日本共産党資料館

志田一派の反党撹乱活動を粉砕するために

(『赤旗』1966年8月10日)


一、「解放戦線」を名のる反党裏切り分子たちの実態

二、反帝国際統一戦線に反対する分裂主義

三、反党撹乱活動を合理化するための事大主義


一、「解放戦線」を名のる反党裏切り分子たちの実態

 5月11日付『赤旗』主張「大会決定を全党的に学習し、アメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線の強化と国際共産主義運動の真の団結のために奮闘しよう」が指摘しているように、近来、大阪など一部の地域で、10年もまえにわが党から放逐されたひとにぎりの腐敗分子――志田重男一派の残党たちが、「日本共産党(解放戦線)」などと名のって党撹乱活動を開始している。

 「日本共産党(解放戦線)」とか、その「全国指導部」あるいは「XX地方委員会」などと署名したビラやパンフットが、大阪を中心に、関西や四国、北海道などの一部の地域にまかれだしたのは、昨年の秋ごろからのことである。このビラやパンフレットは、どれも、外国の党の名を利用しながら、「下からの革命的武装闘争」の準備など極左冒険主義の方針を挑発的にふりまわし、わが党にたいして「もっとも悪質な現代修正主義者」とかフルシチョフの修正主義路線をそのままとりいれて「議会主義政党になりさがった」とか、荒唐無けいな非難をあびせかけている。そして、自分たち、つまり「日本共産党(解放戦線)」こそが「日本共産党40年の歴史と伝統をうけついだ……日本革命を指導する唯一の党」だなどと主張し、その旗のもとに結集することを「全国の革命的労働者諸君」、「日本共産党(代々木派)内の同志諸君」によびかけるなど、文字どおり挑発者、党撹乱者としての正体をむきだしにしたものである。

 また、これらとならんで「政治メモ」と題する無署名の反党文書も、やはり大阪を中心に、ほぼ毎月1回の割合で各所に送りつけられている。これもまた、外国の党の主張や見解をふりかざしつつ、わが党の政策、方針を攻撃し、反党活動をよびかけることを、主な内容にしたものである。たとえば、その5月15日付の号では「いわゆる『自主独立』という右翼日和見主義に断固反対する」として、わが党の国際路線に口ぎたない悪罵をなげつけている。これが、同じ挑発者たちによる撹乱活動の一部をなしていることは、疑いない。

 「解放戦線」と称するこの挑発者たちは、自分たちがいかにも一個の「大勢力」であるかのようにみせかけようとして、志賀一派の手口にならって、わが党の名を詐称し、その「綱領」と「規約」なるものを発表したり、全国各地における「着実な前進」を呼号したりしている。だが、その実態は、ほんのひとにぎりの反党腐敗分子によるみじめな小集団――もっと具体的にいえば、昨年来、反党活動によって大阪府党組織から除名された水野進、上田等らが、第7回党大会以前に党から除名された吉田四郎、御田秀一らとともに、志田重男一派の残党たちをかきあつめてつくりあげた挑発者集団にすぎない。

 いったい、志田重男一派とは、なんだろうか。それは、もう10年もまえ、党の指導部に属しながら革命家として許すことのできない腐敗、堕落行為をおかし、またみにくい個人的野心をみたすために反党分派活動をくわだてて党から放逐された志田重男を中心とする派閥的な徒党のことである。したがって、「解放戦線」一派の本当の正体を明らかにするには、当時の志田一派の実態を簡単にでもふりかえってみる必要がある。

 志田重男は、1950年から55年の党の事実上の分裂の時期に、党指導の一部の中心にいた幹部である。党の分裂と、そのもとでおかされた極左冒険主義などの誤りは、党と革命の事業に深刻な損害をあたえ、党全体に大きな犠牲と困難をもたらしたものだったが、志田は、これらの誤りにもっとも重大な責任をおっていた幹部のひとりであった。

 1955年7月にひらかれた第6回党全国協議会は、党の分裂状態に終止符をうち、極左賃険主義などの誤りを大胆にえぐりだし、党の統一と新しい発展の方向を示した。このとき志田は、ひきつづき党の指導部にえらばれた。ところが、6全協後しばらくして、志田が、6全協までの期間に、党の幹部として許すことのできない一連の堕落行為をおこなっていたことが明らかになってきた。それは、たとえば、当時、多くの党活動家や党員が、極左冒険主義の誤りをふくむ方針のもとでも、党の革命的伝統をまもって、あらゆる物質的、精神的苦痛にたえ、大きな犠牲をはらいながら活動をしていた時期に、かれがしばしば同志にかくれて遊興していたなどの事実である。そして、党中央が、この問題について、かれの説明を求めると、志田は、これに答えることなく、1956年1月、突然、中央委員、常任幹部会員、書記局員としての重要な任務を放棄して、失そうしてしまったのである。この志田の失そうにつづいて、志田と「親分子分」的な関係で深いつながりをもっていた吉田四郎、御田秀一なども、その属していた部署から逃亡した。

 しかも、志田は、逃亡後、恥知らずにも、その逃亡の理由を党指導部内での政治的な意見の相違によるものであるかのようによそおい、吉田、御田らとともに、一部の不平分子、腐敗分子をかきあつめて反党分派を組織し、党に打撃をあたえようとくわだてた。これにたいし、党は、1957年5月の中央委員会総会で全員一致で志田の除名を決議(第7回党大会で確認)するとともに、吉田、御田らもそれぞれ除名した。(志田一派は、逃亡と反党活動の理由が政治上の意見の相違にあるかのようにみせかけようとした志田のでたらめな言い分を、いまでもそのままくりかえし、その証拠として、「6全協直後の1956年」に、「指導的地位にあった同志A」が党指導部に提出した「意見書」なるものを、かれらの機関誌に麗々しく掲載したりしている。しかし、志田からにせよ、あるいはその他の反党分子からにせよ、このような「意見書」なるものが当時の党指導部に提出された事実は、まったくない。結局、この「意見書」なるものをもちだしたことは、かれらの意図とは逆に、志田らの自他をあざむくための卑劣な小細工を暴露する証拠の一つとなっているのである)

 反動勢力は、志田一派のこの策動を、党撹乱のために最大限に利用しようとし、商業新聞などに志田一派による「第2共産党結成」を大々的に書きたてさせたり、さらには、公安調査庁自身がその手先機関をつかって、反党分派組織の結集をよびかけた「志田派テーゼ」なるものを増刷し、各地の党議員の自宅に送りつけるということまであえてした。しかし、このように、反動勢力の道具の役割を果たすところまで転落した反党堕落分子のみにくい策動が成功するわけはない。志田一派の懸命の工作にもかかわらず、かれらは拠点とたのんでいた大阪や北海道でも分派組織の足がかりをほとんどつくりだすことができず、全党の断固たる態度のまえに徹底的に粉砕され、1957年の春ごろまでには、政治的にも組織的にも、まったくみじめに破産した存在となっていた。

 1958年の第7回党大会政治報告は、志田一派の反党分派活動についてつぎのようにのべている。

 「6全協後の党活動が、そのなかに部分的な停滞と混乱をともないつつも、大局的には前進的な方向に向かっていることを理解しない一部の傾向を利用して、分派活動の策動が、党から逃亡して除名された志田重男を中心としておこなわれた。これらの策動の全ぼうは徐々に明らかになりつつあり、またその中心分子である御田秀一、吉田四郎を、党は除名したが、かれらの策動は、党の上に派閥の利益をおく個人中心の利己主義の醜悪なあがきにもとづいていることは明白である」(「日本共産党第7回大会決定報告集」、『前衛』臨時増刊7ページ)

 これが、10年まえの志田一派の反党活動のみにくい実態である。この事実は、志田一派が、共産党の純潔性を傷つける腐敗、堕落の道を歩んで共産主義運動から放逐され、最後には、反動勢力の党撹乱活動の道具として利用されるところまで転落した裏切り者であり、政治的にも道徳的にも完全に破産した階級脱落分子のもっとも醜悪な徒党にすぎないことを、きわめて明白にかつ具体的に物語っている。しかも、かれらは、その後も、階級的な堕落の道をますます進み、志田一派の中心分子の1人であった吉田四郎などは、現在では、牧場や牛乳販売店を経営し、多数の労働者を使う資本家にすっかり転身している。また、その残党の一部は、吉田四郎、御田秀一などとの連携を維持しながら、面従腹背的な態度でわが党の組織にとどまり、反党活動再開の機をうかがっていた。

 こういう連中が、いま、ここ数年来の国際共産主義運動の複雑な事態――現代修正主義の潮流によって重大な不団結と対立がうみだされ、さらに最近一連の新しい諸事件によって対立が複雑化してきた事態を投機的に利用して、年来のみにくい党撹乱の野望をとげようとして、新たな策動を開始したのである。

 すなわち、かれらは、1964年ごろから、「マルクス・レーニン主義研究会」の名のもとに反党雑誌『レーニン主義』を発行し、大阪その他の党組織内にひそかに配布し、党綱領をはじめわが党の方針に正面からの攻撃をくわえるなど、各種の党破壊活動を再開してきた。そして、1965年はじめに、大阪の反党分子の中心となっていた上田等らが党から追放されると、以前からつながりのあった愛媛や北海道の除名された反党分子をもかきあつめ、昨年8月、「日本共産党(日本のこえ)」を名のって反党活動をおこなっている志賀一派の詐欺的な手口にならって「日本共産党(解放戦線)全国指導部」なるものをでっちあげた。そして『レーニン主義』を『平和と独立』と改題してその機関誌にし、日本共産党指導部に反対する闘争への「決起」を呼びかけるビラをまくなど、公然と党破壊の旗をかかげるにいたったのである。

 このとき、これらの反革命、反党分子たちは、みかけだけでも「革命政党」の体裁ととのえようとして、「日本共産党(解放戦線)」の「綱領」や「規約」などを発表したが、皮肉なことに、この「綱領」や「規約」そのものが、みずからそのみじめな実態をさらけだす結果になっている。たとえば、その「規約」は、「日本共産党(解放戦線)」の組織として、「細胞」と「大会」、「全国指導部」しか規定せず、ぞの他の機関については、ただ、「必要に応じて中間機関を設けることができる」としてあるだけである。つまり、かれらの組織の実情では、「細胞」の一級上は「全国指導部」であって、その間の「中間機関」について特別のとりきめをしておく必要は、なにもないのである。これはとりもなおさず、「解放戦線」一派なるものも、とるにたりない少数の腐敗分子からなりたつほんのひとにぎりの小集団にすぎないという実態を、自認したものである。かれらは、愛媛などでは、「四国地方委員会」などと署名したビラをしきりにまいているが、この「地方委員会」なるものも、わずか数名の反党分子からなる小グループにすぎないのである。

