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「現状分析と対抗戦略」討論欄

政府問題を論じるよりも民衆の政治参加を

1999/6/13 川上慎一、50代

 吉野傍さんの「Re:社会主義について>赤石十全さんへ 」の投稿はとても優れたものだったと思います。
 吉野さんのいうように、「『資本主義の枠内での改革』は、今では不可能」であり、「社会主義とは、何か遠い先にある夢のような世界の話ではなければ、旧ソ連や中国のような国家統制社会のことでもなく、今現実に生活を営んでいる人々が人間らしく生きるための最小限の選択肢です」という認識に、私も共鳴します。
 現在、政府問題が急速に注目を浴びるようになってきています。先進資本主義国の国内政治、特に政治支配の特徴を概括してみたいと思います。
 ドイツは社民党と緑の党の政権、イギリスは労働党政権、フランスは保守の大統領の下での「左翼政権」、イタリアは「オリーブの木」によるかつてのイタリア共産党の流れを汲む政権です。これらのいずれの国でも、かつては保守政権がおおむね強固な政権を維持していました。
 日本でも長期にわたる自民党政権がもはや単独では政権を維持できない政治情勢となっています。階級的に見れば、ブルジョアジーが単独で議会政治を支配することが困難になり、それぞれの社会を構成する「中間層」を取り込んで支配を継続していると理解することができます。
 日本を含めて、どの党が政権の座についていようとも、これらの国々はあくまでも資本主義国であり、ブルジョアジーの支配が貫徹される国であるということは明らかです。しかし、各国で本流の保守政党による単独政権が崩壊しているという事実は、ブルジョアジーによる支配が新たな困難に直面しているという事実の反映であることもまた明瞭なことです。
 これらの先進資本主義国の困難―特徴的な情勢―とは何でしょうか。戦後最大の失業、「不況」(あるいは恐慌の初期の局面に入っている可能性もある)です。アメリカだけは、軍事力を背景として世界から収奪を繰り返していることから好景気を謳歌していますが、これはまた驚愕すべき破綻が待ち受けているに違いありません。また、いくつかの国ではいくらかの短期的な好不況の波があるかも知れませんが、全体としては、このような特徴的な情勢の例外ではありません。これについは、私の投稿「私の問題意識」で私見を述べています。また、この点では先にあげた吉野さんの投稿とも共通の認識といえる部分があるかも知れません。
 日本が当面する困難は、自民党の―ゼネコン政治や消費税に代表される―悪政にだけ起因するものであるというほど単純なものだとは考えられません。概観すれば、むしろソ連崩壊後、急速に変貌した資本主義の当然の帰結というべきではないでしょうか。
 従って、現代の危機的状況は、資本主義の安定した継続を願うガルブレイスがいうように、単なるバブル経済の崩壊とか資本主義の景気循環の底だとかというものではない可能性が大きいと思います。経済のグローバル化がかつてなく進行しながら、同時に資本どうしの狂気に満ちた「食うか食われるかの競争」が展開されているというのが現代の資本主義の特徴であり、現代の危機的状況が、単にいくつかの「ならず者的資本」の横暴によって引き起こされたとか、節度を知らない資本によって引き起こされたものだとは考えられません。
 「ならず者的資本」の代表格である投機資本は、資本の「アウトロー」的な存在であるのか、あるいは、資本主義の現代における1つの発展段階であるのかは、簡単な問題ではありません。きちんとした論証が必要だと思いますが、少なくとも、私は「資本主義が発展した現代的な形態」だという私見を持っています。
 例えば、投機資本が現代のアメリカ経済や先進資本主義国の経済を支える極めて重要な柱であることを考えると、これを禁止するとかあるいは強力に規制することが、資本主義の枠内における改革改良として可能かどうかについても私は悲観的です。
 ブルジョアジーが支配する社会で、ブルジョアジーの根本的な利益を奪い、その死命を制するような「改革」を行うことができないことは、史的唯物論の当然の結論であります。
