスクワで作られた原案(A案)、その原案に日本国内で修正したB案、実際に決議として採択されたC案である。B案とC案はほとんど変わらないがA案とB案の間には大きな変化があるという。亀山は、「6全協」後、一週間ほどして代々木病院に入院している春日庄次郎の見舞いに行ってモスクワ原案を入手している。春日によれば「これは六全協の原文である」と言って松本一三がもってきたと言う。亀山は「二重帳簿」の著作(1978年1月)を書く前に、当時の党幹部にモスクワ原案を見たかどうかを訪ね歩いて次のように言っている。 「結局、それ(B案のこと─引用者注)にタッチしていると推定できるのは、宮本と志田のほかは、蔵原が少々、松本一三が春日(庄)のところへ持ってきたから、少々知っており、春日正一が当日の報告者だから事前に知っていたぐらいである。こういうところから、A案を知っており、B案を作成した中心人物は確実に宮本と志田の二人だけであると私は断言する。」(亀山「二重帳簿」212ページ)という。西沢隆二もすでに宮本・志田会見のあったという55年1月には北京から帰国しているので、西沢も噛んでいた可能性はある。
 もっとも「70年党史・上」(242ページ)では、「六全協」原案がモスクワでできあがったというのが54年3月と書いてあるので、志田・宮本の接触がはじまったのは宮本が主張する55年1月以前である可能性も高いのである。志田派の幹部・吉田四郎へのインタビューでは「54年の夏から秋」(「運動史研究8」97ページ、三一書房1981年)と推測されている。
 亀山はA案からの大きな変化を8項目に分けて取り上げて解説しているが、変化の全体を特徴づけて次のように言っている。

「第一は、軍事方針、武装闘争を極左冒険主義という言葉に緩和し、その具体例を除き、党勢力の減退の理由を出来るだけ抽象化することによって、志田の責任を逃れさせ、第二は、第二次総点検運動(「臨中」による反「臨中」派の組織的排除策動のこと─引用者注)は誤りであったという部分を削ることによって神山除名をそのまま引き継ぎ、志田、竹中、岩本、椎野らの責任を免れさせ、第三は、分派を結成したのは誤りであった、ということを取り除くことによって、ついでに分派をやった人々が自己批判したということも削除して、宮本を救済し、そのヘゲモニーを全面的に認めることであったのである。」(亀山「二重帳簿」221ページ) >
  