 また、かれらの政治方針を定式化したという「綱領」は、その大部分が、第7回党大会で廃棄されたいわゆる「51年綱領」を一面的にひきうつしにしただけのものである。いうまでもなく、「51年綱領」は、党が分裂状態にあった時期につくられたものである。そしてその内容においても、アメリカ帝国主義との闘争と独立の課題の重視などの点で一つの歴史的な積極面をもってはいたが、戦後の日本の情勢や支配勢力の分析、革命の性格や展望、革命を達成する手段の問題などでは、日本の現実に合致しない一連の誤りと欠陥をふくみ、極左冒険主義などの誤りの一つの基礎をなしたものであった。そのために、「51年綱領」は、わが党の前進の過程で廃棄されたのである。これを、十数年もたった今日、そのままもちだして、「革命的路線」なるものの指針にしようとすることが、どんなに時代錯誤の誤りであるかは、論じるまでもないところであろう。かれらの「規約」にしても、当面の革命の性格についてのべた部分などは、やはり党の分裂当時つくられ、のちに廃棄された5全協規約草案(1951年)の該当個所をまるうつしにしたものである。志田一派は、わが党に深刻な打撃をあたえ、かれら自身も重大な責任を負う極左冒険主義などの誤りについてまったく無責任なほおかむりをしたうえ、さらに、それをうみだした当時の誤った政治方針を現在の日本人民の闘争のなかにそのままもちこもうとしているのである。この事実をみるだけでも、志田一派の正体――かれらが、わが党と日本人民の闘争を撹乱すること以外になんの目的ももたない、反党、反革命の挑発分子であることは、まったく明らかであろう。

 だが、志田一派が、理論的にも混乱し、組織的にもひとにぎりのみじめな挑発者集団であるからといって、われわれは、かれらの党撹乱策動を軽視してはならない。というのは、かれらが、なによりもまず、外国の党の文献や主張を事大主義的にふりかざして、わが党への非難を根拠づけ、それによって、わが党と民主勢力にはたらきかけようとしているからである。

 たとえば、すでにのべたように、かれらは、これまで、わが国の情勢の科学的分析をまったく無視した極左冒険主義の方針をしきりにふりまわし、その立場から、わが党の綱領の路線を「修正主義」だ、「議会主義」だといって口をきわめて非難してきた。だが、わが党が、かつて党の分裂の時期にあらわれたような極左冒険主義の方針を今日ふたたび採用した場合、それをもっともよろこぶのは、アメリカ帝国主義と日本の反動勢力である。このことは、ほとんど論議するまでもないことである。この場合、かれらがこの挑発的な主張の最大の「理論的根拠」としたのは、暴力革命の問題についての外国の党の論文だった。

 また、かれらは、最近では、アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線の問題をはじめ、わが党の国際路線に攻撃を集中しているが、ここでもまた、かれらは、これらの問題についての特定の外国の党の見解や方針をほとんど唯一のよりどころにしている。

 さらに、かれらは、特定の外国の党の旗のもとに結集し、その党の方針を自分の方針とすることが、すべてのマルクス・レーニン主義者の義務だとまで主張し、わが党が自主独立の立場を堅持していることを非難している。

 このような志田一派の態度、外国の党の主張や見解を無条件に支持し礼賛するという事大主義、現代教条主義の態度は、いったい、なにを意味するだろうか。

 志田一派の最大のねらいは、こうして外国の党の名を利用することによって、自分たちの反党挑発活動を、日本共産党の「修正主義」に反対する「マルクス・レーニン主義者」の闘争であるかのようにみせかけ、反共主義の徒党としての恥すべき反革命的正体を粉飾することにある。とくに、志田一派が、わが党と民主勢力のあいだに、「善意からではあるが、外国の党の指導部を無条件に崇拝し、マルクス・レーニン主義の古典およびわが党の文献よりも、諸外国の兄弟党の文献を重視して、それを基準にしてわが国の問題を判断しようとする事大主義、教条主義の傾向」(5月11日付『赤旗』主張)が、ごく一部にではあるがなお残っていることにつけこみ、党撹乱の効果を最大限に発揮しようとしていることは、明らかである。

 したがって、われわれは、志田一派の党撹乱活動を軽視することなく、かれらが事大主義的な態度でふりまわしている教条主義、セクト主義、冒険主義の主張を徹底的に打ち破り、種々の党破壊のたくらみを徹底的に粉砕し、このひとにぎりの反党反革命の徒党を全面的に粉砕する断固とした闘争をおこなわなくてはならない。

 この点で、まず、志田一派が最近力を集中している、わが党の国際路線にたいする中傷、非難を粉砕しよう。この問題についてのかれらの主張をもっとも包括的な形でのべているのは、はじめに紹介した反党文書「政治メモ」5月11日号の論文「いわゆる『自主独立』という右翼日和見主義に断固反対する」(以下「政治メモ」と略称)である。以下、この論文を中心に、国際路線の問題についてのかれらの主張の内容とその本質を、明らかにしていくことにしよう。

 なお、国際路線の問題についての志田一派の主張の内容にはいるまえに、ひとことふれておく必要があるのは、かれらが、わが党の国際路線を「宮本路線」などとよんで、あたかも宮本書記長個人の主張や見解であるかのように描き出そうとしていることである。

 国内問題についての政策にしろ、国際路線の問題にせよ、わが党中央が主張し実行している路線が、党大会や中央委員会で決定された基本方針にもとづくものであることは、わが党の活動の実際にてらしてみさえすれば、だれの目にも明らかである。わが党では、第7回大会以後、大会、中央委員会は、すべて規約にもとづいて定期的に開催され、民主的に運営されているし、党の路線は、大会、中央委員会で決定され、中央委員会でえらばれた幹部会の集団指導によって具体化されている。実際、志田一派がいま問題にしている国際路線にしても、それは、第9回党大会で全員一致決定された党の公認の路線であり、そのことはかれらの反党文書自身も認めているところである。(そればかりかこの反党文書は、第9回党大会の決定に「教条主義」的に固執しているといって「宮本路線」なるものを非難しているほどである)

 では、志田一派が、この明白な事実に目をふさいで、しきりに「宮本路線」なるものをうんぬんするのはなぜだろうか。その意図は、まったくみえすいている。かれらは、これで、党大会の決定にもとづく党中央の活動を、なんらかの個人的な、あるいは「派閥」的な活動であるかのように中傷し、そこに自分たちの反党活動の一つの口実をみつけようともくろんでいるのである。かれらは、日本人民の唯一の前衛党である日本共産党に反対しているのではなく、ただ「宮本路線」や「宮本一派」に反対しているだけであるかのように、みせかけようとしているのである。こうした手口は、かれらだけではなく、志賀、神山、内藤、春日(庄)ら反党修正主義分子にも共通したものである。しかし、これらの反党分子が、いくらこんなみえすいた論法をもちだしてみても、かれらが、戦前戦後をつうじてマルクス・レーニン主義の旗を高くかかげてたたかいぬいてきた日本共産党に敵対し、日本の労働者階級と民主勢力に敵対する、反党、反人民の分子であることをかくすことはできない。しかもこの中傷は、少しでも事情を知っている人には、ただ物笑いの種になるだけであろう。なぜなら、当の志田一派こそ、かつてわが党に派閥的な個人中心指導をもちこんだ元凶であり、志賀、神山、内藤、春日(庄)らもまた、いずれも個人を組織のうえにおく小ブルジョア個人主義者であったこと、そして、かれらの不純分子を追放することにより、わが党が、いかなる派閥主義とも無縁な、民主集中制と集団指導の組織原則をいよいよ強化してきたことは、天下にかくれもない事実だからである。

二、反帝国際統一戦線に反対する分裂主義

 志田一派は、反党文書「政治メモ」のなかで、わが党の国際路線を攻撃するにあたり、まず、その非難の第一のほこ先を、アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線についてのわが党の方針にむけている。少し長いが、その主張の要点を、引用しておこう。

 「5月11日付論文は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の拡大は今こそ国際統一行動と統一戦線の強化と拡大を緊急の任務として全世界人民の前に提起している、とのべ、ベトナム戦争に勝つためにはソ連の修正主義とも統一行動をとるべきであるという立場を主張している。
 いったいこの論文の筆者たちはソ連共産党指導部を中心にした現代修正主義を本気でアメリカ帝国主義と闘争する勢力だと考えているのだろうか?……現代修正主義とは、マルクス・レーニン主義の陣営から敵陣営に寝返りした裏切り者だという認識は全々もちあわせていないのだろうか。
 この論文の筆者たちは、まだ正しい認識や自覚に到達していない社会民主主義政党やその支配下の大衆と、裏切り者とを同一視している。そしてまた、敵陣営内の対立にもとづく主敵以外の一部勢力との一時的にせよ統一行動をとることの必要牲というマルクス主義的戦術を、修正主義との闘争という、原則上の問題の領域にまでもちこんでいる。レーニン主義者を名のるこの論文の筆者たちは、レーニンが統一行動という戦術を行使する一方では、第2インターの裏切り者に対しては断じて妥協しなかった歴史上の教訓を完全に無視しているか忘れてしまった。なぜこれらの人たちはレーニンの原則からはずれたのか?
 宮本路線を歩く人たちは結局のところ戦争の恐怖心にとりつかれており、アメリカ帝国主義への恐怖心にとりつかれてしまったのだ。だからこそあわてふためき、何が何でも勝ちたい、このままでは危ない、そのためには敵・味方のけじめもつけず、ソ連修正主義者にも助けを求めよう、というのが真相である。
 ベトナム戦争とは、全世界の階級闘争、全世界の解放戦争の一部である。それはわれわれのたたかいである。そうだとするならば、国際的にみてもわれわれ自身の手によってこれをたたかいぬかねばならないのであって、けっして裏切り者や、敵と通じている連中と手をにぎってはならないのである。第一そのような助けをかりても勝利するものではないし、たとえ一時的に勝利したとしても、それは本当の勝利ではなく、一時的な勝利のなかから次の敗北への芽をはらんだニセの勝利にすぎないのである。……
 『宮本路線』それはプロレタリアートの戦闘力を信じきれず、敵の力と戦争のきびしさに恐怖心をいだく、徹底した小ブル的右翼日和見主義である」(「政治メモ」)

 この一文には、修正主義との闘争を理由として、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する国際統一行動と国際統一戦線の強化という切迫した任務を回避する教条主義、セクト主義の見地が、もっとも典型的な形であらわれている。

 わが党は、この種の議論の誤りについては、すでに一連の論文、とくに「アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために」(1966年2月4日付『赤旗』)および「ふたたびアメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線の強化について」(1966年8月8日付『赤旗』)のなかでくわしく解明した。そのなかでわが党は、反帝国際統一行動と統一戦線の強化のための闘争こそが、今日、アメリカ帝国主義の侵略にたいするもっとも効果的な反撃であると同時に、現代修正主義をはじめとするいっさいの日和見主義を克服する闘争をもっとも正しく前進させる道でもあることを、理論的にも実際的にも明らかにしてきた。

 わが党のこの見地が、ソ連共産党指導部との統一行動を、無条件、無前提に主張しているものでないことはいうまでもない。わが党は、ベトナム人民の抗米救国の闘争の利益に合致し、国際的な反帝闘争の利益に合致する明確な共同の目漂と、一定の明確な前提条件のもとで、結集しうるすべての反帝勢力を結集して、国際統一行動、国際統一戦線を前進させることを、主張しているのである。そして、わが党は、志田一派がここで展開しているような主張、つまり、修正主義との闘争を理由として、ソ連共産党指導部などをベトナム問題での態度いかんにかかわらず国際統一戦線から機械的に排除しようとする主張が、結局は、国際共産主義運動および社会主義陣営を分裂させ、反帝民主勢力の国際的団結を妨害することであり、ベトナム人民をはじめ世界の人民の反帝闘争の利益にそむき、アメリカ帝国主義をよろこばせるだけの、分裂主義的見地におちこまざるをえないことを、明確に指摘してきた。

