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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「党史の不幸な現状」について

1999/10/5 れんだいじ、40代、会社経営

 先の党創立77周年記念講演会における不破発言について論評を追加します。何か言い足りないという思いをしていましたが、ようやくはっきりしてまいりました。
 不破氏は、堂々と次のように語っています。

「1958年の第7回党大会、1961年の第8回党大会、ちょうど今からほぼ40年前の時代でありますが、そこで、今の私たちの大きな路線、方針、そういうものが定められたからであります」、「日本共産党の今の路線というのは、いろんな呼び方をされていても、実は、38年前に第8回党大会で決めた綱領の路線そのものなんです」。

 何気なく聞き過ごし耳元をすり抜けてしまいますが、これらの発言はかなり重要なことをメッセージしています。今日の党路線の右傾化が誰の目にも明らかになってきていますが、この間情勢に応じて徐々に胡椒が振りかけられてきただけであり、今日の総路線の起点が第8回党大会にあったということをぬけぬけと語っているということです。右傾化は今に始まったのではないということを公言しているということになります。確かに1955年の「6全協」とそれに続く第7回党大会、第8回党大会は党史上の大変換がなされた時期であり、不破委員長はこのことを的確に認識して言っているわけで、私に言わせればかなり確信犯であるということになります。
 このことの重要な意味または私のこの言い回しの意味がわからない党員は、第8回党大会に至る経過について何のことやらわからないままに現執行部の自画自賛を追認し礼賛しているというに過ぎないということになります。恐らく、第8回党大会以降の党勢拡大運動の中で入党した現党員は概ねそういう傾向にあると思います。なぜそのように云えるのかというと、私の学生運動期を通じて「6全協」についての論議なぞ一度としてされたことがないという経験から推量しています。恐らく今日とて変わりはないのではないかと思うわけです。ついでに言わせてもらえば、青年党員の投稿の中身の純朴さはどうみても、支持者周辺の意識のままに既に党員になっていることを示しており、驚かされています。僕らの頃はもう少し――と思うのは、すでに私がおじんになりきっているということなのでしょうか。HP「現代古文書研究会」掲載資料は貴重な宝庫群です。誰でも自由に閲覧できるわけですから是非熟読してみたらいかがかと思います。
 私は、不破委員長の見解とちょうど反対の立場から「6全協」・第7回党大会・第8回党大会を注目しています。この過程で何が起こったのかというと、戦後直後を指導した徳田系執行部色が完全に払拭され、現執行部系譜である宮本グループの党内完全制圧が確立されたという風に理解しています。この経過につき不破委員長はソフトに次のように言いかえています。

「この方針を決めるときには、わが党の中でも随分反対論がありました。」、「ですから私たちの党では、第7回大会でも、この綱領に賛成の意見が多数だったのですが、いっぺんで決めないで、じっくり議論しようじゃないかということで、結論は次の大会に延ばし、3年がかりの討論で、第8回大会では、満場一致でこれを決めたのです」。

 実際のこの経過は対権力闘争そっちのけで熾烈を極め、私に言わせれば宮本グループによる党執行部の簒奪であり、今日においても微妙な陰を落としていると考えています。ここのところを正確に理解していないと今日の党の執拗な「統一と団結」論の由来が正しく読みとれないわけです。今日の党史では、戦後直後から55年の「6全協」に至るまでの徳田執行部の悪戦苦闘の歴史がほぼスッポリと欠落させられています。私の手元にあるのは『日本共産党の65年』ですが、情勢分析や社民に対する党の優位性について多くの記述がなされている割には、徳田執行部の活動状況に対する必要な記述が抑えられているように思っています。
 例えば、45年10月10日に徳田・志賀連名で発せられた「人民に訴う」(いわゆる「獄中声明」)の記述がありません。「人民に訴う」は戦後党史上の出発点であり、ここに記された方針に従って党の戦後運動が力強く展開していったことを思えば、しかるべく記述するのが筋と言えます。この点一つ見ても不自然極まる党史になっていると云わざるを得ません。私は、読み進めれば進むほど『日本共産党の65年』の党史は全体的に見て滅茶苦茶であり胸が悪くなってきます。党員の多くが疑問を抱いていないのは、丸め込まれているのか無知すぎるのかどちらかしか考えれません。以下、私がアウトライン的に書き換えさせていただきます。ご批判には共に検証させていただく用意ができております。
 戦後直後の党を指導したのは徳田-志賀執行部でした。翌46年野坂参三が延安より帰国し、徳田-志賀執行部との見解を摺り合わた結果、徳田-野坂執行部へとシフト替えがなされました。相対的に志賀氏の地位が低下していることになります。志賀氏は以後徳田系になってみたり反徳田系になってみたりの変節を遂げていくことになりますが、このあたりの事情も潜在的に関係していたものと思われます。ただし、彼の革命的情熱は正真正銘のものであり獄中闘士の経歴に背かないものであったことも知っておくべきかと思われます。
 ところで、今日野坂氏は根っからのスパイであったことが明らかにされています。この野坂氏が与えた党に対する影響は、「愛される共産党」という言い回しに象徴されるように当時の党の急進主義的な運動を穏和化させることにありました。「占領軍統治下における議会主義的な平和革命」路線も彼が提起し影響を与えたところのものです。ちなみにその政治理論は今日の不破理論と酷似しています。46年から50年まで徳田-野坂体制が続きました。この執行部は、徳田が急進主義的運動(左派)を野坂が穏和化運動(右派)を担うという二頭立て体制として機能していきました。結果的に左派・右派が協調して諸戦線で成果を挙げていくことになったようにも思えます。その総決算として49年の衆議院総選挙では35名の議員を当選させ、この年「10月革命」を呼号する勢いを示しました。社会党との連立組閣名簿まで用意されており、徳田・野坂両氏の入閣構想までまことしやかに噂され始めるほどに事が順調に推移すれば現実性があったわけです。
 とはいえ、時の吉田政府と「GHQ」の反動攻勢も凄まじくなり、すったもんだのあげく「10月革命」はとん挫させられてしまいました。この間徳田氏の信頼厚いヤングリーダーとして伊藤律が活躍しました。ただし、伊藤律氏の登用には羨望と嫉妬がつきまといました。付言すれば、党内でこの伊藤律系と宮本系が激しく対立していくことになりました。この頃党内の状況はといえば、宮本グループが執行部の方針に何から何まで楯突くという具合で煙たい存在になっていました。「10月革命」という政権に近づこうとすればするほど内部かく乱的に動く宮本グループという困った状況が生まれていました。徳田氏は宮本氏に対し「理論拘泥主義」という批判を浴びせましたが、要は足を引っ張るという指摘であったように思います。徳田書記長の指導ぶりに対する「派 閥的家父長制批判」とは、宮本グループから見た言い回しであり、実際にはトップとして苦悩する姿があったように思われます。

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