117、小林多喜二の小説『党生活者』について
(1)、戦前共産党の党活動を見る素材として
この連載を書いて来たために、ほぼ40年ぶりに小林多喜二の小説『党生活者』を読んでみた。学生時代に読んだ時の印象は記憶に残っていないのだが、今度読んでみて驚いたのである。多喜二には悪いが、何ともへたくそな作品、というのが私の印象で、こうした感想を抱くのも、馬齢を重ねたとはいえ、幾分とも私の目が肥えてきたせいであろうか?
「新潮文庫」にはjcp幹部の「文芸評論家」蔵原惟人の解説(1953年6月)がついている。蔵原によれば、この作品は「彼の晩年をかざる力作」にして「当時のプロレタリア文学の最高水準を示す作品」、「この作品は・・・日本文学ではじめて共産主義的人間の造形に成功した小説」とべた褒めである。
当時のプロレタリア文学の水準がおそろしく低かったのか、それとも、この作品に「同志蔵原惟人におくる」とある多喜二の献辞が効いているのか? おそらくはjcp特有の”身内”の世界での評価なのであろう。ちなみに、吉本隆明は多喜二についての林房雄の評言を採用し「『凡庸な』政治作家」(「吉本隆明全著作集4」598ページ、勁草書房)と書いているので、私の感想もそれほど的はずれではないのであろう。
しかし、私が問題とするところは別にあって、そこに書き込まれている『党生活者』の党活動のことである。読めばすぐに判ることだが、『党生活者』は多喜二の党活動そのものがモデルになっている。蔵原も「小林自身の地下生活者としての体験にもとづいて描かれている」と言っている。とすれば、『党生活者』は、文学作品としてではなく、戦前のjcp党員の非合法活動の一つの典型例として検討できるということになる。
(2)、『私』のみる「個人的生活」と「階級的生活」
主人公『私』は何年かの刑務所暮らしの後、jcpの職業革命家となり、本工200人、臨時工600人を雇う倉田工業なる製造業の工場へ臨時工として潜り込んで党活動をしている。彼の暮らしはそのすべてが党活動である。「私は全部の個人生活というものを持たない『私』である。」 「私は組織の一メンバーであり、組織を守り、我々の仕事、それは全プロレタリアートの解放の仕事であるが、それを飽くま迄も行って行くように義務づけられている。」 多喜二の言う『党生活者』の意味するところがこれである。
蔵原はこの『私』を賞賛する。その個人生活のない非合法の党活動に、はじめは息を止めて水中に潜っているような「胸苦しさを感じ」たものだが、やがてその「非合法の党生活が、いかに人間を変革して、『個人的な生活が同時に階級的生活であるような生活』にまで変わってゆくかということが、作者自身の体験にもとづいて生々と描写されている。」と蔵原は言うのである。この引用の中にある『 』の部分は作品『党生活者』からの引用であり、『私』の考えていることである。蔵原は『私』のこの考え方を肯定している。
しかし、蔵原の賞賛には大きな間違いがある。恐るべき幼稚な、小ブルジョアの観念論、左翼小児病のカラ文句がある。蔵原と『私』は、「個人的な生活」と「階級的な生活」を観念的に区分しており、党活動に専念することで「個人的生活」から「階級的な生活」に入り込んでいくと観念している。あるいは、党活動に専念することではじめて「個人的な生活が同時に階級的な生活」になると観念している。
それでは、党活動に無縁な労働者は「個人的な生活」だけを送っているのであるのか? そうではあるまい。党活動に関わりがあるかどうかとは無関係に、労働者のありのままの生活そのものが「階級的生活」にほかならない。すなわち、賃金労働者としてその賃金水準に規定された労働を行い、同類との人間関係を主に作り生活を送っているのであり、それが「階級的生活」の現実態である。通常の労働者の暮らしがそのまま「階級的生活」にほかならないのであって、この労働者の暮らしぶりを措いて他のどこにも「階級的生活」は存在しない。