105、分派闘争を貫徹できなかった宮本指導部の党史上の位置(2)
 ①の中ソへの事大主義を除き、その他はすべて克服されずに今日の党指導部に伝承されているものであり、その伝承者がjcpにその後40年にわたって君臨した宮本顕治なる人物なのである。その伝承は彼の人格と組織支配の二重のルートで保存・伝承されてきた。
 また、その伝承を支える組織機構もそっくり残ったのである。その事情は簡単に言えば次のようになる。旧「臨中」のボス志田重夫や椎野悦朗が「六全協」の翌56年にはスキャンダルで失脚(58年の第7回党大会で除名確認─「70年党史年表」156ページ)し、”日和見”で北京在住が長く党内基盤を持たない野坂参三が宮本と”同盟”するや、旧「臨中」派中央・中間幹部はほとんど一斉に宮本派に鞍替えするという事態が起こり、「臨中」の「総点検運動」で査問・除名・少数派排除を党活動にした人的組織が温存されてしまったのである。代表格が春日正一である。彼は一時は「臨中」議長にまでなっており、「六全協」の中央委員かつ統制委員会議長となり、常任幹部会委員と同格で常任幹部会に席を占めることになり、その後も宮本jcpの下で国会議員を長く務めることにもなるのである。
 つまり、宮本が旧「臨中」の支配した党組織を乗っ取る、あるいは旧「臨中」の支配した党組織をそっくり宮本が継承しそのトップに収まったと言えば良いだろう。やくざの手打ち式同然と言うべきか、双方の旧弊を不問にする「6全協」とその混在指導部は、旧「臨中」幹部の無能と宮本の能力との差、ならびに組織瓦解をもたらした責任の程度差という二つの格差を両輪に、全党にわき上がる指導部批判の”針のむしろ”をくぐり抜けると、かかる組織的結果に換骨奪胎されていくのである。
 かかる組織的帰結をもって宮本の政治力と組織手腕と評価することもできようが、これでは旧「臨中」支配の党組織が抱えた旧悪が白日の下に解明されるのは至難の業ということになる。事実、「70年党史」には「臨中」の行った二次にわたる「総点検運動」(注60)への具体的な記述はないし、「六全協」で処分の対象になった「臨中」幹部はだれもいないのである。
 宮本が党に君臨するようになって、前項②以下の欠陥は、彼の性格と彼が戦前から背負ってきた弱点(例のリンチ致死事件)のために増幅されることになった。その特徴は大きく分けて三つの要素にくくることができる。すなわち第一は、宮本の異常なまでの自己(党)の美化(獄中12年と戦前党史の法外な美化、リンチ事件の真実の隠蔽と「50年問題」を中心とする党史の改竄)、第二は、戦前来の暗い経歴という弱点(リンチ致死事件)を持つために党内の自由で批判的言論を極端に抑制したがる傾向、第三は、スパイだらけの戦前党の経験や分裂時代の泥仕合の経験、宮本を敵視した旧「臨中」組織を継承した事からくる下部への旺盛な猜疑心と忠誠心の強要。同志でさえ、かかる不信の対象であるから、戦前jcpを石をもって追い、天皇制を賛美し誤れる帝国主義戦争に狂い込んでいった国民はなおさらのことである。
 これらの特徴が相乗して生み出す結晶が党内における宮本・党指導部の隔絶した地位の形成(無問責の地位)なのである。そして、このような地位こそが、共産主義の理想への絶対的信念の保持者が棲息する場所にふさわしいのである。宮本は党の最高権力者の地位に上り詰めて、改めて、スターリン由来の「MS」に格好の党組織論を”再発見”したのである。
 まことに、戦後のjcp党史の最大の欠点は、宮本ら国際派が「51年綱領」を前にして分派闘争を貫徹できなかったことにあるのである。宮本ら国際派が分派闘争を貫徹できなかったことの所産が「六全協」なのであって、この「六全協」とその後の党内闘争こそが宮本顕治なる人物の”地金”の人格に恰好の指導者を見いだしていくのである。

<(注60)、「小山党史」によれば、その実情は次のようであった。

「まさに、スターリンの粛清時代と同じような現象が、ここにあらわれていた。・・・上級から下級に組織的に行われるべき党機関の点検が、個々の具体的事実や証拠をもとにして追求されるべきスパイ分子の摘発と、完全に混同された。換言すれば、同志的に解決されるべき問題が、ようしゃのない対敵闘争としてあつかわれ、打撃一本やりの党内闘争が組織され強行されたのだ。しかも、半非公然という名目で、下部の申し立てや反論や抗議はすべてにぎりつぶされ、無視された。・・・同志的な調査もなければ説得もなく、罪人あつかいの一方的査問のあとに、処分が即決された。・・あらゆる機関、あらゆる組織のあいだに、たがいの不信・疑惑・さいぎ心がみなぎった。告発のあとに告発がつづき、査問のあとに査問がつづいた。」(「小山党史」163ページ)

 誤った武装闘争を決行し、組織が軍事組織化され地下潜行となり実践がうまくいかなくなると、党員の離脱、任務放棄等が頻発し、結局、こういう事態が生まれてくるのである。処分者の総数は「1220余名」(「小山党史」165ページ)と言われている。小山自身が神山派として迫害を受けているのであるから、この記述は体験談に近いものと言ってよいだろう。小山は「50年問題」の時期を次のように特徴づけているくらいに「総点検運動」の経験は強烈である。「50-51年の大分派闘争の時代、52年の極左冒険主義の絶頂、53-54年の点検=摘発闘争」(「小山党史」177ページ)。
 「70年党史」で「小山党史」が記述するところに該当する文章を探すと次のものがある。
 「極左冒険主義をはじめとする指導方針の誤りや政策上の左右の動揺は、中央委員会の解体と分裂を強行した側の諸矛盾を政治的にも組織的にもいよいよ累積させた。徳田・野坂分派の国内指導部をにぎった志田重夫らが、これらの矛盾を派閥的な個人指導体制と官僚主義の強化によっておさえようとし、誤った政策や方針への批判者にたいして、様々な打撃的な処置をとったために、事態はいっそう深刻になった。」(「70年党史」上241ページ)
 宮本党史では、党の汚濁した部分は記述されている場合でも、このように抽象的になるばかりでなく、すでに党からパージされた人物だけが名指しされ、「総点検運動」の先兵となった「臨中」幹部で宮本派に鞍替えした一団は素知らぬ顔で済ませるようになっているのである。
 1972年の「新日和見主義事件」で、大がかりな分派摘発・査問が素早く手際よく実行されたのも、こうした経験済みの連中が大勢いたことをぬきにしては考えられないのである。たとえば、下司順吉、彼は川上徹の「査問」(ちくま文庫)に登場してくる。志田重夫が地盤としていた関西で、分裂前から、彼は志田の配下として関西地方委員会で活動している。>

