116、「六全協」決議について
60年安保闘争の国会デモで亡くなった女学生・樺美智子の遺稿集「人知れず微笑まん」の発行をめぐって、jcpを除名されたと言われている三一書房の創業者・竹村一は、1978年発行の「運動史研究2」(三一書房)で次のように言っている。
「恐らく一九五〇年一月のコミンフォルム論評から五五年七月の六全協に至る五年間ほど、党史の中で闇につつまれた時はあるまい。宮本指導部がこの期間を、党史のなかから完全に抹殺していることは改めて言うまでもないが、その他のすべてのグループも自分自身の手で、この期間を総括したものは、ただの一つもないと言ってよいだろう。・・・しかもこの時期の『指導者』のうち、徳田球一、志田重男、西沢隆二、神山茂夫、春日庄次郎など、多くの人々がすでにこの世を去ってしまった。」(竹村一「”分裂時代”への貴重な証言─亀山幸三著『戦後日本共産党の二重帳簿─」同運動史研究2所収、235ページ)
ソ連崩壊後、クレムリン流出資料から野坂による山本懸蔵のスパイ告発問題が登場して、急遽、流出資料をもとに書き上げた不破哲三の800ページにもなる二冊本「日本共産党にたいする干渉と内通の記録」(新日本出版1993年)も「六全協」関連については宮本の許容範囲内のことしか記述していない。
上の竹村の指摘は亀山幸三の「二重帳簿」への書評の中にあるものであるが、竹村の指摘以後も、30余年後の今日でも、「六全協」決議については亀山の前掲「二重帳簿」(1978年1月)を除いて、まとまった研究がないのである。
(1)、「六全協」決議の不遇な取り扱い
「六全協」という用語はjcpの党史を読んだことがある人にはよく知られているものであるが、「六全協」の中心にある決議の原文を読んだ人は非常に少ないのではあるまいか。jcp発行の文献ではほとんど手に入るものはない。jcp発行の「50年問題資料集」(1957年12月22日初版、全3冊、その後一冊追加された増補版全4冊は1981年発行)では、「50年問題」当時の諸文書を載せているのであるが、「四全協」決議、「五全協」決議はあるが「六全協」決議が欠落している。
「50年問題について」なる「50年問題」の総括文書は1957年11月5日の第15回拡大中央委員会で採択され、「50年問題資料集・全三冊」に収録されているが、それより早く55年7月に採択された「六全協」の決議が「50年問題資料集・増補版」(1981年)に至ってもなおかつ収録されていないのである。
この事実からわかることは、どうも宮本jcpにあっては、「六全協」決議は歓迎されざる文書として取り扱われているということである。「六全協」において党の統一がなされたという、その後のjcpにとっては土台とも発展(?)の画期となるべき党の協議会であったにも関わらず、その決議がかくも不遇に取り扱われているのは実に不可解なことと言わねばなるまい。
(2)、当時の党員の受け止め方
「六全協」決議について、「70年党史」にある宮本の説明を前々回の連載<注59>で載せているが、武装闘争の自己批判を除いて「50年問題」の主要な問題点は先送りされたと宮本は述べており、結果として、党の組織統一の”お披露目”だけが優先されたことを指摘しておいた。とはいえ、「六全協」は、武装闘争と分裂の後遺症に苦しんだ下部党員の多くには歓迎される一方、武装闘争の正しさを信じて生活を投げうった党員には非情な打撃にもなったのである。「小山党史」は、次のように書いている。
「六全協の方向転換を、もっとも歓喜してうけいれたのは、旧反対派の党員たちだった。屈辱的な自己批判を強要されて無条件にそれをうけいれ、ひたすら主流派指導部の意にそおうとつとめてきたものから、・・・非公然に分派的活動をつづけていたものまで反対派のありかたはいろいろだったが、かれらは、大なり小なりこれまでの自分らの主張がみとめられたものとみなした。・・・・みぎと対照的なのは、地下指導部の統制下にうごいてきた主流派の党員たちであった。・・・いわゆる主流派党員たちは、大なり小なり六全協の方向転換に衝げきされうちのめされた。かれらのうちでは、深刻な挫折感から戦列をはなれていくものから、度しがたい権威主義から新方針にそのままのりかえていくものまでいろいろだった。後者の分子は、自己批判も新方針の意義にたいする評価も、これを最小限度の線にひきよせてしまった。そこから過去のあやまちにたいする責任のとりかたや区別については、きわめて自覚がうすかった。」(小山党史」186~187ページ)
(3)、当時の党員理論家の受け止め方
