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「組織論・運動論」討論欄

綾瀬はるきさんへ(続)

2010/8/12 田貫 喜一

 「私は党名を変えるべきだと思っています。他国の共産党政権や、“社会主義”を目指した国が、恐ろしい社会の実例をごまんと作っているからです。
 政党が、自らがめざす社会を自らのうちに具現化しているとしたら、日本共産党は党名でまずそれを示しているのではないかと思います。「民主集中制」(異論封殺体制)は、(省略)百害あって一利無しの制度です。
 そのことに気づかず、幹部会崇拝を何の疑問も感ずることなく、党員としての生涯を終える。そうならなくて良かったと、つくづく思います。」(綾瀬さん)

 とのことですが、

 <党名変更の問題について>
 1 党名だけの問題に限定すれば、北朝鮮は「労働党」、東独は「社会主義統一党」、ポーランドは「統一労働者党」と、共産党を名乗っていません。ロシアでもロシア社会民主労働党からロシア共産党(ボリシェビキ)へと党名を変更したのは10月革命後、1918年3月の第7回党大会においてです。

 2 名称変更はあまり意味がないのではと、思っております。いままでも、日本の共産党指導部は、反共宣伝におびえて「プロレタリアート独裁」を「デクタツーラ」とか「執権」とかに置きかえたり、マルクス主義を科学的社会主義に置きかえたり、してきております。ご承知の通り、プロレタリアート独裁、ブルジョア独裁は階級支配の本質を表現する用語です。ブルジョア独裁にも支配形態に議会制民主主義もあれば暴力むき出しのファシズムもあります。

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  「ブルジョア国家の形態は多種多様であるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、きわめて多数の多種多様な政治形態をもたらさざるをえないが、しかしそのさい、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁であろう」(国家と革命 レーニン 堀江邑一訳 国民文庫 1958年 53頁)、そして議会制度の本質について、「支配階級のどの成員が、議会で、人民を抑圧し、ふみにじるかを、数年に一度きめること、---議会主義的立憲君主制ばかりでなく、もっとも民主的な共和制のばあいにも、ブルジョア議会制度の真の本質はまさにここにある。」(同上 68頁)、ルソーも、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。」(「社会契約論」 桑原武夫訳 岩波文庫 133頁 昭和41年第15刷)と。

 3 党名変更は、運動の実体、理論実体が伴ってはじめて日本人民に対して説得力をもつと思います。

 4 日本の共産党指導部は、上記レーニンの指摘(「資本主義から共産主義への移行は、・・・多種多様な政治形態をもたらさざるをえない」)を、「議会の多数を得ての革命」として定式化したのだから、それを戦術レベルとして具体化しなければならない。具体的な戦術が無い。「大道を進む」、「綱領の立場」ではタコツボ活動にならざるを得ない。(選挙闘争のレーニン的戦術については、「赤旗と左翼小児病」---「共産主義内の「左翼」小児病を再読して---をご参照ください)。

 5 反共宣伝(共産党は暴力革命の政党だ!独裁政党だ、ソ連、中国を見よ!北朝鮮の独裁政権を見よ!)は、戦後一貫しています。しかし、不思議なのは反共宣伝をかわすために、言葉をこねくりまわすのにキュウキュウとしている共産党指導部が、「中国共産党は社会主義を目指している」とか、北朝鮮金王朝政権に対する甘い姿勢(金王朝と一体である朝鮮総連大会への出席、韓国の哨戒艦沈没事件に対する煮え切らない対応)は、「反共宣伝」に”エサ”を大量に撒いているようなものです。話が飛びますが、その点、不破哲三氏の師匠である宮本顕治氏は1987年の大韓航空機爆破事件を北朝鮮の犯行であると断定、さすが「獄中12年」だと思います。

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  「88年1月15日の金賢姫の記者会見をテレビで見た宮本顕治議長が、北の人間にまちがいないと断定して、それまで、まだはっきりした態度をうちだしていなかった「赤旗」の論調を「北の犯行」説に大胆に転換した。このときの宮本氏の判断の根拠は、「金賢姫が自供しながらもまだ金正日指導者への尊敬を捨てきれない精神状況を示している。こんなことは演技でできることではない」というものであった。金賢姫が長年うえつけられた指導者への崇拝心と、自分の犯した罪への自責の念との葛藤に苦しみながらも、崇拝心を完全には捨てきれない心のゆれを見のがさなかった宮本氏の眼力にわたしは感心した。他のことは知らないが、この件にかんしての宮本氏の判断と指導力は卓越していた。」(「北朝鮮に消えた友と私の物語」萩原 遼(元赤旗平壌特派員) 文藝春秋社 200頁)。

 話が脱線気味になりました。
 綾瀬さん、まずは「面従腹背」です。共産党内は、そう簡単には変化しないのではと思います。党内で少しずつ一定の潮流(分派)を形成することをお勧めいたします。
 それが、共産党の再建につながると思います。戦後の共産党の歴史も、それを教えています。宮本顕治氏が「武装闘争路線」に反対し、分派(国際派)を形成、六全協で指導権確立、それが60年代、70年代の共産党躍進の基礎となりました。尚、原 仙作氏の「三重の原罪を背負った共産党の民主集中制(10)---党史から---」をご参照ください。その辺りが、詳細に論述されています。