不破、志位両氏の発言によれば、日本共産党は東チモールへの多国籍軍への財政支援に賛成を表明しています。また、東海村原発事故に関連しても、なお「新設機=反対、現行機=総点検」という程度の政策的対応しかできていません。
東チモール問題については、「お知らせ」によれば、『さざ波通信』10月号にて論じられるらしいのでそちらに期待することとしますが、私は東チモールへの軍事介入そのものに賛成できませんが、そのことを別にしても、共産党がこの多国籍軍への財政支援に賛成してはいけないと思います。「軍事費支出に賛成」の延長線上に何があるかをよく考えなければなりません。世界の労働者階級と被抑圧民族の利益に反する道と直結することとなるでしょう。
また、原発問題についても、原発の付近に住む人々の立場に立てば、現在稼働中の原発についても(いくつかの留保があっても)「容認」という政策が認められるのでしょうか。原発を推進したり、容認したりする人は、それが内閣総理大臣であろうが、日本共産党の委員長であろうが、これらの人々が原発の隣に住むべきでしょう。それができないなら原発容認の方針を出すべきではないでしょう。
話はそれますが、一連の報道を見ていて、ひどく腹立たしい思いをしたことがあります。それは、臨界を停止させるための作業、(3分間で70年分の被爆線量)、に労働者があてられたということです。まず、このような危険な作業にはその会社で高給をとっている順につまり、社長や重役が行くべきだと思いました。労働者の命を何と考えているのでしょうか。資本家の命は金にはかえられないけれども、労働者の命はどうでもいいのでしょうか。(社長にその技術があるかないかは二の次の問題です。)
現在、すでに原子力発電への依存は30%を越えているでしょうから、原発抜きにして日本のエネルギー政策は成り立ちません。しかし、安全性や核廃棄物の処理など未解決のきわめて困難な問題をかかえている以上、やはり脱原発の道を指し示さなければ、日本共産党の存在意義はありません。脱原発の道は、社会のあり方を根本的に変える見通し、つまり、社会の根本的変革の展望がなければ示せないでしょう。資本主義の枠内での変革=「資本主義の枠を守る」という基本方針からは、脱原発の道は示すことができないのでしょう。
東チモールや原発の問題は、いずれも「資本主義の枠を守る」という総路線の当然の帰結であります。
さて、日の丸君が代問題ですが、1999年10月6日付け「朝日新聞」に野中前官房長官の記者会見の記事が載っていました。以下に一部を引用します。
野中氏は、共産党の不破哲三委員長が国旗・国歌をめぐる国民的な議論を呼びかけたことが法制化をめざす大きな契機になったとしたうえで、「広島県立高校長の自殺は誠に痛ましく、日の丸・君が代問題で日本人同士が人間差別をする状態を作ってはならないと考えた」と語った。
この野中発言を見れば、国旗国歌の問題は、自民党が主導的に持ち出したものではなく、不破委員長の発言がきっかけとなったことが明らかです。自民党の幹部の発言にも、「法制化は必要ない」というものが、法制化が日程にのぼる直前まであったのですから、不破発言がなかったら、あるいは、法制化されなかった可能性が大きかったかもしれません。この問題については、私の投稿<法制化と国会 1999/6/30 木村>を参照して下さい。
日の丸君が代に反対する人たちから、「不破発言は法制化に手を貸した」と批判されたときに、私たち末端の党員は何と答えればいいのでしょうか。私には不破発言や「論座」のアンケートを擁護する論理は思いつきません。
私は日本共産党員であるからこそ日本共産党指導部を批判しなければならないと思っています。そして、日本共産党のすべての中央委員には日本人民とすべての党員に対する責務があります。中央委員のみなさん。あなたがたの革命家としての良心に照らして、この投稿の標題とした3つの問題、さらに現在の不破指導部の路線を検討して下さい。日本共産党の路線が果たして綱領に基づくものであるかどうか、これからの歴史の検証に耐えられるものであるかを。
若い党員の方々から学習の問題に関連するいくつか投稿がありました。今日的な意義からいえば、私はレーニンの「プロレタリア革命と背教者カウツキー」を読まれることをおすすめします。1999年10月1日付けの『しんぶん赤旗』に「日本共産党のプロフィール」という記事が載っていました。『さざ波通信』でも批判論文を発行して下さることを期待したいのですが、その中の「日本共産党の歴史」で「1922年7月15日党創立」とあります。付け加えれば、党創立と同時にコミンテルンへの加入を決めました。レーニンの指導のもとでコミンテルンは「共産党」であることに関する厳しい条件を定めました。第2インターナショナルに集まる「共産党」(社会民主党など)がすっかり革命と無縁な存在になってしまっていたからです。当時の状況はすぐれて現代的でもあります。