労働者にあっては「個人的生活」と「階級的生活」は即時的に同一のものであり不可分のものである。蔵原は、党活動に従事するほどの階級意識のあるなしを基準に「個人的生活」と「階級的生活」を区別しており、これでは労働者の意識がその生活の階級性を規定するという観念論にほかならない。
蔵原がこの評論を書いたのが1953年で、彼はもう優に50歳の坂を越えている時の評論である。蔵原の観念論がマルクス主義の言葉を用いて如何に蔵原の脳髄を支配しているかがわかるのである。むろん、蔵原のプロレタリア文学理論がどれほどおかしなものかも容易に想像されるところである。
(3)、『私』と蔵原の労働者観に見える小ブルジョア性
『私』と蔵原の区分では、一般の労働者は「階級的生活」にあらざる生活を送っているのであって、一般の労働者大衆は「階級的生活」の外にいる単なる”さまよえる羊”にすぎない。この労働者観こそ小ブルジョアの労働者観なのであって、プロレタリア文学の同志である蔵原や宮本、多喜二らのものであり、党の指導下にあらざる労働者大衆はどこへいくかわからない存在なのである。支配階級の教唆に乗せられて、労働者でありながら実際に戦前がそうであったように、「革命家」蔵原や宮本を迫害しかねない存在なのである。ここにすでに蔵原や宮本らの労働者大衆への不信の根がある。彼らの戦前の経験がその観念論を補強する。
この観念論は蔵原らの小ブルジョアという存在の反映である。すなわち、労資という二代基本階級の外にある小ブルジョア階級に属する存在であるから、自己の意識的活動によって我が身をプロレタリア階級の一員たらしめようとするのであり、同じことを無自覚に労働者にもあてはめているのである。その結果、彼らは無自覚に労働者階級を小ブルジョア階級と同じ”身の上”の存在と見なし、労働者階級を小ブルジョア階級化してしまう。”さ迷える羊”である。そして、戦前日本の後進性は生まれつつあった労働者階級にもその農民的性格(小ブルジョア性)を深く刻み込んでいたという歴史の事情が蔵原や『私』、宮本の労働者観に最強の論拠を与えたのである。
小ブルジョアの彼らはこうした労働者観を抱いてマルクス主義の世界に飛び込んでいくのであり、蔵原や宮本は終生その労働者観を変えなかったと言って良いであろう。彼らが労働者階級と言う時、それは理論の教える観念にすぎず、彼らのマルクス主義が終生血肉化することがなかった究極の根拠がここにある。
労働者階級を小ブルジョア階級と同一視し”さ迷える羊”ととらえ、彼らの指導下にあらざれば何をするかわからない存在として不信視するマルクス主義とは何であるのかと考えてみればいい。共産主義への絶対的信念の保持者=jcp指導者に一切をあげて指導を請うべき存在にならなければ労働者階級はその”迷路”から脱出できない存在なのである。ここには革命が労働者階級の事業であり、偉大な創意を発揮する存在が労働者階級なのだというマルクス主義の思想は片鱗もない。
(4)、”ターミネーター”の登場
蔵原や『私』は無自覚であるが、彼らの言う「個人的生活」とは小ブルジョア的な「個人的生活」のことであり、そこから脱出した「階級的生活」とは観念上の構成物にすぎない。というのは、労働者の生活をみればわかるが、「個人的生活」と「階級的生活」とは不可分な分離できないものだからである。
『私』のような小ブルジョアが「階級的生活」に入るということは、一般の労働者の生活をするということではありえず、職業革命家としての生活に入るということになるのである。「私は全部の個人生活というものを持たない『私』」になることが「党生活者」、すなわち職業革命家になることなのである。