党員の大方はこうした受け止め方であったようであるが、当時の党員イデオローグたちの受け止め方はどうであったであろうか?上田・不破兄弟の「著作」ということになっているが、当時評価の高かった「戦後革命論争史」(1957年1月)が恰好の素材ということになろう。
この「著作」の”ソース”は「戦後日本の分析」研究会とかいう研究会の討論のまとめであり、その研究会には後に反主流派となり除名ともなった当時著名な理論家たちが参加していたからである。石堂清倫、内野壮治、勝部元、小野義彦、山崎春成である。
「とはいえ統一の実現が、ゆがんだ組織コースが必然的に生み出した政治コースのゆがみを、どんなにすばらしい自己批判によって訂正させ正確な政策を生み出させるものであるかを、この決議はまざまざとしめしている。」(「戦後革命論争史」下108ページ)
ここにいう「決議」とは「六全協」決議の本体ではなく、付則の短い決議のことなのであるが、それにしても、「六全協」決議をほぼ全面的に支持・賛同している様子がうかがえるであろう。こうした評価になるのは論者たちが、まだスターリン由来の分派禁止論に全面的に緊縛されているからである。何はともあれ組織の統一は祝賀すべきことなのである。
「統一派理論(国際派の中の春日庄次郎らの統一論のこと─引用者注)は中委(中央委員会のこと─引用者注)の統一という正しい核心をつかんでいたが、その最大の誤りは中委が分裂したという非常事態が生まれた以上、規約にない分派的組織の結成をやむをえないとして、原則的党内闘争を放棄したことにあった。臨中指導下に結集して、正しい節度ある党内闘争によって中委の分裂その他の指導部の誤りを正すべきであったのである。」(同「論争史」上203ページ)
このように言えるのは50年10月の「全国統一委員会」の解散までの時期のことであり、「臨中」が統一を拒否し「4全協」(51年2月)で軍事方針を決め、「5全協」(51年10月)でスターリン綱領を採択し武装闘争にのめり込んでいく時期の「全国統一会議」の解散、「臨中」復帰はもはや誤りであったと言わなければならない。
「戦後革命論争史」はこの二つの解散の区別ができておらず、とにもかくにも中央委員会の統一を金科玉条にしていることがわかるであろう。分派禁止の呪縛の産物である。戦後従属の問題やら日本独占資本の支配構造、戦後天皇制と国家権力の性格、戦後改革の性格、はては戦後世界の構造転換とか、一段階社会主義革命か二段階云々と、こむずかしい議論をし理論を紡ぐ集団にしてからが、いかに反宮本派というべき理論集団にしても、実践の問題になると”カラっきし”であり、ろくな判断ができていない。
このアンバランスはどういうことかというと、理論と実践を束ねる能力を持つということが非常にむずかしいということ、実践の蓄積が乏しい結果、試されずみの経験とその評価の蓄積、その一般的普及がほぼ皆無であるから、海外の権威筋の議論が日本国内の実践による検証もなくそのまま受けとられているということである。
当時にあっても、jcpの頭脳集団はほとんど例外なく、脳内で理論と実践が”分裂”しているのであって、日本におけるマルクス主義的な階級闘争の実践経験における歴史的蓄積の貧困さを物語るものである。もっとはっきり言えば、日本におけるjcpの革命運動が庶民が生み出した実践と深く結びついた運動になっておらず、庶民生活から遊離していることの理論家の頭脳への反映なのである。分派禁止という呪縛がjcpの政治実践を狭隘で貧困なものにし、また理論家の頭脳へいかに甚大な悪影響を与えているかをよく示している。その意味では宮本の左翼小児病ばかりを責めるわけにはいかないところでもある。
(4)、「六全協」開催のいきさつ(1)
「70年党史」では次のようになっている。
「53年末、徳田死後の体制や方針の相談のために、紺野与次郎・・・らが日本から中国にわたり、『北京機関』の指導部にくわわった。54年3月、野坂ら『北京機関』のメンバーは、討議してあたらしい方針の案を作成し、徳田・野坂分派の代表(野坂、紺野、河田、宮本太郎、西沢隆二)がそれをもってモスクワにおもむいた。当時モスクワにいた袴田も部分的にこれに参加した。それにたいし、ソ連側のスースロフ、ポノマリョフと中国の王稼祥が別の案をしめし、それを野坂らが討議して『第6回全国協議会』の決議原案ができた。この決議案に『51年文書』は『完全に正しい』という文句をいれることを強硬に主張したのもソ連側であった。こうして準備された『六全協』決議原案の方向にそって、55年1月1日付『アカハタ』主張『党の統一とすべての民主勢力との団結』がだされ、『一切の極左冒険主義とは、きっぱり、手を切ること』や『党内の団結と集団主義を一層つよめ』ることが表明され徳田分派がつくった機構の整理もはじまった。極左冒険主義への日本人民の拒否、党勢のいちじるしい衰退、党内の諸矛盾の激化、・・・党員や自覚的な人々の批判や実践も、この転機をうみだす底流となった。志田重男がこの問題の収拾のため、岩本巌を介して宮本顕治に会見を求めたのは、55年1月のことだった。」(「70年党史」上242ページ)
