本事件については、私が学校を卒業して2年後のことなのであまり関心がなく、また川上徹氏に対しても”ゴリ民”(民青・共産党の方針に疑問を持たない人)、”エリート”のイメージがあり、友達から聞いても、ピンとこなかった。しかし、さざなみ通信の諸投稿文を読むと現在の共産党指導部の体質を考える上では重要な問題であるとの認識をあらたにしました。
投稿諸氏は、その不当性を論難し、そしてその後の学生運動の低迷の要因の一つだとして批判されている。(注 1)
また、さざ波通信の投稿論文によると川上 徹氏等を指導部へ密告したのが「公安のスパイ」で、その「密告」を根拠に除名したとのこと。なにをかいわんやである。
当時の共産党指導部宮本顕治氏が川上氏等を「双葉のうちに摘み取る」と言ったと伝えられている。この宮本氏の心理はどこからきているのだろうか?
1 宮本氏から見た視点を想像すると
60年安保闘争前後に新左翼が登場する。この新左翼の大きな潮流であるブンドと革共同は共産党の胎内から生まれている。
安保ブンドの発祥地は、ご存知、日本共産党東大細胞である。日本共産党東大細胞=共産主義者同盟(ブンド)東大細胞である。(注 2)
また動力車労働組合を率いた松崎 明氏は民青埼玉県委員であり、革共同(革命的共産主義者同盟)は民青埼玉県委員会を基点に影響力を伸ばしていった。(注 3)
理論的には黒田寛一氏が既に存在していたが「動労革共同の存在しない黒田(黒田寛一氏)哲学など気の抜けた辛子に過ぎず、政治的運動体としては無同然だ」(「革命的左翼という擬制 1958~1975」 小野田襄治 白順社 35、36頁)と、革共同の幹部であった小野田襄治氏は書いている。
宮本氏は、大衆運動の高揚期(60年安保闘争)に様々な政治的潮流が生じるのを経験上熟知しており、60年安保闘争と同様に70年安保闘争においても川上氏等の動きに、その匂いを感じたのではないだろうか。しかし、その動き、匂いは、レーニン的にはなんということもない党内の異論、潮流であった。
しかし、スターリン型民主集中制を旨とする宮本氏の頭の中では規約に反する分派活動であり、安保ブンド、革共同の再来を川上氏等のなかに発見したのではなかろうか。(注 4)
公安当局の大勝利である。スターリン型民主集中制は「公安のスパイ」が棲息するには絶好の組織形態である。
尚、安保ブンドにしても革共同にしてもスターリン主義批判、特に1956年のハンガリア革命に大きな影響を受けている。(注 5)
共産党指導部は、ハンガリア革命を反革命動乱と把握しており、それは小生が在学中(1968年?)に読んだ榊 利夫氏の論文(文化評論?)でも変わりがなかった。その点、安保ブンドにしても革共同にしてもスターリン主義批判を全面に掲げ、スターリン主義批判については先進的な理論体系を持っていた。特に、黒田寛一氏。革共同の基礎文献「社会観の探求」(こぶし書房)などはなかなか読ませる本である。
しかし、50年前のこととはいえハンガリー事件は日本におけるスターリン主義総括の端緒となるべき事件である。現在の共産党指導部はどのように総括しているのだろうか。
注 1
さざ波通信の諸投稿文は、本事件が学生運動の衰退を招いた大きな要因と総括されている意見が多いと思われる。
小生の狭い経験ですが、それは違うというのが、いつわざる本音である。これについては、また投稿したいと思います。
注 2
「ブンドは基本的に東大党であった。いや、学生運動自体が共産党東大グループによって運営され、かろうじて早大がその一翼に参加し、あとはミソッカス同然だと言っていい。ある意味で当然であった。日本の支配構造を担うエリート養成機関である東大は、マルクス主義が大きな思想潮流としてのし上がる戦後世界の中で、一方では権力機構の中枢(法学部に象徴される)、他方ではマルクス主義の論客および日本共産党幹部養成の場にもなった。日本共産党東大細胞は、善かれ悪しかれ共産党エリート幹部とマルクス主義の論客を養成する役割を宿命的に担わされていたのである。----ブンドはその申し子である。」(同上 160頁)