そして、「全部の個人生活というものを持たない」職業革命家とはいかなる存在かといえば、現代風に言えば、革命という任務(ミッション)を与えられた”ターミネーター”(30年後の未来からやって来た高度な人工知能を持つロボット、シュワルツネッカー主演・監督の映画)に他ならない。観念的な構成物にすぎない「階級的生活」に棲息する存在は「個人生活というものをもたない」、すなわち観念上の、その概念に合致するところの職業革命家、すなわち”ターミネーター”(サイボーグ)となるほかないのである。
吉本隆明は蔵原や『私』を「疎外された人々」(吉本「党生活者」、「吉本隆明著作集4」所収603ページ)と呼んでいる。多喜二の『党生活者』をめぐる古い文学論争で荒正人や平野謙の批判に対抗して宮本顕治も蔵原同様の弁護論を展開したのだから、宮本も”ターミネーター”派なのである。自己美化の権化にして小ブルジョアの労働者観をもつ宮本の革命家像はこうなるのであって、”ターミネーター”が芥川龍之介を問答無用とばかりに一刀両断にすると『敗北の文学』になるともいえようか。
(5)、「笠原」と”ターミネーター”
ここで古い文学論争に首を突っ込むつもりはないのだが、”ターミネーター”と指摘したからには若干でも触れねばなるまい。荒や平野の批判は、ウェイトレスをやって『私』の生活を支える「笠原」という女性への『私』の態度に向けられている。いわゆる”ヒモ”の暮らしをしていながら「笠原」を軽蔑する『私』は「人間蔑視」の存在であり、革命家を名分にしているだけのただのエゴイストだというわけである。蔵原や宮本らの『私』弁護論には触れるまい。陳腐なものである。
吉本隆明の言うように、日常の世界では『私』と「笠原」の関係はありふれたものであって、庶民はそれぞれに処理して暮らしており、『私』は単に「未熟な男」であるにすぎない。問題は『私』が自分の取り結ぶ人間関係を「(政治)技術」としてしか取り扱えない「疎外」された存在であることを『私』が自覚していないことである、と吉本は言う。
わかりやすく言うと、職業革命家ということで、赤の他人を利用し犠牲にすることも許されると考える生活の処世術、それが単なる政治「技術」に堕してしまっていることへの無自覚が指摘されているわけである。”ターミネーター”にとっての生活や人間関係は単なる処世の技術問題にすぎないのは自明のことである。
『私』は「笠原」を党に誘ったが、誘いに乗ってこない「笠原」について「如何にも感情の浅い、粘力のない女だった」と冷酷に評価する言葉は、革命という”ミッション”以外は一切評価しない”ターミネーター”の発する声なのである。「笠原」とは一般庶民の代表者の別名にすぎない。
すでに述べたように、「階級的生活」から蔵原や『私』によって排除された労働者大衆は、jcpの指揮下に入らなければかかる取り扱いを受けてしかるべき存在なのである。
戦前の共産党が、そして戦後の宮本jcpがついに多くの庶民の支持を結集できなかった究極の原因がここにある。その観念論に照応して、自分らの実践の誤りによって大衆から遊離したところに党壊滅の原因を見るのではなく、逆に大衆の無理解が党を壊滅に追いやったと倒錯するのである。
(6)、『私』の稚拙な党活動と冒険主義
さて、私の関心に戻ると、私があきれるのは主人公『私』の党活動のおそるべき稚拙さである。まるで警察との”鬼ごっこ”である。独り者の下宿人が夜になって何度も外出すれば家主に不審がられると思いながら、「一晩のうちに平均して三つか四つの連絡があって」、何度も出かけている工夫のなさ、馬鹿さ加減なのであり、わざわざ警官の前に出かけて行くようなものである。
連絡が必要であれば、その外出を家主に不審をもたれぬ程度に制限する組織システムを考案しなければならない。そのためには、おそらく連絡に従事するより多くの党員と非党員協力者の一群が必要になるであり、治安機構の正面に出るにはそれだけの巧妙で大きな組織体制の形成と周到な準備が要求される。組織の能力、工夫が試されるところなのである。
