はじめに
「さざ波」編集部の反論に対するげじげじさんの1999/8/20付けの投稿で、日本共産党の文献の引用として「分派禁止の決議」が紹介してありました。この「決議」の背景について、「さざ波」側は「国家崩壊の瀬戸際」として、げじげじさんは日本共産党の文献を引用してこれに反論をしています。実際に『レーニン全集』の当該部分を読んだ感想を書きます。〔 〕内の数字は全集の日本語版のページです。
歴史的背景
同大会の報告、決議(案)など全部で15本の文献が全集第32巻にあります。176頁のものは「中央委員会の政治活動についての報告」(以下「報告」)です。「決議」はこの「報告」とは別になっていて、正式には「分派禁止」という標題ではなく、「党の統一についてのロシア共産党第10回大会の決議原案」(以下「決議」)というものです。
げじげじさんは全集が手元にないとのことですから、「1921年のロシア共産党第10回大会の決議についていえば、当時の情勢の重要な特徴の『第一のもの』としてレーニンが中央委員会の報告で指摘したのは、『戦争から平和への移行』だった(全集32/176)。外国の軍事干渉を一応撃退し、反革命の反乱をともかく鎮圧下という条件のもとで、レーニンは、いかなる(以下文字化け・・・編集部)」の部分は党の文献からの引用だと思われます。出典が示してないため私はそれを読んでいませんし、投稿には文字化けがあったりで、げじげじさんが引用した党の文献の趣旨が正確にはくみ取れませんが、読みとれる範囲ではどうしても気になってしかたのない部分があります。
『戦争から平和への移行』の時期だったとか、『外国の軍事干渉を一応撃退し、反革命の反乱をともかく鎮圧したという条件』などの表現は、「とにもかくにもロシアで社会主義の権力が打ち立てられ、安定し平和な状態を確立した」というような状況が想像されますが、実際に「報告」、その「結語」、「決議」を読んでみると、まったくそんなものでなかったことがわかります。
この報告の中にはたしかに「戦争から平和への移行がはじまった」〔177頁〕とありますが、その前の部分には「われわれは三年半のあいだに、もう数回もこの移行をやりだしたが、しかも一度もそれをやりとげることはできなかったし、今回もやりとげられそうにない」〔176頁〕として、この移行がどれほど困難であったかという事情が書いてあります。年表をみると1921年の1~2月にはアントノフの反乱(これ以降は白衛軍による大きな武力反乱は起きていない)があり、クロンシュタットの反乱は2月28日、この10回大会は3月8日からです。大会でレーニンは「クロンシュタットの反乱は間もなく鎮圧されるであろう」と述べており、現に戦闘行為が進行中であったぐらいですから、けっして「平和への移行」が誰の目にも明らかであるというような時代ではありませんでした。
激しい内戦で食糧は底をつき、農民の不満を覚悟で強制的に徴発してもなおモスクワ、ぺトログラードでの食糧問題は解決せず、燃料も不足し、パンと平和を求めて革命に立ち上がった民衆の中に激しい不満が鬱積しストライキが起こり、ペトログラードでは戒厳令がしかれるありさまでした。ソビエト権力が、白衛軍やブルジョアジー、地主によってではなく、「小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性」による反抗によって崩壊し、ふたたびブルジョアジーと地主の旧権力が復活する危機が眼前に存在するという状況でした。けっして「平和な時代に移行した」と言えるようなものではなかったことは確認しておく必要があります。誕生したばかりのプロレタリアートの権力は、権力を打ち立てるときとは異質の、そしてそれとは比較にならないほど困難な情勢に直面していました。
レーニンは、労働者について「わが国のプロレタリアートの大部分が階級から脱落していること、未曾有の危機と工場閉鎖の結果、人々は飢えのために逃げだし、労働者はむぞうさに工場を捨て、農村に落ちつかなければならなかったし、労働者ではなくなってしまった。」(結語)〔208頁〕と述べ、農民については、「この小農耕者自身に犠牲を負わすほかにはそれ(大規模生産-引用者注)を復興することができなかった。……農民に向かって『労農国家が難局を脱することができるように、この国家に貸付けなければならない』と語るほかに、われわれにはやって行きようがない」(報告)〔194頁〕と述べています。さらに、膨大な数にのぼる軍人を復員させる事業の困難さも指摘しています。
「小さなサンディカリズム的、または半ば無政府主義的な偏向など、おそれるにたりないであろう。……しかし、もしそれが国内で圧倒的優勢を占めている農民と結びつくならば、もしプロレタリア独裁にたいするこの農民の不満が増大するなら、もし農民経済の危機が限度に達するならば、もし農民的軍隊の復員が、ぐれた、職の見つからない、戦争をやることが商売同然のならわしになり、ギャング行為を生み出す人間を街頭へほうりだす(としたなら――理論的偏向の論議などしているときではない)」(報告)〔185頁〕と述べ、当面する事態の危険性を指摘しています。人々のおかれているこのような状況から、小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性が現れ、しかも、この気分は非常に広くプロレタリアートに反映したことを指摘しています。また、ロシアはプロレタリアートが少数で農民が多数を占める国であり、旧勢力が労働者階級と農民の対立を煽り、200万人といわれる反革命の志向をいだく亡命ロシア人が存在している事情のもとで、小ブルジョア的・無政府主義的な反革命が、白衛派支配への一つの政治的階段であることを銘記すべきだとしています。これが「決議」が生まれる歴史的背景でした。