「幹部養成の場」、東大細胞から出てきたのが、不破哲三氏、上田耕一郎氏、志位和夫氏等である。共産党指導部の東大重視は、60年代後半の学園闘争に如実に現れている。ブルジョアジャーナリズムに煽られれて、トロ諸派も民青・共産党も東大に全力を集中、動員合戦を繰り広げて行った。トロ諸派は、「テレビ左翼」という一面があり東大に全力を集中するのは当然であるが、共産党については小野田氏が指摘する面が多分にあったのではないか。
東大闘争が優先され、その他の大学の学園闘争がおろそかにされていったが、それは民青だけでなくトロ諸派も同様である。
あらゆる面での東大優先(卒業後も含めて。川上氏は一応民青中央常任委員という職業革命家になっている。)について、
日大全共闘の秋田明大君が「東大闘争は貴族の闘争、日大闘争は乞食の闘争だ。」と言ったのは、まさに至言である。
60年代後半の学園闘争、学生運動の主要な闘争の「環」は、国立大学では「つくば移転反対闘争」を闘っていた東京教育大学であり、私立大学では「矛盾の結節点」マンモス私大であり、けっして闘争の「環」は東大ではなかった。階級闘争の視点から見れば東大など、トロ諸派が自治会のヘゲモニーをとろうが、廃校になろうが、プロレタリアートとしてはどうでもよかったのである。
しかし、動員で何回か東大に行ったが、集会での決意表明、挨拶をした人以外で東大生とおめにかかったことはなかった。特に、ゲバルト部隊の中では皆無。中核派と対決した法政では、ゲバルト部隊の約30%は法政の学生であったと思う。特に夜間部の学生。
注 3
「ぼく(小野田襄治氏)が革共同(探求派)に加盟したのは、ブンドができる直前の1958年11月22日である。会議の出席者は、窪田(民青埼玉県委員長、「かーさんが夜なべをして手袋編んでくれた」の作曲者、63年に日共除名)、松崎明(民青埼玉県委員、動力車労組東京地本青年部長)、岩田(民青埼玉県委員、国鉄大宮工機部青年部長)、小泉(大川、民青埼玉県委員)、野村文教(印刷労働者)、北村文彦(埼玉大三年、全学連中執)、芹沢(埼玉大三年)、ぼくの八人。この時すでに民青埼玉県委員会の中心メンバーが革共同(探求派)に転換していた。」(「革命的左翼という擬制 1958~1975」 小野田襄治 白順社 152頁)。
注 4
小生は、当時の川上氏の論文(「学生新聞」(?)、「民青新聞」(?)、「祖国と学問のために」(?)を読んだ記憶があるが、
どこといって、新しい政治的潮流を感じることはなかった。むしろ、ゴリゴリの民青・共産党だと感じた。又、東大貴族は、マンモス私大の運動を全く理解できていないと、感じていた。 宮本氏等の共産党指導部と川上氏等の相違は、本通信2000年8月28日付川上慎一氏の論文が指摘しているので、これを引用させて頂く。
「この事件の本質は「計画的な党勢拡大」路線に対する「大衆闘争を重視しようとする」若い党員の抵抗であったといえるだろうと私は思います。そして、基礎組織のおかれていた状況からいえば、これらの若い党員たちの「傾向」の方こそ革命的立場に近いものであったと思います。」
注 5
「そこで、若き松崎さんのたいへん印象的な話を紹介しよう。「・・・いろんな意味でハンガリア革命がおおきかったな。当時オレは日共で民青をやっていたわけだが何となくスゲエという感じがした。テメエの国であるはずの「労働者国家」で労働者が立ち上がったんだからな。日本の労働運動のあまりの弱さが目の前にあるのでとにかくすごいエネルギーだとその根性に一種のあこがれを感じたわけだ。こういったら日共からにらまれた。そこで日共の上の方の奴らは一体何を考えてやがるんだと疑問を感じたね。これがいわば反スタのきっかけだな。」(同上212、213頁)
安保ブンドがスターリン主義批判を行ったのは、日本共産党東大細胞機関誌「マルクスレーニン主義」(1958年)の山口一理論文が最初とされる。
続く