他の例を挙げれば、臨時工の大量首切りが発表される前日のビラまきがある。首切り反対のストを打つにはその前日のビラまきで騒ぎを起こす必要があるということで、昼休みに工員らが休憩に集まるビルの屋上でビラを空中に放り上げて撒く計画を『私』は立てる。
しかし、ビラを撒いた犯人はその場で特定され守衛に捕まり、3~4年の刑務所暮らしが想定されているのに、職業革命家ではない臨時工の党員がビラまき担当になるのであって、その行為を『私』は英雄的行為として描き出している。
これも間違いである。明日が解雇発表の日だからと言って、前日にそのことをビラまきで臨時工に知らせる程度でストライキ態勢が即座に組めると夢想するのは児戯であるばかりか、解雇日にむけて臨時工の過半を密かに組織化できていなかった準備不足の反映でもある。むろん、長期戦になるかも知れないスト態勢への準備もない。倉田工業が存続する限り、争議が生まれうる状況はこれ一回だけということもない。治安要員として「在郷軍人」さえ工場に投入されている状況では、周到な準備なき党員だけの”決起”は犠牲多くして実り少なく、ほとんど自殺行為にほかならない。左翼小児病特有の冒険主義である。
(7)、経験が蓄積されない党活動
とりわけ問題にするべきことは次のことである。党員としては警察にノーマークの数少ない労働者党員は極力温存しなければならないということである。『私』のやり方では党員労働者が”使い捨て”になるばかりか、経験に富んだすぐれた党員が党内に蓄積されないことになる。勇気ある党員から先に消耗品となる仕組みが生まれる。
事実上の”使い捨て”の結果として、党歴の少ない経験の浅い党員が、欠員補充としてやむなく重要な組織部署に配置されるという事態が生まれ、組織の中枢に容易にスパイの潜入を許すことにもなる。戦前のjcpがスパイだらけだったばかりか党中数にスパイが潜入することになる原因がここにある。
戦前のjcpが特高警察に対抗できず壊滅した組織上の原因が、多喜二の『党生活者』で赤裸々に語られていると言うべきである。
(8)、一般党員は”鉄砲玉”
より優れた党員を”鉄砲玉”のように消費するから党員が増えない。ある程度、党員が増えてこないと、党の仕事量に比べ党員数が少ないから一人一人にかかる負担が多くなり、生活が党活動ばかりに追われる「党生活者」だらけという事態が生まれてくる。大多数の党員の個人生活が「党生活」に包摂されてしまえば、党自体が大衆から遊離してしまい、兵站なき”痩せこけた”党になってしまうのである。
だから、普通の庶民生活に軸足を置いた党員が数多く存在しなければならず、彼らは職業革命家と同様に、党の重要な基盤なのである。職業革命家と庶民生活に軸足を置いた党員と協力者の組織的分業とその分業を有機的に稼働させる組織を分厚く形成できるかどうかが、治安警察機構を圧倒していく主体形成のポイントなのであって、庶民生活に軸足を置いた党員と支持者の分厚い形成が職業革命家群を分出していくのである。
(9)、『私』は職業革命家ではない
職業革命家とはレーニンのような固有名詞で想起できる人を言うのではない。党組織がその生活費の一切合切を提供することを条件に党活動に専念してもらう党員のことを言うのである。
多喜二の『党生活者』は、個人生活を持たぬほど党活動に従事していながら、党からの資金によって生活を保障されておらず、みずから偽装結婚(戦前jcp特有の”ハウスキーパー”なる半封建的な奇怪な創造物)やらして同居の女性「笠原」に寄生して暮らしているのである。世間で俗に言う”ヒモ”男である。
この「党生活者」(小説『党生活者』に登場する『私』が典型)は、その本来の形態から言えば職業革命家ではない。「党生活者」は一般の労働者党員と職業革命家の”中間的形態”なのであって、戦前jcpがコミンテルン由来の綱領はあっても、jcpが組織としての革命党をついに形成できなかったことの物的証拠となるものなのである。党の中核としての専門的職業革命家による全国的組織という党の背骨を持っていない。
