ドイツ共産党のインタビューに対する不破議長の回答を批判した第18号論文に対して、前衛氏より詳細な批判をいただきました。ここで、前衛氏の批判に答えることで、党中央の自衛隊政策の転換の意味を改めて詳しく論じたいと思います。前衛氏の理論的反論は、そのような絶好の機会を提供しています(なにしろ党中央自身は、われわれの批判に対してはけっして答えようとしませんので)。
自衛隊必要論をめぐる論点(1)――第22回大会決議の情勢認識
まず、前衛氏は、今回の大会決定が「自衛隊必要論」に立ったものであるとするわれわれの批判に対して次のように批判しています。
1)「さざ波通信」の「批判その1」は、共産党の自衛隊政策が「自衛隊必要論」に基づいた、自衛隊による「平和維持」論であると主張とされており、説得力に欠ける。共産党の政策では、「憲法の平和原則にたった道理ある平和外交で、世界とアジアに貢献する」ことを前提として、「アジアの平和的安定の情勢が成熟すること、それを背景にして憲法九条の完全実施についての国民的合意が成熟すること」を自衛隊解消への道としているのである。憲法の精神に基づく、平和への様々な運動を横において、アジアの完全平和の実現まで、自衛隊があったほうが良いというような議論とは無縁なものと理解できるのだが、何故、「さざ波通信」がこのような断定を行なうか寧ろ理解に苦しむ。
われわれが言っている「自衛隊必要論」は、「憲法の精神に基づく、平和への様々な運動を横において、アジアの完全平和の実現まで、自衛隊があったほうが良いというような議論」と同じではありません。もしそうだとしたら、それこそ共産党は、誰の目にも明らかな右転落を遂げたことになるでしょう。現在の共産党は、80年代の社会党ときわめて近い立場にあります。現在の共産党の「自衛隊段階解消論」は、80年代における社会党の「自衛隊解消論」の完全な剽窃です。そのときの社会党に対して、共産党は、自衛隊容認論だと猛烈な攻撃を加えました。もちろん、そのときの社会党は「自衛隊容認論」ではなく、現在の共産党と同じく、自衛隊解消の長期的展望にたって、当面は軍縮や自衛隊の改革や国際的な平和情勢を創出するための外交努力をうたい、第三段階目として憲法9条の完全実施を展望していたのです。しかし、当時の社会党が、自衛隊解消の条件として、国際情勢の安定化や国民世論の成熟を持ち出すことで、そのような安定化が達成されるまでは、自衛隊は必要悪であるとする立場に立ったことは間違いないところであり、共産党の社会党批判は、多少行き過ぎた面はあるにしても、一定の正当性を持っていたのです。
われわれは、共産党指導部が自衛隊そのものをそのまま容認したなどという批判をしているのではなく、国際情勢の安定化まで自衛隊は必要だとするかつての社会党の立場に移行したのだと批判しているのです。
以上の点について、もう少し噛み砕いて説明しましょう。共産党中央が事実上の自衛隊必要論に立っていると主張できる根拠は三つあります。
まず第一に、党大会をめぐる読者投稿の中でも論じられているように、国際情勢に対する認識が第21回党大会決議と第22回党大会決議とでは根本的に転換されていることです。
第21回党大会決議では、「今日の世界史の発展段階は、わが国が恒常的戦力によらないで平和と安全を確保することを可能としている」「わが国が恒常的戦力によらないで安全保障をはかることが可能な時代に、私たちは生きているのである」としていたのが、第22回党大会決議では「独立・中立を宣言した日本が、諸外国とほんとうの友好関係をむすび、道理ある外交によって世界平和に貢献するならば、わが国が常備軍によらず安全を確保することが21世紀には可能になるというのが、わが党の展望であり、目標である」と変わっていることです。この文言は、その時になるまでは、「わが国が常備軍によって安全を確保することが必要である」という立場に立っていることを意味します。
第21回党大会決議の立場から第22回党大会の立場へのこの転換は、偶然的なものや、筆が滑ったものではなく、用意周到に準備され、練られたものであり、共産党指導部が自衛隊の当面の存在必要性を認めたことを、支配層とマスコミに向けてアピールしているのです。
自衛隊必要論をめぐる論点(2)――「国際情勢の安定化」論