 「政治メモ」の一文は、わが党のこの主張の正しさを、かれら自身の言葉で、具体的に裏書きしたものである。

 志田一派は、ここで、反帝国際統一戦線の強化を主張するわが党の方針にたいして、「戦争をおそれ、アメリカ帝国主義をおそれている」などと叫びたてている。これは、その理論的無内容をデマと中傷でおおいかくそうとするもので、まさに、堕落した反党分子にふさわしい手口である。いったい、アメリカ帝国主義のベトナム侵略にたいして、全世界の反帝民主勢力の力を結集し、反帝国際統一戦線をもって反撃するよう主張することが、どうして「戦争をおそれ、帝国主義をおそれる」ことになるのか。志田一派の論法でゆけば、1935年、コミンテルン第7回大会で、反ファシズム統一戦線をもってファシズムの攻勢に反撃することを主張した世界の革命運動の指導者たちも、「戦争をおそれ、ファシズムをおそれた」日和見主義者だということになるだろう。とくに、日独伊のファシズム、軍国主義に対抗する反ファシズム連合戦線の一翼に英米帝国主義をくわえたスターリンは、さしずめ「戦争をおそれ、帝国主義をおそれる」日和見主義者の最大のものということになろう。さらにまた、第1次大戦後に、国際的な資本攻勢に対抗するために、第2インターの日和見主義的指導部をふくむ統一戦線を提唱したレーニンでさえも、「資本攻勢をおそれるあまり、敵味方のけじめをわすれた」右翼日和見主義者としての非難をまぬがれえないことになろう。これらの例をみるだけで、志田一派の論法のデマと中傷の本性は明白である。

 だいたい、わが党を「戦争と帝国主義をおそれる」などといって非難することほど、的はずれの中傷はない。党創立以来44年の歴史が事実をもって示しているように、わが党は、戦前、戦後をつうじて、内外の帝国主義者や反動勢力のいかなる弾圧、迫害をもおそれず、断固として、侵略戦争に反対し、あるいは帝国主義的抑圧に反対する、一貫した不屈の闘争をつづけてきた。これにたいして、志田一派とはなにものであろうか。この一派の中心となった志田重男は、過去において、わが党の革命的伝統にそむき、天皇制軍国主義の圧迫に屈した経験をもつ人物であり、この徒党全体は、6全協以後の党活動の困難な時期に党の戦列から脱走し、党と革命の事業を裏切って、反動勢力の党撹乱の道具となった裏切り者の徒党である。このような徒党が、恥知らずにもわが党にたいし、「戦争をおそれ敵をおそれる」といった式の悪罵をあびせかけているのである。これこそ、まさに、身のほど知らずの中傷といわなければならない。

 志田一派の主張の本当の政治的本質は、「帝国主義をおそれるな」、「戦争をおそれるな」、「プロレタリアートの戦闘力を信頼せよ」などの威勢のよい「革命的」なカラ文句のかげにかくれて、ベトナム人民の闘争の勝利のために、かれらが実際にどのような方針を提出しているかをみれば、たちまち暴露されてしまう。

 志田一派がここで言っていることは、結局、具体的には、ベトナム人民も世界の反帝勢力も、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する闘争で「ソ連修正主義者」の手をかりるべきではない、ベトナム人民は、ソ連をはじめ現代修正主義の影響下にみる国家や人民からの援助をいっさいうけないでたたかえ、ということにつきる。

 これは、「修正主義との闘争」という「革命的」な看板のもとにもちだされているが、実際には、まったく、フルシチョフ修正主義の日和見主義路線を裏がえしにしただけのものである。

 かつて、フルシチョフを先頭とするソ連共産党指導部は「一点の火花も世界大戦になる」という誤った恐怖心からアメリカ帝国主義のベトナム侵略にたいして断固反対することを避け、社会主義国家として当然の義務であるベトナム人民への国際的支援を極力回避するという裏切り的態度をとった。アメリカ帝国主義がソ連共産党指導部のこうした態度によって勇気づけられ、それを利用してついに社会主義陣営の一員であるベトナム民主共和国にたいする正面からの侵略行為にふみきり、侵略戦争をさらに拡大していったことは、周知のことである。

 その後、フルシチョフは失脚し、フルシチョフ失脚後のソ連共産党指導部は、その対米追従の日和見主義路線にたいするマルクス・レーニン主義的潮流のきびしい批判や、断固とした反帝闘争を要求する世界人民の圧力のもとで、またベトナム侵略のいっそう凶暴な拡大に直面して、フルシチョフ以来の対米追従路線に一定の手直しを余儀なくされるようになった。すなわち、アメリカ帝国主義のベトナム侵略を糾弾する態度をより明確にし、武器援助をふくむベトナム人民への支援を具体的に強化せざるをえなくなってきたのである。

 もちろん、わが党がくりかえし指摘してきたように、このことは、ソ連共産党指導部が従来の日和見主義、修正主義の路線を根本的に放棄したことを意味するものではない。事実、ベトナム人民への援助はソ連の国力や情勢の切迫した必要からみればまだ十分なものではないし、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対するその態度においても、なお種々の動揺性と不徹底さがふくまれている。さらに国際政治全般の分野では、たとえば「核拡散防止条約」をめぐる動向にも示されているように、従来どおりの対米追従路線を維持復活させようとする傾向も根づよく存在している。ソ連共産党指導部の反帝闘争の方向への「転換」を過大視して、これらの不徹底さや、日和見主義・修正主義路線の存続の危険を軽視することが誤りであることはもちろんである。

 しかし、こうした弱点や危険にもかかわらず、ソ連共産党指導部がベトナム問題でフルシチョフ時代の「不介入」政策をあらため、ベトナム人民の闘争への支援の方向に政策上の手直しをおこない、ベトナム民主共和国の4項目の主張と南ベトナム解放民族戦線の5項目の声明を支持しはじめたことが、ベトナム人民の闘争にとって、積極的意義をもつことは明白である。真にベトナム人民の勝利を願う反帝民主勢力にとっていま必要なことは、ソ連共産党指導部の二面的態度のなかにあるベトナム人民を支援するうえでの動揺や不徹底さをひきつづき批判し、国際共産主義運動とすべての社会主義国が、反帝民主勢力の先頭にたって、アメリカ帝国主義に反対する断固とした態度を一貫してとることを要求することであり、反帝国際統一戦線の結成と強化、ベトナム人民への国際的支援の強化のための闘争をいっそう強めることである。そして社会主義陣営からの援助が真に現在の力関係にふさわしい水準に高められ、1960年の声明の「社会主義陣営の団結した力は、個々の社会主義国を帝国主義反動の主権侵害から確実に守る保障である」という見地が具体化されるよう努力することである。ここに、ベトナム人民の闘争にたいする最大の政治的援助としての、国際統一行動、国際統一戦線のための闘争の一つの重要な意義がある。

 ところが、志田一派の教条主義者たちは、ソ連共産党指導部が、事態の発展と全世界人民の圧力のもとで、従来の「不介入」政策をつづけられなくなり、ある程度ベトナム人民の要請にこたえて具体的支援を強化した段階で、国際的支援のいっそうの強化を要求するのではなく、「そのような助けをかりても勝利するものではない」、そんなものはない方がよいなどと叫びだしたのである。志田一派のこの主張が、結局のところ、ソ連共産党指導部がフルシチョフ時代そのままの裏切り的政策をつづけて、ベトナム人民を支援しない状態を持続することの方をのぞみ、歓迎する立場にたつものであることは、明瞭であろう。志田一派の「革命的」方針とは、現実には、フルシチョフの日和見主義路線を裏がえしにしただけのものであり、ベトナム人民の闘争にたいする国際的支援の強化を求める、ベトナム人民と世界の反帝勢力の切実な要求に背をむけた立場にほかならないのである。

 さらに、志田一派のこの主張は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する世界の反帝民主勢力の団結、世界各国人民の団結を妨害する点でも、フルシチョフらの修正主義路線とまったく同じ政治的役割を演じている。志田一派は、われわれは「裏切り者」であるソ連共産党指導都との統一行動に反対しているだけで、広範なソ連人民や、ソ連共産党員との統一戦線に反対しているのではない、世界の圧倒的多数の革命的人民を代表する「真の反米統一戦線」のためにたたかっているのだというかもしれない。だが、これは、一時のがれの逃げ口上にすぎない。ソ連共産党指導部が、今日におけるソ連共産党とソ連人民の公式の指導部である以上、これを、国際統一行動、統一戦線から機械的に排除するという方針をとるならば、ソ連共産党指導部が代表しているソ連共産党とソ連人民を反帝勢力の統一戦線にひきいれることができないのは、自明の理である。また、こうした方針が、同じ理由で、今日、現代修正主義の潮流の影響下におかれているすべての共産党・労働者党とすべての社会主義国家、その指導下のすべての平和、民主団体を国際統一行動、統一戦線から排除するという分裂主義的な立場にみちびかざるをえないことも明白である。

 しかも、ここでとくに重視しなければならないのは、志田一派のこうした主張が、世界人民の強い要求を背景に、フルシチョフ以来の分裂主義路線が、一定の後退を余儀なくされ、本年1月の3大陸人民連帯大会などをつうじて、ベトナム侵略に反対する国際統一行動と国際統一戦線が具体的に前進しはじめた段階で、いよいよ強くもちだされてきたことである。志田一派の立場は、反帝勢力の国際的団結を妨害したフルシチョフの分裂主義を裏がえしの形でひきついだものであり、結果的にもフルシチョフのそれと寸分ちがいのない役割を演ずるものである。

 このように、志田一派がベトナム問題で主張している「革命的」方針とは、二重の意味で、フルシチョフら現代修正主義の潮流の日和見主義、分裂主義の路線と事実上同じ結果におちいるものである。「帝国主義をおそれるな」「戦争をおそれるな」などというかれらの「革命的」スローガンは、アメリカ帝国主義のベトナム侵略が世界の反帝勢力のまえに提起している重大な課題 反帝民主勢力の団結した力による効果的な反撃、国際的支援の強化を回避する日和見主義、分裂主義を合理化するための革命的カラ文句にすぎない。

 そして、志田一派は、このような反人民的見地をおおっぴらに主張することによって、反修正主義闘争を口実にして事実上、反帝国際統一戦線に反対する議論が、結局、アメリカ帝国主義の侵略と戦争の政策をはげますだけの反人民的な分裂主義の立場に到達せざるをえないことを、実証してみせているのである。

 つぎに志田一派が、反帝国際統一戦線に反対し、ベトナム人民への国際的支援の強化に反対するその分裂主義を、なんとか理屈づけようとしてもちだしている、いくつかの論点を検討してみよう。つぎにみるように、これらはすべて、かれらの主張が、マルクス・レーニン主義にも、反帝闘争の実際の利益にも、まったく相反したものであることを、いっそう深く暴露している。