戦前jcpにあっては、職業革命家と言えるのは、おそらくは指折り数えられる中央委員とその周辺くらいのものであって、それ以下は、個人生活を持てぬほど党活動に追われながら同時に生活費も自前で稼がねばならぬという「党生活者」が多数なのである。世間一般の職業を持つ党員と協力者のぶ厚い層を組織的に形成できなかったjcp組織の”家内工業的形態”の産物が職業革命家ならざる「党生活者」なのである。
生活の俗事を処世の技術として機械的に処理でき、その限りで生活の俗事から解放されている”ターミネーター”は、生活の糧を得ることに腐心し俗事に汚れざるを得ない「党生活者」が、その現実の彼岸に夢見る職業革命家像なのである。宗教が疎外された現実の反照であるように、その革命家像がミゼラブルな現実のうちにある『私』の心理的反照であり、”疎外された”職業革命家像であることに『私』が気づくことはないのである。
(10)、党組織の手工業性と根こそぎ検挙
多喜二の『党生活者』に現れた『私』の党活動をレーニンのそれと比べてみよう。レーニンが党組織問題を扱った初期の論文に「なにをなすべきか?」(1902年)がある。この論文が書かれた当時の状況は多喜二のそれとよく似ている。ロシアの党は1898年に作られたが、すぐにツアーリズムの弾圧にあい機能不全の状態に陥っており、その再建がめざされていた。レーニンも若く32歳であり多喜二の年齢に近い。この長大な論文の第4章は「経済主義者の手工業性と革命家の組織」となっており、ツアーリズムの下での非合法党組織形成の問題が論じられている。
レーニンに言わせると、党組織が官憲の弾圧で破壊されるのは、党組織の「手工業性」、すなわち、地域分散の狭い経験に頼った運動ばかりしているからである。そこで全国的政治新聞の発行を梃子に地域分散と手工業性を脱出することが党建設のポイントだとレーニンは言うのであるが、その他にも組織の「手工業性」にかかわる様々な側面を論じている。たとえばこうである。
「普通はこのような行動がはじまるやいなや、たちまちつづいて根こそぎの検挙がやってくる。これがたちまちに、また根こそぎにやってくるというのは、まさにこれらの戦闘行動が、長期にわたる頑固な闘争のために、あらかじめ周到に考えぬいて、順を追って準備してきた系統的な計画の結果ではなく、伝統的になされているサークル活動が自然発生的に成長したものにすぎなかったからである。」(全集5巻474ページ)
戦前jcpの1928年の「3.15事件」、1929年の「4.16事件」の大量検挙の頃とよく似た戦闘状況が指摘されている。多喜二の『党生活者』は1932年の8月に書かれており、多喜二が入党したのは蔵原によれば「1931年の秋」である。多喜二が党員になって1年足らずでの党活動の描写であるからその党活動が稚拙であるのも当然だが、その稚拙さが戦前jcpに普遍的であったのは、党員学者で、かつ病弱であった野呂栄太郎を風間丈吉検挙後の党委員長にすえることでもよくわかるのである。
(11)、「真の病気」についての「自覚を欠いている」
レーニンは言う。
「自然発生的に形作られた組織形態のまえに拝跪していること、われわれの組織活動がどれほど狭くて原始的であるか、この重要な分野でわれわれがいまでもまたどのような『手工業者』であるかの自覚を欠いていること、くりかえしいうが、この自覚を欠いていることが、われわれの運動の真の病気なのである。」(全集5巻、472ページ)
ところが、蔵原も『私』も職業革命家への中間形態にすぎない「党生活者」を職業革命家の理想像(”ターミネーター”)にしてしまっている。二人とも現実と願望を混同しており、倒錯した観念論のとりこになっていて、おのれの姿の貧困さ、「真の病気」についての「自覚を欠いている」。
