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「組織論・運動論」討論欄

三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(12)─党史から─

2010/3/5 原 仙作

107、左翼小児病について
 前回の連載で、中途半端に終わった50年代分派闘争を経て日本共産党(jcp)のトップに立った宮本の言動の特徴を左翼小児病と規定し、その病が今日に続くjcp指導部の思考と言動の特徴だと指摘した。したがって、今では私のjcp党史研究においては左翼小児病という用語はキーワードの地位を与えられているので、ここで、この用語について簡単に説明しておこう。

(1)、60年代や70年代頃の左翼の世界では言わば日常的、常識的に用いられてきた用語であるが、いざ説明する段になるとなかなかやっかいな用語なのであり、また、その深刻な意味が看過されているので、どうしても必要な考察だということになるのである。 はじめに、jcpの思想が色濃く反映されている「社会科学総合辞典」(新日本出版)の説明を参考までに取り上げてみよう。

「科学的社会主義の理論の一般的原則を具体的な条件に適用し柔軟な戦術をとる能力のないところから生まれる教条主義・セクト主義の傾向をいう。」(228ページ)

 なるほど、jcpが監修者のような辞典であるから、jcp指導者の言行の特徴づけとしてはピッタリ合っているような印象があるが、いかにも書斎風な定義であって、政党の動態に関わる事象の定義としては不十分である。どうなれば「柔軟」であるかの基準が組み込まれていない。だから少なくとも「具体的な条件に適用し」という言葉の後に、”相互の力関係を考慮に入れて”(注61)という文章を是非とも入れなければならない。

<(注61)、レーニンに言わせれば、こういうことになる。
「だが、力関係や、力関係の計算については、わが共産党左派は・・・考えることができない。ここにマルクス主義とマルクス主義戦術の核心があるのに、彼らは次のような『高慢な』空文句を弄してこの『核心』をよけている。」(「左翼的な児戯と小ブルジョア性について」全集27巻330ページ)>

(2)、「相互の力関係を考慮」できないところから、政治情勢を一面的・主観的にとらえる傾向が生まれ、また、政治世界の独特の力学も考慮外になり、結果として、幼児の言行風の色彩も帯びることになる。力のない者が大言壮語する、「『高慢な』空文句」のオンパレード等々。
 しかも、この左翼小児病は将来の世界の共産主義運動にとって深刻な”病”となることをレーニンが予見し、その危険性を指摘していたことである。以前にも書いたことだが、第3インター第4回大会(1922年)で、レーニンはロシア革命の経験をヨーロッパの同志にわかるように伝えることに失敗したと言っている。

「1921年の第3回大会で、われわれは、共産党の組織的構成、活動の方法と内容にかんする決議を採択した。この決議はすばらしいものである。だが、それはほとんど一貫してロシア的である。・・・それがあまりにロシア的だから、外国人のだれもそれを理解するものはいないであろう。・・・それは一貫してロシア精神が貫いているからである。第3に、例外としてだれか外国人がそれを理解したところで、彼はそれを実行することはできないであろう。・・・われわれが自分で今後の成功への道を断ってしまったという印象を受けた。・・・しかし、これを理解しなければ、これからさき前進していくことはできない。」(「共産主義インターナショナル第4回大会」全集33巻447、8ページ、1922年11月)

(3)、左翼小児病とレーニンのこの文章の間にはどういう関係があるかと言えば、次のレーニンの文章を引用すれば明確になるであろう。

「闘争の戦術的規則を千篇一律化し、機械的に画一化し、同一視することをもとにして、このような中央指導部を打ちたてることは決してできないということを、はっきりと理解しなければならない。・・・ソヴィエト共和国とプロレタリア独裁を樹立することに、それぞれの国が具体的に対処するにあたって、民族的に特殊なものや民族特有のものを調査し、研究し、見つけ出し、推測し、とらえること・・・まさにここにすべての先進国(先進国にかぎらないが)が際会している歴史的時期の主要な任務がある。」(「共産主義内の『左翼主義』小児病」全集31巻81ページ)