1、レーニンの統一戦線政策の歪曲

 志田一派が、まず第一にもちだすのは、修正主義との闘争は「原則」問題であって、ここではいかなる妥協もありえず、修正主義との統一行動、統一戦線を主張することは、「レーニンの原則」をふみはずすものだという議論である。さきに引用した文章にも明らかなように、志田一派によれば、レーニンの統一戦線政策とは、社会民主主義政党および「敵陣営内」の「主敵以外の一部勢力」にたいしてだけ適用されるものであって、修正主義者にたいしては、適用することの許されないものであるらしい。しかしマルクス・レーニン主義の統一戦線戦術にたいする無知を、これほど露骨にさらけだした議論は、ちょっとみあたらないだろう。

 まず、レーニンが統一戦線の問題において、修正主義の潮流と社会民主主義政党のあいだに原則的区別をもうけていたなどという主張には、なんの根拠もない。この主張の誤りは、志田派が当時の修正主義の潮流の代表としてとりあつかい、レーニンが「断じて妥協しなかった」と強調している「第2インターの裏切り者」たちこそが、第1次世界大戦後の時期における社会民主主義の主勢力である(今日の社会民主主義政党はその後継者である)ことをみただけで、明白であろう。そして、レーニンは、コミンテルンの創設後も、情勢がこれを要求する場合にはコミンテルンがこの第2インターと統一行動、統一戦線の政策をとることを、けっして拒否しなかったのである。

 ところが、志田一派は、一方で、レーニンが社会民主主義政党にたいして「統一行動という戦術を行使」したことを認めながら、他方で、レーニンは第2インターの修正主義者とはいかなる行動の統一も拒否したなどと主張しているのである。かれらは、これによって、自分たちが、第2インターの修正主義者にたいするレーニンの闘争の実際の内容についてまったく無知なばかりか、第2インターが社会民主主義政党の国際組織であったという周知の事実さえもろくに知らないで、ただ自己の暴論を合理化するためにレーニンの第2インターとの闘争をうんぬんしているにすぎないことを、天下にさらけだしてしまったのである。

 いっそうこっけいなのは、志田一派が、修正主義的潮流との統一行動は、マルクス・レーニン主義の原則に反するものとして最大限の非難をあびせながら、「敵陣営内」の「主敵以外の一部勢力」、つまり主敵以外の敵と統一行動をとることを、正当な「マルクス主義的戦術」として支持していることである。

 もちろん、第2次世界大戦におけるソ連と米英帝国主義との一時的な連合や、その他の歴史的経験が具体的に示しているように、当面の主敵をたおすために、敵陣営内の矛盾や対立を利用することはマルクス・レーニン主義の統一戦線戦術の重要な要素の一つをなしている。しかし、このことを指摘することは、志田一派の反マルクス・レーニン主義的立場を合理化する根拠となるものではけっしてない。それは反対に、志田一派の議論の矛盾と破綻を、いっそう浮きぼりにしてみせるだけである。

 志田一派が主張しているように、主敵をたおすために、敵陣営内部の矛盾を利用することが、正しい「マルクス主義的戦術」だとしたら、同じ目的のために、帝国主義と修正主義的潮流の指導下の国家・党のあいだの矛盾を利用することが正しいマルクス主義的戦術であることは、なおのこと明白ではないだろうか。第2次大戦のさいに、世界人民の主敵であった日独伊の軍国主義とファシズムを打倒するために、米英帝国主義との一時的な同盟をもふくむ反ファシズム連合戦線の政策をとったことが正しかったとしたら、今日、世界人民の主敵であるアメリカ帝国主義のベトナム侵略をうちやぶるために、アメリカのベトナム侵略に反対しベトナム人民を支援する態度を表明しているすべての勢力を、国際統一戦線に結集する方針をとることが、マルクス・レーニン主義の統一戦線政策の正しい適用であることは、いっそう明らかではないか。

 それとも、志田一派は、ソ連共産党やその指導部は、アメリカ帝国主義とともに、反帝国際統一戦線の打撃を集中すべき世界人民の主敵だとでも主張するのだろうか。実際、そうでも主張しないかぎり、志田一派が、一方で敵陣営内部の矛盾の利用を「マルクス主義的戦術」として承認し、他方で、ソ連共産党指導部とのいかなる統一行動も「革命への裏切り」として非難するというその矛盾を、糊塗する道はないはずである。しかし、もし、そうだとしたら、それは、志田一派の立場を、いよいよばかげたものにするだけである。ソ連を単純に敵陣営に寝がえった裏切り者とみなす志田一派の議論については、あとでも検討するが、このように、社会主義陣営の一員であるソ連をアメリカ帝国主義と同列に世界人民の主敵としてとりあつかい、事実上反米反ソの国際統一戦線をとなえる「ソ連主敵論」にいたっては、その愚劣さは、くわしく検討するまでもなく明瞭だからである。

 このように、志田一派は、自分でもちだした「論拠」によって、その主張の足場を掘りくずすという、こっけいな立場に追いこまれてしまったのである。

 志田一派のこの議論のもっとも根本的な誤りは、修正主義者との統一行動を原則的に否定し、修正主義者にたいしてはつねに組織的に「一線を画す」ことが、「レーニンの原則」だという主張のうちにある。これは、レーニンの理論と活動について聞きかじりの知識しかもたないものだけが主張しうる、レーニン主義のでたらめきわまる歪曲である。

 わが党が『赤旗』2月4日付および8月8日付の二つの論文で歴史的事実とレーニン自身の主張にもとづいてくわしく解明したように、レーニンは、内外の修正主義、日和見主義の潮流を克服する闘争の過程で、ある条件のもとでは、これらの潮流との統一行動、統一戦線の政策をとることを、けっしてこばまなかった。

 「レーニンは、一定の条件のもとでは、日和見主義、修正主義の潮流と組織上も一線を画することを主張した。だが、同時に、他の一定の条件のもとでは、とくに、日和見主義、修正主義の潮流の指導部がたとえ不徹底にもせよ、また欺まん的でさえあっても帝国主義や反動勢力との闘争を公然と主張して、まだその誤った路線の本質を明確に自覚していない広範な大衆に一定の影響力をもっており、労働者階級と人民の広範な部分が行動の統一をつよく求めている場合には、帝国主義や反動勢力との闘争において、日和見主義、修正主義の潮流をもふくむ行動の統一の必要を積極的に強調した。
 それはこうした統一行動、統一戦線の政策が、第一に、広範な労働者階級と人民を帝国主義と反動勢力にたいする闘争に結集することに役立ち、帝国主義と反動勢力に効果的な打撃を加えうるからである。第二に、日和見主義、修正主義の潮流の影響下にある労働者階級と人民が、自分自身の政治的経験を通じて帝国主義や反動勢力にたいしてだれが徹底してたたかい、だれが妥協するかを知り、日和見主義、修正主義の路線の誤りと害悪を理解して真に革命的な立場に移行するのを助けることに役立つからである。その際にも、レーニンが、思想上、政治上の批判と闘争をけっしてやめなかったことはいうまでもない」(「ふたたびアメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線の強化について」、1966年8月8日付『赤旗』)

 さらに、レーニンは、この革命的二面政策が例外的な事態のもとでの特殊な戦術ではけっしてなく、むしろ革命の勝利を準備する「長期にわたる過程」で、日和見主義、修正主義の潮流を克服する闘争に広範に適用されるべき,マルクス・レーニン主義党の基本的な政策の一つであることを、明らかにした。そして、ただ日和見主義、修正主義の潮流の誤りや「裏切り」を暴露するだけで、それとのいかなる統一行動をも原則的に拒否しようとした「左翼」セクト主義者たちを、革命の事業をそこなうものとして、つよく批判した。

 「プロレタリアートの前衛としては、プロレタリアートの自覚した部分としては、すなわち共産党としては、迂回することが必要になり、プロレタリアのいろいろなグループ、労働者や小経営主のいろいろな党と協調し、妥協することが必要となり、それも無条件に必要となり、絶対に必要となるのである。すべての問題はプロレタリア的自覚、革命精神、闘争能力と勝利をかちとる能力の一般水準を引下げず、高めるために、この戦術を適用するすべを知ることである。……これは長期にわたる過程である。そして『どんな妥協もしない、どんな迂回政策もとらない』という性急な『決定』は、革命的プロレタリアートの影響を強め、彼らの勢力を増強する仕事に害をあたえるにすぎない」(レーニン「共産主義内の『左翼主義』小児病」、全集31巻、61~62ページ)

 志田一派の反党教条主義者たちは、レーニンが批判した「左翼」セクト主義者たちの誤りをもっと極端な、裏切り的ともいうべき形でくりかえし、しかもそれを、恥知らずにも「レーニンの原則」という名のもとに主張しているのである。

 かれらは、そこで、「戦術」と「原則」の区別などをうんぬんしているが、これは、マルクス・レーニン主義の統一戦線「戦術」と反修正主義闘争の「原則」についてのかれらの一知半解ぶりを、もう一度暴露したものである。すでにくわしく明らかにしたように、統一戦線戦術におけるマルクス・レーニン主義の原則的見地とは、日和見主義、修正主義の潮流とのいっさいの統一行動をつねに拒否することにあるのではない。この原則的見地は、共産主義者が、必要な場合には、大衆の要求にこたえて、日和見主義、修正主義の潮流をふくむもっとも広範な統一行動、統一戦線のために努力すること、そしてこの努力を、日和見主義、修正主義に反対する思想上、政治上のたたかいと正しく結びつけることを要求しているのである。現代修正主義にたいする思想上、政治上の闘争を弱めることなく、同時に、人民の要求と期待にこたえて、反帝国際統一戦線の結成と強化のためにたたかっているわが党の方針は、「レーニンの原則」にもっとも合致した方針である。そして「修正主義者とはいかなる統一行動もありえない」などという命題を勝手につくりあげ、これをマルクス・レーニン主義の「原則」であるかのようにふりまわす志田一派の主張こそ、マルクス・レーニン主義の統一戦線戦術とまったく相反する原則的な誤りにほかならないのである。

 志田一派はまた、「修正主義者との統一行動はありえない」という主張の裏づけの一つとして、志賀一派の反党修正主義者の問題をもちだし、「日本における修正主義である志賀一派と、どうして公然と統一行動ができようか」(「政治メモ」)、それができないとすれば、ソ連の修正主義者と統一行動ができないのも当然ではないか、などといっている。しかし、反帝勢力の統一戦線をめざす闘争において、ソ連の人民と国家を公的に代表しているソ連共産党およびその指導部と、志賀一派のひとにぎりのわが党の裏切り者とを同列にあつかいえないことは、わが党がすでに2月4日付の論文のなかで、疑問の余地なく明確に指摘したところである。それにもかかわらず、志田一派が、性こりもなく同じ議論をむしかえすのは、ただ、その理論的根拠のなさをおおいかくすために、手当り次第どんな口実でも利用しようとするかれらの卑劣なやり方を、示しているだけである。