「いくらかでも才能があって『前途有望な』労働者出身の扇動家を、工場で1日に11時間も働かせてはならない。われわれは、彼の生活を党の資金でまかない、適当なときに非合法状態にうつれるようにしてやり、その活動場所を変えてやるように心がけなければならない。というのは、そうしなければ、彼は多くの経験を身につけることができないし、その視野を広げることも、憲兵との闘争をせめて数年もちこたえることも、できないだろうからである。労働者大衆の自然発生的高揚がいっそう広くまた深くなればなるほど、労働者大衆は、才能ある扇動家だけでなく、才能ある組織者や宣伝家や、よい意味での実践家・・・をますます多数におくりだしてくる。われわれは、専門的訓練を受け、永年の修業を経た労働者革命家たち(そのうえ、もちろん『あらゆる兵種の』革命家たち)の部隊をもつときには、世界のどんな政治警察もこの部隊には歯が立たない。なぜなら、無条件に革命に実をささげる人々からなるこの部隊は、もっとも広範な労働者大衆の同じように無条件的な信頼を受けるだろうからである。」(全集5巻509~510ページ、太字はレーニンの強調)
(12)、『党生活者』検討のまとめ
多喜二の『党生活者』に現れた党活動の検討を通じて確認できることは、第一に、戦前jcpにあっては職業革命家という存在とその多数の実在に裏付けられた職業革命家概念が成立していないということ。そのことは戦前jcpが政党ではなく「政治思想団体」レベルの運動体にすぎなかったことの物的証拠となるものである。
戦前jcpにあっては労働者党員と職業革命家の”中間的形態”として「党生活者」が存在するのであるが、多喜二も蔵原もこの「党生活者」を職業革命家と混同し、その現実のミゼラブルな姿を観念上で理想化してしまうのである。ここに戦前jcpの党幹部らに共通の左翼小児病がくっきりと姿を現している。これが第二。
第三は、多喜二も蔵原も宮本も、”ターミネーター”を職業革命家の理想型とする左翼小児病患者である結果、労働者大衆を「階級的生活」の外の住人と誤認してしまう。これでは大衆は単なる”さ迷える子羊”となってしまうのであり、jcpの指揮下にあらざればどこへいくかわからない、「笠原」のような存在ととらえられてしまうのである。宮本らjcp指導部の大衆不信の根がここにあり、彼らが多くの労働者大衆の支持を得られない究極の原因もここにあるのである。
そして、第四として記しておくべきことは、jcp指導部の顔の二面性についてである。党指導部を支持する党員や党外支持者へのえびす顔とまつろわぬ者への不信と猜疑と敵意の顔は、いささか誇張した言い方になるが、”ターミネーター”の持つ二面性であり、どちらも人間への対応の「(政治)技術」問題(敵か味方か)にすぎないのである。しかし、その「技術」も半世紀も維持すれば、もはや人格の一部になっているのであろう。
こうして検討してくると、現在の不破・志位jcpに伝承されている宮本jcpの特徴となる主要な要素のいくつか(その小ブルジョアの大衆観と”ターミネーター”の”選良”たる地位と自覚)がすでに多喜二の『党生活者』の中で展開されていることがわかるであろう。そして、同時にこれらの二つの要素は組織的には本来の職業革命家群を生み出せなかった「党生活者」の活動実態と相互不可分の関係にある。
戦後は、大戦への反省から、国民はjcpに本来の職業革命家群を与えたが、当のjcpの指導者は戦前来の幹部が党壊滅という事態があったにもかかわらず、戦後も反省なき”後光”に包まれて復活し、戦前来のかかる特徴を払拭することはなかったのである。その土壌の上に自己美化の権化たる宮本顕治が台頭してくるのは、すでに見たとおりである。
多喜二を褒めるとすれば、「プロレタリア・リアリズム」なるものを意識して、過剰なまでに汚物感を露出させた『蟹工船』よりも、逆に、党の現実の姿を自分の信ずるがままに理想化し、それゆえに、実際に目にし体験したままを虚飾なく平凡な文章で書き記す結果となった『党生活者』のほうがjcpの戦前の姿をリアルに伝えることになったということである。