 この引用文の省略した部分で、レーニンは「共産主義の基本原則(ソヴィエト権力とプロレタリアートの独裁)」という表現を用いているが、その実現には民族や国家の違い、その多様性と差異を考慮に入れて、(今日では資本主義の発展段階の違いがもたらす変化をも考慮に入れて、とも付け加えるべきであろうが)闘争戦術を千篇一律化するのではなく、「戦術のうえでは最大限の弾力性を発揮しなければならない」(同91ページ)というのである。ところが、左翼小児病という病がある場合には、これができないのである。
 何度も書くが、jcpの全小選挙区立候補戦術がその典型である。未来の政権党たる者はあらゆる所で党の旗を立て党の見解を宣伝しなければならないという理由等から直接的にこの戦術が打ち出される。あるいは、全選挙区に小選挙区の候補者を立てないと比例区票の獲得活動も進まないとか、逆に、0勝900敗というほどの戦績から”半”全小選挙区立候補戦術に転換する段になると、その理由を供託金の没収に堪えられない等々、要するに、組織内部の事情から選挙戦術が組み立てられている。いずれも、ある政治情勢のもとでの政治戦術だという根本的なことが忘れられ、組織の事情だけが近視眼的に大きな比重を占めているのである。
 あるいは、国政選挙共闘には基本政策の一致が必要だという”お経”もそうである(理論政策欄「共産党指導部のサークル化・化石化・小児病化・・・(5)」参照)。いつのまにやら自分好みに勝手に作り上げた命題を後生大事に抱えて、国民の利益を実現できず”自分から唯我独尊の孤立”の道に迷い込んでいる。連合政権をめざすものでなければ、政治情勢とその情勢の下で浮上している政治課題、相互の力関係の組み合わせの中で無数の国政選挙共闘の”形”があるし、編み出さなければならないということをjcp指導部は夢にも思わないのである。

(4)、1919年に第三インターナショナルを創立した際、その旗のもとに結集してきたヨーロッパ各国の社会民主主義政党の左派グループの主張を聞き、その左翼小児病ぶりに驚いたレーニンは、急遽、第2回大会に間に合わせるべく「共産主義内の『左翼主義』小児病」というパンフレットを書き各国語に翻訳させて配布している。
 この現象からわかることは、左翼小児病という病が”自然発生的”なものであるということである。おそらくは、20世紀という時代に生まれた個々人が生来身につけてきた自然な感情と思考方法、倫理や道徳感のうちにその原因があるのであって、個人生活の内部ではそれほど問題にならず、せいぜいのところ個性の一属性にしかすぎないものが、政治経験の不足ゆえに、政治の世界にそのまま越境していくと、こうした”病”として現象してくるのであろう。エンゲルスやレーニンが一例としてあげる「どんな妥協もしない」という信条が政治戦術にまで越境してくる場合がその典型ということになる。
 パンフレットを書いた当時は、レーニンは左翼小児病を共産主義に接近したばかりの者がかかる軽い病で経験を積めば容易に克服できると見ていた。しかし、二年後には前述のように、深刻な認識へと一転することになる。パンフレット発行後の議論を通じて各国左派の”わからず屋”ぶりを目にしたことと、主にドイツ革命の失敗が認識転換の背後にある。
 こうした考察をしてくると、注目しなければならないのは、このパンフレットの冒頭部分でレーニンが書いていることである。

「前世紀の40年代から90年代までの約50年のあいだに、ロシアの先進的な思想は、かつてないほど野蛮で反動的なツァーリズムの抑圧のもとで、正しい革命理論をむさぼるように探しもとめ、この分野でのヨーロッパとアメリカのありとあらゆる『最後の言葉』に、驚くほど熱心に綿密にしたがった。ロシアは、ただ一つ正しい革命理論であるマルクス主義を、未曾有のくるしみと犠牲、比類ない革命的英雄精神、信じられないほどの根気とひたむきな探求、学習、実践による試練、失望、点検、ヨーロッパの経験との比較の半世紀の歴史によって、真に苦しんでたたかいとったのである。」(全集31巻10ページ)

 レーニンにしては修飾語が多いが、それだけ苦しみぬいたという実感があるのであろう。レーニン主義が半世紀にわたるロシアの革命運動の挫折と敗北の蓄積、さらにはメンシェヴィキとの15年にわたる離合集散の経験の上に成立してくるのであって、ロシア革命の成功の後、世界的な流行となったボルシェヴィズムをすでに実証された真理として受けとった日本の場合では、マルクス主義理解に雲泥の差が生まれてくるのも当然である。
 マルクス主義の故郷であるドイツにおいてさえ、左翼小児病は左派の流行病であったことを思えば、農民的小ブルジョアの国・戦前日本では輪をかけて”小ブルジョア的なマルクス主義”理解が生まれてきても何の不思議もないというべきであろう。
 「50年問題」の時代の一大分派闘争が徹底して闘われることなく、中ソの権威の号令で収束し「六全協」が妥協に終わった歴史の事実の意味をこのレーニンの文章は照らし出しているのである。

