『資本論』第1巻、第24章の最終節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」の一文をめぐって日本の『資本論』研究者の中で行なわれた大論争は、日本の数ある『資本論』関係の論争の中でも、最も熱心で重要なものの一つであったと思われます。私が実際に読んだのは、その論争の嚆矢となる平田清明氏の『市民社会と社会主義』(岩波書店)をはじめとして、ごく一部のものだけですが、私が理解したなりのこの論争の焦点となった問題について簡単に解説し、「科学的社会主義」欄における討論に寄与したいと思います。
あいにく、平田氏の本は、私の押入れのどこかにしまいこんでいるようで、手元にないので、正確な主張の再現はできません。そこで大雑把に、こういったことが、この論争で争点となったということを紹介しておきたいと思います。なお、平田氏独特の「個体的所有」という訳語は、さすがに理解しがたい訳語だと思いますので、通常用いられている「個人的所有」という訳語を用いることとします。
ご存知のように、『資本論』第1巻第24章の第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」(全文は、資料(1)を参考にしてください)は、有名な「否定の否定」を論じています。
まず、封建社会および、資本主義への過渡期に広く存在する所有の形態である、個人的な私的所有が論じられます。そこにおいては、生産手段は労働者の私的所有であり、これが小経営の基礎であり、マルクスは「労働者自身の自由な個性の発展の一つの条件」であるとも言っています。たとえば、自分の土地を耕す小農民や、自分の道具を用いて生産する手工業者などがこれにあたります。この生産様式は、生産手段や土地の分散を条件としており、社会的生産の自由な発展を阻害します。
この生産様式が一定の発展段階に達すると、その制限を突破しようとする力と情熱とが社会の中で生じ、多数の小所有者が滅ぼされ、労働者と生産手段との結合が破壊され、少数の私的所有者の手に生産手段が集中する暴力的過程(本源的蓄積)が発展し、資本主義的な私的所有が成立します。いったんこの資本主義的私的所有が広く成立すると、後はほぼ自動的に、資本主義的生産様式のもと、この所有形態が自由な発展を遂げ、小規模生産や小所有をしだいに駆逐し、ますます少数者の手に富を蓄積し、生産手段をますます社会的で共同的な生産手段へと転化していきます。
この所有形態がいっそう発展すると、今度は、競争を通じて、多くの弱小な資本家が他の強大な資本家によって収奪され、諸資本の集中が進行します。こうして、生産および生産手段の社会的・国際的性格が発展し、他方で、所有がますます少数の個人に集中されるとともに、資本主義的生産の中で結合され訓練され組織される労働者の数とその反抗も増大します。こうしてついには、この資本主義的生産様式も限界に達し、収奪者が収奪されることになります。その次の過程については、マルクスから直接引用するのが妥当でしょう。
「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私的所有もまた、自己労働にもとづく個人的な私的所有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然的過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建しないが、資本主義時代の成果、すなわち、協業と、土地および労働そのものによって生産される生産手段の共同占有(Gemeinbesitz)とにもとづく個人的所有(individuelle Eigentum)を再建する。
諸個人の自己労働にもとづく分散的な私的所有の、資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、社会的な生産経営にもとづいている資本主義的私的所有の社会的所有(gesellschaftliche Eigentum)への転化に比べれば、はるかに長くて困難な過程である。前者においては、少数の簒奪者による多数の民衆の収奪が行なわれたのに対し、後者においては、多数の民衆による少数の簒奪者の収奪が行なわれるのである」(強調は引用者)。
この一節は、マルクスの数多くの文章の中で最も「客観主義」的で、黙示録的である部分で、あたかも自然現象のように、このような「否定の否定」が実現するかのような叙述になっています。その点はその点でまた別の論争議題になるでしょうけども、ここではとりあえず、巨視的な観点から述べられた文章として、その過度に客観主義的記述スタイルについては目をつぶることにします。問題になったのは、この引用部分で出てくる「この否定は……個人的所有を再建する」という一文の意味です。「労働者による生産手段の個人的な私的所有」→「労働者と生産手段との分離にもとづく資本主義的私的所有」ときて、「否定の否定」として提示されているのは、「生産手段の共同占有にもとづく個人的所有の再建」です。一度、資本主義的私的所有によって否定された「労働者の個人的所有」が、この高次の段階で「再建」されるからこそ、「否定の否定」になるわけです。
しかし、この文章の直後で、「社会的所有」ともマルクスは言っています。普通は、資本主義を否定した後の社会においては「生産手段の社会的所有」が実現されるというのが一般の理解であり、昔のマルクス主義の教科書にはみな「社会主義とは生産手段の社会的所有にもとづく社会だ」とあります。ですから、この欄での種々の投稿も、否定的であれ肯定的であれ、社会主義とは生産手段の「社会化」(正確には、社会的所有化)であるという定義にもとづいて、いろいろと議論がなされてきたわけです。しかし、マルクスは、たしかに「資本主義的所有の社会的所有への転化」について語りながらも、一番肝心要の「否定の否定」の文章においては、「社会的所有」ではなく、「個人的所有の再建」と言っているのです。これはいったいどういう意味なのか?