第二に、自衛隊解消の本質的条件として「国際情勢の安定化」ないし「平和的な国際(アジア)情勢の成熟」を持ち出していることです。これこそ、80年代社会党の右転換の本質的要素であり、当時から共産党員であった者は、誰しも、この「国際情勢安定化論」の持つ政治的意味を見逃すはずがないのです。少なくともわれわれは、80年代において、社会党の右転落の決定的な指標として、この「国際情勢安定化論」を見てきたし、党の宣伝物等の中で、この問題をクローズアップしてきました。これは党中央自身も同じです。たとえば、1987年の論文「土井社会党委員長の最近の路線発言をどうみるか」(『日本共産党資料館』へのリンク)の中で、党中央は次のように当時の社会党を批判しています。
社公合意は、社会党と公明党が加わる連合政権が実行する政策の「基本」と「大綱」を詳細にとりきめた。安保条約については、「日米安保体制の解消をめざし、当面、それを可能とする国際環境づくりに努力する。将来、目米安保条約の廃棄にあたっては、日米友好関係をそこなわないように留意し、日米両国の外交交渉にもとづいて行うこととする」とした。これは、安保条約廃棄の国民世論がまだ小さいのでやむをえず存続させるというのではなく、安保解消の国際環境がつくられるまでは安保条約は必要なので存続させるという合意である。
これは安保条約をめぐる批判ですが、ここの「安保条約」という言葉を「自衛隊」に置き換えれば、そのまま現在の共産党の自衛隊政策にあてはまります。さらに、同論文は、自衛隊問題についても、次のように当時の社会党を批判しています。
社会党の「政策の懸案事項に関するプロジェクト」がまとめ、中執も了承した「自衛隊解消」の政策案も、「政権の安定度」「自衛隊の掌握度」「平和中立外交の進展の度合」「国民世論の支持」の4条件がすべて満たされるまでは自衛隊を存続させる、将釆の自衛隊解消のプロセスは「当面の処理の段階」「中間的見通しの段階」「究極目標の段階」の3段階とし、解消の国際環境がつくられるまでは自衛隊を存続させるとしており、事実上の自衛隊の長期存続容認論に立った社公合意路線そのものである。
共産党の場合、「4条件」が「2条件」になっていますが、決定的な問題は、「国際環境の安定化」を自衛隊解消の条件に入れたことですので、この場合、「4条件」と「2条件」との差は本質的な問題ではありません。
国際情勢の安定化と自衛隊との関係については、理論的に次の三つの考え方が想定できます。(1)自衛隊の存在は国際情勢の安定化に寄与している、(2)自衛隊の存在と国際情勢の安定化とは無関係である、(3)自衛隊の存在は、それ自体が国際情勢の安定化を破壊し、平和に対する脅威を作り出している。
もし共産党指導部が(3)の立場に立っているのだとしたら、自衛隊解消と国際情勢安定化との時系列的関係は、「国際情勢の安定化」→「自衛隊の解消」という順序ではなく、「自衛隊の解消」→「国際情勢の安定化」という順序になるはずです。「国際情勢の安定化」ないし「平和的国際情勢の成熟」のためには、安保条約のみならず、反動的軍隊である自衛隊の解散が必要であるということです。
次に、もし(2)の立場に立っているのだとしたら、自衛隊の解消の条件として、国際情勢を持ち出す必要はまったくありません。国際情勢と無関係に、選挙と法の手続きにのっとって憲法9条の完全実施をうたえばいいわけです。
このいずれでもなく、第22回党大会決定が、国民世論の成熟と並んで、「アジアの平和的安定の情勢が成熟すること」を自衛隊解消の本質的条件として持ち出してきたのだから、自衛隊「それ自体」は「国際情勢の安定化に寄与している」のだという立場をとっているのだ、ということになります。
もちろん、こう言えば、前衛氏は、安保条約下の現在の自衛隊ではなく、改革された自衛隊が問題になっているのだと反論されるでしょう。もちろん、安保条約下の現在のままの自衛隊が国際情勢の安定化に寄与している、と党中央がはっきりと断言していたとすれば、これもまた、誰の目にもはっきりとした右転落であり、90年代社会党の立場に立つことを意味します。たしかにそこまでは行っていません。80年代の社会党も、そこまでは行っていませんでした。