(5)、『人間の条件』を書いた作家の五味川純平は、日本の戦前戦後の革命運動(主にjcpが念頭に置かれている)について次のような感想をもらしている。

「運動を過去から現在に至るまで大ざっぱにつかんでみまして、それをどのようにみるかということは、じつは私自身のなかで、大正末期から今日に至るまでの社会主義運動、共産主義運動というものは、いったい何だったろう、という疑問がかねてからあり、現在もまたあるわけです。・・・その運動は、むしろ小市民インテリゲンチアの共感を呼ぶような体質のものではなかっただろうか。」(石堂清倫・五味川純平「思想と人間」61ページ、角川書店1974年) 

 旧満州生まれで、戦前、満州の地でソ連軍との戦闘に遭遇し、九死に一生を得た五味川の観察眼には鋭いものがある。とりわけ、元jcp党員・石堂清倫とのこの対談が1974年という、jcpが最も躍進した時期のことであるだけになおさら貴重な観察だと言わなければならないだろう。
 五味川は、jcpの革命運動は労働者階級の前衛の運動ではなく、小ブルジョア的な特徴が濃厚な革命運動ではなかったかと言うのである。五味川がその他に上げている論点は「教条主義」、「権威に対して非常に弱い」ことをあげて、「それらの諸問題を締めくくる意味で」、国民意識に「何らかの変化」をもたらしえたか、と問うのである。
 五味川の主張は控え目であるが、ポジティヴに言い直せば、海外の権威に弱く教条主義が目立つjcpの運動は国民意識をほとんど変えることができなかったように思うが、その原因は「小市民インテリゲンチアの共感」しかえられないような小ブルジョア的運動ではなかったかということであろう。
 これに対する構造改革派の論客でjcpをパージされた石堂の応答が興味深い。「これ、むずかしいですねえ」 石堂にしてみれば、jcpが海外の権威に弱いことや教条主義が目立つことは先刻承知のことであるが、小ブルジョア的運動ではなかったかと言われると不同意なのである。戦前の32年テーゼやら戦後も「50年問題」の争い、50年代末の綱領論争とマルクス主義による戦略・戦術の論戦をしてきた身としては非マルクス主義的な小ブルジョアのイデオロギーや理論を振り回してきたつもりはないのである。
 五味川は理論の結末である実際にやっているjcpの実践を見ており、石堂はその実践が出てくる論拠となる理屈の活動を主に見ている。比喩的に言えば、五味川は観客の前での俳優の演技を観客席で見ており、石堂は舞台裏から俳優の演技を見ている。石堂にしてみれば、相応の稽古もしたしあれこれ振り付けの議論もさんざんしてきたのであるから”アマチュア”の運動であるはずがないと思うのである。
 しかし、マルクス主義の見地から見れば、評価の基準は実践にあり舞台裏の努力はどんなものであれ、評価の対象にはならないし評価の要素として加味すべきものではない。舞台裏の努力が評価の対象になる時は、次回の舞台に向けて不評であった演技の修正の素材としてであって決して興行中の演技についてではない。
 理論と実践の一般的区別がわかっていても、実際に評価をする段になると、その区別が石堂をもってしても明確に自覚できないところに、日本のマルクス主義”運動”の根深い小ブルジョア性がある。

108、不破が言う「50年問題」の最大の教訓とその誤り(1)
 さて、前回予告したように、「50年問題」がどのように総括されたかを見てみよう。不破によれば、「50年問題」の教訓とは次のようなものだという。

「50年問題での党分裂の痛苦の経験から、『いかなる事態に際会しても党の統一と団結をまもることこそ党員の第一義的な任務である』(第7回党大会決定)ということを第一の教訓として引き出し・・・明記している。」(不破『多元主義か」83ページ)

 第7回党大会(1958年)は「6全協」(1955年)で選出された中央委員会が母体となって開催され、宮本jcpの認めるところの正式の党大会である。不破はそこで決めた大会決議を持ちだしているわけである。なるほど、党の分裂に悩んだ当時の党員にあってはその感情に合致した教訓のように思えたではあろうが、しかし、「いかなる事態に際会しても」という文言はどうであろうか? 
 徳田らが、朝鮮戦争を想定した中ソからの指示に従っていたとはいえ、宮本ら国際派中央委員を置き去りにして地下に潜行したのは誤りであるが、では、宮本らが「統一会議」を解消して「51年綱領」を採択し武装闘争に突き進む「臨中」に復帰したのは正しかったのであろうか? 