実際にはミゼラブルな党を理想化することによって、逆に意図せずして、虚飾を排したミゼラブルな党の姿がリアルに捉えられているという現実の摩訶不思議がここにある。
118、立花隆の「日本共産党の研究」について
私のjcp党史検討は「50年問題」に限定されているが、それでも戦前党史のとらえ方がひとつのポイントとなっている。戦前jcpが、その実態からすれば政党ではなく政治思想団体と言うべきで、jcpは革命政党の実態を持つ前にその幼年期のうちに壊滅したという理解である。 政治思想団体にとどまったということと組織の幼年期で壊滅したという事実が、戦後初期のjcpの幹部の人格の錬成度と組織運営と政治活動に顕著な影響を与えている。
こうした私の理解との関係で、立花隆の「日本共産党の研究」(講談社文庫全3冊)に触れておく必要がある。
(1)、立花の著作はそのボリュームの大きさといい、戦前jcp党史の包括的研究となっていることといい、さらには戦前jcp党史の重要な事実をいくつも転覆・発掘している点で、また例の宮本リンチ事件関係の新しい文書資料を発掘した点で、その後のjcp党史研究に刺激を与え、戦前jcp党史研究の重要な著作たる地位を持つに至っている。
著作の初出は『文藝春秋』の1976年新年号であり、その後、2年にわたって連載されたものである。連載当初からjcpによる大々的な批判に晒され「特高史観」とまで決めつけられたが、事実を伝える著作は頑固なもので、文庫版は現在でも増刷を続けており、逆にjcpの立花批判論文で今日でも広く読まれているものは絶えてない。
その意味では、jcpと立花との論争も歴史的に決着がついているとも言えるのだが、私の主張との関係で立花の見解をいくつか拾い出してみよう。
(2)、戦前jcpが、実態としては政党と言うより政治思想団体ととらえるべきだということに関して、立花は次のように言っている。「シンパ層の厚みと党組織の弱さとのギャップ、これを戦前の共産党はついに克服しきれなかった。そしてそのために壊滅したのである。ことばを変えていえば、影響力はやたらに大きかったが、組織的政治力はまるでなかったということだ。思想運動としては成功したが、政治運動としては失敗したといってもよい。」(立花「日本共産党の研究1」188ページ、講談社文庫、以下、立花「研究1」と略す)
立花がこのように言うのは、1927年末の党再建の頃、「無産者新聞」の発行部数が「週二万」に対し、1929年の「3.15事件」の頃の党員数が押収された党員名簿では「四百九名」であったという事実からの感想である。立花は思想運動としては成功したが政治運動としては失敗したとは言うものの、jcpを一応は革命政党と見なしている。思想上の影響力が大きかったが政治活動は弱かった革命政党というわけである。
私の場合は、党員数500名前後という組織の規模もさることながら、小林多喜二の『党生活者』の検討で示したように、そもそもの話が革命政党の背骨となる本来の職業革命家群を輩出することに成功していない点をあげて、革命政党たり得ていないと断定するわけである。その意味では、私の見方の方が立花より”辛い”ことになる。
党の背骨となる職業革命家群を輩出するということは、党組織が分厚い一般党員と支持者の網の目を背後に持っていることを意味し、また、jcpの戦略・戦術とそれにもとづく政治実践が正確でかなりの国民的支持を得ているということをも示す”指標”なのである。
(3) これまでの党史研究家の間でも戦前jcpの壊滅の原因を「内在的に」とらえようとする試みがあった。たとえば、立花の著作が出た後でも、渡部徹の「1930年代日本共産主義運動史論」(三一書房1981年)があり、壊滅の原因を3点にまとめている。党組織の欠陥と大衆意識の一面的把握、党と大衆組織の混同ということがそれである(同書16ページ)。
