いままでの労働者階級の運動を考えるとき、専従というのは重要なことのように 思われます。資本主義社会では、 富は搾取され、支配階級に偏在することになります。労働者の政党、労働組合、 大衆運動は、いずれも経済的にも 時間的にも余裕のない人々の運動として、専従者を作り出し、それにたよらざる をえないことになったと思います 。専従は、時間と生活費を保証されますから、それに見合った形での会議などの 活動形態がつくられましたが、そ れに半専従の人や普通の活動家が「ついていく」のは結構大変なことです。会議 の形式化ということも、そういう 背景があるような気がします。
脱原発運動の中から、首都圏反原発連合(通称 反原連)というグループが 生じていますが、このグループは、 あまり強調されることはないのですが、専従のない運動です。余暇に活動をする 余裕のある人々の運動を「市民運 動」と呼ぶなら、市民運動は専従のいらない運動なわけですが、それとは層が違 います。規模が小さいから可能だ ともいえますが、抗議行動終了直後の全員での会議以外は、会議らしい会議は存 在していないようです。大規模な 行動をする場合でも、実行委員会を立ち上げたりしない。それでやっていけるの か、という疑問はありますが、で きるようなしくみでやっていく。抗議行動で逮捕者が出た時も、動いてくれる弁 護士の人たちに任せて、抗議主催 者の責任として抱え込みませんでした。これは、無責任と非難されたりしました し、確かに従来の政治党派の論理 からしたら、そういうことになります。でも、そうすると、何にでも対応できる 大きな組織が必要、ということに なります。
専従のない貧しい者たちの運動というのは、今の現実の中では、不可能な夢 かもしれません。しかし、動員とい う形態や、民主集中制の形骸化、官僚主義、会議の形式化、一部の人への情報の 集中、決定する人と従う人の固定 化など、いろいろな問題とつながっているようにも思います。