109、不破が言う「50年問題」の最大の教訓とその誤り(2)
 明白な誤りである。言うまでもなく、武装闘争路線は党を壊滅させる政治方針だからである。反「臨中」のすべてのグループは、「臨中」に復帰して党壊滅の道を進むのか、それともその政治方針に反対して、分派として、武装闘争の誤りに苦しむ党員を結集し、党の再建をめざして多数派形成の道を進むのかという二者択一の岐路に立たされていたのである。
 宮本らが分派闘争を貫徹していれば、このような「第一の教訓」を引き出すことはなかったであろう。「いかなる事態に際会しても」という文言は、党史の事実に照らせば誤りなのであり、不破が引用する大会決議のように一般論として定式化すればカラ文句・空論でしかない。
 党の指導部であれ、分派であれ、党を壊滅させるようなひどい誤りを犯した場合、たとえば、レーニンの場合で見た非合法下の「解党主義」などの場合や主観的な情勢判断に基づく武装闘争路線を採用したjcp多数派・「臨中」の場合など、「いかなる事態に際会しても」、守らなければならない「党の統一と団結」というものはないのである。党の分裂を辞さぬ場合や分派を作って闘わなければならなくなる事態も現実には起こりうるのであり、その可能性を一切排除した一般的定式はカラ文句に堕す誤りなのである。
 いたって簡単明瞭なことなのである。革命政党は何のためにあるのかということを考えてみるだけで、不破の言う「第一の教訓」、第7回党大会(1958年7月)決議のこの文章は明白な誤りであることがわかるであろう。深刻ぶっただけの”文学的レトリック”、ただの空文句にすぎない。
 不破の言うこの教訓では、社会変革の重要な政治課題や国民大衆の生活擁護よりも「党の統一と団結」が優先されており、党の「統一と団結」の利益は一切に優先するということに他ならない。”コップの中の嵐”にすぎない分派闘争に熱中した当時のjcp幹部連にふさわしいセクト的かつ左翼小児病特有のカラ文句の総括なのである。
 そして、この「党の統一と団結」とは、何よりも先に中央委員会の「統一と団結」を意味するのであるから、このカラ文句のなかに、宮本党指導部の地位は国民的政治課題やその他もろもろの諸課題よりも重要だという宮本の”意思”が表出されているのである。宮本党指導部の”問責されざる地位”、”至高”の地位の確保ということがここに示されている。

110、「50年問題について」という総括文書
 この至高の地位は、周知のように、jcpの民主集中制(MS」)によって担保されている。もともとスターリンが分派禁止を不可分のものにした「MS」はレーニンの「MS」を独裁的な党組織論に換骨奪胎したものであるが、そのスターリンの「MS」を宮本は最高指導者になって改めて再発見したことはすでに述べたことである。
 不破が引用した「第一の教訓」、文学的レトリックで飾られた「党の統一と団結」は、宮本がその”至高の地位”を確保する隠された宣言だったのであるが、この「党の統一と団結」には別の側面がある。およそ”日本的なもの”であるその別の側面を検討することにしよう。この別の側面まで視野におさめないと宮本jcpの”鋳型”は十全なものにならないのである。
 「六全協」後、「臨中」の幹部であった椎野や志田を除名し第7回党大会で書記長となり党の実権を名実共に掌握する宮本は、その1年前、党指導部の総意という体裁で「50年問題について」(1957年11月)という50年問題の総括文書(注62)を発表するのであるが、そこには次のような文言がある。

「歴史の事実は党の統一がなににもまして重要であることを教えている。党生活のマルクス・レーニン主義的規準の擁護、そこからの一切の偏向を双葉のうちに克服すること、とくに大会と大会とのあいだの党の中央機関、中央委員会の役割を重視し、どんな条件のもとでもその機能を保持することは、党の生命である全党の統一と団結にとって決定的に重要である。」(「50年問題資料文献集」第4分冊所収18ページ)

