4 社会主義・左翼の立場
「マルクス主義においては、テロリズムを社会変革の主要な方法として位置づけることはない」というのが私の理解です。幾人かの政治家を暗殺するとか、市民を無差別に襲うことで恐怖心を抱かせ、このことによって社会変革が実現できるなどとする思想は少なくとも現代のまともな左翼、社会主義の中には存在しないと言ってよいと思います。
(非日本共産党系左翼に対する日本共産党の態度には伝統的にセクト的なものがあ
り、最近は多少は改善傾向にあるようには思いますが、いずれはきちんと総括すべき
だと思います。ただ、左翼、社会主義の中に、例えば「連合赤軍」などまで含めるこ
とはおよそ時代錯誤の理解であり、このような党派とはとうてい共同は不可能ですか
ら、私はここではこれらを左翼、社会主義の中に含めません。)
N.K氏の投稿の中には、いくつかの(おもに長壁さんの)投稿をとりあげて、これら
を「テロ擁護、テロ容認」論であるとして、この思想を「全体主義に通底する」とし
ています。そして、「テロリズムを容認する『社会変革』思想は、ファシズム、スター
リン主義、全体主義を内包している」と進み、「共産主義に暗い影としてまとわりつ
いているのは、そうした反民主主義のテロ容認思想」、「テロ弁護論を述べる左翼や
共産主義者の反民主主義的体質にかかわる、本質的な問題」というところまで議論を
煮つめていきます。
N.K氏の非難はとどまるところを知らず、この思想を「昭和初期のファシスト、東
アジア反日武装戦線や連合赤軍」になぞらえるところまで進みます。率直に言って、
この論理の展開はあまりにも強引ではないかという印象を私は受けます。
N.K氏の「無差別テロ擁護の反民主主義思(プラムさんへ)2003/9/3」などに、氏 の主張がわかりやすく述べられています。これらについての私の考えを含めて私見を 述べさせていただきます。
■ テロ容認思想はマルクス主義、共産主義の本質的な体質か
長壁さんたちの投稿を「テロ擁護、テロ容認論と決めつけるべきではない」という
のが私の理解ですが、N.K氏はこれを「テロ擁護、テロ容認論」と断定し、さらにこ
れを「左翼・共産主義者」と結びつけています。いくつかみてみます。
N.K氏は、“その根底にあるのは、「敵・味方」思想であり、<「弱者」「非抑圧
者」すなわち相対的に「正義」の側であれば「無法」「行き過ぎ」は仕方がない>と
いう感情論をまぶして、理性的であるべき議論や判断に忍び込ませ麻痺させていきま
す”としています。
さまざまな政治的な出来事を階級関係に還元してものごとを理解するのがマルクス
主義の基本的な方法です。9.11事件にしても、イラク国連事務所事件にしても、パレ
スチナでの自爆攻撃にしても、これらを共産主義者の立場から批判するとすれば、階
級的視点に立って「アメリカの民衆やイスラエルの民衆そのものは真の敵ではない」
ということが根拠になるはずであり、私に言わせれば、批判されるべきは「敵・味方
思想」ではなく、逆に、イラクやパレスチナの闘いにおけるその思想「敵・味方思想」
の未成熟さであります。
テロ容認思想は別にマルクス主義が内包しているものではないし、共産主義にまと
わりつく本質的なものでもありません。
少し脱線します。前回の投稿で私は「その一連の投稿は、彼女が共産主義者として
の観点からものを書いているというよりも、むしろ彼女の観点は『子を持つ母』といっ
た方が妥当だと私は思います」と述べましたが、これは同じ共産党員としての私から長壁さんへの同志的批判の気持ちの表れでもあっ
たのです。虐げられ虫けらのように扱われる
アフガンの、パレスチナの、イラクの民衆や子供たちへの思いがそうさせるのでしょ
うが、ともすれば共産主義者がもつべき批判的視点を曇らせることはないでしょうか。
「戦闘的ヒューマニズム」という言葉に対してご批判をいただきましたが、あえてそ
の類語を使います。単なるヒューマニズムだけでは闘いは前進しません。「敵・味方
思想」が成熟すれば、いいかえれば、あなたが「共産主義者として成長されれば」と
いうことですが、おそらくあなたの投稿から「ゆで蛙」という言葉がいつしか消えて
いるのではないでしょうか。私は、長壁さんより多少党員としての人生が長いという
だけのことで、このようなことを申し上げる資格があるなどとは思っていません。恐
縮しつつ申し上げました。
■ 「弱者・被抑圧者・侵略されるもの」の側に立つということ
「弱者・被抑圧者・侵略されるもの」が闘いに立ち上がるときに、何らかの「闘い
の旗印」となるイデオロギー、ある種の闘いの理論が伴います。「イデオロギーがあ