また、「70年党史年表」には次の記述がある。
「55年1・ 岩本巌を介して志田が宮本に会見をもとめ、宮本が志田、西沢隆二らと会う。志田は、『極左冒険主義もやめる』『徳田への個人家父長制もやめる』『従来の党の弊風は全部改める』などとのべ、党の統一回復と運動の転換についての協議をもちかけ、第6回全国協議会(6全協)の計画を伝える」(「70年党史年表」145ページ)(注63)
<(注63)、 前々回の連載にある「104」項の<注59>で「『六全協』原案がモスクワでできあがったというのが54年3月」と書いたのは誤りで、北京機関の野坂らが北京で作った案ができあがったのが54年3月、その案をもってモスクワに向かい、袴田も参加してモスクワ原案ができあがるのは「54年9月」(袴田里見「私の戦後史」122ページ、朝日新聞社1978年)である。「70年党史年表」では54年「夏」(同年表144ページ)となっている。国内における党の危機的状況と比較するといかにも悠長の感を免れえない。>
(5)、「六全協」開催のいきさつ(2)
問題は、志田が宮本に会見を求めた55年1月(志田グループの幹部であった吉田四郎らの推測では54年秋)から「六全協」開催の55年7月までの半年の間に、志田と宮本がどういう交渉をしたのかということである。そのことは「70年党史」においても一切書かれていない。両者の交渉は闇につつまれたまま、彼らとその周辺の一部の者を除いては、多くの党員には青天の霹靂のように突然、「六全協」の開催が知らされるのである。
「六全協」は党大会に準ずる機関とされているが、参加人員101名(「小山党史」183ページ)、亀山によれば公安調査庁の数字として「104名」(亀山「二重帳簿」200ページ)である。その選抜基準はまったく不明で、亀山は記憶は不明確だが、春日正一(「臨中」幹部)から「明日、六全協をやるから出席してくれ」と唐突に言われたような記憶があると証言している(亀山「二重帳簿」196ページ)。この亀山の証言からもわかるが、「臨中」主導で全国の残存組織からそれなりの幹部クラスが指名され召集されたのであって、各地方組織の総会とそこにおける討議と選挙によって選出されてきたわけではない。
「小山党史」では次のように言う。
「すでにこれまでのひみつの会合やさいごの予備会議ではなしのついた両派幹部が、国際的指示にもとづく新しい党議をそれぞれの下部党員に説明し了解をつける場にすぎなかった。最初の動機や準備のもちかたからくる根本的限界は、六全協の非民主的なありかたを決定したのである。」(「小山党史」182ページ)
(6)、「六全協」をめぐる政治的妥協の要因と人事(1)
そこで、志田・宮本会談から「六全協」にいたる交渉経過という”ブラック・ボックス”については、実際に起きた出来事から推測してみるしかないのであるが、大きな特徴は自己批判して「臨中」の軍門に降り、機関活動から”干され”、「百合子全集」の解説を書いて3年を送ってきた宮本が、志田の手足となるどころか、有力な党幹部として早くから浮上していることである。
宮本が「臨中」の岩本巌を仲介に志田と会ったのが55年1月だと「70年党史年表」(145ページ)に記載してあるが、同年2月の総選挙では宮本は東京1区から立候補(落選)しており、同年3月15日には春日正一を議長に志賀、米原とともに「中央指導部員になる」と「70年党史年表」(146ページ)に書かれている。早くも党の公然面の”顔”として登場している。また「『六全協』は、あたらしい中央委員会を選出し、8月2日、常任幹部会の責任者に宮本顕治がえらばれ、8月17日の第二回中央委員会総会で野坂参三を第一書記にえらんだ」(「70年党史」上244ページ)とある。
宮本は「六全協」直後の常任幹部会で幹部会の「責任者」になるほどだから、早くも”No2”の地位を確保しており、No1たる野坂は8月11日に「六全協記念大演説会」でようやく公然面へ顔しを出したばかりである。宮本は異例の出世と言うべきだが、どうしてこうした事態が出現したのであろうか?