 「狐の狡知」と言えば、ここでは言い過ぎであろうが、宮本自身が渾身の能力をふるって練り上げたこの文章を、党員諸兄は何度も読み返しその意味を考えてみるべきである。

<(注62)、 この総括文書は、「六全協」選出の中央委員・同候補、1947年の第六回大会中央委員・同候補、統制委員の合同会議(拡大中央委員会)で採択されたものだが、宮本主導でつくられたものである。その間の事情を亀山幸三は次のように言っている。「50年問題調査委員会」の調査結果にもとづいて春日正一によって起草された「50年問題について」なる全文61ページからなる文書があったのだが、「それはいったん合同中委総会に配布されたが、すぐに回収されてしまった。」 「またもや宮本の横やりによって日の目を見ない結果になった。」(亀山前掲「二重帳簿」250ページ) 
 57年11月と言えば、すでに旧「臨中」の志田、椎野はスキャンダルで失脚しており、旧「臨中」の大幹部であり、「50年問題」の総括文書作成の責任者であった春日正一の総括草案さえ宮本の意向で「回収」されるほどであるから、「50年問題について」という党の正式な総括文書は、文書の一字一句にこだわる宮本の手になるものと見てまちがいないのである。>

111、「50年問題について」はカラ文句の総括
 では、宮本の手になると思われるこの文章を読み解いていこう。「歴史の事実は党の統一がなににもまして重要であることを教えている。」という文章が、不破の言うところの第7回大会決議の「第一の教訓」として結実しているわけである。「党の中央機関、中央委員会の役割を重視し、どんな条件のもとでもその機能を保持することは、党の生命である全党の統一と団結にとって決定的に重要である。」という文章では、「どんな条件のもとでも」という文言が、不破の引用する「いかなる事態に際会しても」に対応する。同じく不破の引用する「党の統一と団結」が第一義的に中央委員会の「統一と団結」を意味することもここに明瞭である。
 さて、「党の生命である全党の統一と団結」という一句はどうであろうか? 党員諸兄はどのように理解するのであろうか? 正しいのか、それともどこかに誤りがあるのか?
 「全党の統一と団結」が「党の生命」であると宮本が言うのは、宮本特有の文学的”レトリック”であり、宮本指導部の至高の地位を確保する意図で書かれているものだと指摘しないわけにはいかない。というのは、「党の生命」とは文字どおりに解釈すれば党の綱領のことを言うのであって、決して「全党の統一と団結」ではありえないのである。誤った綱領を持つ党の「統一と団結」とは何か、と考えてみればいい。
 簡単明瞭な道理を宮本はまちがえて定式化している。こうした単純な誤りは、隠された意図があるか、あるいは左翼小児病のカラ文句かのどちらかである。
 この場合はその両方と言うべきであろう。宮本の党支配力の強さが良く見えるだけではなく、他の党幹部の頭脳の程度も良く見えると言わなければならない。宮本は全党に蔓延する気分を計算し、カラ文句に弱い他の党幹部の頭脳を見据え、おのれ自身の至高の地位の確保を全党の経験の総括として押し出している。「狐の狡知」と言われる由縁である。
 前述の別の側面とはこれらのことではない。これらのことはすでに「108」、「109」項で述べたことの再確認にすぎない。上記引用文を見ると、見慣れた文章があることに読者も気がつかれるであろう。「一切の偏向を双葉のうちに克服すること」とある。これが私の言う別の側面なのである。
 前々回の連載の最後に<注46、「新日和見主義事件」について>で、宮本が「分派の芽は双葉のうちに断つ」と言ったあれである。だから、分派なるものの政治綱領も明示できずに「新日和見主義」なる分派を妄想のうちに作り上げ断罪した宮本の手法は、宮本なりの「50年問題」の総括に基礎を置いているのである。

112、「一切の偏向を双葉のうちに克服すること」の問題
 「新日和見主義」事件のように、分派の定義もないままに党中央から分派として査問され断罪されるようでは、党員の自主活動も党の決定に反する異論を保持する自由というものも根本的には否定されることになる。そもそもの話が、「偏向」を「双葉のうち」に「偏向」だと、どのようにして判断するのか? 幼児をつかまえて、こいつは将来、悪党になると断定するような”神業”をだれが判断できるのか? 宮本は本来不可能なことを統制・矯正しようとしている。

「君はまだ分かっていないようだな。君が分派活動をやったかどうか、それを判断するのは君ではないんだ。党なんだ。」(川上前掲「査問」60ページ) 「君は六中総に反対するようにみんなを扇動した。」(同57ページ)
「君ねぇ、分派というのは意識してやったかどうかというもんじゃないんだよ」(油井、前掲「汚名」111ページ) 「君は六中総に反対したんだ。」(同138ページ)