るから闘いが起こる」というのはさか立ちした認識であって、「闘いが起こる物質的
な諸条件があるから人々が闘いに立ち上がる」のであり、そのイデオロギーとして、
あるときは社会主義を展望するマルクス主義であったり、あるときは日常生活にまで
ふかくかかわるイスラム教であったりします。あまり適切な表現がみあたりませんが、
いわば「闘いに立ち上がる人々がある種のイデオロギー、理論を利用する」と思いま
す。ソ連社会主義が健在であったときには、社会主義の物質的諸条件の有無にかかわ
らず、いわゆる社会主義のイデオロギーを掲げた闘いが広く見られたし、今日の中東
においてはイスラムが闘いの旗印の役割を果たしている、ということではないでしょ
うか。
これらの闘いは具体的な状況に応じてさまざまに個性的な表現を示します。たとえ
ば「自爆攻撃」。以前の投稿でも書きましたが、これは、真の敵とはいえない人々ま
で巻き添えにすること、攻撃する若者自身が間違いなく命を失うこと、の二つの意味
であまりにも悲しく、胸が痛みます。「来世の存在を信じるなどの宗教的な心情」な
くしてはできないのではないかと思うのですが、何とかこのような悲劇的な攻撃をし
ないで闘う方法はないものかという思いを禁じ得ません。
結論的にいえば、マルクス主義や社会主義の立場においては、今日のパレスチナや
イラクにおける「イスラエルやアメリカによる侵略に対する闘いのすべて」を無条件
全面的に支持することはできないし、彼らの闘いに何らかの批判的視点がないわけで
はないけれども、「弱者・被抑圧者・侵略されるもの」と「強者・抑圧者・侵略する
もの」との闘いにおいて、共産主義者や左翼は、そこで闘う人々のイデオロギーがみ
ずからのイデオロギーと一致しない場合でも、「弱者・被抑圧者・侵略されるもの」
の側に立つのは当然のことであります。これが私の基本的な視点であります。そして、
彼らの闘いに対する何らかの批判的視点も存在するのが普通であって、そのような視
点も失うべきではないと思います。
■ アメリカ帝国主義のアフガニスタン侵略
反戦運動は、その対象が「国と国との戦争」という形をとることから「どちらの側
につくかという問題に矮小化されやすい」傾向があります。アメリカ帝国主義の侵略
に反対することと、その攻撃対象となった政権をどのように評価するかは別の問題と
して考えなければならないことが多く、これが反戦運動の難しさではないかと思いま
す。
アメリカ帝国主義のアフガニスタン侵略は糾弾されて当然ですが、このことは、当
時アフガニスタンを支配したタリバン政権を支持することに直結するものではありま
せん。
長壁さんに読んでいただきたい投稿があります。吉野さんという方(この方の投稿
には学ぶものが多い)のかなり以前の投稿「アフガニスタンの現在(吉野傍)
00/1/29」です。この投稿の日付を見ていただければわかりますが、9.11事件よりずっと以前のことです。私自身も吉野さんの指摘される
ような問題意識を共有し、タリバン政権に対する批判的な見解をもっていたました。
アメリカ帝国主義が対ソ戦略の必要上からこのようなタリバン政権を陰に陽に支持
し、アルカイダなどの組織もタリバン支配に加わったのでしょう。さらに、対イラン
戦略の必要上からサダム・フセインに支持を与えたのもアメリカ帝国主義であります。
巷間いわれるように、アルカイダなどがテロ組織であるとすれば、それはかつては
アメリカ帝国主義の庇護のもとにあったテロ組織ともいわれます。アメリカ帝国主義
の侵略戦争に反対することとこれらのテロ組織に何らかの支持を与えることとは決し
て同義ではありません。彼らが、あるいは多少は民族的な誇りや利益を代表するとこ
ろがあるかもしれないけれども、イスラム圏の人々の真の利益を代表しているとはと
ても思えません。そして何よりも、イラクやパレスチナの民衆が武器を持って闘うよ
りない状況におかれていることを理解しても、闘いの基本はより広汎な人民の団結で
あり、テロリズムによって社会変革は成し遂げられないと思うからです。
侵略される側と侵略する側との闘いにおいて、私は「弱者・被抑圧者・侵略される」
側の闘いであれば無条件全面的に支持すべきだなどという立場に立ちませんが、先に
述べた基本的な視点はなお明確にしておくべきであると私は考えます。アメリカ帝国
主義やイスラエルによる侵略が、このような戦争状態をつくりだしていることに疑問
の余地はないのですから、何よりもこれらの侵略をやめさせることが最優先されるべ
きです。この点では長壁さんやさつきさんの意見に私も同感です。
■ ファシズム、スターリン主義、全体主義に通底する??
