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「科学的社会主義」討論欄

資料(1)――『資本論』第1巻第24章「いわゆる本源的蓄積」第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」

1999/11/19 吉野傍、30代、アルバイター

 資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的生成は、どういうことに帰着するだろうか? それが、奴隷や農奴から賃金労働者への直接の転化でないかぎり、つまり単なる形態変換ではないかぎり、それが意味するのは、ただ直接的生産者の収奪、すなわち自己労働にもとづく私的所有(Privateigentum)の解消でしかない。
 社会的・集団的所有(gesellschaftlichen, kollectiven Eigentum)の対立物としての私的所有は、ただ労働手段と労働の外的諸条件とが私人のものである場合にのみ存在する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかによって、私的所有もまた性格の違うものになる。一見したところ私的所有が示している無限の色合いは、ただこの両極端の間にあるさまざまな中間状態を反映しているだけである。
 労働者が自分の生産手段を私的所有していることは、小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のために必要な一つの条件である。たしかに、この生産様式は、奴隷制や農奴制やその他の隷属的諸関係の内部でも存在する。しかし、それが繁栄し、そのすべての力を発揮し、しかるべき典型的な形態を獲得するのは、ただ労働者が自分の取り扱う労働条件の自由な私的所有者である場合、すなわち、農民が自分の耕す畑の、手工業者がその老練な腕で使いこなす用具の、自由な私的所有者である場合だけである。
 この生産様式は、土地やその他の生産手段の分散を前提とする。それは、生産手段の集積を排除するとともに、同じ生産過程の内部での協業や分業、自然に対する社会的な社会的な支配や規制、社会的生産諸力の自由な発展をも排除する。それは、生産および社会の狭い自然発生的な限界としか調和しない。この生産様式を永久化しようとするのは、ぺクールが正しく言っているように、「万人に凡庸を命令する」ことであろう。この生産様式は、ある程度の発展水準に達すれば、自分自身を破壊する物質的手段を生み出す。この瞬間から、社会の胎内では、この生産様式を桎梏と感じる力と熱情とが動き出す。この生産様式は滅ぼされなければならないし、滅ぼされる。その根絶、すなわち、個人的で分散的な生産手段の社会的に集積された生産手段への転化、したがって多数者による小規模所有の、少数者による大規模所有への転化、したがってまた、膨大な人民大衆からの土地や生活手段や労働用具の収奪、この恐ろしく重苦しい民衆収奪こそは、資本の前史をなしているのである。この収奪には多くの暴力的方法が含まれており、われわれはそれらのうちのただ画期的なものだけを資本の本源的蓄積の方法として検討した。直接的生産者の収奪は、何ものをも容赦しない野蛮さで、最も恥知らずで汚らしく卑しく悪意に満ちた欲情の衝動によって行なわれる。個々の(einzelnen)独立した労働個人(Arbeitsindividuum)とその労働諸条件との結合と自己労働にもとづく私的所有は、他人の――だが形式的には自由な――労働の搾取にもとづく資本主義的私的所有によって駆逐されるのである。
 この転化過程が旧社会をその深さと広がりの点で十分に分解してしまい、労働者がプロレタリアに転化され、彼らの労働諸条件が資本に転化され、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになれば、ますます進行する、労働の社会化(Vergesellschaftung der Arbeit)、ますます進行する、土地やその他の生産手段の、社会的に利用される生産手段すなわち共同的(gemeinschaftlich)生産手段への転化、したがってまた、ますます進行する、私的所有者の収奪は、一つの新しい形態をとるようになる。このたび収奪されるのは、もはや自分で営業する労働者ではなく、多くの労働者を搾取する資本家である。
 この収奪は、資本主義生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中によって行なわれる。一人の資本家が多くの資本家を打ち倒す。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と軌を一にして、たえず成長する労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合した社会的労働の生産手段として用いることによるすべての生産手段の節約、世界市場の網の中への世界の各国民の組み入れが発展し、したがってまた資本主義体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさいの利益を簒奪し独占する大資本家の数が絶えず減っていくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大していくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのもののメカニズムによって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大していく。この生産様式とともに、そのもとで開花した資本独占は、この生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、その資本主義的外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そのとき、この外皮は爆破される。資本主義的私的所有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
 資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私的所有もまた、自己労働にもとづく個人的な私的所有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然的過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建しないが、資本主義時代の成果、すなわち、協業と、土地および労働そのものによって生産される生産手段の共同占有(Gemeinbesitz)とにもとづく個人的所有(individuelle Eigentum)を再建する。
 諸個人の自己労働にもとづく分散的な私的所有の、資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、社会的な生産経営にもとづいている資本主義的私的所有の社会的所有(gesellschaftliche Eigentum)への転化に比べれば、はるかに長くて困難な過程である。前者においては、少数の簒奪者による多数の民衆の収奪が行なわれたのに対し、後者においては、多数の民衆による少数の簒奪者の収奪が行なわれるのである。

 *訳文は、大月書店版の『資本論』の訳文を参考にしつつ、一般に普及している訳語(「共同占有」とか「個人的所有を再建する」など)を適時取り入れた。その他、ドイツ語原文を参照にしつつ、一部訳文を改善している。

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