 1972年の「新日和見主義」事件で査問された二人は共に同じことを言われている。すでに連載(3)で述べたことだが、このような組織にあっては、近代の偉大な達成物たる『思想・信条の自由』というものが党員にはないことになる。レーニンにあっては思想の一致は「党綱領の諸原則」についてだけであり、綱領の個々の規定や大会決定、中央委員会決定等は党内外で批判する自由がある。
 また、「統一と団結」も政治行動の分野に限定されているが、jcpにあっては「党生活のマルクス・レーニン主義的規準の擁護」と「そこからの一切の偏向を双葉のうちに克服」することが中央委員会の統一と同等に「全党の統一と団結」に「決定的に重要」と規定されている。これでは「統一と団結」の要請が党員の政治行動ばかりでなく「党生活」(!)にまで及ぶ。当然にも「党生活」の中には党員の精神生活も含まれるのであり、「統一と団結」の要請は党員の精神の領域にまで及び、思想の一致が求められている。異論の保持者は「統一と団結」の攪乱者ということになる。

113、jcp指導部の至高の地位が党員の精神を画一化する(1)
 こうしてjcpにあっては「統一と団結」の要請は、党員たる存在の全領域に及び、個々の党員の精神の内面まで入り込んで統制・管理が行われることになる。実状はかなりルーズであろうが、宮本の文意からすればそういうことになる。典型例は新規約5条の5である。そこには「党の決定に反する意見を勝手に発表することはしない」と書かれており、自由な異論の公開は禁止されている。異論がある場合、その党員は自分の意見や思想ではなく党公認の思想・見解を語ることが義務づけられている。ソ連は疎外された形態であったとはいえ20世紀の社会主義であったと思っていても、あれは社会主義ではありませんと党員は言わなければならないのである。
 党の機関員として党を代表して何らかの対外行動をとる任務にある場合と単に党員(人間)であることが同一視・混同されているばかりか、党員個々人の口先と内面とは党の規約によって分離できると当然のように彼らは考えている。
 ”宮本”寺の門前の小僧たちは、この5条の5を異常で異様な規定であることに気がついておらず、近代における個人の精神の自由を爪のアカほども理解していない。精神の内面とその発言は分離できない不可分のものであり、そこに国家による干渉と強制が禁じられた”不可侵”な個人の尊厳がある。精神の内面から見れば、国家でも教会でも政党でも会社でも同じことである。

114、jcp指導部の至高の地位が党員の精神を画一化する(2)
 前にも引用したが、レーニンは「自分の内部生活や日常活動の問題では、党グループは自主的である」(連載「60」項参照)と言っている。党によって与えられた特定の具体的任務の範囲外、すなわち「自分の内部生活や日常活動」においては党員は「自主的」に振る舞う自由があり、自分の意見と異なる党の見解を述べる義務はまったくない。近代における個人を前提にすれば、当然のことである。
 マルクスは、自分が育てた政党の綱領草案(ゴータ綱領)を批判した論文『ゴータ綱領批判』を書き、その最後で次のように言っている。「私は語った。そして私の魂を救った。」(マル・エン全集19巻32ページ)
 jcpにあっては、党員は対外的にはどこにあっても党の代表者に仮想されており、宮本顕治のように振る舞うことが求められている。これが宮本やその後継者による理想の党と党員の姿であり、宮本の言う「党の統一と団結」の意味するところなのである。しかし、jcp指導部が誤った場合、この「統一と団結」の党はどうなってしまうのであろうか? 党外の国民がjcp指導部の姿に”全体主義”の印象を抱くのは決して根拠がないものではない。 
 新規約のこの禁止条項は、直接的にはjcpの「MS」を破壊するインターネット対策だと推測されるものだが、その起源は古く、20世紀半ばまで現存した”現人神”=天皇が個人の内面まで支配した伝統にまで遡る。この国のかかる後進性の残滓をjcp指導部は今日まで平然と引きずっているのである。
 jcp指導部の至高の地位、問責されざる地位を担保する「MS」が、戦前来の日本の後進性を招来し党内に純粋培養する構造がこの規約条項に象徴的に示されており、党中央の統制と支配が党員の党活動ばかりでなく「党生活」をすっぽりと覆い、また精神生活をも全面的に支配してしまっている。これが宮本がつくり出したjcpの”鋳型”の今日の姿である。