2、ソ連共産党指導部とアメリカ帝国主義の同一視

 志田一派が、修正主義者とのいっさいの統一行動を拒否するその反マルクス主義的主張をなんとか合理化しようとして、つぎにもちだすのは、ソ連共産党指導部は、「マルクス・レーニン主義の陣営から敵陣営に寝返りした裏切り者」であり、アメリカ帝国主義に対する闘争でこれと統一行動をとることは、「敵・味方のけじめを忘れることだ」という議論である。つまり、ソ連共産党指導部などは、基本的にアメリカ帝国主義の陣営に属し、世界人民の敵、反帝国際統一戦線の敵だというのである。

 これは、修正主義の思想的本質についてのマルクス主義的評価と、ひとつの政治的勢力としてのソ連共産党指導部の政治的役割の評価との区別と関連を正しく理解しえず、この両者を機械的に混同した議論で、反党教条主義者たちの理論的混乱を、もっとも端的に示したもののひとつである。

 統一行動とソ連共産党指導部の問題を、正しくマルクス・レーニン主義にもとづいて解決するためには、ソ連共産党指導部の実際の立場と行動、その内部の矛盾を、具体的な事実にもとづいて、具体的に分析することが必要なのである。ただ修正主義の思想的本質についての一般的な定義を抽象的にふりまわすだけで問題を解決しようとすることは、弁証法を形而上学におきかえることにほかならない。

 いうまでもなく、修正主義とは、「マルクス主義の内部にあってマルクス主義に敵対する潮流」(レーニン)である。フルシチョフ以来のソ連共産党指導部の修正主義、日和見主義、分裂主義の路線が、人民に敵対し、マルクス・レーニン主義に敵対し、客観的には帝国主義およびブルジョアジーとの「同盟」を表現するものであること、そして、これが、マルクス・レーニン主義者にとって、思想上、政治上の原則的な闘争によって徹底的に消滅させ、国際共産主義運動内から一掃すべき対象であることは、議論の余地がない。

 しかし、このように、現代修正主義が、闘争によって消滅させるべきマルクス・レーニン主義の敵対物であるということは、ソ連共産党やソ連共産党指導部そのものが、反帝国際統一戦線から無条件に排除されるべき世界人民の敵であるということを意味するものではない。わが党が8月8日付論文でくわしく明らかにしたように、ソ連共産党指導部は、フルシチョフ以来、現代修正主義の国際的潮流の一つの中心をなしてきたが、それと同時に、ソ連共産党および社会主義陣営の一員であるソ連国家の公式の指導部である。したがって、その立場と行動は、日和見主義、修正主義の路線によって規定されると同時に、ソ連共産党およびソ連人民を代表するその客観的地位によっても規定される。すなわち事態の圧力のもとで、ソ連共産党指導部が、その修正主義路線と矛盾する反帝国主義的な立場や行動をとることも、おこりうるのであって、こうした可能性がまったくないと断定することは正しくない。実際、ソ連共産党指導部が、ベトナム人民と世界人民の闘争の圧力のもとで、帝国主義と反帝勢力との闘争の世界的な焦点であるベトナム問題において、アメリカ帝国主義に反対するベトナム人民の闘争を支持する態度をより明確にせざるをえなくなってきたという最近の事態は、こうした矛盾をきわめて明瞭にあらわしたものであった。

 この事実は今日の条件のもとでは、マルクス・レーニン主義を堅持する諸党が、人民大衆の要求と闘争に依拠し、正しい統一戦線政策をとって、ソ連など現代修正主義の潮流の指導下にある諸党や国家をもふくめて、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する国際統一行動を前進させ、アメリカ帝国主義に効果的な反撃をくわえる方針をとることが妥当であり、また可能であることをはっきり示している。

 この事実はまた、修正主義がマルクス主義の敵だということから、単純にソ連共産党指導部をアメリカ帝国主義の陣営に寝返りした裏切り者、世界人民の敵だと規定する志田一派の議論が、政治勢力としてのソ連共産党指導部についての具体的な分析をなんらおこなわず、とくにその内部の複雑な矛盾をみようとしない、形而上学的、反弁証法的議論であることを、具体的に実証したものである。

 ところが、志田一派は、ソ連共産党猪導部をアメリカ帝国主義と同列視する点で、もっとも極端なところまですすんでいる。すなわち「政治メモ」は、別の場所で、ソ連共産党指導部を、「完全にアメリカ帝国主義と連合」し、国内では資本主義を「大手をふるって復活」させ、核兵器を主要な武器として「米ソによる共同支配」を画策しているといって、非難している。つまり志田一派は、ソ連共産党指導部を、事実上アメリカ帝国主義と連合して全世界人民にたいする抑圧と支配をねらう侵略勢力として描き出しているのである。

 だが、わが党が一貫してこれまでおこなってきたように、ソ連共産党指導部の「米ソ協調」路線を、アメリカ帝国主義の侵略政策に降伏し、これを助長する日和見主義の路線として批判することと、志田一派がいまやっているように、これを「米ソ共同」による世界支配をねらうソ連自身の侵略的願望のあらわれとして非難することとは、けっして同じごとではない。このような非難は、つぎのような前提――ソ連が完全な変質をとげてすでに社会主義国ではなくなり、ソ連における修正主義の勢力がもはや社会主義国の内部の日和見主義の潮流から、世界支配、すなわち他民族の抑圧と支配を画策する一種の侵略勢力に変ぼうしてしまったという前提――を承認しないかぎり、到底なりたちえないものである。この議論は、結局のところ、その指導部が現代修正主義の勢力であるという理由で、社会主義と帝国主義を事実上同列視することに帰着するが、これは修正主義の階級的本質を労働運動内部の小ブルジョア的潮流とみなすマルクス・レーニン主義の理論にも、ソ連社会の客観的現実にも反するものである。

 もちろん、ソ連は、10月革命後約50年たったとはいえ、大局的には今なお資本主義社会から共産主義社会への過渡期にある。そして今日のソ連で、特権的な高級官僚や高所得層の存在、農業などにおける小商品生産の存続、各種のブルジョア・イデオロギーの浸透など、社会生活の多くの分野にブルジョア的、小ブルジョア的諸要素が残存しており、それが現代修正主義の潮流の誤った政策のもとでその影響範囲を拡大し、またあらたに発生しつつあることは、否定することのできない明白な事実である。また、プロレタリア国際主義に反する大国主義の傾向がソ連共産党指導部の政策と行動に根ぶかくあり、それが共産党・労働者党間および社会主義諸国間の独立、平等の関係を侵害してきたことも、かくれもない事実である。したがって、今日のソ連の社会主義建設の複雑な事態をみず、すべてを共産主義への移行をめざす順調な発展として美化して、資本主義復活の危険やその傾向の現実化あるいは大国主義の有害な傾向を否定することは、大きな誤りである。だが、同時に、ソ連における資本主義復活の傾向を過大に評価して、ソ連社会ではすでに純然たる資本主義的諸関係が支配的になり、10月革命後、長期にわたる社会主義建設の過程をつうじて確立された工業、農業における社会主義的生産関係が、すでに基本的に国家資本主義の生産関係に変質してしまい、ソ連が基本的に社会主義国から独占資本主義国に変質してしまったと考えたり、あるいはソ連における大国主義を帝国主義の侵略性と同一視して、ソ連の支配勢力はアメリカ帝国主義と同じような侵略勢力に転化してしまったなどと主張したりすることも、事実に即さないものであり、他の極端な主観主義的な誤りをおかすものといわなければならない。

 反党教条主義者たちは、ソ連共産党指導部を反帝国際統一戦線の敵とするその理論を合理化するために、現代修正主義にたいする正当な非難を、「赤色帝国主義」についての反動勢力の反共宣伝や、「スターリン官僚主義国家」なるものについてのトロツキズムの言いふるされた主張と同じ水準のものにおきかえるところまで、つきすすんでしまったのである。

 かつてレーニンは「どんな真理もそれを『極端なもの』にし、それを誇張するならば、不条理に転化する」(「共産主義内の『左翼主義』小児病」)と語ったことがある。修正主義批判を名としてソ連共産党指導都をアメリカ帝国主義と同列視し、その内部の矛盾をみないで単純に世界人民の敵と規定する志田一派の議論は、もっとも典型的な実例である。すなわち、かれちは、現代修正主義にたいするマルクス・レーニン主義的批判を、極端な誇張によって反マルクス主義的不条理に転化させてしまったのである。

3、ベトナム人民の闘争からの背反

 志田一派の最後の「論拠」は、「現代修正主義の助け」をかりてもベトナム人民の勝利にはなんら役だたない、つまり、ソ連など修正主義指導部のもとにある国や人民からの援助は、真の勝利を妨害するだけだという主張である。これもまた、ベトナムでの闘争の現実を無視した、まったく事実にも道理にも反する議論である。

 第一に、武器援助をふくむソ連からの援助が、その他の社会主義国からの援助とともに、ベトナム人民の抗米救国闘争の戦力の一部となり、アメリカ帝国主義の侵略とたたかううえで一定の有効な役割を果たしていることは、ベトナム人民自身がみとめている事実である。

 もちろん、この事実を指摘したからといって、われわれがソ連などの援助の現状に無条件に満足するものでないことは、いうまでもない。今日、ソ連をふくむ社会主義陣営は、政治的にアメリカ帝国主義にたいしてより断固たる措置をとり、ベトナム人民への支援を全面的に強化することによって、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に重大な反撃をくわえ、侵略の段階的な拡大を効果的に阻止するだけの政治的、軍事的な潜在勢力をもっている。だが、日和見主義、修正主義の路線の影響や社会主義陣営の不団結などのために、個々にはベトナム人民支援に全力をあげている社会主義国があるにもかかわらず、全体としては、その力がきわめて不十分にしか発揮されていない。このことこそ、これまでわが党が一貫して強調してきたことであり、ここにこそ今日のベトナムにおける事態のもっとも重要な問題点のひとつがある。

 こうした状況のもとで、ベトナム人民の勝利を保障するために、世界の反帝民主勢力にとって、なにが当面の緊急の任務となっているかは、明白である。それは、世界の反帝勢力のベトナム人民にたいする国際的支援の飛躍的な強化のために、また社会主義陣営の政治的、軍事的な潜勢力を現実に全面的に発揮させるために奮闘することであり、またそのためにも、反帝国際統一戦線の結成と強化、その中心部隊である国際共産主義運動と社会主義陣営の行動の統一の実現のために努力することである。

 もし、志田一派らの「主張」が本当にベトナム人民の勝利を願い、その見地からソ連などの援助の現状を、これではベトナム人民の勝利に役だたないものとして非難しているのだったら、当然、ベトナム人民にたいする援助を、より役だつものに拡大、強化することをこそ、要求すべきである。ところが、志田一派は、社会主義陣営がその潜勢力を発揮してアメリカ帝国主義に効果的な打撃をあたえる方向を追求するのでなく、逆に、ソ連などの援助はない方がよいとして、かえって国際的支援を事実上弱めることを主張するという立場をとっているのである。これが、ベトナム人民の「本当の勝利」を願う方針などではなく、ベトナム人民の抗米救国の闘争に水をかけ、その戦力を弱体化させる反人民的な方針であることは、すでに議論の余地はないであろう。