 社会は少しずつ段階的に変化していくものですが、長い歴史の中でときどき劇的に変化します。これが革命です。弁証法というものは、「われわれが躍進すると敵の攻撃も厳しくなる」というような次元で理解するよりも、社会の発展にはこのような劇的な変化がともなうものだ、というように理解するのが弁証法的な理解であり、だからこそ弁証法は変革の哲学といわれるのです。改革改良の積み重ねによって革命が達成されるわけではないのです。変革の立場に立たない限り、弁証法を理解することはできないでしょう。
 先に述べたように、ヨーロッパの先進資本主義国でも、日本でも例えば、村山社会党内閣のように「左翼」が政権に着きました。ブルジョアジーが支配する国で、たとえ「左翼」が政権に着いても何もできないのではないでしょうか。少しばかりの違いがあることは否定しませんが、イタリア政府もドイツ政府もNATO軍のユーゴ空爆に参加しています。支配の基本構造が変わらない限りどんな政党が政権に加わっても、支配の構造に由来するようなことは、できることしかできず、できないことはやはりできないのです。
 できないことまでやろうとしたのがチリのアジエンデ政権でした。
――私はこの政権を非難するつもりはまったくありません。ピノチェットが用意した退路を自ら拒否して殉じたこのチリ社会党員の英雄的行為はいつまでも世界の革命運動史に特筆されるべきだと思っています。――
 村山政権が安保条約を認め、自衛隊を合憲とした変節は記憶に新しいところであり、吉野さんの投稿にも書いてあるとおりだと思います。ちなみに、ガイドライン法案の強行採決について、村山氏は「国民が何も知らない内にやってしまうことはいけない」と批判しています。社会党(社民党)も政権から離れれば、また健全さを取り戻します。「左翼」による政権参加は、支配を継続するための安全弁であることを忘れてはならないでしょう。この点で、社会党は大きな過ちを犯しました。政権に着くということは、よほど魅力があり、国会内で政治を進める人にとってよほど魔性の魅力があるものと思われます。
 いま、求められることは、どんな政党による組み合わせであろうと、政権に参加することではなく、できる限り多くの民衆を政治に参加させ、飛躍的に民主主義を拡大することでしょう。民衆の政治参加とは、中学校の「公民」では、「選挙」が最も重要であると教えます。それは否定しませんが、それだけではありません。ガイドライン法案が審議されているとき、TBSの筑紫キャスターが「これは99年安保といってもよいできごとだ。しかし、60年安保、70年安保のときと比べて、デモ1つない」と言っていました。デモも集会も学習会も選挙に勝るとも劣らないほど大切です。苦境にあって闘わざるを得ない労働者を初めとする民衆の闘いを組織し、励まし、支援し、圧倒的な人々が政治に参加する情勢を切り開き、これを背景として国会内での院内闘争を展開していくというのが日本共産党の誇るべき伝統です。
 若者が政治に無関心なように見えます。しかし、神戸の震災や日本海の重油流出のときにかなりの若者がボランティア活動に参加していた事実を見て、決して若者は政治に無関心ではないと思います。高度経済成長の中で物質的には比較的恵まれて育ったこと、従順な労働者の育成を主目的とする長年の「管理教育」の中で育った人たちだから、闘いに参加する上でそれなりの困難はあるでしょう。しかし、決して若者が政治に無関心であるとは思いません。その時々の政治的、経済的、社会的な課題で闘いを起こし、若者が参加する場を作るべきでしょう。若者の政治参加のためには、この努力こそ継続的に行われなければならないのであって、政党や団体の主体的な都合による一時的なカンパニアで解決されるような課題ではないと思います。
 私たちが若かったころ、誘われてデモにいったり、学習会に参加したり、ハイキングに行ったり、新聞を読んだり、学園、職場の闘いに参加したり、さまざまな活動を通じて仲間が増え、輪が広がっていったものです。
 何をするか、何ができるかも分からないまま政府問題を論じるべきではないと思います。それよりも圧倒的な民衆が政治に参加する努力こそ急ぐべきだと思います。議会を無視して政治を論ずることができないのと同様に、議会だけで政治が決まるのではないということもまた確かではないでしょうか。