最初に、ここの文章が矛盾していると指摘したのは、かのオイゲン・デューリング氏であり、生産手段が個人的所有でありかつ社会的所有であるというのはおかしいと批判しました。この批判に対して、マルクスの盟友エンゲルスは、『反デューリング論』の中でこう答えました。ここでマルクスが言っている「個人的所有の再建」とは、生産手段に対する個人的所有のことではなく、消費手段に対する個人的所有のことである、と。つまり、生産手段は社会的所有、消費手段は個人的所有で、見事、問題解決というわけです。これは、俗に「振り分け」説と呼ばれている解釈です。つまり、各所有形態を生産手段と消費手段とに「振り分け」たわけです。この解釈はその後普及し、基本的に主流のマルクス主義理論はすべてこの解釈を採用するようになりました。
さて、こうした主流の解釈に噛みついたのが、日本の平田清明氏です。彼は、「個人的」と「私的」の違いを強調して、排他的な「私的所有」はたしかに社会的所有の「対立物」だが、「個人的所有」はそうではなく、社会的所有と両立する、ここで言っている「個人的所有の再建」とは、エンゲルスの言うような「消費手段」のことではなく、「生産手段」のことを指しているのだ、と。
この実に斬新な解釈は、その後大いに日本で普及し、今では日本の『資本論』研究者の中ではむしろ、こちらの方が主流になってしまいました。今なお、エンゲルス説に固執しているのは、不破哲三氏や林直道氏などの古い人たちぐらいなものです。
さて、次に、どうしてここの「個人的所有の再建」の対象が生産手段と言えるのか、またそれは社会的所有とどう両立するのか、そして、それがどのような今日的意味を持っているのか(とりわけ、「社会主義の実験」の失敗と照らして)、について、平田清明氏自身の説明にあまり拘泥することなく、この間の論争の中で言われてきた論点を大雑把にまとめる形で次の投稿で紹介しておきたいと思います。
なお、平田氏は、自説を展開するにあたって、「個人的」と「私的」とは日本では曖昧に使われているが、欧米では厳格に区別されている、云々という話を持ち出しきて、日本における「市民社会の不在(あるいは未成熟)」という例の俗説に強引に結びつけようとしていますが、これは間違いでしょう。というのは、まず日本語でも「個人的」と「私的」はしばしば区別されて用いられているし、また、もしそんなに欧米で厳密に区別されているのなら、どうして、デューリング氏の批判が登場し、エンゲルスのような解釈が登場し、そしてなぜそれが欧米でも主流の意見になったのか理解できないからです。「個人的」と「私的」とは、区別されるが、重なり合う部分も大きい類似語であり、こうした曖昧さは、別に日本でも欧米でも変わりません。むしろ、「個人的所有の再建」をめぐってこんなに論争が盛りあがっているのは日本だけであり、「個人的」と「私的」とを厳密に区別しようとする志向はむしろ、日本のアカデミズムの方が強いようです。