106、小括
  「50年問題」の時期の大分派闘争の特徴は、国民的政治課題ぬきの組織のあり方を巡る闘争であったということ。その意味で、労働者大衆とその生活そっちのけの大分派闘争に熱中したのである。そこにjcpを支配する幹部党員の小ブルジョア性が顕著に現れている。この分派闘争は中ソの権威によって解決されることになるのも事大主義という”主義”のせいではなく、権威への盲従ぶりを不合理と思わない宮本ら党幹部の小ブルジョア性が原因なのである。
 そして、この小ブルジョア性は20世紀半ばまで”現人神”が君臨できるほど、日本が小ブルジョア的(農民的)な民族であったことの反映でもある。
 かくて、自国の綱領と政治情勢分析、政治実践に自主性を発揮できなかったjcpの宮本分派は、その分派闘争を貫徹できなかったことで、逆に、今日に継承されるjcp指導部の”鋳型”をつくり出すほかなかったのである。
 分派闘争の貫徹こそが、jcpをその戦前来の幼年期から脱皮させる社会的条件だったのである。ドイツの党がマルクス派とラサール派の合同によって飛躍への跳躍台に登ったように、あるいはまた、ボルシェビキがメンシェヴィキとの10年にわたる合同と離反の経験を必要としたようにである。
 その意味で、一大分派闘争の一時代を経ることがマルクス主義を土着化させ、真にマルクス主義を体得した党を形成するための必要条件、”溶鉱炉”であったのである。理論と実践をめぐる党内論争の一時代こそが、党という”認識装置”と党幹部の人格を鍛え、観念論と公式主義、教条主義から脱皮させてくれるのである。
 悲しいかな、jcpの分派闘争は”尻切れトンボ”に終わったというだけではなく、国民的政治課題そっちのけの、本質的に”コップの中の嵐”という特徴から抜け出すことが出来なかったことで、党が成長するための歴史の試練を乗り越えられず、その奇形と未成熟な性格を体内に骨化させることになった。戦前来の「小ブルジョア急進主義」が「左翼小児病」としてjcpの中枢を、jcpの”奥の院”を貫くことになる。本投稿の冒頭に紹介した宮本の党史観がその象徴である。
 この党が、政権交代が実現した今日においても国民的政治課題からは”そっちのけ”の位置に安住し、暴走する検察に声援を送り、古ぼけた政治図式だけを頼りに自党の足下を見ることもできずに将来の政権党を夢想しているのも、その淵源は党史のこの時代にあるのである。
 今日のように政治が大変動の時代に入ると、古い政治図式に頼るだけの不破や志位らの「左翼小児病」ぶりが今後もさらに露骨に現れるようになり、jcpの凋落を加速していくことになる。
 「臨中」の武装闘争による自滅(党壊滅)と傍流・宮本の強烈な自己美化という特異な性格、そして、絶望的な「50年問題」に取り囲まれる下部党員の自己肯定・再生の”よすが”を求める精神的欲求、これらの党内要因が結合して自己美化の権化たる宮本を党の指導者に押し上げてくるのである。むろん、この過程は自動的なものであるはずもなく、宮本の「狐の狡知」(竹村一編「リンチ事件とスパイ問題」7ページ、三一書房、1977年)が、きしみ合うこれら諸要因融合の”触媒”となったことは言うまでもない。宮本の希有なその全人格は、その強烈な”自己美化”と「狐の狡知」の結合にある。
 旧「臨中」指導者であった志田らのスキャンダルや野坂の”日和見”に助けられて、予想外にも簡単に党内最高権力者となった宮本は、その地位に就いて、改めて分派禁止の民主集中制という組織に格別の意義を”再発見”することになる。
 次回は、「50年問題」の総括がどのような結論に収斂し、その結論が宮本による”再発見”の定式化であることを見ていくことになる。次回が本連載の終章である。(つづく)