(7)、「六全協」をめぐる政治的妥協の要因と人事(2)
「70年党史」が言うように、「六全協」決議が宮本の嫌悪するほどの政治的妥協の産物なのであるから、当然、「六全協」人事をめぐる宮本・志田の交渉経過も政治的妥協の産物であり、その妥協を規定する要因はおよそ次のようなものであったと推測してよいであろう。
第一は、党組織を公然化し再統一させる場合、党員集会が不可欠であり、党員から起こる旧「臨中」指導部への批判は激烈なものになることが予想されたことである。
その結果、第二に、旧「臨中」のトップたる志田らが新指導部のトップでは党組織の公然たる再統一はむずかしく、ここは戦前戦後の中央委員であり反「臨中」派の中核であった宮本を中心(新指導部の顔)にせざるを得ないということになる。当時、北京にいた袴田里見の証言でも、北京機関内では宮本中心の再建ということで「意見の一致をみていた」(袴田「私の戦後史」128ページ)という。
第三は、かといって、新指導部全体が反「臨中」派で多数を占められるのでは旧「臨中」がパージされかねない。そこで、宮本を中心に置きつつも新指導部=中央委員の多数派は旧「臨中」で押さえることで新指導部のヘゲモニーを志田が確保するという”作戦”になるのは誰しも考えつくことである。実際、新中央委員の配分は、北京機関・旧「臨中」派10名、宮本ら国際派は5名である。この比率なら、宮本を新指導部の”顔”にしても、志田のヘゲモニーが確保できる勢力比ということになる。
第四は、北京機関の野坂らが国内に帰ってくるのであるから、彼らの処遇はどうするかという問題が残る。野坂らは中ソという権威のバックを持っているうえに、後述するが、志田らの稚拙な「軍事方針」=武装闘争に相当批判的であったことである。この点について、亀山は「早くしないとあいつらが帰ってきてヘゲモニーを取られるおそれがある」という志田の発言を「六全協」の二ヵ月ほど前に他の同志から聞いている(亀田「二重帳簿」221ページ)。
志田にしてみれば、北京機関の野坂らが帰ってくれば、党を壊滅させた現地指揮官である自分は責任を取らされる虞があり、あらゆる意味で不利になると見て、野坂らが帰ってくる前に、分派活動を自己批判した弱点を持つ宮本と手を組んで国内の党内体制を固めておこうと考えても不思議ではない。北京機関に対する志田の保身が宮本浮上のバネになっている。
宮本にとっても悪い話ではなく、むしろ、大きな弱点のある志田と組んだ方が傀儡にならずに済む”カード”を手にするわけで党内ヘゲモニーを先々奪いやすいことは見やすい道理である。
「六全協」直後、病気療養中の春日庄次郎のところへ、志田と宮本がそろって見舞いに来て、宮本が「この頃は、志田と二人で仲良くやってね、将棋をさしたりして、やっているんだ」と言っていたことを春日証言として亀山が紹介している(亀山「二重帳簿」209ページ)。春日は次のように言ったという。「僕は”それはおかしい” 宮本はかつて志田はスパイみたいなやつだと言っていた。それが一緒に将棋なんかやって仲良くするのは、話が全くわからない。・・・おれは仲良くしない」
およそ、こうした経緯で、「六全協」前に、志田・宮本の同盟体制ができあがったであろうことを見たうえで「六全協」決議の内容を見ていこう。
(8)、「六全協」決議のモスクワ原案からの変更(1)
前々回連載の<注59)>で簡単に触れたが、亀山によれば「6全協」原案は3種類あるという。モスクワで作られた原案(A案)、その原案に日本国内で修正したB案、実際に決議として採択されたC案である。B案とC案はほとんど変わらないがA案とB案の間には大きな変化があるという。モスクワ原案づくりに直接参加した袴田里見もつぎのように言っている。「この草案(モスクワ原案のこと─引用者注)は国内に持ち帰られてからも、もう一度、化粧直しが施されている。」(袴田「昨日の同志宮本顕治」202ページ、新潮社1978年11月)
<注59>で引用したが、読者の便宜に亀山の指摘を再掲しよう。 亀山はA案からC案への大きな変化を8項目に分けて取り上げて解説しているが、変化の全体を特徴づけて次のように言っていること。
「第一は、軍事方針、武装闘争を極左冒険主義という言葉に緩和し、その具体例を除き、党勢力の減退の理由を出来るだけ抽象化することによって、志田の責任を逃れさせ、第二は、第二次総点検運動(「臨中」による反「臨中」派の組織的排除策動のこと─引用者注)は誤りであったという部分を削ることによって神山除名をそのまま引き継ぎ、志田、竹中、岩本、椎野らの責任を免れさせ、第三は、分派を結成したのは誤りであった、ということを取り除くことによって、ついでに分派をやった人々が自己批判したということも削除して、宮本を救済し、そのヘゲモニーを全面的に認めることであったのである。」(亀山「二重帳簿」221ページ)
