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「現状分析と対抗戦略」討論欄

「左翼的高揚の新しい時代」のために―回答への応答―(2)

2004/07/14 丸 楠夫 20代 医療関係

2.スターリニスト政党の右転換
 1.の冒頭で指摘したのと同様、スターリニスト政党においても、どのような路線ないし志向が党内で他をしのぐ多数の支持(少なくとも―無抵抗を含む―容認)を得られるかが、党全体のあり方、方向性を決定することは変わりません。ただ、スターリニスト政党の場合、党指導部の路線に対する統制力はきわめて強大であり、党指導部の意に反する路線が党内の多数を獲得するような事態は、『回答』の『スターリニスト政党の革命的再生は可能か』にもあるとおり、未然のうちにことごとく摘み取られてしまうでしょう。
 だからこそ不破哲三もまた、“左翼的”スターリニスト政党であったかつての共産党において、宮本顕治率いる党「中央に忠実な振りをして」「党上層内部」に「長期潜伏し」、「情勢の転換の中で党内ヘゲモニーを握」ったのち初めて、党の改良主義的変質を成し遂げることができたのです(「」内は「回答」より引用)。
 『回答の』『スターリニスト政党の革命的再生は可能か』で、「改良主義政党」とあるところを「革命政党」あるいは「左翼政党」に、「左派」を「右派」に、「革命的高揚」を「長期的な反動期」に、とでもそれぞれ置き換えて読んでみても、スターリニスト政党についての解説としてほとんど違和感がないのは、スターリニスト政党がそもそも、党指導部の意に反する傾向に対しては例えそれが“右方向のものであろうと左方向のものであろうと”ともに許容しない組織体質だからでしょう。そしてこのような組織体質こそが、社会党が右傾化や左右中間派への分裂という事態を迎えてからも、なおしばらくの間、共産党に曲がりなりにも「レーニン主義の進歩的側面…と完全に手を切」(『回答』)らせずにおいた要因でもありました。党「外」における左翼的世論、社会運動全般の停滞・崩壊に伴って、すでに個々の多くの党員たちにとっては「レーニン主義の進歩的側面」の空洞化がかなりの程度もたらされていたとしても、スターリニスト政党の持つ指導部の強力な統制力は、それが党の現路線を揺るがすような自発的・自覚的党内圧力となる事態を(少なくとも表面的・形式的には)排除することも可能です。革新勢力の停滞傾向が明らかになりつつも、なお宮顕が党内主導権を掌握していた時期においては、少なくとも“自覚的な”右派党員も極少派であったろうし、そのような右派が公然と現れて党内外の注目を集めるような事態になれば、やはり「弾圧され放逐され」たはずです。
 しかしそうは言っても、スターリニスト政党指導部の路線への統制力、党「外」情勢およびそれに連動する党内世論ないし党内気運からの自立性は、やはり相対的なものであらざるを得ません。
 もし仮に、不破が党内ヘゲモニーを握る90年代後半から現在までの時期が、たとえば、JRに人民電車が走ったり(!)東京電力の労働者が争議戦術の一環として「皇居への送電を停止」したり(!)読売新聞が社内労働者による「生産管理」によって半ば「人民新聞」化してしまったり(!)NHK職員の大規模ストライキによって、政府が一時、NHKの業務管理をするはめになったり(!)日本を代表するような大企業―たとえば東芝とか―で続々と熾烈な労働争議が繰り広げられたり(!)実行されるかどうかはともかくとしても、中央・地方の官公庁労組が公然と期限を切って、政府に「ゼネスト突入」を突きつけたり(!)「改革」「民主」はおろか「革新」ですらなく、「革命」という言葉がはばかることなく“大衆的”左翼陣営のスローガンとして叫ばれたり(!!)するような、(1949年1月総選挙の躍進に沸く日本共産党本部の写真の中、万歳をする党員たちの背後の壁に、レーニンの肖像と並んで掲げられていた)「われわれはすべての道が共産主義えと向う世紀に生きている」というモロトフの言葉もあながち空絵事ではないと思わせるような、一言でいえば、1940年代後半のような左翼的高揚期であったなら、いかに不破指導部といえども、共産党の右転換を決意し得たでしょうか?
 仮に決意しえたとしても、その決意は間違いなく党内外の頑強な抵抗に直面し、結局はその決意を頓挫させるか、少なくとも党の深刻な分裂、ないし「右傾化した共産党が下からの運動によって投げ捨てられる」(『さざ波通信』第2号『不破政権論 半年目の総括(下)』)事態をもたらしたことでしょう。
 スターリニスト政党指導部に「レーニン主義の進歩的側面…と完全に手を切」(「回答」)ることを決意させ、かつそれをやすやすと達成させた「情勢の転換」とは、宮本顕治とその側近たちの引退と失墜という党内「情勢の転換」だけを意味するものではありませんでした。1980年代以降の左翼的世論、社会運動全般の明らかな低落傾向の中、まがりなりにも「レーニン主義の進歩的側面」を保持する共産党もまた、停滞と後退に直面することになります。特に90年代以降の共産党は、他の左翼的・革新的運動・思想・思考もろとも、一方であきらめと無抵抗と現状追認と無関心へ、もう一方で右傾化、保守化、反動化へと向う人民自身によって、まさに「下から投げ捨てられる」危機に直面していました。
 共産党の転換の前には、日本全体の情勢の転換が先行していました。
 共産党の右傾化は、このような情勢のもと、党の大衆性を維持せんがための一つの選択であったとはいえないでしょうか?(それが正しいか、あるいは成功するかはまた別の話ですが)
 確かに、党の明らかな右への転換が急速に進んだのは、共産党が選挙での躍進に沸く時期ではありましたが、その「躍進」の内実は、人々が自ら立ち上がり、自身の手によって現状に立ち向かい、新しい時代を切り開こうとする自発的、自覚的運動の裏づけをほとんど持たない、きわめて移ろいやすく、他力本願で代行主義的な投票行為の集積、一種の「バブル」に過ぎないものでした。のみならず、「躍進」の表面的な成果である議席や得票数においてすら、革新陣営全体の後退を埋め合わせるには程遠いものでした。同じく、革新全体は選挙で大きく後退しながら、社会党に失望した票が左に移動したことで、共産党に躍進をもたらした1949年1月総選挙が、当時の党に(「資本主義の枠内での民主的改革」「ルールある資本主義」などではなく)“9月革命幻想”を振りまいたことと対比すれば―党指導者のパーソナリティーの違いもさることながら―何よりも、共産党を取り巻く情勢の違いを痛感せざるを得ません。
 かつて「すべての道が共産主義えと向う世紀」と言わしめた20世紀が終わったとき、日本の階級闘争には、議会政治、政党政治の場にわずかに残された共産党という陣地すら、妥協的・現状追認的・改良主義的に変質していく事態を、阻止するだけの力も失われていました。

3.「何のための」再生か 「何のための」新党か へつづく