N.K氏は次のように述べています。
そのような暴力と恐怖によって、「敵」を打倒し、自分たちの主張に屈服させると いう犯罪行為を容認する左翼・共産主義思想が、現実にそれに通底するする組織的犯 罪的行為を行ってきたことを想起すべきでしょう。たとえばソ連の強制収容所、中国 の文革、カンボジアでの大量虐殺・北朝鮮の国家テロなどです。
このサイトでは、「新日和見主義」事件が時々言及されていますが、そのような党 内民主主義の未確立を大衆的に支えている1つの要因は、上記の反民主主義体質でしょ う(「新日和見主義者」の側の一部にも、大学闘争では「正当防衛権」を過剰または 先制行使して敵対党派にリンチを行った人もいました、また新日和以後も「トロや勝 共に人権はない」などと嘯く人々も少なくありませんでした)。
まず後段の部分です。私は1968年ごろにはすでに学生運動の渦中にいました。これ
以後数年間が日本の学生運動の最盛期であった時期です。このような時期を学生とし
て過ごした私にとってはまったく信じられません。N.K氏には申し訳ないのですが、
私には「N.K氏のフィクション」としか思えません。これに深入りする余裕はありま
せんので先に進みます。
前段の部分において、N.K氏はたいへん慎重な言い回しをしていますが、これを読
んで私はブレジンスキーの『大いなる失敗』を思い出してしまいました。N.K氏は
「イデオロギー的特質だけ」をとらえて、ファシズムもスターリン主義も、さらには
共産主義も「通底する」=「基礎の深いところでつながっている」としていますが、
これもまたあまりにも乱暴な見解のように私は思います。ファシズムの社会的基礎と
して膨大な失業者群などをあげる見解もあるし、スターリン主義にしてもロシア革命
後のソ連社会が生み出したものであるし、これらに対する警鐘をならすのならばもう少し社会的基礎というか経済的諸関係に立
ち入って解明すべき問題がであるはずです。私はレッ
テル貼りは好きではありませんが、この見解は、ソ連崩壊後にしばしばみられる「新
たな装いをこらした古くさい反共宣伝」の域を出ていない感じがします。
このような批判の根底にあるのはおそらく「(ソ連型の)社会主義には自由と民主主
義がない。目的のためには手段を選ばない」ということなのでしょうが、侵略者であ
るアメリカ、イギリスそしてこれにおずおずと追従する小泉日本など対して「自由と
民主主義がない。目的のためには手段を選ばない」などという批判的見解を見かける
ことほとんどありません。しかし、「ファシズムに通底する」という論理の組み立て
をそのまま敷衍すれば、「目的のために手段を選ばない」という点では、ブッシュ戦
略やシャロンの路線はその最たるものであり「ありあまる自由と民主主義に充ち満ち
た国」の彼らの行動さえ「ファシズムに通底する」ものがあるといわねばなりませ
ん。
「イデオロギー的特質だけ」をとらえて「ファシズム、スターリン主義、全体主
義」をひとまとめにするならば、「ありあまる自由と民主主義に充ち満ちた国」さえ
もこの中に入れなければならないでしょう。私はN.K氏の批判にはあまり説得力がな
いのではないかと思います。
日をあらためてもう少し続けさせていただきます。
PS。
愚等虫さんへ。
「不破氏の辞任を要求する!!03/10/18」などの投稿を共感を持って読ませていた
だきました。「グラムシ」さんと読むのでしょうか。たまにしか投稿できない私には
言う資格はありませんが、ぜひ投稿を続けてください。期待しています。
天邪鬼さんへ。
ひさびさに(真面目な意味で)オールドボルシェビキという感じの投稿を拝見しまし
た。最近パソコンを始められたようですから、別のサイトでかつて同じハンドル名(
ペンネーム)の人がいましたが、別の方でしょうね。
天邪鬼さんに限りませんが、インターネットは便利な反面たいへん危険な面ももっ
ています。どのように悪用されるかわかりません。できるだけ個人情報は公開しない
ことが賢明だと思います。