この投稿からいわゆる「党中央委員大泉・小畑両名被リンチ査問事件」(以下「査問事件」と単に記す)の考究に入るが、その前にこの事件が提示している争点について明らかにしておこうと思う。通常小畑の死因論争と戦後になっての法的免責処理の了解の仕方に比重が置かれているようであるが、私はこれは本筋ではないと思う。むしろ、この事件をそうした二点に集中させていく手法にこそまやかしがあるとさえ思っている。判りやすく言えば焦点がぼかされ続けているように思うということだ。正確にはそれらは事件全体の一つの因子であって、この事件にはもっと考察されねばならない重要事項がある。この事件に関係した主要争点は以下のように考えら
れる。
以下、アプローチするが、袴田及び大泉の予審調書を頻繁に採用することになるのでここで予審調書の調書的意味を確認しておくことにする。「『予審』とは、旧憲法下の制度で刑事被告人を公判に付すべきか免訴にすべきかを決定する為並びに証拠保全のために公判では取り調べにくいと考えられる事項の取り調べを目的として予め審理した裁判所の手続きのことをいい、現憲法施行後は廃止された。その予審廷において予審判事の訊問に答えた被告人の陳述を、書記が筆記したものを『予審調書』と云う」(竹村一「リンチ事件とスパイ問題」16P)ということである。
取りあえず事件の経過からおさえるために、「1.当時の党中央の党内対立と事件の相関関係」から見ていくことにする。従来の「査問事件」論究は、この事件に対して、当時の党中央の党内対立の結果として引き起こされたのではないのかという観点からのアプローチを意識的に避けようとしているように思われる。当時の警察とマスコミは、この事件を「党内労働者派とインテリ派との内部抗争」と発表した。袴田は、そういう見方を躍起になって否定し、大泉・小畑のスパイ性を強調し、第7回訊問調書と第10回訊問調書で概要「この査問問題を惹起した原因は、要するに党内にスパイが相当多数潜入した事実が判りましたので、これを党の清掃問題として捉え、この観点から具体的事実に基づいて彼らを査問し、彼らスパイを党外に放逐し以て党を文字通りプロレタリア階級の前衛党たらしめ真のボリシビキー党としての日本共産党を建設せんとする各々の確信及び熱意の発露に依る同志愛の自己犠牲的信念に基づく党の革命的ボリシビキー的事業として決行せられたものであり、その限りに於いて必要な査問であった」という方向に論をリードしようとしている。平野説を始め多くの論者はこの袴田説を受け入れて、「党内労働者派とインテリ派との内部抗争」的見方を俗説とみなして却下している。興味深いことは、予審判事長尾操の方が余程的確に捉えており、「第10回訊問調書」で袴田に対し、「一体小畑・大泉その他に対する当時の査問問題は、党中央部の権力奪取の為の個人的な勢力争いないしはインテリ対労働者出身の勢力争いに基因して起こったのではないか」と質問しているが、この指摘の方がよほど的を射ているように思われる。
私の見方はこうだ。インテリ対労働者出身の勢力争いという視点は当たらずとも遠からずであったのではないか。小畑は「全協」、大泉は一応「全農」という労農運動の出身であり、宮本は文芸評論家からいきなり党のアジプロ部員になったという経歴と大衆運動特に労働運動については全くの未経験者であり、逸見は産業労働調査所の出身で野呂委員長の秘書的な協力者であったということを考慮すれば、「党内労働者派とインテリ派との内部抗争」という見方には一定の根拠があるようにみえる。ただし、この説による場合袴田は労働者派ではあるがインテリ派に与していたとということと、野呂はインテリ派であるのに労働者派の方を信用していたという変なことになる。ちなみに、「全協」「全農」「共青」は当時の党の最有力大衆団体であった。
