5.現場から現場へ―さざ波はいずこから―
「日本共産党」を名乗ることは、本来、「日本」において「共産」主義(運動)の担い手たらんとすることを自らに課す「党」を意味していたはずです。そして、「共産主義(運動)」の定義を「共産主義とは、成就されるべき何らかの状態、現実がそれへ向けて形成されるべき何らかの理想ではない。我々は、現状を止揚する現実の運動を共産主義と名づけている。この運動の諸条件はいま現にある前提から生じる」というマルクスの言葉に求めるのであれば、日本共産党とその党員が自らに課している役割とは、「現在の長期的な反動期において、過去との革命的連続性の要素をごく部分的に担い、いずれやってくるだろう左翼的高揚の新しい時代へのささやかな橋渡しとしての役割を担うこと」(『回答』)ではなく、「長期的な反動期」という「いま現にある前提」のただなかにあって「左翼的高揚の新しい時代」を戦い取ること、そのための「現実の運動」を担うこと、であるはずです。
そのような「現在の長期的反動」に対する反撃がもし起こるとすれば、それはまず現に「現在の長期的な反動」によってほしいままにされ、深刻な困難にさらされているまさにその“現場”からでしょうし、また、そのような“現場”でこそ「現在の長期的な反動」への応戦と反撃が必要とされているのです。
330件、158件、8562人
259件、166件、9026人
417件、279件、9418人
296件、216件、6627人
この数字は、上からそれぞれ1941年、42年、43年、44年の、右から順番に労働争議件数、うちストライキまたはサボタージュに至った件数、労働争議参加人数、を表す数字だそうです。
おそらく、現在よりもはるかに抵抗は困難であったろう当時の戦時下の状況においてさえ、延べ3万3千633人の不屈の闘士たちが存在していました。もっとも、この人たちは、「左翼的高揚の新しい時代」を自ら切り開こうとまで思っていたわけではないかもしれません。もっぱら、窮鼠猫を噛むかのごとき、追い詰められてのやむにやまれぬ抵抗だったのかもしれません。そもそもこの人たちが所期の目的をどれだけ達成し得たのかさえ、不勉強な私には定かではありません。でも、おそらくこの人たちは、目的の達成が可能か不可能かということ以前に、絶対に許せない、黙って受け入れるわけには行かないと思う現実が目の前にあったから、立ち上がったのではなかったでしょうか。
太平洋戦争下の国家総動員体制という「いま現にある前提から生じる」きわめて困難な「運動の諸条件」のもと、それでも「現状を止揚する現実の運動」に立ち上がった、本来なら日本の歴史において特筆大書されてしかるべき―現実にはすっかり忘れ去られ、その存在が語られることもない―人々によって、(本人たちにそんなつもりはなかったとしても、結果的に)「過去との革命的連続性の要素」は伏流水のように脈々とつづき、戦後の「左翼的高揚の新しい時代」へと「橋渡し」されたとはいえないでしょうか。
私はここ『さざ波通信』が、『赤旗』の『学習・党活動のページ』には載らないかもしれないけれど、日本共産党の党員の皆さん(もちろん非党員の皆さんも)による、「長期的な反動」のもとでのおのおのが属する“現場”からの報告や「いま現にある前提から生じる」「諸条件」のもとで「現状を止揚する現実の運動」に取り組んでいる諸所の“現場”の交流の場になればいいなあ、と思っています。そして編集部の皆さんには、そうした”現場”へのメッセージとしての『さざ波通信』を発刊してほしいと期待しています(この点で『さざ波通信』第14号、第18号、第28号の国労問題に関する一連の論文は大変よかったと思います)。
そうした“現場”からの運動が各局面各分野各地域で巻き起こり、“現場”から“現場”へと交流の輪が広がっていったとき、「現状を止揚する現実の運動」とその担い手たちの連帯のひとつの表現、一つの形態、一つの結果として、共産党の再建、あるいは新しい左派新党の誕生が実現するのではないかと、私は考えているのです。