 第二に、志田一派の反党文書は、「修正主義者の助け」をかりて勝利したとしても、それは「次の敗北の芽」をはらんだ「一時的な」「ニセの勝利」にすぎないと主張しているが、この主張は、なにを意味するのだろうか。おそらく、かれらがここで言おうとしているのは、修正主義者と統一行動をくみ、その援助をうけいれれば結局、その対米追従路線にひきこまれ、アメリカ帝国主義によるベトナム人民の主権侵害(たとえば南ベトナム占領の継続など)を許すような、ニセの「平和解決」をおしつけられてしまう、ということであろう。

 この主張の根拠にあるのは、明らかに、現代修正主義者を統一行動にくわえたら、かならず主導権を修正主義者ににぎられ、その日和見主義路線をうけいれざるをえなくなると思いこんでいる敗北主義的見地――口先で「反修正主義闘争」をしきりに呼号するが、国際的な共同行動の舞台で、現代修正主義の潮流を思想的、政治的に打ち破り、孤立させていく自信をもてない敗北主義の見地である。

 しかし、こうした敗北主義的見地の誤りは、ここ数年来の国際的な経験にてらしてもすでに明らかである。すでに国際共産主義運動の内部での論争や国際民主運動の舞台での論争をつうじて、現代修正主義の潮流の日和見主義路線の誤りと破たんは明確になり、修正主義者たちは、多くの分野で主導権をとるどころか、しばしば、政治的、理論的な後退を余儀なくされている。たとえば、われわれは、国際民主運動の分野で、自覚的な民主勢力の奮闘によって、対米追随の日和見主義的路線をおしつけようとする右翼的潮流の抵抗や動揺を克服し、ベトナム人民の闘争を支持する決議をはじめ、反帝、民族解放、平和の事業に貢献しうる積極的な方針をかちとり、反帝民主勢力の国際統一行動を前進させた一連の経験をもっている(昨年7月のヘルシンキ平和大会、本年1月のハバナでの3大陸人民連帯大会など)。しかも今日、ベトナム問題をめぐる情勢の現実の展開は、現代修正主義の潮流の日和見主義路線、とくにその対米追随路線の理論的、政治的な破たんをますます明確にしている。そうした情勢のもとで、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対し、ベトナム人民の基本的要求――ベトナム民主共和国の4項目の主張と南ベトナム解放民族戦線の5項目の声明――を支持する明確な共同綱領のもとに、国際統一行動と国際統一戦線がさらに強化されるならば、それが、ベトナム人民に対米追従路線をおしつける現代修正主義者の道具などに簡単になりうるものでないことは明白である。反対に、それは、現代修正主義の潮流の影響下にある大衆をも反帝闘争にいっそう広範に動員し、参加させる手段となると同時に、ソ連共産党指導部などがアメリカ帝国主義者に反対しベトナム人民を支持する立場をより明確にとることを余儀なくさせる手段ともなることは明らかである。こうして、反帝国際統一行動と統一戦線の前進が、一貫して帝国主義との闘争の方針を堅持するマルクス・レーニン主義的潮流の立場を強め、対米追従路線の理論的、政治的な破綻をいっそう深める結果をもたらすことは疑いない。

 そしてもし、現代修正主義の潮流がこの統一戦線に対米追従路線や無原則的な「平和解決」論をおしつけようとした場合には、ベトナム人民も、統一戦線に参加している世界の自覚的な反帝勢力も、これを批判する当然の権利を断固として行使し、けっしてこのような策謀の成功を許さないようたたかうであろう。また、現代修正主義の潮流が、ベトナム人民の正義の闘争を裏切るような政策をあえて強行するならば、それはかならず、かれらが世界人民からいよいよ見はなされ、その孤立化と破綻を深める結果にみちびかれざるをえないであろう。志田一派のように、この統一行動、統一戦線がかならず、現代修正主義の潮流の道具となると主張することは、世界の反帝勢力、とくにベトナム人民を、一定の援助を代償としてベトナム人民の根本的利益を裏切るような「平和解決」でも甘んじてうけいれる受動的な勢力として描き出すことである。これは、アメリカ帝国主義と英雄的にたたかっているベトナム人民にたいする、このうえない不信と侮べつを表明したものにほかならない。

 以上、志田一派が、国際統一戦線に反対するためにもちだした主な議論をみてきた。結局、かれらの議論をつらぬいているのは、現代修正主義への反対を口実に、マルクス・レーニン主義の理論と実践に反してアメリカ帝国主義に反対する効果的な闘争を事実上放棄し、妨げるばかりか、国際共産主義運動と社会主義陣営、反帝民主勢力の分裂を合理化し、拡大しようとする危険な分裂主義の路線である。かれらが、どんなに「革命的」言辞をもてあそんでその立場を粉飾しようとしても、これが、反帝勢力の分裂を打算しつつ、その侵略政策をおしすすめているアメリカ帝国主義の策謀に対応したものでしかないことは、きわめて明白だといわなければならない。

三、反党撹乱活動を合理化するための事大主義

 反帝国際統一戦線についてのわが党の見解に、以上にみたように支離滅裂な「批判」をくわえたのち、この反党文書が、つづいてその「批判」のほこ先をむけるのは、わが党の自主独立の立場にたいしてである。

 志田一派は、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづくわが党の自主独立の立場を「それはプロレタリア国際主義を完全に忘れた正真正銘のプチブル的利己主義、改良主義そのものである」(「政治メモ」)などと口ぎたなく非難している。そして特定の外国の党への盲従を原則とし、その党の旗のもとへの結集を主張するという、まったく自主性を欠いたあからさまな事大主義、大国追従主義の立場を公然とおしだしている。たとえば、かれらは、もし修正主義に反対しているなら、外国の特定の党の「派」に属することを「宣言」すべきだとさえ主張している。

 「国際共産主義運動内における、マルクス・レーニン主義と修正主義との闘争、しかもモスクワが修正主義に支配され、北京がマルクス・レーニン主義の立場に立っているとき、そのいずれでもないなどという立場があるだろうか。そのいずれでもないなどというのはごまかしであって、そのごまかしこそ修正主義そのものか、あるいは日和見主義そのものである」(「政治メモ」)

 もちろん、マルクス・レーニン主義と現代修正主義とのあいだに、いかなる「中立」的立場もありえないことは、いうまでもない。しかし、どうして、この争う余地のない真理から、マルクス・レーニン主義の立場をつらぬくためには、外国の特定の党に追従し、その「派」であることを宣言しなければならないという結論がでてくるのだろうか。このような結論をひきだせるのは、明らかに、特定の外国の党を無条件にマルクス・レーニン主義の代表者として崇拝し、いつでもその党の路線を支持することだけがマルクス・レーニン主義の立場に立つことであると思いこんでいる救いがたい事大主義者、現代教条主義者だけである。

 マルクス・レーニン主義は、いかなる党の専有物でもありえない。各国の共産党が、自国の革命運動や国際共産主義運動の諸問題にたいする党の政策、方針、態度をマルクス・レーニン主義にもとづき、また共通の綱領的文書である宣言と声明の革命的原則にもとづいて自主的に決定するということは、宣言と声明にも明記されている今日の国際共産主義運動の当然の原則である。それは、志田一派が主張しているように、プロレタリア国際主義の原則と対置されるべきものでもなく、せまい民族的利益を代弁する「プチブル的利己主義」でもない。それは、プロレタリア国際主義にもとづく各国共産党の真の同志的団結を保障するための、欠くことのできない基本的な前提である。

 今日の国際共産主義運動の発展の条件、国際的団結の具体的な姿は、第2次世界大戦前のコミンテルンが存在していた時代とは、大きく異なっている。コミンテルンは、1943年に解散したが、それは、コミンテルンの24年間の歴史をつうじて、各国共産党が全体として、政治的にも組織的にも成長し、民主的な中央集権制にもとづく国際的指導部の存在が、革命運動の前進の必要と合致しなくなったためであった。そして、国際共産主義運動の新しい発展段階では、共産主義運動の国際的団結の形態も変化した。すなわち、以前のように、各国共産党が統一的な国際組織に結集するという形態をとるのではなく、各国の党がそれぞれの国の革命運動にたいして自主的な責任をおい、自国の革命運動の勝利のために奮闘することによって、世界の平和、民主主義、社会主義の事業にたいする国際的な責務をはたすこと、また、たがいに他党の独立、平等の権利を尊重しつつ、相互に支持しあい、国際共産主義運動の団結の強化と前進のために奮闘することが、新しい国際的団結の原則となった。1960年の声明の次の規定は、国際共産主義運動の今日の段階における国際的団結の諸問題について、明確な規定をあたえ、これを各国の共産党・労働者党がともに厳守すべき共通の原則として、定式化したものである。

 「帝国主義反動が勢力を結集して共産主義との闘争をおこなっている状況のもとでは、全力をつくして世界共産主義運動を団結させることがとくに必要である」
 「共産主義運動の利益は、兄弟諸党の会議で共同でつくりあげた反帝、平和、民主主義、社会主義のための闘争の共通の課題にかんする評価と結論を各国共産党が連帯して守ることを要求している」
 「すべてのマルクス・レーニン主義党は、独立した平等な党であり、各国の具体的情勢に応じ、マルクス・レーニン主義の諸原則にしたがってそれぞれの政策をたてており、しかもたがいに支持しあっている。それぞれの国の労働者階級の事業を成功させるためには、すべてのマルクス・レーニン主義党の国際的連帯が必要である。それぞれの党は自国の労働者階級と勤労者にたいして、国際的労働運動と共産主義運動全体にたいして責任をもっている。
 各国の共産党と労働者党は必要に応じて会議を開き、緊急な諸問題を討議し、経験を交換し、互いの見解と立場をのべあい、相談によって見解を統一し、共通の目的をめざすたたかいにおける共同行動を協定していく」

 声明のこれらの規定にも示されているように、国際共産主義運動の団結と各国共産党の独立、平等の党としての自主性とが統一されているところに、「今日のプロレタリア国際主義の新しい姿」(宮本顕治「わが党の革命的伝統と現在の進路」『現代の課題と日本共産党』上巻、27ページ)がある。

 マルクス・レーニン主義党が、この自主独立の態度を堅持するということは、現代修正主義などによるマルクス,・レーニン主義の歪曲にたいして中立的、傍観的な態度をとるとか、あるいは国際共産主義運動の団結と強化のための闘争を回避する受動的な態度におちいることを意味するものでないこともまた、明白である。それは、現代修正主義をはじめあらゆる日和見主義的逸脱や歪曲からマルクス・レーニン主義の純潔を守る闘争を、あれこれの外国の党に追従する立場からではなく、自国の革命運動と国際共産主義運動にたいする自主的な責任において、もっとも原則的におしすすめるということである。そして現代修正主義に反対し、教条主義、セクト主義に反対して一貫してたたかってきたわが党の闘争の実際が具体的に示しているように、この自主独立の立場を堅持することこそが、自国の労働者階級と勤労人民に全責任をおって自主的に自国の革命運動を推進する道であり、同時に、独立と平和の基礎のうえに、国際共産主義運動のマルクス・レーニン主義的強化とより高い政治的団結にもっとも正しく貢献する道なのである。

