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「組織論・運動論」討論欄

組織原理の再考2

2002/2/26 一介、30代、不安定雇用

・今の民主集中制が想定する大衆像、末端党員像
 主体性を疎外されたかたちで意思決定がなされるような組織制度とその原理は、だからと言って、非民主的であり、捨て去るべきものだということにはならない。そうした組織原理を党が採用するには、やはり理由や必然性があるからである。党の目的は国家権力の奪取にある。その目的に適合的な組織形態・原理が、民主集中制であるとされる。権力という強大な力から党を防衛し、拡大し、対抗して、国家権力を奪取すること、そのためには、正しい方針とそれに基づく党全体の一致団結が求められる。いわば一枚岩の党、鉄の規律の党組織が、党の目的と党をとりまく社会環境から求められる。
 組織の在りようは、目的と社会環境において制約され、あるいはそれによって必然的に選択の余地は狭まってくる。組織のあり方を制約する社会環境として、その社会の構成員の知的・文化的水準を考慮する必要があるだろう。
 国家権力の奪取に必要なのは、戦略を立てる高度に知的・政治的な能力と、他方で大衆に入って多数を獲得する能力だろう。一国の国家権力を相手に党を指揮する能力とは、きわめて高度な知的領域だ。だからその組織の構成員は、各々の持つ能力の領域と程度によって、担う役割を分担する必要がある。つまり、知的・政治的領域での能力を基準に、組織する側と組織される側に分離する。一部の知的領域を担う党員と、大衆に入って実践する多数の党員という組織内分業、それは同時に指導する側とされる側、転じて主体的な側と受身の側をつくりだす。こうした知的・政治的能力を基準とする組織内分業は、多かれ少なかれ、組織を構成する以上は生ずるであろうが、しかし、それを純化・徹底あるいは堅固に固定化するのがいまの民主集中制であると思う。
 そうした理解ができるのであれば、この民主集中制のあり方とは、いったいどんな大衆一般の知的・文化的水準であるときに、その必要性と有効性が高い組織原理だろうか。
 端的に答えれば、大衆一般の知的・文化的水準が低い社会であろう。この条件の下では、戦略をたて、党を指導するのに必要な知的能力は、そもそも社会のきわめて少数のインテリにしかありえない。党の末端においては、それに準ずる知的・政治的能力すらままならない。そうした構成員と大衆一般の条件の下では、党の末端における知的領域での貢献は、実際としてあり得ないであろうし、そこに党が期待すること自体が誤りとなろう。党は、一部の最高指導部の高度な知的能力に依拠して、情勢を分析し、戦略をたて、全党を指揮することにしか選択肢はない。党の末端においては、知的領域での貢献ではなく、むしろ、指導に忠実に従い、大衆の中で実践することこそ、期待される任務であり、本分となるはずである。
 それはまた、科学性を標榜する党にあっては、最高指導部の知的能力の高さは、知的権威としても末端党員の間で機能し、党への信頼の獲得と党への結束に結びつける点においても、有効に機能するであろう。この党にあっては、やはり科学性や知的能力の高さは、ある種の権威として、人を組織することにおいて機能するのである。
 こうして、組織内部での知的領域とそれ以外の領域での分担は、最高指導部と末端党員との間で必然的に分離され、党内の指揮命令の秩序を形成し、党内での制度化された階層を形成して固定化される。指導者には、高度な知的領域での役割の発揮と、それを方針・指導として末端にまで貫徹させるだけの能力と権威が求められる。他方で末端党員に求められるものは、その指導への忠実さであり、与えられた任務への献身性である。こうして、「集中」を柱とする民主集中制が形成される。
 今の民主集中制においては、このような大衆一般と末端党員の低い知的(政治的)・文化的水準を想定し、前提にしていることが容易に見て取れると思われる。先に述べたが、党大会のプロセスをみれば、末端党員レベルからの議論の形成と集約を、党の意思決定の柱として位置づけていないことは明らかである。党大会での意思決定プロセスにおいて、末端党員に求められるのは、方針に異論をもつような知的領域での貢献ではなく、実践とそこでの献身性おいて貢献することである。知的領域での貢献は、党の期待するところではなく、また、そうした貢献が可能な能力を末端党員は有していない。したがって末端党員は、「方針案に沿って頑張ります」としか、「意見」として述べようがないのだ。

・科学性や真理性と民主性(制)
 そもそも、構成員の多数の知的・文化的水準が低い場合に、その組織での民主制(性)が形式的なものから脱却して、その実質を深めるということは困難であろう。民主性の実質の確保には、構成員全体での一定の均質的な知的・文化的水準が必要であろうし、それを不可欠とする(あるいは伝統的要素などからの)「個」の確立も必要であろう。構成員全体の質が、民主制(性)を実質的に機能させるだけのものに至っていないならば、民主集中制においては、「集中」の実質だけが強化され機能することになろう。つまり、たとえ末端党員レベルでの議論の形成と集約による意思決定が必要とされても、それを可能とするだけの知的・政治的能力を末端党員自身が有していないならば、そうした「民主」的意思決定は、党の意思としてのその内容の科学性や真理性を確保できない。そうであるならば、末端党員は意思決定には実質的に参加せずに、最高指導部の意思を追認する形式において参加することで、「民主」性をかろうじて確保するしかない。
 これは、党の価値判断の基準は、科学性や真理性にあることを示している。つまり、多数の意思がすなわち「正しい」のではなく、「意志」の内容そのものの科学性や真理性の確保を、前衛としての党は優先させるのである。
 したがって、科学性や真理性の確保が、「民主」の未成熟さによってその側面から不可能であれば、最高指導部の知的・政治的能力による科学性と真理性の確保が強く要請され、それに依拠して、その「意思」への末端党員の組織化、つまり「集中」がなされなければならない。いわば大衆一般の水準に規定される「民主」のもつ弱点を、「集中」の強化で補うことが必要なのである。「集中」を柱とする今の民主集中制は、こうした前提において、党の組織原理として、一定、有効に機能してきた。
 そうした強い「集中」を内実とする民主集中制においては、常に官僚制への転化の危険がつきまとい、実際にそうなっている。また、科学性や真理性を基準とすることは、それを判断するのが、事実上、一部の最高指導部であるという点で、歴史にみるように重大な危険性を孕む。
 あえて言えば、こうした弱点から逃れられない組織原理を党がもたざるを得ないこと自体が、社会変革の遂行を可能とする主体条件、したがってまた社会的条件の成熟に至っていないことの現われではないのか。(続き)