確かにこれらの指摘は正しいのであるが、しかし、これらの要因だけにとどまるわけではない。
渡部の指摘をjcpは革命運動の主体の側だけに原因を求める主観的一面的把握だと批判するのだが、そのjcpも敵の悪逆非道の弾圧ばかりでなくjcpのセクト主義とかとあれこれ党内外の要因は挙げるのである。
戦前jcp壊滅の要因を縷々取り上げてもその原因を網羅し尽くすことはむずかしいし、羅列すれば壊滅原因の全体像が見えて来るというわけでもないのである。
そこで考察する側に工夫が必要になる。職業革命家(この場合jcpのそれ)とは、党から生活費を支給され党活動に専属的に従事する党員を意味するだけではない。職業革命家とは敵味方の激烈な闘争の焦点に立つ存在で、それゆえに敵味方の相克の全構造・全諸関係・全事情が収斂してくる特異点となっている。
戦前jcpが本来の職業革命家群を輩出できず、職業革命家と言っても実際は多喜二の描写する『党生活者』、一般党員と職業革命家の中間的形態の存在にすぎず、この中間的存在としての『党生活者』こそ、敵味方の相克の全構造的実態(特高の圧倒的優位)を集約的に示しているのである。すなわち、『党生活者』は党から必要十分な生活費を支給されておらず、生活費をある程度自前で調達せざるを得ず、したがって、職業革命家としての知識と技術、その実践的訓練が決定的に不足している存在なのである。
だから、党の背骨となる多数の職業革命家の存在(職業革命家の一般的成立)は、組織構成員の問題であるばかりでなく、その存在自体が敵味方の”社会関係”を表示しているのである。それはあたかも、素材としての金が交換関係の中では素材の姿のままで”貨幣”になるのと似ている。
官憲の弾圧による職業革命家群の輩出欠如=革命政党の組織未成立=政治思想団体としてのjcp=未熟な(左翼小児病の)政治実践、という円環関係の指標、結節点にあるのが職業革命家群という”カテゴリー”なのである。
jcpがその幼年期で壊滅したという私の主張は、戦前jcpが思想運動体、政治思想結社のレベルを越えて革命政党としての組織の実態を持ち得なかった(職業革命家概念の未成立=職業革命家群の輩出欠如)という事実から直接出てくる結論である。
119、連載を終わるにあたって
いわゆる宮本「リンチ殺人事件」についても検討してみる予定であったが、今日ではそれほど意味があるわけではなくなってしまった。私の怠慢で、この連載も足かけ3年にわたってしまい政治の変化は予想外の早さで進んでいるという実感がある。
自己美化の権化たる宮本個人にとっても宮本jcpにとっても、戦前のリンチ事件(小畑殺し)は”アキレス腱”というべきものであったが、スパイではなかった(宮本らは”査問”で決定的証拠を挙げられなかった)小畑を死に至らしめた反省なきjcpへの弔鐘が聞こえてくる時代に入ったということである。
政権交代と鳩山政権の誕生は、その歩みは遅々としているが、日本の政治権力の構造(官僚支配と官僚機構を通ずるアメリカの対日支配)を白日の下に晒したという意味だけでも絶大な功績を持っているばかりか、検察の裏金問題の解明を拒否したjcp執行部の姿をも照射し始めている。
小沢一郎という政権交代の立役者の評価を巡って、立花隆を代表格として、多くの左派、リベラル系の政治評論家が躓いているところに現代の政治変化が本格的なものであることを示す予兆がある。この予兆は官僚機構や検察、マスコミの必死の反抗ぶりによってさらに確実なものになっていくはずであるが、問題は半世紀にわたる支配体制を覆すのは容易ではないということを国民の側がどれほど自覚して対応(運動)できるかということに帰結する。
なにぶんにも、誰にとっても未体験ゾーンへ突入した時代なのであり、既存の”ものさし”がすんなりとは使えないということは躓いた評論家達が教えていることである。(おわり)
読者の皆様の長年のお付き合いに感謝します。