 わが党の自主独立の立場にたいする志田一派の口ぎたない非難は、かれらが、フルシチョフ修正主義に盲従した志賀ら反党修正主義者とまったく同様に、大国主義の裏がえしとしての事大主義――外国の党の主張や見解を絶対化し、その路線に無批判に盲従しようとする事大主義に骨の髄までおかされた典型的な現代教条主義者であり、さらには、こうして外国の党に忠誠をちかうことによって、国際的に、裏切りと変節の反革命的経歴にみちたかれらを売りこみ、そこに反党活動の前途を見いだそうとする恥すべき投機主義分子であることを、暴露したものにほかならない。

 志田一派の反党教条主義者たちは、この事大主義の路線をプロレタリア国際主義の路線にみせかけようとして、ここでもまたいろいろな「論拠」をもちだしている。

 1 志田一派が、「自主独立の立場」に反対する第一の論拠として主張するのは、「かつて日本共産党の創立者たちがデマや迫害にも屈せず、レーニンの祖国ソ連との団結を守ったように」今日でも、特定の社会主義国とその国の党を「マルクス・レーニン主義の旗」の守り手として擁護し、その主張、立場を支持することのうちにこそ、「プロレタリア国際主義の生きた実践」がある(「政治メモ」)という議論である。

 この議論の根底に、二つの異なる問題をすりかえた論理のごまかしがあることは、容易にみてとることができよう。

 帝国主義者や反動勢力の侵略から社会主義国家を擁護することが、プロレタリア国際主義にもとづく共産主義者の国際的責務の重要な一つをなすということは、争う余地のない真理である。日本共産党は、戦前、天皇制の残忍な迫害のもとでも断固として「ソビエト連邦および中国革命の擁護」(32年テーゼ)の立場を守り、日本帝国主義のロシア革命と中国革命への干渉戦争に反対してたたかいつづけたし、戦後も、社会主義陣営、とくにアジアの社会主義諸国にたいする帝国主義と反動派の侵略戦争およびその陰謀に反対して、たたかってきた。

 そしていま、わが党は、社会主義陣営の南前哨――ベトナム民主共和国にたいするアメリカ帝国主義の侵略戦争を、社会主義陣営への正面からの侵略、アジアと世界の平和にたいする凶暴な挑発として重視し、ベトナム侵略に反対する日本人民の闘争の発展のために全力をあげるとともに、国際統一行動と統一戦線の結成と強化のためにあらゆる努力をかたむけている。またアメリカ帝国主義のアジア侵略政策のなかで重要な役割をはたしている「中国封じこめ」政策に断固として反対し、米日反動勢力の中国敵視政策とたたかい、日中国交回復を要求してたたかっている。

 しかし、帝国主義侵略者の攻撃にたいして社会主義諸国を「擁護する」こと、あるいは、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづいて、社会主義国の党および人民と正しく団結することと、特定の社会主義国を今日のマルクス・レーニン主義の世界的な中心とみとめ、いかなる場合でもその国の党の主張やその指導者の思想を無条件に「擁護する」立場にたつこと、つまり、特定の社会主義国の党の主張に無条件に追従することと――この二つは、明らかにまったく別個のことがらである。前者は、すべての共産主義者の堅持すべき国際主義的立場をあらわしているが、後者はプロレタリア国際主義とはなんの共通点もない、卑屈な事大主義の立場である。志田一派は、論理のごまかしによって、国際主義を事大主義にすりかえようとしているのである。

 しかも、ここでとくに強調する必要があるのは、もし、わが党が、志田一派の主張するような事大主義的態度にすこしでもおちいるならば、社会主義国にたいする帝国主義者の侵略戦争やそのたくらみに反対するという国際的責務を正しくはたすことができないという点である。

 わが党がその国際的責務をはたすということは、なによりもまず、日本人民の独立、平和の闘争を正しく発展させ、強大な反帝、反独占の民族民主統一戦線をおしすすめ、米日反動勢力の侵略と戦争の陰謀にたいし、そのもっとも重要な拠点である日本で効果的な打撃をくわえることであり、さらには、当面の急務となっている反帝国際統一行動と統一戦線の強化のための努力をはじめ、国際的な反帝闘争の前進のために積極的に奮闘することである。そのときに、もしわが党が、自主独立の立場を見失い、外国の党に無批判的に追従する事大主義におちいって、日本の実情にあわない誤った方針をとったり、国際反帝統一戦線のための努力を弱めたりしたならば、それは日本人民の解放闘争に損害をあたえるだけでなく、国際的な闘争の前進に積極的に貢献する道をみずからとざす結果とならざるをえない。これはまさに、わが党がおっている国際的責務をみずから裏切る道にたつことにほかならないものである。

  志田一派が、その事大主義の論拠として第二にもちだすのは、国際共産主義運動には、いつの時代でも「国際的団結の中心部」がかならず存在する、という議論である。

 志田一派は、「共産主義者はいつの時代でも、形式や方式は違っても常に国際的に堅く団結してきたのではなかったのか。そして一国における革命運動の指導的中心が必要だったように、国際的にも常に団結の中心部が存在してきたのである。そしてこの国際的団結の中心部は、人為的につくられたのではなく、階級闘争の歴史的・客観的発展の帰結として形成されたのだった。それは1864年からはマルクスの指導した第1インタナショナルであったし、1919年からはレーニンの指導した第3インタナショナルであった。そして第2次世界戦争後は、スターリンの指導するソビエト連邦とコミンフォルムだった」と書いている。そして今日では、特定の社会主義国とその国の党を中心にしたマルクス・レーニン主義党の集団こそ、今日における「国際的団結の中心部」の役割をはたしている、だからこの党の旗のもとに結集することが、今日における「国際主義」の具体的なあり方なのだと主張している。

 「政治メモ」の筆者たちは、ここで、国際共産主義運動の100年の歴史を展開してみせ、それによってある特定の外国の党の旗のもとへの結集というかれらの「国際主義」の正しさを証明したつもりになっているらしい。だが、実際には、ここで証明されているのは、国際共産主義運動の歴史と現状にたいするかれらの無知、無理解だけである。

 志田一派のこの議論の第一の根本的な誤りは、かれらが、過去の時期における共産主義運動の国際組織の役割をひきあいにだすことによって、特定の一国の党を、国際的な「指導的中心」にまつりあげる事大主義の根拠にしようとしていることにある。これもまた、志田一派の得意の、論点のすりかえによる奇弁である。

 かれらは、国際共産主義運動には、いつの時代でも「国際的団結の中心部」が存在するとして、その証拠に、まず、第1インタナショナルと第3インタナショナル(コミンテルン)の二つの先例をあげているが、これらの組織は、どちらも、それぞれの時代における社会主義運動あるいは共産主義運動の統一的な国際組織である。そして、たとえば、コミンテルンの場合には、各国の党は支部としてこれに加盟し、国際共産主義運動全体が、民主集中制の原則にもとづき、いわば「単一の世界党」として組織されていた。このような統一的、中央集権的な国際組織が存在していたときに、これらの国際組織やその指導機関が、世界の革命運動の「指導的中心」となり「国際的団結の中心部」となっためは、当然である。

 しかし、このような歴史的事実をふりかえることは、現在、特定の外国の党の旗のもとへの結集という志田一派の事大主義的立場の合理化に役だつものではまったくなく、逆に、その誤りの証明に役だつだけである。なぜなら、第1インタナショナル以来の国際共産主義運動の歴史が教えているのは、まさに過去においても、「国際的団結の中心部」の役割をはたしえたのは統一的な国際組織とその指導機関であって、自国の革命運動においてどのように偉大な成果をおさめた党であろうと、特定の一国の党が「国際的団結の中心」となることはできないということだからである。

 もちろん、マルクスやレーニンもみとめていたように、世界の革命運動は国ごとにきわめて不均等に発展するものであり、それぞれの歴史的時期に、あれこれの国の革命運動が世界的規模からみて、階級闘争の最前線にたち、先進的な役割をはたすことは当然ありうることである。しかし、かりにあれこれの特定の党が国際革命運動のなかで先進的な役割をはたしている場合でも、そのことを認めることと、その党を「国際的団結の中心部」とみなし、その党の旗のもとへの結集を主張することは、まったく別個のことがらである。しかも、国際共産主義運動が大きな発展をとげ、真に世界的な勢力となっている今日、そのなかの特定の一つの党だけが、先進的な役割をはたしているとすることは、それ自体、なんの科学的根拠もない主張である。まして、特定の社会主義国やその国の党を、国際的な革命運動、共産主義運動が無条件に結集すべき「指導的中心」とみなしたりすることは、まったく弁護の余地のない事大主義的見地にほかならない。たとえば、ベトナム人民が、現在、アメリカ帝国主義に反対する国際的な闘争の最前線にたって、世界の反帝勢力のなかで先進的な役割をはたしていることは、だれも否定していない事実である。だが、いったいベトナムの党と人民が、そのことを理由にして自分を 「国際的団結の中心部」とみなすことを要求しているだろうか。そして世界の反帝勢力が、そういうことを主張しているだろうか。答えはもちろん否である。志田一派の見解の誤りを証明するには、このことを指摘するだけで十分であろう。

 志田一派は、ただその反党、反革命の徒党としての活動を合理化するために、このような事大主義の主張を投機的にふりまわしているのである。

 志田一派の議論の第二の根本的な誤りは、コミンテルン解散後、共産主義運動の国際的団結の形態が大きく変化したことをなにひとつ理解しえず、第1インタナショナルやコミンテルンの時代と、今日の時代とを単純に同一視しているところにある。

 すでにのべたように、1943年にコミンテルンが解散して以後、国際共産主義運動には、コミンテルンのような統一的、中央集権的な国際組織や国際的な指導機関は存在していない。このことは、共産主義運動には、もはや以前のような「国際的団結の中心部」が存在しなくなったことを意味している。今日では、共産主義運動の国際的団結は、統一的な国際組織への結集という形態においてではなく、「共通の目的をめざすたたかい」での「共同闘争」や「兄弟諸党の会議で共同でつくりあげた……評価と結論を各国共産党が連帯して守る」(声明)ことなど、各国共産党の独立、平等、自主を基礎にした新しい形態において実現されなければならない。ここに、ほかならぬ今日の国際共産主義運動のもっとも重要な特徴の一つがある。

 志田一派は、このことをみることができず、「国際的団結の中心部」なるものの存在が、コミンテルン解散後もかわらない国際共産主義運動の不変の「原則」であるかのようにみせかけようとして、第2次大戦後のコミンフォルム(ヨーロッパ諸国共産党・労働者党情報局)の活動をもちだしている。だが、これは誤りのうえに誤りをかさねただけである。なぜなら、コミンフォルムは、ヨーロッパの若干の国の党だけで構成された情報交換のための組織であって、コミンテルンのような、国際共産主義運動全体を包括し、これを指導する任務をもった統一的な国際組織ではなかったからである。また、その後、これに参加した諸党自身がこのように限定された構成と内容をもったものとしても、この種の国際組織の存在が今日の「新しい条件に適合しない」ものとなったことを確認して、その解散を決定した(1956年4月)ものだからである。そして、1957年の宣言と1960年の声明は、コミンフォルムの活動の経験もふくめて、第2次大戦後の国際共産主義運動の歴史的経験にもとづき、各国共産党の独立、平等、自主の原則を、今日の国際共産主義運動の団結を保障する前提的な原則として定式化したのである。志田一派のように自主独立の原則を否定して、「国際的団結の中心部」の「再建」を問題にすることは、各国共産党・労働者党が一致して確認した諸原則に挑戦し、歴史の前進を逆行させようとする、こっけいな時代錯誤にすぎない。