本音の私の見方はこうだ。この事件は、党内労働者派とインテリ派との抗争とかいう理論的な背景を持った対立ではなく、敢えて言えば、この事件の本質は、野呂委員長逮捕前後における党内指導権をめぐって小畑グループと宮本グループとが私闘的に対立していたのであり、この対立が顕在化していった結果としてこの流れで「査問事件」へとつながっていったのではないのかと思っている。いわば「査問事件」とは、消極的には大泉-小畑派の党内勢力を削ぐ事、積極的には宮本派による奪権闘争にあったとみるのが本筋ではないのか、と思っている。つまり私闘的な党内対立に起因していたという視点こそが必要と思っている。この視点はいずれ関係者の供述で補強しようと思う。警察のリードは、この真実を隠そうとして党内労働者派とインテリ派の対立という漠然とした抽象性の方向へ引っ張ったとみる。そしてみんな騙された。当然の事ながら 袴田は査問側の正義を主張すべく、第一回訊問調書で「控訴事実に依るとリンチが党中央部の内訌に拠ってああした事件が発生した様に為っておりますが、それは全く誤りで、私らは大泉、小畑両名がスパイであると認め、その嫌疑からしてお読み聞けの様な査問行為に出たのです」とか、「この査問問題がリンチ事件として新聞紙上に発表
された際にも、ブル新は党内のインテリ対労働者出身の勢力争いとか個々の首脳部を形成せる党員の勢力争いに起因して起こった如く歪曲されて宣伝せられたのでありますが、決してそれは問題の核心に触れたものではありませぬ」(袴田第10回予審調書)とひたすら否定している。私は当人が否定するほどに怪しいと思っている。事実、「(小畑は)常に自分が労働者出身であることを吹聴して、インテリ出身者を軽蔑し又他の方面から軽蔑させる様な言動がありました」(袴田第7回予審調書)とあり、「もっとも査問者と被査問者との間に個人的に多少の反目嫉視と云う様な感情があったとしても、それは単に個人対個人の問題で決してこの事件の主要な原因とし重きを為すことではありませぬ」(袴田第10回予審調書)とも述べている。本人の弁に反してこの供述から伺えることは、少なくとも小畑と宮本の党内対立が存在していたという例証にはなるであろう。この本筋がぼかされているというのが、私の指摘の第一点としたい。
ここで注意しておきたいことがある。一触即発的な党内空気が充満しつつあったとしても、小畑グループからの宮本グループに対する査問は起こり得なかったであろうということである。私に言わせれば、それは当事者の気質の違いのようなものである。小畑は、宮本を忌避していた。党内で公然とそれを語ってもいた。しかし、小畑は、宮本をスパイという名目で査問しようとは発想できない質の人物であった。小畑自身は非常に非権力的なナンバー2志向の性格の持ち主であったようで、「彼は自分の意見が容れられない場合には、直ちに『それじゃ俺は止める』と云う様な事を軽々しく言って、時々他の同志を威嚇し自分の意見を主張する様な反党的な態度がありました」(袴田第7回予審調書)。「(そういう『俺は止める』と云うことを軽々しく放言することは)規約にもある通り部署を自分で止めると云うことは闘争の放棄であり、党活動に無責任である事に帰着するのであります」(袴田第2回公判調書)と言われているほどに非ナンバー1志向であった。ところが、宮本は違った。
党内反目派小畑をスパイと疑い、これを査問にかけようと画策しそして実行した。そういうことが出来る質の人物であるのが宮本だという風に私は考えている。
戦後宮本が、赤色リンチ事件の真相を語った時、概要「党は、白色テロル調査委員会を設定し」、「調査委員会の構成は、逸見重雄が責任者であり、同志袴田里見、秋笹正之輔などがその委員であった。(その調査委員会の報告に基づいて、党中央委員会は)小畑・大泉両名を査問委員会に附する決定をした。すなわち、両名をのぞく、党中央委員並びに候補者を加えた党拡大中央委員会を開催し、そこで正式に決定したのである」云々と書き記しているが、平野謙でなくても、「なんというものものしい形式ばった書き方だろう」とあきれてしまう。実際は、党中央委員会とか党拡大中央委員会とか区別してみても、査問事件中警備員としての役目を担った宮本のイエスマン木島隆明が入るかどうかの違いに過ぎない。私が辟易させられる形式論的思考の典型がここに見られる。この当時、そんな大層な中央委員会や調査委員会や拡大中央委員会が厳然とあった
