0 ある党員像を想像しよう
ある党員像を想像してみよう。熱心な活動家もあれば、そうでもない人もあるが、大方の党員はどんなところだろう。
とりあえず、支部会議が定例化していて、毎回出席していれば良い方だろう。
その会議で、例えば*中総が議題になったりする。「読了しよう」などと提起されるが、なかなか読む気にならなかったりする。気分的には、「どうせ言っていることは変わってないだろ」と思ってしまう。支部での具体化の議論になると、これもまた、慣習的に活動内容が決まっている気がして、「どうせ同じようなことするんだから、とっとと決めようね」とか思う。そうこうして、発言を求められたりすると、場の雰囲気もあって、つい積極的な発言をしたりもする。でも、そんな発言をすると活動も積極的にやらないといけなくなるので、実は黙っていたいな、と思う。
そんな党員は良心的かもしれない。そのうちに党員としての心根が腐ってくると、開き直って、積極的な発言や行動をしている党員を見下すようになる。いっそ、離党すればいいのかもしれないと自分で思いつつも、職場の関係や、説得工作を受けることを考えると、それに必要なエネルギーを考えてしまい、いっそこのままでいいやと思っている。
あるいは、積極的発言と活動が、およそ仕事の範囲になってくると、実はもはや党員としての心根が腐りかけているのだけれど、食っていくためには仕方ない。自分の心根とは裏腹に積極的な発言が口から自然と流れたりする。たまにそんな自分を冷めた頭で眺めたりしているが、そんなギャップにいちいち悩まないほど、もはや党員としての処世術を究めてしまった。
あるいは、一度は党にたいして、かなりの真剣さでのめり込んだりもする。でも、どこかで必ず党内での壁にぶつかり、自分の力では、どうにもこうにもならない党をみているうちに、そんなエネルギーを割く対象でもないと分かってきてしまう。たいていは、自分の生活をうまく回すことが中心になると、党のことなど、もういいやとか思う。でもとりあえず、頑張っている立派な党員は確かにいるし、とりあえず党の主張には共感するし、党費を払ってたまに活動しているし、それでいいやと思う。
たぶん、社会への何らかの問題意識が敏感にあるような、そんな連中が党に入るのだろうが、党歴を重ねていくうちに、そのある部分が鈍感になってしまう。その鈍感さは後輩の人たちにも受け継がれていき、党内に鈍感さが蔓延するようになる。
鈍感さとは、党員としての、無気力・無関心・脱力状態のいずれかの状態のことだ。それを裏付けるものは、例えば、躍進期とされた90年代後半でも、立ち上がる党員はごく一部にとどまったこと、選挙での躍進とは裏腹に、大衆運動や党員数や機関紙読者数は停滞・衰退傾向にあったことなどである。諸決定の読了率は、3割程度?じゃなかったかな。大多数の末端党員が、どんな状態であるのかを想像すると、表面的にはともかく、実質的には、党員として無気力・無関心・脱力状態なのではないかと思っている。
なぜ、こうなったのだろう。組織原理の問題、すなわち今の民主集中制の問題は、その理由を形成する一つの領域だと思う。
諸決定の読了すら大多数の末端党員がしていないということは、もはや、不破さんや志位さんの言葉が、末端党員に届いていないということだ。あるいは、そういう言葉を、末端党員が「消極的」に拒否しているということだろう。最高指導部が大号令をかけても、末端党員は、その言葉を聞きもせず、動きもしない。それがリアルな現状の一面だろうと思う。
つまり、この党では、人を積極的に動かすことのできる「言葉」(これは方針なり分析なりのことだ)や、人を動かすために機能していた組織の原理が、もはや通用力を失ってきているのではないだろうか。組織とは、人を動かすがゆえに組織たりえるのだろうから、構成員の大多数が、方針のもとに結束せず動かない(かといって反発するのでもない…無関心・脱力状態なのだね)のであれば、それは党という組織たりえない。人を動かす、組織するということの、根幹の原理が有効性を失っているのではないかと思う。
というわけで、この組織の原理を、少し考えてみたい。(とはいえ、まったく民主集中制についての文献を読んでいないので、ご教授いただければと思います。長くて申し訳ないです。)
1 現在の民主集中制のあり方
・党の意思決定のプロセス
党の最高の意思決定機関は党大会である。党大会の運営をみれば、この組織の意思決定の方法、また、構成員をその決定のもとに組織していく方法を見出せる。
あらかじめ、その意思決定に至るプロセスでの特徴を挙げておこう。
・ 大会代議員の多段階選出制
・ 方針案の学習と事前の実践
・ 支部ごとの議論と機関紙上での意見表明
これらの特徴は、民主集中制のいわば民主にも集中にも属すものだが、意思決定と構成員を組織することとの関連において、どのような機能を果たしているのかを考えたい。
<多段階選出制>
大会代議員は、支部、地区、県という段階を経て選出される。こうした多段階選出制では、集約に集約を重ねる制度になり得るため、少数意見は代議員の選出には反映されにくい。構成員の比較多数意見が圧倒的多数を獲得できる制度である。それは指導部の選出においても同様である。党の最高幹部レベル(幹部会)は、大会で選出された中央委員によって選出される。末端党員には、中央レベルに対しては何の選挙権もない。
つまり、多段階選出制は、意見の表明・反映と指導部の選出の両面において、比較多数が圧倒的多数を確保する制度である。これはいわば小選挙区制と同じで、多様な意見の反映を重視するものではなく、より一つの意思に集約させていくことを重視する制度である。
<方針案の学習と事前の実践>