 今日、国際共産主義運動には、いかなる意味でも指導する党と指導される党との区別はなく、すべての党が「独立した平等な党」として自国の革命運動と国際共産主義運動全体に自主的に責任をおっているのであって、いかなる特権的地位をもった党も、「指導的中心」としての特別の国際的責務をおう党も、ありえない。このことは、わが党も、朝鮮労働党との共同声明やルーマニア共産党との共同コミュニケにおいて、一致して力づよく確認したところであり、国際的な共通の原則として確立された試練ずみの原則である。すでにフルシチョフ以来のソ連共産党指導部の大国主義の路線とその諸結果が疑問の余地なく示しているように、どのような党であろうと、この原則を無視して、自分を国際共産主義運動の「指導的中心」になぞらえたり、あるいは自分を国際共産主義運動のうえにおいて、他の兄弟党の独立、平等の権利を尊重しない態度をとるならば、それはかならず国際共産主義運動の正しい発展をそこない、世界の革命運動全体の利益に反する重大な誤りをおかすこととならざるをえないのである。

  最後に、志田一派が、その事大主義の決定的論拠として主張するのは、特定の外国の党の路線やその指導者の思想を、「現在におけるマルクス・レーニン主義の最高峰」として絶対化し、公然とその「赤旗をかかげる」かどうかこそが、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義に忠実であるかどうかの試金石であり革命的立場と日和見主義的立場をわかつ分水嶺であるという議論である。

 「特定の一国の党」を「国際的団結の中心部」にしろというさきの議論が、外国の党への組織的従属を要求する組織上の事大主義をあらわすものであったとしたら、他国の党の主張やその指導者の思想を絶対化してその旗を「高くかかげる」ことを主張するこの議論は、外国の党への思想的従属を要求する思想上の事大主義、現代教条主義をもっとも露骨な形であらわしたものである。

 各国共産党の独立、平等、自主は、たんに党と党のあいだの組織的関係だけを律する原則ではない。1960年の声明は、各国共産党は、マルクス・レーニン主義の諸原則を、各国の具体的な歴史的情勢に応じて適用し、その政策と戦術をたて、そのことによって、「マルクス・レーニン主義の偉大な学説の発展にそれぞれ貢献」する、また、必要な場合には独立、平等の基礎のうえにひらかれる各国共産党代表者会議などをつうじて、「意見と経験をたがいに交換し、集団の力でマルクス・レーニン主義の理論をいっそう豊かにし、共通の目的をめざすたたかいにおける統一された立場をつくりあげる」とのべている。これは、マルクス・レーニン主義を適用し、発展させる面においても、各国共産党が独立で平等だということを、あらわしたものである。どのような党であろうと、そのうちのある一国の党をとりだして、その党の見解や方針をもって現代のマルクス・レーニン主義を代表するものとみなしたり、世界革命の指導理論にまつりあげたりすること、あるいはそれを無条件に支持するかどうかをもって革命的立場と日和見主義的立場のわかれ道としたりすることは許されない。

 われわれは現在、マルクス・レーニン主義を「行動の指針」(党規約)とし、党の活動全体の理論的基礎、前提として擁護している。それは、マルクス・レーニン主義が、それまでの人類の先進的思想、とくに「哲学、経済学、社会主義のもっとも偉大な代表者たちの学説」(レーニン)を正しく継承してつくりあげられた、もっとも首尾一貫した、全一的で科学的な世界観であり、マルクス以来1世紀をこえる世界史の発展そのものによって、またレーニン以後半世紀をこえる全世界的な革命運動の鉄火の試練をつうじて、その普遍的意義を十分に証明された、試練ずみの革命的学説だからである。

 もちろん、マルクス・レーニン主義の学説は、レーニン以後も、国際革命運動の前進と発展の経験、一連の国ぐにでの社会主義革命の勝利の経験の総括にもとづき、また各国のマルクス・レーニン主義党の、独自のあるいは集団的な努力をつうじて、いっそう豊かにされ、新たな発展をかちとってきた。しかし、各国の党の理論や方針は、それがその国の革命運動の指導理論としてどんなに大きな成功をおさめたものであっても、それをマルクス、エンゲルス、レーニンの学説と同じような意味で、国際革命運動の経験全体を総括した世界革命の指導理論だとか、あらゆる国にあてはまる社会主義革命の普遍的真理だとかみなすわけにはゆかない。かつて、レーニンは、国際的な革命運動の経験を摂取することの重要な意義を力説しつつ、革命運動がどんなに偉大な成果をおさめた国でも一国の運動の経験にはかならずあれこれの一面性や弱点がふくまれていると指摘し、外国の経験や理論を無批判的にうけいれる事大主義におちいることを強くいましめた。これらのレーニンの指摘は、今日われわれが、外国の党の理論や経験を研究する場合、けっして忘れてはならない重要な教訓である。

 「プロレタリアートの国際的な革命運動は、さまざまな国ぐにで均等に、おなじ形をとって進むものではなく、また進むはずもない。あらゆる活動部面でのあらゆる可能性は、種々の国の労働者の階級闘争の総和としてしか、完全に、全面的に利用されるものではない。それぞれの国は、自己の貴重な独創的な特徴を共同の流れのなかにもちこむが、しかし個々の国では、運動はなんらかの一面性、個々の社会主義政党のなんらかの理論上または実践上の欠陥をもっている」(レーニン「世界政治における可燃材料」、全集15巻、172ページ)
 「社会民主主義運動(今日の共産主義運動にあたる――引用者)は、その本質そのものからして国際的である。これは、われわれが民族的排外主義とたたかわなければならないことを意味するだけではない。これは、若い国にいまはじまりつつある運動は他の国ぐにの経験を摂取してはじめて成功できるということを意味する。しかし、このように摂取するためには、たんにこの経験に通じていたり、たんに最近の諸決議を書きうつすだけでは、たりない。そのためには、この経験を批判的に取りあつかい、それを自主的に検討する能力が必要である」(レーニン「なにをなすべきか」、全集5巻、389ページ)

 もちろん、日本の革命運動の前進のために他国の革命運動の経験を研究し、そこから教訓を学びとることは、日本のマルクス・レーニン主義者に課せられたきわめて重要な理論的任務である。しかし、この任務を正しく果たすためには、マルクス・レーニン主義にもとづく自主独立の立場を堅持し、レーニンのいう「自主的」、「批判的」見地を堅持することが、なによりも重要なのである。もしわれわれが、志田一派のように、ある特定の外国の党やその指導者の見解を「現在におけるマルクス・レーニン主義の最高峰」として絶対化し、その国の革命運動の経験にもとづく路線や方針を、すべての国にあてはまる社会主義革命の基本法則として普遍化し、これを自国の革命運動の指針とするようなことをすれば、それは、かならず、マルクス・レーニン主義を、一面的なかたわなものにゆがめ、具体的情勢に応じて革命運動を指導する力も創造性ももちえない、硬化した教条の体系にかえ、革命運動に重大な損害をまねく結果に、みちびかざるをえないのである。

 志田一派が、以上のようなあらゆる奇弁をろうし、論拠にならない論拠をもちだして特定の外国の党への忠誠を誓い、外国の党の旗を「高くかかげ」てみせるのは、かれらが、外国の党の理論に従うことが、日本の革命運動に役だつと信じているからでは、けっしてない。それはただ、外国の党の名によってその反党活動、反革命的な挑発活動を合理化するためである。かれらは、それによって、自分たちを日本における「革命的左派」、「真のマルクス・レーニン主義者」として国際的にも国内的にも売りこみ、過去と現在における裏切りや罪悪を一挙に帳消しにしようともくろんでいるのである。だが、日本の党も、また自覚的な人民も、このような挑発者の欺まん的な策動を、けっして許すものではない。

 ソ連共産党指導部に盲従した志賀、神山らの反党修正主義者たちが、日本の党と人民の断固とした反撃のまえに、全面的な没落と破綻の道をたどらざるをえなかったように、志田一派の腐敗した反党教条主義者たちもまた、たとえ、外国の党の名を利用して自分たちの党破壊活動をどのように合理化しようとしても、いっそう急速な破滅の運命をまぬがれることはできないのである。

 志田一派の主張はいままで見てきたことからも明らかなように、すべて、聞きかじりのマルクス主義の知識にもとづくきわめて浅薄なものであり、しかも、それをただ党と人民の闘争の撹乱だけを目的にしてふりまわしているのであって、まじめな検討や批判に値するものではない。われわれが、それにあえて詳細な批判をくわえてきたのは、かれらのみにくい正体をまだ十分に知らない一部の人びとが、善意からではあれ、外国の党の名を利用したその教条主義、事大主義の主張にいくらかでも影響されることがないようにするためである。

 志田一派の党撹乱活動との闘争は、党内外における事大主義のあらわれを克服する闘争および国際共産主義連動のマルクス・レーニン主義的強化と真の団結をめざす闘争とも、密接に結びついている。

 わが党中央委員会幹部会の「アメリカ帝国主義者のハノイ、ハイフォン爆撃についての声明」(1966年6月29日)が強調しているように、ベトナムをめぐる緊迫した重大な事態に直面して、わが国内で、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する広範で強力な抗議闘争、全人民的な統一行動の強化のために全力をあげるとともに、ベトナム人民にたいする国際的支援闘争の強化のために奮闘することは、日本の労働者階級に課せられた緊急任務である。そして、アメリカ帝国主義のベトナム侵略とその拡大に反対する国際統一行動と国際統一戦線のための闘争を強化することは、いまや全世界の反帝民主勢力の共通の決定的任務となっている。とくにその中心部隊である国際共産主義運動の果たすべき責務は重大である。ベトナム人民を支援し、アメリカ帝国主義の侵略に反対する国際的な闘争の先頭にたち、反帝国際統一戦線の強化をめざすこの任務をはたすうえで、現代修正主義をはじめ、反帝勢力の団結を妨げるいっさいの日和見主義に反対する闘争、とくに、現代修正主義に反対するとともに教条主義、セクト主義に反対する「二つの戦線での闘争」を正しくおしすすめることが、ますます重要になってきている。

 こうした情勢のもとで、わが党は、志賀、内藤一派の反党・売党修正主義者をひきつづき粉砕するとともに、志田一派の反党教条主義者たちを粉砕し、その教条主義、セクト主義、冒険主義の主張を徹底的に打破し、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の原則、党綱領の路線にもとづく全党の理論的・思想的武装をさらに強化しなければならない。それは国際共産主義運動の真の団結と前進をめざすわが党のたたかいにとっても、重要な意義をもっているものである。

(『日本共産党重要論文集』第4巻より)