115、jcp党史検討のまとめ
(1)、宮本による「50年問題」からの総括がどのようなものであったのか、ということについての検討はこの程度で十分であろう。  
 jcpの常任幹部会が”討論クラブ”になってすでに久しい。どのような組織であれ、トップが責任を問われないシステムでは、組織機構は官僚化し幹部は劣化・無責任となるものである。現状を観察すれば明らかで、jcpも例外ではない。
 不破と志位のjcpは10年の顕著な凋落にさえ、党勢拡大運動を通年化する対応しかできない化石化した頭脳集団になり果てている。通年化すれば成果は上がらず、むしろ全党にわたり党員の”自主性”が毀損され組織の弱体化が進むことがまるでわかっていない。志位は馬鹿の一つ覚えのように「党の値打ちが光っている」と実情を見ない左翼小児病のカラ文句を繰り返すばかりである。
 何度やっても失敗する党勢拡大運動の経験について、その原因探求を頑強に拒否するのも、空疎な自己賛美で中央委員会決議を埋めるのも、10年にわたる国政選挙における後退を反省しないのも、この指導部の至高の地位確保という宮本が確立した大テーゼ=”ミッション(使命)”のなせる宿痾なのであり、この”ミッション”こそが宮本や不破、志位らに共通し、かつ伝承された小ブルジョアという階級的本性とそれに適合した小ブルジョア的マルクス主義理解(左翼小児病)からくるものであることも明瞭である。
 彼らの階級的本性は宮本に深く刻み込まれた党員不信、労働者大衆不信がそれを証明している。戦前と「6全協」に至るまでの宮本の党体験、すなわち、スパイだらけの戦前組織の経験や幹部の大量転向、スパイ摘発という「革命」闘争がリンチ致死事件となり殺人者扱いされた経験、対米戦争初戦の勝利に熱狂する国民大衆の敵意とjcpへの迫害、長い収監暮らし、分裂時代の泥仕合の経験、宮本を敵視した旧「臨中」組織を継承した事からくる下部党員への旺盛な猜疑心の必要性、どれもこれも楽しからざる党体験であり、そこから取り出される総括が党員と大衆への不信であることは完全黙秘を貫いた宮本には”自然なもの”とさえ言えるものである。
 実践上のどんな失敗も指導部の政治方針(理論)の誤りとは認めず党員の自覚の欠如のせいにした宮本が、この”自然なもの”だけはマルクス主義の基礎理論に反する誤った経験の総括だと否定するのではなく、素直に受け入れているところに宮本の小ブルジョアとしての階級性が現れている。小ブルジョアの労働者大衆への違和感、不信は小ブルジョアの自然な”生理”の一面だからである。
 宮本は戦後の出獄時を回想して、後年、あたりはばかることなく平然と次のように書いている。「市川正一の獄死は大きな痛手だったが、少なくともこんどの出獄者の中に非転向の中央委員が何人かいるだろうと考えていた。だが実際は、三人もいないことがわかった。」(宮本「私の五十年」、「党史論・下」所収163ページ)

(2)、「50年問題」という「痛苦の経験」をしながら、その総括すら誤った文学的レトリック(カラ文句!)に還元し、党指導部の至高の地位確保だけを一切に優先させる組織と理論と政治戦術の”原型”(日本型左翼小児病)が宮本によって生み出されたのであるから、政治情勢を深く理解することはもちろんのこと、現実に踏み込み政治戦術に「最大限の弾力性」をもたらすことも、この指導部にはできることではないのである。
 マルクス主義の政治戦術の核心である「相互の力関係」を考慮するということがどういうことなのか、まるで理解できないのは左翼小児病の根本的特徴であるが、その特徴がjcp指導部にくっきりと現れている。この党の指導部は半世紀も庶民の利益の旗を掲げながら、その全般的利益をjcpの明確な政治主導で何一つとして実現した経験がないことを恥じる様子がない。
 この指導部からはマルクス主義を図式化した通り一遍の政治情勢理解と最良の場合でも教条主義の政治戦術が出てくるだけである。とりわけ、その政治戦術は、左翼小児病が顕著に現れる分野であり、党指導部の至高の地位確保ということ(庶民全般の利益ではない)がjcpの全政治戦術を潤色し、一方では絶えず誤った際の言い訳ができる教条主義の戦術になり、他方では”骨がらみ”のセクト主義の戦術として現れてくる。