このような特徴づけは、だいたいにおいて正しいと言ってよいだろう。私の手元にはC案である「六全協」決議(神山茂夫編「日本共産党戦後重要資料集」第一巻所収)とA案であるモスクワ原案(前掲「日本共産党史<私の証言>」所収)があるので、それを読み比べると「だいたいにおいて正しい」という評価になるのである。このモスクワ原案は、亀山<証言>の後に載せられているものであるから、前にも書いたように春日(庄)が松本一三から預かったものの筆写であろう。以下モスクワ原案を原案と呼び、C案を決議と表現して両者の違いを検討しよう。
(9)、「六全協」決議のモスクワ原案からの変更(2)
亀山の言う第一の部分はその通りである。原案の半分の分量は、労働組合や農民、知識人、他党派と統一戦線問題、青年運動、平和運動等に現れた指導の誤りで埋められているのだが、その部分が削除されたり圧縮、あるいは抽象的表現に変えられている。たとえば、原案には次のような記述がある。「(党は・・・各地でばらばらな冒険的闘争を始めるに至った。)吹田事件、名古屋事件等はその代表的なものである。1952年のメーデー事件は、敵の挑発と暴力にたいし、大衆が勇敢に斗ったが、党の正しくない政策の結果おきたものである。」(前掲「・・<私の証言>25ページ) この記述は決議ではすっぽり削除されている。
第二にあたる部分を探すと原案に次の記述がある。「・・党の組織からスパイや挑発者を追い出すために、たえず闘わなければならない。しかしこの活動は1954年1月に発表された統制委員会の決定に述べられている様な、党の下部組織から始める大衆的清掃と云う手取り早い方法で行われてはならない。このようなやり方では、慎重な審査もしないで、党から根拠のない除名をしたり、或いは敵に党内を攪乱する機会を与えるおそれがある。」(前掲「・・<私の証言>43ページ)
今日からみれば、当時の事情の知らない我々には具体的なイメージが湧かないが、「1954年1月に発表された統制委員会の決定」とあることだけで亀山らには「第二次総点検運動」のことだとわかるのである。この「運動」がどういう実態であったかは、前々回の連載<注60>で触れてある。
「小山党史」によれば、53年12月のはじめに「臨中」は「全国組織防衛会議」なるものを開き、統制委員会の「組織防衛」についての報告と討議を行い「点検運動にかんする決議」を採択している。この「第二次総点検運動」では「復帰組の指導分子・春日庄次郎・亀山幸三・多田留治・増田格之助らにたいして、あらためて攻撃がくわえられ、その総仕上げとして、後述するような神山茂夫にたいする失脚計画がたてられた。」(小山「党史」165ページ)
およそ、こうした事情があったことを念頭に、決議の該当部分を探すと次のような記述になる。
「全党にたいする審査、点検の方法は、高い原則性と慎重な態度をもって上級機関から順次おこなうべきである。この場合、思想的弱さや政治的未熟さから誤りをおかした党員と、本当のスパイ・挑発者とを混同してはならない。」(前掲・神山「資料集第1巻」700ページ)
原案にある「1954年1月に発表された統制委員会の決定」という部分が削除されることで指摘の具体性が失われ、一般的な党内審査・点検論に原案記述が変更されている。これでは「第二次総点検運動」の被害者でもある亀山が怒るわけで、実行の責任者である志田や春日、岩本らを免罪しているという指摘になるわけである。
そして、付け加えるべきことは、その分量もそうであるが、原案が相当突っ込んだ「臨中」批判になっているということであり、この原案を読んだ志田がどういう感想を抱いたかということであり、「狐の狡知」を持つ宮本がどう思ったかということである。おそらくは、志田は”ピンチ”と感じたであろうし宮本は”チャンス”を読み込んだであろう。両者を”同盟”させたのは原案の相当厳しい「臨中」批判なのである。
第三の部分もその前半はそのとおりであるが、宮本の「ヘゲモニーを全面的に認めることであった」というのは読み込みすぎである。「六全協」後の党内の流れを知る亀山の目からみれば、そのように読めるのであろうが、決議採択当時は宮本に全面的なヘゲモニー移譲が行われていたわけではないことは新中央委員の構成(10対5で旧「臨注」派が多数派)を見れば明らかである。私が亀山評価を「だいたいにおいて正しい」という理由である。
(10)、「六全協」・この魑魅魍魎の世界
現在の党指導部の支持者のなかには、jcpの指導部はそこらの政党とは別格だと考え、上に記述したような人事についての推論を”妄想”だと思いたい向きもあるであろう。しかし、仮にjcp幹部が聖人君子の集合体と仮定しても、多くの幹部が党の健全な再生を願い品行方正な態度を取り、それぞれに責任を負い、相応の犠牲に殉ずる聖なる交渉過程があったのだとは推測するわけにはいかないのである。
