不破哲三氏が『資本論』の一語を読みちがえている疑いがあるという「ささやかな」指摘をしてみたい。
不破氏は、2002年8月に中国社会科学院で「レーニンと市場経済」と題して「学術講演」をおこなった。
旧ソ連では重量で生産物の価値を測っていたというエピソードを紹介してから、彼は次のようにいっている。
「…これは、労働の生産性や経済活動の成績をはかる上で、市場経済にかわる代用物を見つけるのが、いかにむずかしいかをあらわした一例です。
マルクスは、はっきりいってそこまでは考えていませんでした。『資本論』には、マルクスの言葉で「共産主義社会でも価値規定は残る」という言葉があります。ここから、市場経済の存続まで、マルクスが考えていたとおしはかるのは無理です。しかし、「価値規定」が残るとしたら、市場経済をぬきにしてどういう残り方ができるだろうかを考えなければなりません。
価値規定が残るといえるためには、生産者の背後で働いていた「社会的過程」、すなわち、市場経済にかわって、労働の「価値」をはかるなんらかの仕組みがどうしても必要になってきます。そこには、まだ理論的に解決されていない大きな研究問題があると思います。…」(このあとに、我々にはおなじみの「青写真」論が続く。)
見たとおり、話の流れは、マルクスが『資本論』の中に書いてあるという「共産主義社会でも価値規定は残る」という言葉を根拠にしている。不破氏は例によってもったいぶって思わせぶりな表現をしているが、あけすけに言い直せば以下のようになるほかはない。
1.『資本論』には共産社会にも価値法則(価値規定)が残ると書いてある。
2.市場経済なき価値法則は考えられない。
3.したがって共産社会には市場経済が残らざるをえない。
(不破氏は「2.3.についてはマルクスがそう言っているわけではないし、なってみなければわからないが、現に中国はその方向に動いているではないか」と中国を証拠にして考えたようである。日本の未来についてもこの考え方を応用している。「さざ波通信35 綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(下)44.国家の死滅(2)─国際関係と党内体制」が明瞭にしているとおり。)
それでは『資本論』には本当にそう書いてあるのだろうか。不破氏の話には引用箇所を示さないままの知ったかぶりが多いが、この場合もそうで、とんだ「学術講演」になっている。しかし本人が言ってくれない以上は仕方がない。不破氏ならこうしただろうとマルエン全集の事項索引をひいてみると、「社会の共産主義的改造と価値概念」という項目にまとめられた中に、該当しそうな文章があった。(『資本論』の原ページで859ページ、大月版全集第25巻1090ページ。)
「第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである。」
いかにも不破氏の期待に合ったような文章である─ただし、「社会的生産が保持されるかぎり」というひと言がなかったならば。奇妙なひと言ではないか。社会的生産でないような生産はないはずだから。そこで、原語であるドイツ語を調べてみると、「社会的生産」は gesellschaftliche Produktion に当てられた訳語だったことがわかる。厳密には 「利益社会的生産」と訳さなければならない言葉である。すなわち、この(訳された日本語でいって)「社会的」の箇所には、共産社会の場合に使われるはずの gemeinschaftliche (「共同社会的」)という用語は使われていないのだ。
不破氏は、マルクスがわざわざ気を配って「利益社会的生産が保持されるかぎり」とことわったのを読み飛ばしたのか、あるいは勝手に「社会的」という訳語を「社会主義的」と解釈して読んだのかのどちらかだろう。しかし、「社会主義的」だとしたら、対応する原語はまったく違っていたはずなので(sozialistische)そこまで深読みするのは翻訳者に対して失礼というものだ。
では「資本主義的生産様式が解消した後にも、利益社会的生産が保持されるかぎり」とは、どのような状態をいうのだろうか?それは社会主義革命の直後の一定期間すなわち過渡期の状況を指している。資本主義社会に存在するのは資本主義的生産様式だけではない。資本主義経営にまで発展していない多くの経営─自営農民、零細企業、家内工業等々の商品生産者─もいっしょに存在している。社会主義革命は資本主義的所有を廃止して社会的所有(多くは国有)に変えるが、広範囲に残っている商品生産をただちに廃止することはできない。
この段階で社会の生産物全体は、直接に社会の所有物になった(本来の商品ではなくなった)生産物と、私的生産者が他人の使用のために生産した(商品である)生産物の二つに大きく分かたれる。商品生産が存在する以上は価値法則が資本主義時代ほどではないにしてもまだ作用している。したがってそれをできるだけ客観的に把握しながら(簿記の重要性)、社会全体の生産を生産力の増大に合わせて次第に計画的に編成してゆく(労働時間の規制、社会的労働の配分)ことが重要となる。
マルクスが言ったのはこの程度であるのに、不破氏は高度に発達した共産主義社会にも価値法則が残るとマルクスが言ったかのように思いこんでいる。見てのとおり、一語の読みちがいまたは読み落としというか、ただ日本語とドイツ語の異同を読み違えただけのことである。しかし、私のような「市井の人」の読みちがえならいざ知らず、不破氏は共産党党首である。その人が国際的な場(中国社会科学院)を使い、自分の戦略的構想の権威付けをマルクス『資本論』に求めて話しているのだ。些細なまちがいとして放っておくわけにもいかないのは、わかっていただけると思う。
ただし、不破氏が「レーニンと市場経済」によって問題提起した行動には、「さざ波」にもまだ十分に消化しきれていなさそうな意義があると思う。「さざ波」が不破氏の未来社会論に市場経済永続の論理を嗅ぎ取り、これにかしゃくない批判を加えているのは正しい。しかし不破氏がレーニンの過渡期経済論(「食糧税について」等)に現代的意義を認め、これに光を与えていること自体は評価すべきである。たとえ不破氏自身はレーニンの論理を卑俗化しすぎて、ところどころレーニンを正反対に解釈しているにしても。
中国やベトナム経済の研究にレーニンの過渡期経済論は不可欠な理論的立脚点を与えている。にもかかわらず、実際の研究においてはそれはほとんど意識されていない。結果として研究の理論的水準は総じて「レーニン以前」にとどまっていると思う。