党においては、方針案は党中央が提案し、それは構成員が学習する対象とされ、また大会での決定をまたずに実践を求められる。この点は、この党の組織的性格をよく物語っている。決定をまたずに方針案の実践が求められることは、一般的な民主的組織にはないだろう。方針案が、解説されるというより、構成員が学習する対象、すなわち身につけるべき対象となっていることも、あまり一般的にはないだろう。形式的に言えば、決定されていない案である以上は、構成員を従わせる根拠は無い。また、構成員は批判的・科学的にその案に接するべきものであろう。だが、党においては、より正確に言えば最高指導部以外の構成員においては、そういうものではない。
事前の実践の意義は、「実践による検証」にあると言えないことも無いが、短期間で検証されるはずがなく、あまり科学的な意味はない。むしろそれは、方針案が構成員の学習の対象となることと同じ意味をもっている。大会の方針案とは、一般的に言われる「案」なのではない。つまり、提示された案に対する批判的・科学的態度を、党は提示した末端党員に求めているのではない。批判的・科学的態度ではなく、それを実践し学習し、身につけていく態度をこそ実質的に求めているのである。つまりは、賛否を問うものではなく、賛同することが実質的に前提されている。
しかし、これをもって単に非民主的と非難することは、社会変革を目的とするこの党の性格からして、妥当しないだろうということである。
<支部ごとの議論と紙上での意見表明>
大会議論の場は、末端党員には、基本的に二つある。機関紙での紙上討論と支部会議である。異論をふくむ多様な意見にかろうじて接する機会をもてるのは、紙上討論である。とはいえ、各人一回の掲載のため、議論を形成して意見を集約する性質のものではない。支部会議では、どんな議論がなされるかは支部によって大きく異なるだろう。つまり、現在の全党の構成員における諸意見の多少・構成を知り、それと関連をもちながら、自らの意見を形成・表明し、支部としての意見を集約していくものではない。
すでに支部においては、方針案は実践の課題であるから、前述したように、全体として、批判的・科学的態度をもって接することよりも、文字通り実践の課題として受け止めるべく指導される。それとは趣が異なるのが紙上での意見表明であろう。党内の諸意見の構成を、末端党員が垣間見ることができる唯一の機会である。
大会での意思決定に至るプロセスの3つの特徴をみてきたが、そこで明らかなのは次のことであろう。
・多段階選出制は、比較多数が圧倒的多数として表現され、全党からの党中央への信任を得やすくし、党中央への異論の台頭を抑制する機能を果たす。党内の意見構成・分布を知り得ない末端党員には、大会で表明される全会一致的採択は、文字通り全党の意見の一致を示すものと受け止められる効果を持つだろう。多様な意見の反映ではなく、より一つの意思へと集約するこの制度は、いわゆる党の一枚岩的性格、統一をもたらす事実上の制度的保障として機能する。
・他の2点からは、党の意思決定への末端党員の関与が、およそ皆無であることが明らかであろう。無論、意思決定への形式的参加は保障されており、それが党の一定の民主性を確保している。しかし、実質的な意思決定への参加は、末端党員にはそもそも期待されていない。方針案に対して末端党員に求められる態度は、それを批判的・科学的に吟味することではなく、学習し、実践し、身につけることにこそある。そこを重点に運営されるために、末端党員が批判的・科学的に吟味しうるために必要な条件の整備は、ほとんどまったくというほど、なされていない。
こうした党大会の意思決定のプロセスからは、最高指導部と末端党員との、いわば知的・政治的領域での能力差を前提に置いていることがわかる。したがって、全党の意思は、最高指導部が主導し形成すべき領域であり、その指導を受け入れて実践するのが末端党員の領域である。実質的に方針を作成する知的・政治的能力を有しているのは、最高指導部だけであり、末端党員にその能力はない。だからこそ、意思決定の際に、方針案に批判的・科学的態度で接することではなく、学習し実践し身につけることをこそ、党中央は末端党員に求め、期待するのである。こうした条件のもとで、意思決定に一定の民主性を確保しようとするならば、それは必然的に形式的な水準にとどまるしかない。
こうしたもとで、末端党員に何がもたらされているだろうか。
およそ問題なのは、末端党員は、大会の過程を、党の期待に反して自らを政治的に成長させる契機とすることができないでいることである。末端党員は、大会という意思決定プロセスへの実質的な参加ではなく形式的な参加にとどまり、むしろ意思決定から疎外される。それがもたらす帰結は、変革主体としての自己の政治的成長への契機と意欲を失わせ、末端党員に形式主義と無関心をよぶことになった。その現れの一つが、要するに、地区-県党会議でみられるような、「方針案にそって頑張ります」発言のオンパレードである。無論、本来は正当な発言である。しかし、議論のすべてがこれだというのでは、どんな理屈でもっても党の科学的精神や知的精神を語ることはできない。それは、末端党員に少なくなく蔓延する形式主義と無関心の、一つの形を変えた現われだと見ることができよう。
しかし、末端党員のこのような発言自体は、先に述べた党の今の民主集中制・組織原理が末端党員に与えている位置や役割に、正しく末端党員が応えたということである。今の組織原理からすれば、こうした発言をこそ、この組織原理は末端党員に期待するのである。
だが、こうした発言の内実が失われつつある。圧倒的多数の末端党員が、諸決定も読了せずに、また活動に積極的に参加できずにいる現状において、「方針案にそって頑張ります」という発言は、もはや多数の末端党員の内実を少しも代弁するものではないことこそが、問題なのだ。
こうして末端党員は、自己の主体的意思を形成し、表明することなく、決定の下に組織される。
諸決定は、党の全機構をフルに使いながら実践に移される。しかし、現状が示すことは、こうした実践は機関までは貫徹するが、末端党員のレベルでは、多大な困難を抱え始めた、ということである。(続き)