というのは、事実問題として、党壊滅というほどの犠牲を出しながら、分裂騒動と武装闘争、総点検運動等の中心幹部がほとんどすべて新指導部に連なり誰もその責任に殉ずることがなかったからである。例外は北京で客死した徳田と北京に幽閉された伊藤律、そして志田・宮本の両派から排除された神山茂夫だけである。
この事態は呆れかえるのを通り越して想像を絶する事態なのであって、彼ら幹部には犠牲となった膨大な一般党員のことは眼中にないことを示しており、また、自分らを下々から隔絶した特別な存在として自認していることをも示しているのである。
党史上最大の分派闘争も本質的に”コップの中の嵐”であったように、自己主張の理屈の筋目もない党内権力闘争という様相を呈し、責任の取り方もそれにふさわしい無責任なもので、爾来、jcp指導部の伝統となっていくのである。
しかも、jcpの場合、分派禁止の呪縛があるために、争いを党外にもち出して国民的世論のもとで主張の正統性を争い、その決着をつけるという発想がないために、なおさら抗争は内訌し陰湿で暗澹たるものになるのである。
(11)、「六全協」決議は宮本が書いた(1)
以上のような決議内容の検討をまとめると次のようになる。「①、51年綱領は正しいという規定はソ連の外圧で残ったものの、その他の部分は大幅に変更されている。②、武装闘争の誤りは「極左冒険主義」と批判されているが、各方面にわたる「臨中」の政治指導についての広範な具体的批判は、削除、圧縮、抽象化の対象になり、批判が大幅に緩和されている。その一部として「第二次総点検運動」への批判も抽象化されている。③、54年秋までに作られた原案にある日本国内の政治情勢記述が古くなったことにともない、それが削除され、55年半ばの内外の政治情勢が新たに大幅に書き加えられている。④、反「臨中」の分派闘争をした国際派などへの分派闘争批判の記述がすっぽり削除されている。
これらの特徴を見るだけで、「六全協」決議が亀山の言うように志田と宮本の合作であることがわかるが、決議作成の主導権云々、というよりも単刀直入に言うと、決議を書いたのは宮本だということである。おそらくは、志田は51年綱領は正しいということと原案の「臨中」批判を縮小・緩和することを条件に原案にある宮本らの分派闘争批判の部分を削除することに同意したうえで、原案の政治情勢分析に古くなった部分もあり、具体的な決議(案)作成を宮本に委ねたのである。
そのように判断する理由は次のとおりである。第一に、そもそもこうした決議などの文案は、白紙から集団作業で逐一文章を作っていくという手法は採り得ないということである。集団討議で決議の骨格を決めるにしても、誰かがその骨格に従い一応の原案を書き、そこから集団討議で、修正、追加、削除、編成替え等の変更作業が行われて最終案が完成するというのが通常一般の方法であり、かつ効率的で合理的なやり方なのである。「六全協」決議の場合は原案がすでにあり、その換骨奪胎の骨子が決まれば、決議(案)の全体像はおのずと見えてくるのであるから、誰に任せてもそれほど見当違いの構成と内容をもつ決議(案)にはならないという事情がある。
第二は、志田と宮本の学歴、文章作成能力の差である。一方は小卒、他方は東大出で『敗北の文学』を書いて賞を取るほどの文章力である。「六全協」決議は党の統一と全面的公然化をアピールする重要な役割をになっているのであるから、貧相な文章で不要な”クレーム”がつかないほうが良いに決まっている。このように言うのには、別に一つの根拠があって、それは50年1月のコミンフォルム論評が出る前から、検討されることになっていた「徳田テーゼ」(綱領草案)に関わる志田と増山太助の問答である。志田の話では「徳田テーゼ」は伊藤律によって書かれ、それを公表する前に志田が増山太助に見せ感想を聞いているのである。「原文は律君が書き上げたものだ。わしらはだめだが、インテリは器用なものだ」と志田は言っている(「運動史研究5」106ページ)。この志田の言葉からも想像されるが、「六全協」決議の書き換え作業は作文の苦手な志田が宮本に委ねたであろうことは大いにありうることである。
第三は、自己美化の権化たる宮本が執念深く文書の一字一句にこだわる性癖をもっていることである。この点については、前々回の連載の「94」項で、宮本の動向を身近に見ていた亀山の証言で示してある。志田が案文を書いて宮本と一字一句を検討していくということになると日が暮れる途方もない作業になることが予想され、終わってみれば”宮本原案”ということにさえなりかねない可能性も大いにある。それならばお互い得意分野に精を出し、志田は党内組織固めのために志田派の結集を強化することに力を注ぎ決議(案)作成は宮本に委ね最後に志田が点検・決定すればいいということにもなる。また、宮本が志田の不得手を見越して、「おれが書く」と主張した可能性も十分すぎるほどあると見てよいだろう。
第四は、これが決め手になるのだが、決議には原案にはない宮本特有の思想が何カ所か登場するからである。それを説明しよう。
