2 共産党指導部の体質
1)宮本路線の純化
前回は、宮本氏の頭の中を想像いたしましたが、本事件は60年安保闘争前後
から見られる様々な除名事件と違い、除名時に、川上氏等の主張がどのようなも
のなのか全く見えないことです。
毛沢東盲従路線のやむを得ない除名と違い、川上氏等を除名することはなかろ
うにと思う。宮本氏は、構造改革路線と近かった上田耕一郎氏、不破哲三氏を党
内に抱きかかえたのだから・・・。
川上氏は六全協以降の共産党指導部の東大系譜(宮本氏、不破氏、志位氏)か
ら言って、委員長になっていてもおかしくない程の人材(共産党にとって)と想
像される。
共産党の指導部は、やれ修正主義だ、やれ教条主義だ、やれトロッキズムだ、
おまけに新日和見主義だと「宮本路線」を純化する過程で自己の筋肉を削りとっ
てきた。
特に、新日和見主義、そして構造改革論(当時の指導部のいう修正主義)。
ちょっと毛色の変わった考え方を忌避する純潔路線である。安保ブンド、革共同
などは「帝国主義のスパイ」だとされる。(注 1)
小生の手元に共産党指導部が1967年に編集した「修正主義・トロッキズ
ム・右翼社会民主主義」と題する、六全協以降の他党派、除名者に対する批判集
(三分冊)がある。
この批判集に典型的に見られる「宮本純化路線」が現在の共産党指導部の考え
方の原形を形作り、異論を半世紀にわたって排除してきたと考える。
2)大衆不信について
「宮本純化路線」は、労働者不信、大衆運動に対する不信が根底にあると思い ます。この考え方が如実に現れているのが次のような考え方です。
「修正主義者、トロッキスト、右翼社会民主主義者との闘争で、とくに重要なの は、彼らとの思想闘争である。・・・・それらの思想は、大衆のなかのおくれた 部分、おくれた思想のうえに、またそれらが米日反動のふりまく反共思想の一定 の影響を受けていることのうえにくみたてられている。したがって修正主義その 他との思想闘争は、このおくれた大衆を自覚させ、闘争の経験をつうじて革命的 自覚にまでたかめていく・・・・云々」(「序文 修正主義・トロッキズム・右 翼社会民主主義との思想闘争」 日本共産党中央委員会宣伝部(「修正主義・ト ロッキズム・右翼社会民主主義 1」 所収 日本共産党中央委員会宣伝部編 7頁 1967年)。(注 2)
約40年前の言説ですが現在でもあまり変わってないのではないか。「日
本では、ひときわ激しい反共主義が生き残っています。私たちは、日本の社会の
「三つの異常」ということをよく言うのですが、反共主義のこの生き残り方は、
「四つ目の異常」に格上げしてもいいのではないか、と思うほど(笑い)の気持
ちです。」(「赤旗」2006年11月11日・・・不破哲三氏の演説、原仙作
氏論文からの孫引)。選挙で大衆が共産党に票を入れないのも、大衆運動で、わ
けのわからない政治潮流(共産党指導部にとって。)が登場するのも、反共思想
に影響を受けた「おくれた大衆」のせいである。悪いのは「おくれた大衆」だ。
そうではありません、「唯物論、”おけさ”ほども広がらず」(戸坂 潤)です。
大衆の中に入らないと唯物論は広がりません。「上から目線」、不破哲三氏風に
言えば「科学の目」、「おくれた大衆を自覚させ」なければならないという姿
勢、自分は絶対正しいという前提で、大衆組織のなかで活動すると、大衆から浮
き上がるだけです。理論水準が高ければ、それなりに大衆は納得しますが、指導
部の「おうむ返し」のような言説では、大衆は聞く耳をもたない。
そして、指導部の理論水準も、かなりの疑問符がつきます。
話は横道にそれますが、トロッキストは「帝国主義おやといスパイ集団」(よ
くアカハタ等で、60年安保闘争時全学連唐牛委員長が右翼の大物田中清玄氏か
ら資金提供を受けていたことを、その証拠だと大々的に報道していた。)と言わ
れても、学生運動レベルでは同じクラスの飲み友達が「社学同」で活動していた
り、高校時代の無二の親友が民青の積極的活動家から「革マル」のシンパに変身
していたり、ある日突然「中核」のヘルメットをかぶっていたりと、(注 3)
「宮本純潔路線」ではとても、とても対応できません。大衆組織の中ではトロ諸
派、その他もろもろの政治潮流の活動家と一緒に活動することになります。スト
ライキもデモも一緒にやります。そうすると、純潔派共産党員、民青同盟員は疑
いの”眼”でみます。
宮本純潔路線は、純愛文学路線か?それとも宮本氏は長州出身、物事の原理性
をあくまで追求する吉田松陰の激烈な革命思想に影響を受けたか?