(3)、習近平来日を巡る宮内庁長官発言や検察の暴走を応援する誤った対応などは、漁夫の利をねらう魂胆が原因である以上に、現段階の権力闘争の特徴を理解していないことが原因である。jcpにあっては、検察による小沢周辺の捜査は通常の特捜部の捜査行動にすぎないか、せいぜいのところ、保守内部の抗争ととらえられるだけである。
 そのうえ、jcpの権力論では、対米従属とは言うものの「財界」支配の一般論があるばかりで、政権交代後の政治状況が教える日本独特の権力構造(対米従属構造の骨格としての官僚による国家支配・官僚政治)が捉えられていない。
 jcp指導部がある一定の時期の政治情勢の根本的特徴を見誤ることになるのは、マルクス主義の一般的な政治図式を下敷きにして政治情勢を見るという本末転倒の思考方法(観念論!)に原因があるのであって、政治情勢が激変する肝心な時に限って、jcp指導部が時の反動側の応援団に転落する理由もここにある。一般的な政治図式から現実を見ると、ある時期の政治情勢の特徴が捨象されてしまい、時の政治情勢のポイント(特徴)が見失われてしまうからである。
 jcp指導部の政治図式にあっては、あらゆる政治闘争が社会主義に至る階級闘争の一里塚でしかなく、その闘争の過程は同時にjcpを政権党に導く一里塚でもある。現在の政権交代をjcpが「過渡期」(志位)というのは、そういう”一般的な”意味でしかない。こうして現状の政治情勢の特徴が捨象され一般的な階級闘争の一現象の還元されてしまい、かかる還元を通じて現政治情勢の特徴が捨象されていく。この転倒した思考方法も左翼小児病の特徴である。

(4)、宮本の特異な自己美化の人格は、当時のミゼラブルな境遇におかれた党員心理の収攬を通じて宮本に党のトップの地位をもたらしたが、他方では、不治の左翼小児病とjcp独特の”ウルトラ”な分派禁止付きの民主集中制(「MS」)をももたらしたのであって、この「MS」では「統一と団結」なるものを不当に拡大解釈し”思想の統一・一致”にまで伸延させるに至っている。この伸延には宮本の党体験から来る党員と国民大衆への不信が大きく影響している。
 レーニンの限定する「綱領上の諸原則」ばかりでなく、党中央のあらゆる公式見解を党員に支持することを義務づけ(新規約5条の5)、自己の見解と異なる党の見解を”オウム返し”にするしかない存在に党員を陥れている。
 これは近代の偉大な達成物たる『思想・信条の自由』の否定、個人の尊厳の否定であり、戦前日本の個人精神の後進性(天皇崇拝)を党内で再現することにほかならない。
 宮本jcpは半世紀にわたって、その左翼小児病の党見解を党員に有無を言わせずたたき込んできたのであるから、多くの党員の言動に左翼小児病的画一化が現れてくるのも大いなる理由があるということになる。

(5)、こうして、半世紀にわたるjcpの「MS」の実践は、党指導部の無責任体制と頭脳の化石化、党員の画一化を生みだし、その結果が、21世紀に際会して本格化することになる、党活動のほぼ全戦線にわたる凋落、激変する政治情勢への対応不全症なのである。
 この悪しき状況から抜け出すのは、ほとんど絶望的であろう。というのも、宮本がトップに就く経過を見てわかることであるが、jcpの自己美化と左翼小児病は宮本由来のものというだけではなく、その幼年期に壊滅した戦前jcpの”負の遺産”でもあり、また「50年問題」当時のミゼラブルな党員全体の心理状況の特徴の結晶体でもあったということにある。ここに宮本jcpの体制が半世紀も保たれた理由がある。
 しかし、今や、21世紀という”新しい”時代(ソ連の崩壊に象徴されるグローバルなレベルでの”国民”主権の本格的台頭)がはじまり、口先ではなく、その”実行と実効”を求める時代の批判の前に、カラ文句だけの党中央の姿が明らかになり、宮本jcpの体制は凋落の体制へと転化し”自己批判”を迫られる事態に立ち至っている。
 この国の『戦後改革』が敗戦によってしか始まらなかったように、jcpの場合も同様になるであろう。

 追記: なお、私のjcp党史検討には連載の本文には載せられなかった補足がある。それらの項目は連載本文を書く過程で出来てきたものであるが、分量が大きくなりすぎて本文<注>に取り込めなっかったものである。「六全協決議」について、小林多喜二の『党生活者』について、立花隆の『日本共産党の研究』と宮本リンチ事件などである。  次回は、連載への補足として、これらの各項目についての記述である。(つづく)