少し間があきましたが、再開します。
林直道氏は、「個人的所有の再建の対象は生産手段である」という説を反駁しつつ、マルクスが「個人的所有」について言及している他の文献をも引用して、より積極的に自説を展開しています。次にそれを見てみましょう。
まず、林氏は「フランス労働党綱領前文」(1880年)での叙述をとりあげています。
「生産者は生産手段を占有する場合にはじめて自由でありうること、
生産手段が生産者に所属することのできる形態は、次の2つしかないこと。
(1)個人的形態
――この形態は普遍的な現象であったことは一度もなく、また工業の進歩によってますます排除されつつある
(2)集団的形態
――この形態の物質的および知的な諸要素は、資本主義社会そのものの発展によってつくりだされてゆく、
……
以上のことを考慮して、フランスの社会主義的労働者は、経済の部面ではすべての生産手段を集団に返還させること、を目標として努力する……ことを決定した」(『マルクス・エンゲルス全集』第19巻、234~235頁)。
以上の引用にもとづいて、林氏は次のように述べています。
「マルクスは生産手段の個人的所有と集団的所有との2つの形態のうちの『集団的所有』(社会的所有)の実現が社会主義の目標なのであって、この2つの所有形態の両方をごたまぜにした『生産者による生産手段の所有』一般を実現することは社会主義の目標となりえないことを明確にしたわけである」(71頁)。
しかし、この林氏の文章では、「占有」と「所有」とが意識的にごっちゃにされているような気がします。マルクスは「占有」は個人的ではなく集団的と述べているのであって、「所有」についてはここでは述べていません。「占有」も「所有」も、自己に属するものとしての対象に対する振る舞いですが、「所有」は「占有」の法的形態として、「占有」のもつ直接性から一定分離することができます。たとえば、貸借の場合などがそうです。その物象の所有権は本来の所有者に引き続き属していますが、その物象を占有しているのは、それを借りた人です。このように、「占有」と「所有」とは分離可能であり、先の引用文でマルクスがあえて「所有」と書かず「占有」と言っているのは、理由があると見るべきでしょう。
それはさておき、林氏はさらに『フランスにおける内乱』からの有名な一節を引用して、自分の説の補強材料としています。その部分を含む前後の文章は資料2を参照にしていただくとして、ここでは、その核心部分だけを引用します。
「いかにも諸君、コミューンは、多数の人間の労働を少数の人間の富と化する、あの階級的所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、現在おもに労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本を、自由な協同労働(die freie und assozierte Arbeit)の純然たる道具に変えることによって、個人的所有(das individuelle Eigentum)を真実たらしめようと望んだ」(『マルクス・エンゲルス全集』第17巻、319頁)。
林氏はこの記述が『資本論』の例の記述とまったく同じことが書かれているとして、次のように述べています。
「そこでは資本主義の廃絶の目的が個人的所有の再建・確立にあること、それを達成する手段が自由な協同労働と土地・生産手段の共同所有の実現であることが明示されていたのである」(81~82頁)。
以上のマルクスの記述に加えて、さらに林氏は、パリ・コミューンの思想的源流であるフランスの労働者生産協同組合の「アトリエ派」がすでに、生産用具は「共同占有」、消費手段は「個人的所有」という厳格な用法を確立していたとして、おそらくマルクスはこの学派に敬意を表するつもりで、同じ言葉を用いたのだろうと指摘しています。
以上見たように、「個人的所有の再建」の対象はやはり「消費手段」であるという説も、それなりの議論を展開しており、この「個人的所有の再建」をめぐる論争は、なお最終的な決着を見ていないと思われます。私の知るかぎりでは、この林氏の論稿に対する反論は、「生産手段説」の側からはまだ出されていないようです(情報をご存知の方がいれば教えてください)。
次の投稿では、この「消費手段説」について、林説をふまえて、もう少し考察してみたいと思います。その際、ついでに、以前の投稿で浩二さんより出された疑問についても若干言及したいと思います。