3)共産党指導部の理論水準
レーニンのような卓越した指導者がいれば「おくれた大衆を自覚させ」るとの
言説も一定の条件付きで了解できないことはないが、スターリン批判についてい
えば、当時の安保ブンド、革共同と共産党指導部と、どちらが「おくれた思想」
なのか疑問符がつくような指導部の理論水準では全く成り立たない。
当時の共産党指導部の理論水準は、「ソ連社会主義、中国社会主義無条件万歳
路線」である。この当時としてはやむを得ないとしても。(注 4)
また、修正主義だと批判された津田道夫氏の「国家と革命の理論」(1961
年 青木書店)など、不破哲三氏の「議会の多数を得ての革命」(2004年
新日本出版社)と、レーニンの「国家と革命」の見直しという論点では相似して
いる。津田氏も不破氏も、レーニンが「国家と革命」を書いた時点(1917年
8月)の歴史的条件(帝国主義戦争(第一次世界大戦)のまっただなか)、10
月革命直前という時期を重視し一面的になったと指摘、両氏の主張はそう大差が
ない。もっとも、津田氏は、レーニンがマルクスの文献を読めなかったという陳
腐な文献解釈学はしていない。
1970年前後の共産党指導部は、「平和的移行唯一論」は、修正主義だと批
判していた。(注 5)津田氏の論文と不破氏の論文、どちらが説得力がある
か?小生の目には、50年前の津田氏の論文に軍配を上げることになる。スター
リン主義、革命の平和的移行の問題以外にも”まゆつば物”の理論が散見される。
特に、不破哲三氏の文献解釈学に基づくプロレタリアート独裁をデクタッーラ、
執権などと矮小化した用語に変えることなど。まー、選挙での対応を考えれば、
やむを得ない面もありますが・・・。
しかし、朱子学とは違うのですから理論の破産を素直に認め、反省すればいい
のです。「間違い」を「間違い」と認めない、また、方針上の差異を針小棒大に
する。トロ諸派も含め、日本の左翼の悪いくせです。(注 6)
この共産党指導部だけが正しいという朱子学的信念(「純潔性」、「神聖」)
が、現在の「科学的真理の党」へと形作られていったのではないか。
次回は、人文学徒氏が指摘されている、「科学的真理の党」と民主集中制の結
合について、投稿する予定です。
注 1
「・・・トロッキスト集団は、・・・反ソ反共と各国の革命を破壊を職業とする 挑発者集団、帝国主義のおやといスパイ集団となっている。」
と貶め、「・・マルクス=レーニン主義の純潔性と共産主義陣列の団結をま もることは、すべての共産党員の神聖な責任である」(1959年12月8日、 9日 アカハタ 安保改定反対闘争とトロッキズム 米原 昶 同上 3 所収 1145頁、1146頁)と。「純潔性」、「神聖」など、まるで朱子学のよ うな言説である。
注 2
しかし、この序文は誰が書いたか知らないが、ひどいの一語につきます。
「絶対主義的天皇制の軍事的警察的抑圧のもとで、侵略戦争とファッショ的反動 のあれくるった第二次大戦中において、佐野、鍋山、三田村らの恥ずべき裏切り をはじめとして、右翼社会民主主義者やトロッキストは、天皇制と妥協し、労働 運動を分裂させ、・・・・人民を侵略戦争にかりたてる役割をくりかえしはたし てきたのである。」(同上 1 所収 3頁)
←戦前の日本の左翼にトロッキストなどいたのだろうか?もっとも、山本懸蔵 氏は、スターリンにより「トロッキスト」だとして処刑されている。
注 3
私のまわりでは、”高民”と言われた高校生民青同盟員が大学に入学すると、一