しかし、たとえ「改革された(?)自衛隊」が問題になっているのだとしても、やはり自衛隊は自衛隊であり、それが自衛隊ではない何ものかになったわけではありません。しかも、自衛隊は改革されさえすれば、国際情勢の安定化、アジア情勢の平和化に寄与することができるという立場に立っているのだと解釈した場合、さらなる問題が生じます。もし自衛隊が、「改革され」さえすれば、国際的な平和情勢に寄与することができるのだとすれば、なぜそのような素晴らしい軍隊を解消しなければならないのでしょう? 実に理解に苦しみます。もしそうならば、自衛隊の解消、憲法9条の完全実施などという政策を掲げるのはやめて、自衛隊を改革して真に祖国を守る軍隊にしよう、というスローガンを掲げるべきでしょう。
自衛隊必要論をめぐる論点(3)――自衛隊の「活用」
第三に、今回の大会決議が、自衛隊の活用を「政治の当然の責務」として肯定したことです。つまり、自衛隊が日本の平和維持のために活用できるのだという判断こそ、まさに自衛隊が平和の脅威ではなく、逆に平和を守るのに必要なものであるという立場に共産党中央が立っていることを露骨に示しています。もちろん、ここでも前衛氏の言い訳は用意されています。例の「それは改革された自衛隊だ」という理屈です。しかしこの理屈を持ち出すのは、この場合はなおさら的外れです。
前衛氏も指摘しているように、不破委員長(当時)は、昨年6月のインタビューで、自衛隊の活用を「当然」と発言し、数日後に掲載された『しんぶん赤旗』解説記事は、この活用論を、民主連合政府のみならず、野党連合政権においても有効であるという立場を表明し、あまつさえ、それを第12回党大会以来の一貫した立場であるとさえ強弁しました。この正式に表明された立場は、結局、第22回党大会においても明示的に否定されませんでした。とすれば、自衛隊は、改革される以前でさえ「活用」可能であるとする立場に、党中央はいまだに立ちつづけているということです。それどころか、大会において志位書記局長(当時)は、改革前の自衛隊にもあてはまるような活用正当化論を展開しました。志位氏は次のように述べています。
そのさい[急迫不正の侵略の際――引用者]には、「可能なあらゆる手段」を用いて、国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために全力をつくすことが、政治の責任であって、そのときに自衛隊が存在していたならば、この手段のなかから自衛隊を除外することは、国民の安全に責任をおうべき政党のとるべき立場ではないというのが、決議案の立場であります。「急迫不正の主権侵害」がおこったときに、国民に抵抗をよびかけながら、現に存在している自衛隊にだけは抵抗を禁止したとしたら、これはおよそ国民の理解はえられないことは明白ではないでしょうか。
この理屈は、別に「改革された自衛隊」にのみあてはまるものではありません。ここでの正当化論は、自衛隊がかくかくしかじか改革されているので、自衛隊を活用することができる、という論理ではまったくなく、どのような自衛隊であろうと、自衛隊がそこに実際に存在するかぎり、それをも用いるべきであるとする正当化論です。前衛氏におたずねしますが、今回の大会決定において、いったいどこで、自衛隊活用の本質的条件として「自衛隊の改革」が挙げられているのでしょうか? ぜひともその場所を明示し、その部分を引用してください。
党中央は、自衛隊の解消をめざす過程で急迫不正の侵略があった場合は、という問題設定をしているだけであり、自衛隊の活用の条件に自衛隊の改革を掲げているわけではありません。それは、現実の過程を少し想像すればすぐにわかることです。日本に対する「急迫不正の侵略」が起こる最もありうるケースは、左翼的な政権が成立し、それがアメリカ帝国主義の死活の利益を脅かすとアメリカ当局者にみなされる場合です。つまり、最も侵略の危険性があるのは、政権成立まもないころ、その初期の不安定期です。この時点では、当然、自衛隊の改革もさして進んでいないし、安保条約ですら、正式に解消されていないでしょう(一方的廃棄通告をしても、実際に廃棄されるのには1年かかる)。その時ですら、志位氏の説明論理によれば、自衛隊の活用は当然なのです。
以上のような解釈が非論理的であると前衛氏があくまでも主張されるのなら、党中央に正式に問い合わせを行ない、「活用」論は安保廃棄と自衛隊改革後に限られており、それ以前は、自衛隊は活用しないという立場だ、という言質をとられてはどうでしょうか? そのような回答が来るのを、われわれは楽しみに待っています。