(12)、「六全協」決議は宮本が書いた(2)
原案には次の文章がある。
「党の誤りは、党が国民大衆に広い支持をもたないで、また、大衆獲得のための永続的な活動によらないで、統一戦線を実現しようとしたことにある。」(前掲「・・<私の証言>27ページ)
この文章が決議では次のように変えられている。
「強大な党をきずきあげることことなしに、また、党が大衆を思想的にかくとくすることなしに、民族民主統一戦線は決して発展しない。民族民主統一戦線をすすめるうえで、党がおかした第一の誤りは、この基本的な問題をおろそかにしたことである。」(神山・前掲「資料集」692ページ)
「強大な党」の必要性を訴える文章は原案にはそもそもない。「強大な党」の建設という用語は宮本好みのフレーズであるばかりでなく、「強大な党」の建設が統一戦線発展の土台だという思想は、今日のjcpにも継承されているようだが、宮本独自の思想である。
わかりやすくするために、決議のこの文章を”裸”にしてみよう。「強大な党をきずきあげることなしに、・・・民族民主統一戦線は決して発展しない。」
この”裸”の文章をみればわかることだが、世にどんなすぐれた他の諸政党があろうとも、強大なjcpなしには統一戦線の発展は絶対にあり得ないという誤った”形而上学”(カラ文句)の定式に原案は変えられている。原案の文章には誤りがあるわけではないが、決議のように変更し”度を越して”「強大な党」の存在意義を一般的定式にしてしまえば完全な誤りである。前回見たように、不破が得意げに持ちだしてきた第7回党大会決議の「いかなる事態に際会しても」という”やつ”と同じ”度を越した”一般的定式化が行われている。
現実には、いろいろな組み合わせが起こりうるのであって、そうした現実を無視して、統一戦線に結集してくる諸党派をjcp以外はすべて”ノータリン”であると決議のように一般的に規定してしまえば、その誤りはもはやあれこれ解説するまでもないであろう。変更された決議のこの文章には原案が自己批判しているセクト主義と社民主要打撃論の傾向さえ持ち込まれている。
それまでの世界の経験では「強大な党」の建設が先行して様々な統一戦線が発展するのではなく、党組織の発展は統一戦線形成・発展と同時並行的な過程として現れている。レーニンの革命論についてさえ、不破が少数者革命論だと批判していたほどである。
(13)、「六全協」決議は宮本が書いた(3)
別の例を挙げれば、次のような、原案にはない文章が決議にはある。
「したがって、強大な党をきずくことと、党のただしい活動こそがこの統一戦線を実現する土台である。」
これは上記の決議の引用文と同じ思想を述べている。あるいは、こういう極端な文章も決議にはある。
「この民族解放民主統一戦線は、労働者・農民を中心とする国民大衆を、綱領の思想のもとに団結させることによってのみ実現される。」
この引用文では「強大な党をきずくこと」が「統一戦線を実現する土台である」ということをより具体的に述べている。しかし、これでは統一戦線どころではない。「労働者・農民を中心とする国民大衆」を「綱領の思想のもとに団結」させられるのなら、国民大衆の圧倒的多数がjcp支持ということになるのであるから、jcp単独で強大な政権を作り上げることができるであろう。統一戦線は不要か名ばかりのものということになる。
しかも、この「統一戦線」は国民大衆を綱領の思想のもとに団結させることによって「のみ実現される。」と言うのであるから、もはやメチャクチャで、国民諸階層の多様な政治意識の存在もそれに基づく他党派の独自の存在意義もほとんど認められていない。
あらゆる点で”度を越した”定式化の誤りであって、他党派の独自の存在意義を認めない宮本流の矛盾した「統一戦線」理解である。
決議のこれらの引用文は、全面的に書き改められた決議の「三」の中に登場し、そこに「強大な党」云々というような宮本特有の思想が集中しているのである。原案の引用文それ自体には理論的誤りはないのであるから、それをわざわざ宮本の誤った独自思想=”度を越した”一般的定式化で何箇所も書き換えるというのは、集団討議の中で書き換えが主張されたのではなく、決議(案)作成者がその文章作成過程でおのれの誤ったカラ文句の思想に沿って”自然”に原案を書き直していったものと考えるべきであろう。
だから、集団討議で個々の文章が修正されたのではなく、誰かが新しい案文として全面的に書き改めた文章を書き、その全面的書き換え作業の中で宮本の独自思想が展開されていることがわかるのであって、ここに言う「誰か」とは宮本顕治であると推定するのが合理的であろう。
(14)、宮本の人格と党史改竄
以上に上げた四つの理由から、「六全協」決議の”ゴースト・ライター”は宮本顕治だと私は断定するのである。