見高邁な理論に見える「革マル」、戦闘的に見える「社学同」などへ変身する友
達が多数いた。
当時の民青の”歌って、踊って、恋いをして”路線の反動だと思う。それと、民青
の基礎文献が理論的に極めて低レベルであったのが影響していると思う。弁証法
的唯物論とは
「それは、その方法が弁証法的であり、その理論が唯物論だからである。」
(「弁証法的唯物論と史的唯物論」 スターリン 石堂清倫訳 12頁 国民文
庫 大月書店 1962年18刷)というような、陳腐で漫画的なスターリン型
の説明が幅をきかせていたように記憶している。
注 4
「現在世界の共産党は八三、全党員数三三○○万にのぼっており、その党のうちい くつかは、すでに人民の先頭にたって困難な社会主義革命をなしとげ、かがやか しい共産主義の未来にむかって建設をすすめており・・・そして世界の共産党の 先頭に立って進んでいるのは、うたがいもなく偉大なソ連共産党であ り、・・・・」(1960年前衛12月号 「黒田寛一の反ソ反共理論」 吉原 次郎、 「同上 3」所収 1282頁)
1956年のハンガリー革命について「ハンガリー政府の要請に応じてソ 連のとった行動(軍事介入・・・筆者)は、まさにプロレタリア国際主義の模 範」(1960年9月27日、30日、10月1、2日 アカハタ 岡本博之、 「修正主義・トロッキズム・右翼社会民主主義 3」所収 1248頁)。
注 5
津田道夫氏の検討視点とは、次のようなものです。
「・・旧国家機関の破壊に原則的義務的価値を置くには、平和な立憲的な道をと おって社会主義に移行する可能性を、まったく排除してかからなければならな い。
それはすでに見たごとく、19世紀革命運動の経験すらも極度に狭隘化しかね ない。・・・世界的にみて各国の政治生活に人民大衆が積極的に干渉し、参与す る可能性がひらけ、その意味で民主主義が拡大された状況を考慮して、あの平和 移行の可能性にかんするテーゼが力強くうちだされたのであるから、そのような 政治の要請からもレーニンの国家論に見られるある種の一面性が再検討されねば ならぬのである。」(国家と革命の理論 津田道夫 青木書店 1961年 25頁)
←これ、当時の共産党指導部からいえば修正主義です。
当時の共産党指導部の革命路線は次の通りです。著名な4.29論文です。
「もちろん、わが党は、国会の多数を獲得して民族民主統一戦線政府を適法的に 樹立し、民主主義革命を平和的手段でなしとげるという可能性を、民主主義革命 にむかってすすむただ一つの道として絶対化するものではなく、革命の発展が別 の形態、すなわち非平和的形態をとる可能性があることも十分考慮にいれてい る。」(「極左日和見主義者の中傷と挑発ーーー党綱領にたいする対外盲従分子 のデマを粉砕するーーー」1967年4月29日 赤旗評論員 世界政治資料 NO.261所収 3頁)
注 6
前回引用した小野田襄治氏(元革共同幹部)は、著作で、革マル派と中核派に
分裂した経緯について、次のように述べている。
「振り返って、黒田(寛一)論文と本多(延嘉)論文に横たわる違いなど、二人 が身構えずにざっくばらんに話せば、簡単に解決した類の問題だ。」「こうし て、別段、方針上の対立があったわけではないのに、【昨日の同志は今日の敵】 へと、自らを顧みない反目へと走っていった。」(革命的左翼という擬制 1958~1975 小野田襄治 23頁、25頁 白順社)そして、 「1975年3月14日に革共同の書記長本多延嘉氏は革マル派に殺害され た。」(同上 251頁)。
続く