訳では無かろう。4人しかいない中央委員の2名を欠いた徒党的グループ内のしかも査問現場に居合わせた者だけの打ち合わせに対してこうまで形式張った捉え方で人を煙に巻こうとする宮本氏の思考回路に首を傾げざるを得ない(袴田にもこういう物言いがちょくちょく見受けられる)。しかも、この記述には大嘘が書かれている。あたかも逸見重雄が責任者であったという文句を挿入することにより宮本氏の影を薄く表現しているが、実際はどうであったのか。私は次稿に述べるような再現ドラマの通りであったように思っている。
各調書を読んでみて興味深いことは、双方が相手方をスパイ呼ばわりしていることである。大泉は、次のように云っている。「然るに宮本一派は私の勢力を党中央部より駆逐する為、大泉一派はスパイであると云う口実を設け、私や小畑を始め私一派に対し残酷なリンチを行って殺害せんとしたのであります」。つまり、大泉は正真正銘のスパイであった訳だから、この言いまわしは大泉自身は同じ穴のむじなの勢力争いであったかに捉えているようにも見える。ここで付言しておけば、大泉は査問中もその後も自らスパイであることを明らかにしているが、単なるスパイではなく「特命を帯びていた」と自認している。「(予審判事が『どんな特命を帯びていたか
』と問うたのに対して、私はここでその内容を申し上げる事が出来ませんが、『単なる党員を検挙する様な任務ではなく、もっと大きな任務を負わされておりました』」(大泉第17回予審調書)と述べていることが注目される。私の推測であるが、丁度風間時代の「スパイM」的な任務が期待されていたのでは無かろうか。話を戻して、秋笹は秋笹で、逮捕後の予審調書で次のように云っている。概要「いわゆるリンチ事件なるものは、袴田が警察のスパイとして同じスパイである小畑・大泉を殺害して党に致命的な打撃を与え様として目論んだ一つの芝居であって、それに私(秋笹)・逸見・宮本その他数名の者が踊らせられたに過ぎないのであって、党及び彼ら
には全然責任の無いものであると云う趣旨に帰着すると考えます」。つまり、事件後における秋笹は、宮本を除いてはいるが袴田と木島をスパイとして誹謗していたということになる。この時の秋笹の思いは、この時点で宮本は早々に検挙されているのだからスパイである筈が無いという判断に拠ったと思われる。
では、具体的にどういう党内対立があったのか見ておくことにする。この間党中央は全く意志疎通を欠いていた風がうかがえる。いち早く表れるのは大泉の権限によって宮本.袴田の中央委員昇格阻止の動きである。昭和8年1月頃野呂が提議してきた宮本・秋笹の中央委員昇格提案を拒絶したことを明らかにしている(大泉第18回尋問調書)。次に、袴田の場合にも同様の行動を取ったことを明らかにしている。概要「袴田が党に入ってきたのは昭和8年2月頃で、彼は出獄後間もなくロシア・クートベ関係で山本正美の先輩になるところからその推薦に依って野呂の所にやって来て、野呂の推薦で中央委員になろうとしました。野呂が袴田を私の所へ連れてきて中央委員に推薦したいから是非賛成してくれと申しました。私は、政治的に山本正美の勢力が党中央部に伸びることを警戒し、党歴が浅いこととか次に述べる様な理由を付けて反対した。かって袴田が過去に全協の者に対し『俺はやがて党中央委員になるのだ。そしたら全協を指導するのだ』と云った為全協の連中に憤慨され、私の所へ袴田を中央部で中央委員にしてはならないと申し込んで来ているという事情があり、私はむしろ党東京市委員にしたらよいと云ってやりました。野呂は最後に私の意見に賛成し、袴田は変な顔をしてい
ましたがこの時以来私に対して含むところがありました」(大泉「第15回訊問調書」)。大泉は更に追い打ちをかけている。概要「こうして東京市委員会に回されることになった袴田は、本来なら丁度責任者の席が空いていたのでその席に納まるところ、私が三船を責任者に推薦し権限で承認した。袴田は憤慨し、特別に面会を求め
、『党は一国の共産党である。権威有るべき人事が大泉一人の判断で左右されると云うことは遺憾である』と抗議し、いやそうではないと理屈を付けて説明するも興奮していました。こんなことが原因で袴田の私に対する反感がますます濃厚になり云々」(大泉「第15回訊問調書」)。