「…日本国民の誰一人として共産党が政権に就けるとは考えていない…このような政党に何の存在意義があるのであろうか。」
どうやら日陰のもやし氏にとって、政党の「存在意義」とは、政権を獲得すること、その可能性が高いことであり、それこそが何にも勝る最優先の要素であるようだ。
いやむしろ、政党の存在意義を考える上で、政権の獲得とその可能性以外の要素など、一切考慮するにも値しないかのようにも取れる一文である。
しかしこのような“政権獲得至上主義”“多数派形成至上主義”こそが、共産主義の腐敗と堕落をもたらした現況(の少なくとも一部)ではないのだろうか。
かつて“共産圏”と呼ばれた地域において数多くの“共産党”が政権を獲得した。その政権は数十年にわたって維持され、一部では今も維持されている。
この間、これらの国々において一体どれほどの国民が、共産党以外の勢力が政権に就けると考えていたのであろうか。
政権を獲得し、それ以来ほぼ一貫して(共産党に対抗しようとする人々が少数派にとどまり続けたことで)圧倒的多数の国民に支えられて政権につき続けた、という一点をもってして、われわれはこれら共産圏の共産党を手放しで評価してしまっていいものなのだろうか?
そもそも共産主義者やその組織にとっては、社会のあり方を根底から変革すること、こそが目的なのではないだろうか。
政権の獲得は、その目的を達成する上でより有利な状況を作り得るかもしれない。しかし、政権獲得が意味するものはそれ以上でもそれ以下でもない。目的を達成するために有利な状況を作り出すことが唯一にして最大の目標である、などといったら、それはほとんど禅問答ではないだろうか。共産主義者やその組織が政権に就くことを最大の目標にするような共産主義に、果たして「何の存在意義があるのであろうか」。
「われわれの革命はブルジョワ革命とは違って、中央の公的権力を打倒して数人か数十人の人間をいれかえさえすれば片付くような、お手軽なものではない。われわれは底辺から仕事を始めなくてはならない。このことは社会体制の根底を衝こうとするわれわれの革命の大衆的性格からすれば、当然である」(ローザ・ルクセンブルク)
という言葉を、氏はどのようにお考えになるであろうか?
さて、氏は「共産主義そのものが持つ排他性」ゆえに
「民主集中制を廃止すれば事足りるというものではないのである。」
「「さざ波」のような方々が仮に首尾よく「党内反主流は」を纏め上げて党執行部に就いたとしよう。だがそれはまた新たな「党内権力闘争」の始まりとなるであろう。この道をたどったとしても国民はやがてこの党を見放していくであろう。」
と述べられている。
だが、そのような事態と比較して、資本主義を自明の前提、絶対不変の原理であるかのようにみなしてそれには指一本触れることなく、ただひたすら政権の争奪戦だけに血道を上げるような、それこそ、終わりなき“資本主義体制内権力闘争”的あり方が、果たしてどれほど有意義なものなのであろうか。
このような有様が、国民から見放されないことを祈るばかりである。
(なお、私は一般投稿欄03年11月23日付投稿「2003年総選挙を評す」において、マニュフェスト選挙と呼ばれたものが、実は政策的対立を放棄した「小泉派」と「管直人派」による権力闘争であったこと、マスコミによって三山「面白い」選挙といわれたこの選挙が、国民からはそれほど「真剣」にも「本気」にもされることなく記録的な低投票率のもと行われたこと、を指摘した。ぜひこちらのほうも一読していただきたい。)
市は、「一人一人の意思で」、日本共産党から党員・支持者が離れていくことによって「日本における共産主義の「歴史的克服過程」」が訪れることを希望されている。
なるほど、確かに党員・支持者が党から一人一人離れていくことは、日本共産党の縮小・解体をもたらしはするであろう。
だがしかし、そうやって離れていいた一人一人が、本当に氏の言われるように「必ずや日本社会の民主主義的発展のために各分野で必要な人材として活用される」のであれば、残念ながら、日本において共産主義が歴史的に克服されることはないであろう。
なぜなら「共産主義とは、われわれにとって成就されるべき何らかの状態、現実がそれへ向けて形成されるべき何らかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を共産主義と名づけている。この運動の条件はいま現にある前提から生じる」(カール・マルクス)のだから。
資本主義そのものが内在する諸矛盾に対する闘いがある限り、そこに共産主義(者)は生き続けるだろう。
さながら“妖怪”のように。