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「現状分析と対抗戦略」討論欄

「左翼的高揚の新しい時代」のために―回答への応答―(1)

2004/07/13 丸 楠夫 20代 医療関係

 この投稿では、『さざ波通信』第37号掲載の『共産党の改良主義的変質と今後の展望―丸楠夫さんの質問への回答』(以下『回答』)でS・T氏が論じられた点も踏まえつつ、私なりにいくつか考えてみたことを述べたいと思います。この投稿が『回答』の末尾にある「協力と支援を」との求めに幾分なりとも答えうるものであれば幸いと思います。

1.改良主義政党の左転換
 どのような路線ないし志向が、党内で他をしのぐ多数の支持(もしくは少なくとも―無抵抗を含む―容認)を得られるかによって、ひとつの政党全体のあり方、方向性が決定されます。
 ある政党を丸ごと変革する(変質させる)ためには、党を変革する(変質させる)という志向が、党内で反変革(変質)派をしのぐ多数に支持(もしくは少なくとも―無抵抗を含む―容認)されなければなりません。一方党内の変革(変質)派が、今いる党を見限って分裂し、自らの志向を体現する新しい党を作ろうとするのであれば、それは党全体の変革を実現する際よりも少ない(党内からの)支持でも可能となるでしょう。したがって、前者に比べて、後者のほうが常に実現のためのハードルは低い、ということは確かです。
 たとえば、1955年に左右統一した日本社会党は、当初、その外交政策を見ても、自主外交、米中ソ等距離外交、自衛隊・日米安保条約の条件付容認といった水準であり、そのあり方は現状追認的で妥協的なものでした。しかし社会党は、その後10年足らずの間に、非武装、中立、反自衛隊、反米、反安保を掲げるまでに日米支配層との対決姿勢を先鋭化、64年には綱領的文書『日本における社会主義への道』が採択されます。
 このような社会党の全体的左傾化の過程は、当時の党内において、より左翼的・戦闘的路線(とそれを主導する左派)が、次第に、当初の妥協的・現状追認的路線(とそれを主導する右派)をしのぐ多数の支持(ないし少なくとも―無抵抗を含む―容認)を獲得していったことを物語るものといえるでしょう。こうした中、右派は、左派に次第に圧倒され、イニシアチブを奪われつつもなお社会党の一部としてとどまるか、もしくは、そのような党内情勢のもとでの党全体の妥協的・改良主義的方向への再転換を断念し、(より容易に実現可能な)脱党・新党結成(民主社会党のち民社党)結成へと向かいました。
 さて、社会党が左傾化する1950年代後半から60年代前半は、同時に、日本における左翼的ないし現状批判的世論、労働運動や学生運動を始めとする社会運動全般が、占領後期のレッドパージの打撃と混乱から本格的に立ち直り、新たな高揚を迎えた時期でもありました。社会党の左傾化は、まさに「社会全体が急進化し、人民の嵐のような運動が巻き起こる中で、右傾化した…党が下からの運動によって投げ捨てられる」(『さざ波通信』第2号『不破政権論 半年目の総括(下)』)ことも決して空絵事ではない、と思えるような状況のもと、行われました。このような社会党の「外」における、左翼的ないし現状批判的世論と運動の高揚と切り離して、社会党の「中」における左傾化圧力の増大を見ることはできないでしょう。「回答」には「歴史においてはきわめて例外的な政治的条件のもとで改良主義政党が革命的再生をとげることも、絶対にありえないことではありません。」とありましたが、社会党の左傾化(最も、それは「革命的再生」というのとはまた違ったものだったと思われますが)もまた、当時の、下からの左翼的ないし現状批判的世論と運動の高揚という「例外的な政治的条件」のもと、それに先導されて起こったものでした。
 この「例外的な政治的条件」の存在が、与党に対抗する有力な野党第一党に対し、妥協的・現状追認てきであることを許さず、一方で、左右統一時の妥協的・現状追認的路線の正当な後継者たる民社党が、左傾化した社会党に取って代わることを許さなかった。(民社党の衆議院議席数は、その最大事においてすら、「統一前の」と右派社会党の議席の半分ほどにしかなりませんでした)のです。
 あるいはこう言いかえてもいいでしょう。
 与党に対抗する有力な野党第一党の左傾化は、当時の日本における階級闘争が獲得した一つの成果あった、と。
 だからこそ、80年代以降の左翼的ないし現状批判的世論と労働運動・学生運動はじめ社会運動全般の停滞と後退(「例外的な政治的条件」の消失)と期を同じくして、社会党もまた、再び妥協的・現状追認的傾向を強めていくことになったのです。社会党の「外」―に広がる日本社会全体―において左翼的、原則的、戦闘的あり方が、大衆的足りえなくなっていった事、現状の社会体制への妥協的、融和的、無抵抗的、無関心的あり方の蔓延が、全てを圧倒しつつあったこと、このような「政治的条件」が、社会党の「内」における政治的条件の変化―今度は「左派」が「右派」によって圧倒されていく―をもたらした、つまり、右傾化の時も左傾化の場合同様、党「外」における「政治的条件」によって先導されていたのです。それはつまり、日本の階級闘争が、かつて獲得した成果、与党に対抗する有力な野党第一党という陣地を、次第に維持できなくなっていった、ということでもありました。
 こうして90年代、社会党が決定的に右転換する中、党全体の左翼的・戦闘的方向への再転換を断念し(より容易に実現可能な)脱党・新党(新社会党)結成へと向かったのは、今度は「左派」の方でした。

2.スターリニスト政党の右転換 へつづく