この項目の最初に、「六全協」決議だけが「50年問題」の党文献として露骨に不遇な取り扱いを受けていると書いたが、その理由も今では明確だと言ってもよいだろう。それが誰あろう、宮本自身が書いたもので不本意な政治的妥協の産物であるばかりでなく、自ら馬鹿げた統一戦線論を書くという見るのもイヤな思い出の詰まった文書だからなのである。
宮本は自分が書いた「六全協」決議を”継子”扱いするという”主体性”を発揮しておきながら、他方で「70年党史」では 他人の仕業のように次のように言う。
「とくに『6全協』は『51年文書』(「51年綱領」のこと─引用者注)について、その『すべての規定が、完全に正し』かったとして、『51年文書』の承認を党の統一の前提とする誤った立場をとるなど、重大な問題点をふくんでいた。党の分裂の経過や原因の究明が今後の問題にのこされるなど、分裂問題の根源の探求にも手がついていなかった。」(「70年党史」上、243ページ)
こうした宮本の幼児性と”器用さ”の同居、自分の”使い分け”に敬意を表すべき人格を見ることはできないのであって、そうした人格がjcpを40年にもわたって支配したのであり、党史が宮本の自己美化の好みに合わせて改竄されたのである。
党史を改竄する労働者階級の政党とはひとつの矛盾した存在にほかならないのであって、政権交代が実現した今日の政治情勢はjcpの能力を問い、その矛盾の”開示”を迫ることになるであろう。
(15)、「六全協」の雰囲気と亀山幸三
「六全協」の期日は1955年7月27日から29日までの3日間であり、その間に徳田球一の死去が公表され追悼集会がはさまっているのであるから、決議案の真剣な検討はおろか「50年問題」についてろくな討議が行われるべくもない。出席した亀山によれば、その様子は次のようなものであった。
「会議の最中に二日目であったと思うが、突然徳田の死が発表された。それもまったく突然の発表で、私も驚くばかりであった。・・・議長席の後方の壁に高くかかげられている徳田書記長の写真に梯子をかけて黒い喪章をつけ始めたのである。二、三分でそれがつけ終わった瞬間、全参加者はその意味をさとった。会場は一瞬水を打ったように静まりかえりかえった。直ちに議事は中断され、すぐに追悼演説が始まった。・・・これで六全協決議の個々の内容に反対や修正の出る雰囲気はほとんどまったくなくなった。」(亀山「二重帳簿」202ページ)
この連載の党史の部分では亀山の著作からの引用が多くある。不案内な者がスフインクスの謎のような宮本党史に漕ぎ入るにはすぐれた水先案内人が必要であり、私はあれこれ党史関係の文献を読んでいるうちに亀山に白羽の矢を立てたのである。
その理由は次のとおりである。第一に、この時期の彼の党内での位置である。地下潜行前の徳田時代は中央委員で財政部長をやり、分裂時代は排除された7名の中央委員の一人として宮本や春日(庄)らと共に「全国統一委員会」の指導者の1人となり、「六全協」でも「中央指導部」の一員となっている。彼は党中央にいて国際派、「50年問題」渦中の中心人物の一人であるばかりか「六全協」後の「50年問題」をめぐる総括文書作りの事務局長の役回りもやっている。そのことによって、直に宮本や志田ら党幹部の動静を見ているうえに、非公開文書に触れる機会も多くあったことである。
第二に、彼にはすぐれた人物鑑定能力がある。一例を挙げれば、1976年の段階で、後のソ連崩壊後に明らかになる野坂による山本懸蔵のスパイ告発を疑っている。
「野坂の場合は、モスコー時代もほんとうのことはまだ判っていない。山本懸蔵の名誉は一応回復されたが、実際は野坂が山本を告発して死に至らしめたという人もたくさんいる。私の見るところでは、彼は頭のいい調査マンだが、革命家ではない。・・・野坂ほど変節と権力者への迎合によって生きながらえたものはいない。」(亀山「代々木は歴史を偽造する」12ページ、経済往来社、1976年)
また、旧制高松中学の後輩で後に社会党委員長になる若き成田知巳が1946年頃訪ねてきて、共産党に入るべきかどうか相談しにきたところ次のように応えたという。「君は共産党には向かないように思う。自分の所属する党ではあるが、この党の内部にもむずかしい問題がたくさんある。・・・君のように地方政界の名門出で、しかも素直な人物は、社会党でやった方が大いにのびるだろう。」(亀山「二重帳簿」58ページ)
第三は、彼の実直で誠実な人格である。彼は「ゾルゲ事件」で死刑になった尾崎秀実の弟・秀樹が結核を患いどん底生活をしている頃、徳田の重臣・伊藤律(当時、「ゾルゲ事件」の密告者と言われていた)らの妨害をかいくぐり秀樹の生活救援に赴いている(亀山「二重帳簿」183ページ)。
当時の党幹部には、こうした人物は希有であったのではなかろうか。もっとも、前掲の増山太助によれば、亀山は晩年、「ひがみ切っていた」(増山前掲「左翼人士」185ページ)と言うのであるが、おそらく、それは亀山の苛立ちを誤解したのである。(つづく)